オイサーストの北西に広がる森は、人の気配が完全に途絶えた静寂に包まれていた。生い茂る針葉樹の隙間から木漏れ日が斑模様に差し込み、湿った苔の匂いが大気を満たしている。
微かに漂う魔力の揺らぎを頼りに、フェルンとシュタルクが獣道を抜けると、小さく開けた空き地と、そこにひっそりと佇む簡素な木造の小屋が見えてきた。
庭先には、手入れの行き届いた小さな畑と、薪が積まれた作業場があった。
そこで、一人のエルフが日向ぼっこをするように腰掛けていた。
白いツインテールは昔と変わらず風に揺れていたが、その右目には深い傷痕が刻まれ、固く閉じられている。そして、かつて杖を握り、数々の魔導書をめくっていた左腕は、肩の付け根あたりから失われており、ゆったりとした麻の衣服の袖が寂しげに風に遊んでいた。
彼女は残された右手を軽く掲げ、目の前に置かれた食後と思しき木皿に手のひらを向けた。
「……『しつこい油汚れを綺麗さっぱり落とす魔法』」
淡い魔力の燐光が弾けると、皿にこびりついていた頑固な汚れが一瞬で消え去り、新品のような木肌が顔を出した。
エルフは満足そうに「ふふん」と小さく鼻を鳴らし、残った右手だけで器用に皿を重ねていく。旅人を引退し、静かに余生を過ごす隠居者の、穏やかでささやかな日常の風景だった。
「……フリーレン、様……」
フェルンの喉から、掠れた声が零れ落ちた。
木製の杖を握る手が小刻みに震え、紫色の瞳には大粒の涙が滲み始める。その痛々しい欠損の数々が、自分たちの死後、彼女がどれほど過酷で壮絶な一千年を歩んできたのかを無言のうちに物語っていた。
「おい、嘘だろ……フリーレン……その腕、それに目は……」
シュタルクもまた、背負った大斧に手をかけたまま絶句していた。かつて自分たちを導いてくれた、飄々として何でもない顔で魔族を屠っていた大魔法使いの変わり果てた姿に、足が一歩も前へ動かない。
二人の足音と零れ出た声に、エルフがゆっくりと顔を上げ、庭の入り口に立つ二人を捉えた。
「……え?」
フリーレンの頭のアホ毛が、ぴくりと跳ねた。
感情の起伏に乏しいはずの彼女の顔、その左側だけに残された薄い翡翠の瞳が、見たこともないほど大きく見開かれる。何度も瞬きをし、残された右手で目をこすり、夢でも見ているかのように二人を凝視した。
そこに立っているのは、一千年も昔に別れを告げたはずの、若き日の弟子と仲間の戦士。
「……フェルン? シュタルク……?」
フリーレンの唇が震えた。
次の瞬間、彼女の顔に広がったのは、かつてヒンメルたちとくだらない旅をしていた頃のような、そしてフェルンたちとともに過ごし、朝寝坊をして怒られていた頃のような――心底からの、途方もなく愛おしそうな笑顔だった。
「……あは。本物だ。……二人とも、千年ぶりだね」
フリーレンは立ち上がると、スカートの汚れを払うことも忘れ、二人へ向けてぽてぽてと小さな歩幅で駆け寄ってきた。
「むふー。二人とも全然変わってないや。……千年も経ってから会いに来るなんて、ずいぶんな遅刻だよ、フェルン」
* * *
簡素な木造の小屋の中は、薬草と古書の匂いが混ざり合った、どこか懐かしい静寂に満ちていた。
窓辺の粗末な木製テーブルに二人を促すと、千年後のフリーレンは残された右手をかざし、火の消えた炉の上に置かれた鉄瓶に魔力の光を灯した。
「……『冷めたお湯を一瞬で飲み頃の温度にする魔法』」
淡い燐光が鉄瓶を包み込み、湯気がふわりと立ち上る。片腕であることを微塵も不便に感じさせない手際の良さで、彼女は三つの木製カップにハーブティーを注ぎ、ことりとテーブルに並べた。
「ふふん、便利でしょ。昔、北部高原の村で貰った魔導書に載ってたんだ。……あのドワーフ、頑固だったな」
自慢げにアホ毛を揺らす姿は、自分たちの時代の朝起きられないエルフそのものだった。しかし、その麻の衣服の左袖は空虚に垂れ下がり、閉ざされた右目の傷痕が生々しく光を弾いている。
「フリーレン様……そのお身体は、一体何があったのですか」
フェルンは出されたハーブティーに口をつけることもできず、紫色の瞳を潤ませながら詰め寄った。
「誰と戦ったのですか。どれほどの敵と……」
「あはは、昔のことだよ」
フリーレンは穏やかに微笑み、残された片側の瞳を細めて茶をすすった。
「エルフだって無敵じゃないからね。ニ千年も生きてれば、ちょっとばかり強い魔族に出くわすこともあるし、油断して怪我することもある。大した話じゃないよ」
