ふと、フェルンは胸の奥底に澱のように溜まっていた疑問を振り落とすように、真剣な眼差しで師を見据えた。
「……フリーレン様。一つだけ、ずっと気になっていたことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ん? なに?」
フリーレンはアホ毛をわずかに揺らし、残された薄い翡翠の瞳を向けた。
「フリーレン様は結局――大陸の最北端、
それは、かつて彼女たちが過酷な北部高原を越え、北へと歩みを進めていた最大の目的だった。大魔法使いフランメの手記に記されていた、死者の魂が集い、語らうことができるという謎めいた場所。
かつてフリーレンが歩み始めた、人間を知るための旅。その旅の終着点に、果たして救いはあったのか。
シュタルクも息を呑み、静かに二人のやり取りを見守る。
フリーレンはカップを口元へ運ぶ手を止め、視線を窓の外の柔らかな木漏れ日へと泳がせた。右目の傷痕が、差し込む光に照らされて微かに影を落とす。
「うーん……その質問には答えられないかな」
彼女は小さく首を傾げ、困ったような、それでいてどこか慈しむような笑みを浮かべた。
「もしも私がね、『オレオールなんて場所は存在しなかった』って答えたとしても……フェルンは旅を辞めないでしょ? それに、元の時代へ戻った後、過去の私に『旅を辞めろ』って忠告したりもしないはずだ」
「それは……」
フェルンが言葉を詰まらせる。
「旅の途中で何を見つけて、何を思うのかは、その時その場所を歩んでいるあなたたち自身のものだよ。結果だけを先回りして知ってしまったら、二人の旅の価値が損なわれちゃうからね。……だからそれは、今の二人が知らなくていいことだ」
フリーレンは残された右手を持ち上げ、懐かしむようにフェルンの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
その温もりは、一千年前のあの旅路の記憶と、何一つ変わっていなかった。
フリーレンは、左側だけに残された薄い翡翠の瞳を細め、木製カップの縁を右手の指先で静かになぞった。その視線は遠く、遥かなる過去の記憶の底へと向けられている。
「……思い出したよ。私が80年前の過去から『フィアラトール』で帰還した時のこと」
静かな声が、薬草の香る小屋の中に落ちる。
「あの時、崩れかけの石碑には最初から『フィアラトール』の名が刻まれていたんだ。でもね、石碑が作られた神話の時代から、そんな文字が親切に刻まれていたわけじゃない。……過去の世界で帰り方がわからないってみんなに伝えたとき、ヒンメルが言ったんだよ。『旅を終えたあと、僕がかならず帰還の魔法を見つける。今、そう決めた』ってね」
フリーレンは小さく口元を綻ばせた。右目の傷痕を照らす陽光が、風に遊ぶ葉陰によってキラキラと瞬いた。
「ヒンメルは本当にその約束を果たした。旅が終わった後、あいつは聖典の『時巡りの鳥の章』を必死に解析して、未来の私を帰すための魔法を見つけ出し、石碑にその名を刻んだんだ。……つまり、未来から来た私が過去の行動に影響を与えて、因果が一周して成立していた」
「ヒンメル様が……」
フェルンは息を呑んだ。勇者ヒンメルがかつて仲間のために遺した、時を超えた執念と優しさ。その軌跡が、今この場にも通底していることに気付く。
「だからね、フェルン」
千年後のフリーレンは、残された右手を持ち上げ、真剣な眼差しでフェルンをまっすぐに見据えた。
「今ここで約束してほしい。過去に戻ったら、あなたの時代にいる私に必ず伝えて。『旅が終わったら、時巡りの鳥の章を徹底的に解析して、千年前に戻る帰還魔法を探せ』って」
「……え?」
「因果を繋ぐんだよ。今この瞬間に帰還魔法が存在していなくても、フェルンが過去の私に頼み、過去の私がその後の長い年月をかけて魔法を見つけ出すなら――この千年後の世界に、その魔導書が“最初から存在していたこと”になる」
シュタルクが目を丸くし、頭を抱えた。
「ちょ、ちょっと待て! 頭がこんがらがってきたぞ!? 今ないものが、過去で見つけるように頼むって約束した瞬間に、出来上がるのか……!?」
「女神様の魔法は理の外にあるからね。時間の前後も、人間の常識通りには並んでいないんだよ」
