開かれた扉の先は、遥か天蓋まで一直線に吹き抜けた巨大な円筒形の空間であった。足元には淡い蒼光を放つ精緻な幾何学魔法陣が刻まれており、壁面を覆う無数の魔導鉱石が、静かに脈打つような燐光を帯びている。
二人がその円形の空間へ恐る恐る足を踏み入れると、背後の扉が音もなく閉ざされた。
直後、足元の魔法陣が半透明の結晶円盤のように実体化して、ふわりと浮き上がった。
「う、うわっ……!? おい、足元が浮いてるぞ!? 落ちたりしねえだろうな!?」
突然の浮遊感に、シュタルクが大斧を抱え込みながら情けなく腰を落とした。
「……シュタルク様、落ち着いてください。揺らすと危険です」
フェルンは木製の杖をしっかりと握り直し、少しだけ頬を膨らませてシュタルクを窘めた。しかし、彼女の紫色の瞳もまた、足元を滑らかに流れていく光の層を油断なく見据えている。
光の円盤は重力から解き放たれたかのような滑らかさで加速し、白銀のシャフトを一気に上昇していった。半透明の円盤の外側を、幾重もの防御結界と近代的な魔力配線が、流れる星の尾のように瞬く間に下方へと過ぎ去っていく。
やがて上昇の勢いが緩やかに減速し、光の円盤が最上階の床面と寸分違わず噛み合った。
目の前で、重厚な白銀の扉が音もなく左右へ開け放たれる。
そこには息を呑むほどの静寂と、濃密極まる魔力の奔流が渦巻く巨大な空間が広がっていた。
『天蓋の謁見の間』――天を衝くようなドーム状の天井は、外の光を透過させる特殊な魔導鉱石で覆われ、柔らかな蒼白い光が広大な大理石の床へと降り注いでいる。その中央に据えられた玉座のような石の段上に、彼女はいた。
黄金の長い髪を風もないのに微かに揺らし、古代の装束を思わせる薄い白布を身に纏い、剥き出しの素足を組んで退屈そうに肘を突く幼き姿。
神話の時代より生き続ける大魔法使い、大陸魔法協会の始祖ゼーリエ。
足を踏み入れた瞬間、シュタルクは背負った大斧を強く握り直したまま、膝を折りそうになるのを必死に耐えた。肌を刺すような重圧。ただそこに座しているだけで、大気中のすべての魔力が彼女の呼吸一つに同調して脈打っているかのような錯覚を覚える。
「……っ、フェルン……なんだよ、この威圧感……魔力なのか?……ゼーリエって人、こんなにヤバい人なのかよ?」
「静かにしてください、シュタルク様。粗相のないように」
フェルンは小声で窘めつつも、杖を握る両手に力を込めていた。歩みを進めるごとに、その紫色の瞳が緊張でわずかに細まる。
壇上のゼーリエは、二人が所定の位置に立つまで、伏し目がちにその気配を探っていた。だが、その黄金の瞳がフェルンとシュタルクの姿を真正面から捉えた瞬間、眉が微かに跳ね上がった。
悠久の時を生きる大魔法使いの表情に、ほんの一瞬、明確な「驚愕」の色が過る。
「……ほう」
ゼーリエの唇から、低く硬質な呟きが漏れた。
彼女は組んでいた足を解き、白く細い指先を顎に当てて、フェルンの全身をくまなく見据えた。
「魔力の波長、肉体の細胞組織、そして抑え込まれた魔力の揺らぎ……幻影でも、複製体でもないな。千年前の姿そのままだ、フェルン」
ゼーリエの眼光が、フェルンの胸元とシュタルクの纏う気配の奥底へと突き刺さる。常人には感知すらできない、因果のほつれのような魔力の残滓を、彼女は一瞬にして看破していた。
「なるほどな。女神の魔法か。神話の時代、世の理の外にある術式……時の跳躍に巻き込まれたというわけだ」
「……ご明察、恐れ入ります、ゼーリエ様」
フェルンは深く一礼し、凛とした声を謁見の間に響かせた。
「私たちは北部高原にて女神様の石碑に触れ、気付けばこの千年後の世界へと飛ばされておりました。全知に近い知識をお持ちのゼーリエ様にお伺いしたいのです。私たちが元の時代へと戻るための『帰還魔法』の手がかりはございませんでしょうか」
フェルンの真摯な問いかけに対し、ゼーリエは嘲るでもなく、ただ冷淡に鼻を鳴らした。