それ以上は何も語る気がないように、フリーレンは小さく首を横に振った。その平坦で達観した声音には、途方もない歳月の重みと、すでに乗り越えて受け入れた者特有の静けさが宿っていた。
「……大したことない、わけねえだろ」
シュタルクが拳を握り締め、低く呟く。
「俺たちがいた時代のフリーレンは、どんな魔族相手だって怪我一つしなかった。なのに……」
「それより、街の石像は見てきた?」
フリーレンは二人の沈痛な空気を吹き飛ばすように、悪戯っぽく話題を切り替えた。
「立派だったでしょ。二人が私と別れた後、北側諸国を根城にしていた魔王軍の残党どもをことごとく討ち倒してさ。フェルンとシュタルクは、歴史に名を残す本物の英雄になったんだよ」
「……私たちの、未来ですか」
フェルンは息を呑んだ。自分たちがこの先、師の手を離れて過酷な戦いを生き抜き、偉大な足跡を刻むのだという事実。誇らしさよりも先に、その未来に辿り着く前に時を飛ばされてしまったことへの焦燥が胸を突く。
二人はこれまでに起きた出来事――森の中で女神の石碑に触れてしまったこと、気がつけば一千年が経過していたこと、そしてゼーリエを訪ねたが手掛かりが得られなかったことを手短に説明した。
フリーレンは顎に指を当て、真剣な表情で頷いた。
「なるほどね。……大体の状況は分かったよ」
彼女は天井を仰ぎ、かつての記憶を手繰り寄せるように目を細めた。
「私もね、昔――あなたたちと旅をしていた頃に、北部高原で女神の石碑に触れて意識だけ80年前の過去へ飛ばされたことがあるんだ。ヒンメルたちがまだ生きていた時代にね」
「……ゼーリエが言ってた、フリーレンも別の時代に飛ばされたことがあるって、ホントだったのか!?」
驚愕するシュタルクに、フリーレンは淡々と続けた。
「うん。その時はね、聖典の『時巡りの鳥の章』に記されていた女神様の帰還魔法――『フィアラトール』を使って、元の時代へ意識を送り返した」
「『フィアラトール』……では、私たちもその魔法を使えば、元の時代へ帰れるのですね?」
フェルンが身を乗り出す。だが、フリーレンは静かに首を振った。
「いや。私の時は『未来から過去へ』飛ばされたから、時間を順行して未来の肉体へ意識を戻す『フィアラトール』が機能したんだ。でも、今の二人は『過去から未来へ』――肉体ごと時間の奔流を飛び越えてしまっている」
フリーレンはテーブルの上に指先で光の魔力線を描き、時間の流れを可視化して見せた。
「時間を逆行して過去へ戻るための術式は、『フィアラトール』とは構造が根本的に異なるはずだ。女神様の魔法は人間の魔法体系とは理が違うけれど……対になる帰還魔法が聖典の記述に……おそらくは時巡りの鳥の章のどこかに、隠されているはずだよ」
左側だけに残された薄い翡翠の瞳が、遥かな神話の時代に思いを馳せるように、どこか遠くを見つめた。
フェルンたちが元の時代に帰るための女神の魔法は、聖典の中、時巡りの鳥の章のどこかに隠されている。
「……ですがフリーレン様、私の記憶する限り、聖典の『時巡りの鳥の章』に未来から過去へと時間を遡行させる術式の記述は存在しませんでした」
フェルンは木製の杖を膝の上に横たえ、紫色の瞳に深い困惑を浮かべながら告げた。幼少期よりハイターから叩き込まれた聖典の知識、その膨大な記憶の糸を手繰り寄せても、該当する奇跡の記述はどこにも見当たらない。
「うん。私も知らない」
一千年後のフリーレンは平坦な声で即答し、残された右手で木製カップの縁を指先でなぞった。
「この千年の間にも、時巡りの鳥の章から新しい魔法が解読されたっていう話は一度も聞かなかったよ。私が過去から元の時代に戻ったとき、気になって色んな文献や魔導書を調べてみたんだけど、そんな魔法に心当たりはないな」
「じゃあ、本当に手掛かりゼロってことかよ……。その魔法、今から探して見つかるようなもんなのか?」
シュタルクが頭を抱え、重苦しい溜息とともに背もたれに体を預けた。一千年の時を越えてなお解明されていない謎を前に、二人の足元は再び深い霧に包まれていくようだった。
「女神様の魔法は聖典の物語のなかに巧妙に暗号化されていて、解析して見つけ出すまでに何十年とか、何百年もかかるんだ。今から解析を始めても、二人が生きている間には見つからないかもしれない」
「……嘘だろ……」
沈黙が小屋の中を満たす。
窓の外からは、見知らぬ鳥の澄んだ鳴き声と、風が木々を揺らす葉擦れの音だけが静かに流れ込んでいた。