フリーレンはアホ毛をぴくりと揺らし、フェルンへと視線を戻した。
「さあ、フェルン。約束できる?」
フェルンは木製の杖を強く握り締め、背筋を伸ばした。紫色の瞳に、迷いのない確固たる決意が宿る。
「……はい、フリーレン様。必ず、元の時代のフリーレン様に伝えます。どれほど時間がかかろうと、探していただくようにと」
フェルンがその言葉をはっきりと口にした瞬間――世界の理が、音もなく軋んだ。
パチン、と気泡が弾けるような衝撃が小屋を満たす。
大気が激しく明滅し、窓から差し込む光の筋が万華鏡のように乱反射した。時間の奔流が一千年の隔たりを飛び越え、現在という断面へ向けて猛烈な勢いで収束していく。
二人の視界を、白昼夢のような無数の残像が駆け抜けた。
――旅を終えた後、まだ両腕の揃っていた在りし日のフリーレンが、薄暗いランプの下で果てしない時間をかけて聖典の頁をめくる姿。
――春夏秋冬が数百回と巡り、窓の外の景色が移ろう中で、ルーペを片手に羊皮紙へペンを走らせ続ける姿。
――戦いで傷を負い、片目と片腕を失い、それでもなお机に向かって古代文字を解読し続ける姿。
そして、視線の先にある壁際の本棚――先ほどまで確かに何もなかったはずの空白の隙間に、幾百もの時間の「手」が重なり合うように現れた。
ある時は白く滑らかな指先が、ある時は戦いの傷に痛み包帯の巻かれた手が、ある時は残された一本の右腕が、幾重もの残像となって宙で交錯し、光の粒子を重ね合わせるようにして一冊の書物を編み上げていく。時の厚みが瞬く間に凝縮され、革の表紙に擦れと風化が刻まれると、確固たる質量を伴って、コト……。と、本棚の隙間に収まった。
激しい明滅が、嘘のように唐突に収まる。
舞い散る埃の軌跡も、木漏れ日の角度も、何事もなかったかのように穏やかな日常の静寂へと戻っていた。
しかし、千年後のフリーレンは、まるで最初からそうする予定であったかのように、ごく自然な足取りで壁際の本棚へと歩み寄った。
「よいしょ、と」
彼女は残された右手を伸ばし、いま編み上がったばかりの――それでいて何百年もの歳月をそこで眠り続けていたような、分厚く色褪せた革表紙の本を引き抜いた。
「はい、これ」
フリーレンは何事もなかったかのように、その本をことりとテーブルの上に置いた。
「フリーレン様、これは……?」
「フェルンに頼まれて、私が千年前に旅を終えた後、聖典を何百年もかけて解析して見つけ出した帰還魔法だよ。……ふふん、約束通りちゃんと見つけておいたからね」
フリーレンは得意げに「むふー」と胸を張った。失われた左袖が軽やかに揺れる。
フェルンが震える手でその頁をめくると、そこには見覚えのあるフリーレン特有の癖のある筆跡で、古代文字がびっしりと書き込まれている。そしてその最後には、女神の術式を現代の魔法体系へと緻密に翻訳した、極めて複雑で美しい幾何学図形の魔法陣が描かれていた。
千年前の師が、気の遠くなるような歳月を費やして弟子たちのために編み上げた、確かな愛の結晶。
一粒の雫が古びた紙に落ち、新しい染みを作った。
「……ありがとう……ございます、フリーレン様……」
フェルンは胸がいっぱいになり、潤んだ瞳を隠すように頭を下げた。
フリーレンはその様子を優しく見つめ、ふっと柔らかく翡翠の左目を細める。
「ありがとう、フリーレン。……この魔法を唱えれば、俺たち、その場で過去に戻れるんだよな?」
シュタルクの問いに、フリーレンは小さく首を振った。
「ううん。この魔法はね、女神の石碑という“時間の結節点”と共鳴させることで初めて発動するんだ。あなたたちが最初に触れた、あの石碑のあった場所へ行かなきゃいけない」
「ですがフリーレン様……あの石碑は、私たちが触れた直後に音もなく崩れ、ただの砂のようになってしまいました」
フェルンが懸念を口にすると、フリーレンは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ。石碑の形が崩れて風化していても、あそこに込められた女神様の魔力と座標の結びつきまで消え去ったわけじゃない。崩れた砂に直接触れた状態でこの魔法を展開すれば、術式は必ず起動するはずだよ」
フリーレンはそう言って、窓の外――二人をこの時代へと繋ぎ止めている、遠い北の森の空を見つめた。