「ないな」
冷徹な一言が、静まり返った広間に落ちる。
「……ない、ですか?」
「人類が体系化したあらゆる魔法の中に、時を遡る魔法など存在しない。当たり前のことだ、魔法は『イメージの世界』だぞ。……フェルン、お前はある時代、ある瞬間の、世界のすべてをイメージできるか? 不可能だ。河の流れは絶えずして同じ水ではないように、不可逆たる時間の流れを逆行させる術など、人間ひとりの頭脳でイメージできるはずがないだろう」
ゼーリエは冷ややかな眼差しで二人を見下ろし、淡々と事実を突きつける。
「仮にそんなものが存在するとすれば、それはお前たちをここまで吹き飛ばした力と同じ――『女神の魔法』だけだ。神話の時代に女神が残した奇跡の残滓など、私の知るところではない」
「そ、そんな……! じゃあ、俺たちは一生元の時代に帰れないってことかよ!?」
シュタルクが思わず叫び、取り乱して前へ出ようとした。だが、ゼーリエの放つ冷ややかな視線に射すくめられ、喉を詰まらせて足を止める。
フェルンは唇を小さく噛み締め、僅かに俯いて沈黙した。人類の魔法の頂点たるゼーリエの言葉には、一片の嘘も誇張もないことが痛いほど理解できたからだ。
やがて、フェルンは息を整え、別の疑問を口にした。
「……分かりました。では、もう一つお聞きしてもよろしいでしょうか。中央広場に聳え立っていた、あの石像についてです」
「石像?」
「はい。『大魔法使いフェルン』と『偉大なる戦士シュタルク』の像です。私たちはあそこで、立派な大人になった自分たちの姿を見ました。……私たちは、元の時代へ帰った後、どのような人生を歩んだのですか? そして、なぜあの像の隣にはフリーレン様がいないのですか?」
フェルンの問いに、シュタルクも身を乗り出してゼーリエの顔色を窺った。
だが、ゼーリエは小さく息を吐き捨てると、冷淡に視線を逸らした。
「くだらん。己の未来を他人に聞いてどうする。お前たちがこの先どのような道を歩み、何を成し遂げ、どう死んでいったかなど、私が語ってやる義理はない。知れば未来の認識が歪むだけだ」
その頑なな拒絶に、フェルンは追求を諦めざるを得なかった。しかし、どうしても腑に落ちない違和感がもう一つ残っていた。
「……では、なぜ私たちの姿形は、千年もの間これほど正確に伝承されているのですか?」
フェルンの脳裏に、かつて旅の途中で目にした光景が蘇っていた。
元の時代で、偉大なる大魔法使いフランメの石像は、長い年月の間に人々の記憶から風化し、あちこちの村や街で男性の魔法使いの姿に変貌してしまっていた。人間の伝える歴史など、千年も経てば容易く歪み、変質してしまうはずなのだ。
「私たちが生きていた時代、フランメ様の肖像すら後世には歪んで伝わっておりました。それなのに、なぜ千年も経ったこの時代に、私たちの容貌や背丈、纏う衣服に至るまで、寸分違わぬ姿で語り継がれているのですか?」
その問いを聞いた瞬間、ゼーリエの口元に、傲慢で絶対的な自負を孕んだ笑みが浮かんだ。
彼女は優雅に髪を払い、裸足の爪先を擦り合わせるように再び足を組んだ。
「質問は一つではなかったのか? ……まあいい。そんなものは当然のことだ。この千年、歴史を記録し、管理し、統制してきたのは誰だと思っている?」
ゼーリエの黄金の瞳が、奢りと誇りを織り交ぜた光を放つ。
「私の目の届く限り、事実の歪曲も、下らん民衆の妄想による改竄も許さん。あの子……フランメの時は私の管理下になかったから間抜けな男の像などに成り下がったのだ。私の庇護と監督のもとにある組織が、英雄の姿形を取り違えるなどという無様な真似、万に一つもあり得ん」
絶対者としての揺るぎない矜持。
一千年という人間にとっては神話に等しい歳月すら、ゼーリエにとっては自らの手中で厳格に管理された「ほんの僅かな治世」に過ぎないのだという冷然たる事実が、その言葉の端々から滲み出ていた。
「……ひとまず、私たちの姿を正確に残してくださっていたことには、お礼を申し上げます」
フェルンはスカートの裾を軽く引き、小さく一礼した。隣のシュタルクも慌てて頭を下げる。
「お、おう……ありがとな、ゼーリエ。おかげで変なヒゲ面の石像にされずに済んだよ」
だが、安堵の息を吐く余裕など二人にはなかった。神話の時代からあらゆる魔法を網羅する大魔法使いゼーリエの口から、時を遡る魔法は存在しないと断言されたのだ。
「……とはいえ、困りましたね。ゼーリエ様の知見にも存在しないとなると、私たちはどうやって元の時代へ帰ればよいのか……」
フェルンは杖を胸元で抱え込み、紫色の瞳を曇らせて小さく頬を膨らませた。論理的な思考を巡らせようとするが、女神の魔法という「理の外」の事象に対しては、人間の編み出した魔法体系のすべてが無力だった。
「おいおい……マジで手詰まりなのか? 俺たち、本当にこの何もわかんねえ未来に取り残されたまま、一生を終えるのかよ……?」
シュタルクが顔面を蒼白にし、手を小刻みに震わせる。
取り乱す二人を、ゼーリエは冷ややかな黄金の瞳で見下ろしていた。やがて、退屈そうに顎を撫でながら、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、あのアホが昔、くだらん自慢話をしにきたことがあったな」
「え……?」
フェルンが顔を上げる。
「フリーレンのことだ。奴はかつて北部高原で女神の石碑に触れ、意識だけを80年の過去へと飛ばされたと嘯いていた。……私の前で、いかに過去の世界でヒンメルたちと再会したかを自慢げに語りおって、くだらん」
ゼーリエは不快そうに鼻を鳴らした。
「奴がどうやって過去から元の時間へ帰還したのか、その具体的な術式までは知らん。女神の奇跡の残滓をどう理屈づけたのかなど、興味もなかったからな。だが――実際に時の跳躍を経験し、戻ってきた生き証人がいる。話を聞くなら、あのアホのところへ行け」
「フリーレン様が……! ゼーリエ様、フリーレン様はこの時代のどこにいらっしゃるのですか?」
フェルンが身を乗り出し、切迫した調子で問い詰める。
ゼーリエは組み替えた素足の爪先を軽く揺らし、オイサーストの北西を指し示すように視線を投げた。
「この街を出て北西、人の寄り付かぬ深い原生林の奥だ。粗末な掘っ立て小屋を建てて、一人で引き籠もっている。……あいつは千年前と変わらず、魔力を極限まで制限したまま生きているからな。常人なら見つけ出すのは至難だが……お前ならさほど手間でもないだろう」
「ありがとうございます!」
手掛かりを掴んだフェルンは深く頭を下げ、シュタルクの袖を引いた。
「行きますよ、シュタルク様」
「お、おい、引っ張るなよフェルン! ゼーリエ、色々とサンキューな!」
二人は足早に身を翻し、重厚な白銀の扉へと向かって駆け出していった。
静まり返った『天蓋の謁見の間』。
二人の足音が遠ざかり、扉が再び音もなく閉じられたその瞬間――入れ替わるようにして、先ほどの老魔導士コーネルが影から静かに歩み出た。
コーネルは黒鉄の杖の石突を静かに床へ突き、去っていった若者たちの背中があった空間を痛ましげに見つめた。そして、壇上の絶対者へと深く頭を垂れる。
「……ゼーリエ様。本当によろしかったのですか」
老人の声には、深い憂いと躊躇いが滲んでいた。
「あの二人が向かった先で目にするのは、彼らの知る『大魔法使いフリーレン』の姿ではありますまい。フリーレン様は、度重なる過酷な戦いの果てに……すでに……」
言葉を濁すコーネルの視線の先で、ゼーリエは退屈そうに薄い白布の袖を払い、冷淡に言い放った。
「かまわん」
黄金の瞳が、僅かに細められる。
「あいつらが何を成し、その果てに何が残されたのか。……いずれ知る現実だ。せいぜい、千年の重みというものを味わわせてやればいい」
冷徹な宣告が、広大な謁見の間の大気を凍てつかせるように静かに響き渡っていた。