森の木々を揺らす冷涼な風の中、三人はかつて石碑が崩れ去った北の地を目指して歩みを進めていた。
先頭を行くフェルンは手にした革表紙の書物をしっかりと抱え、背後のシュタルクは周囲の気配に鋭く神経を尖らせている。その後ろを、千年後のフリーレンが麻の片袖を風になびかせながら、どこか散歩でもするかのようにのんびりとした足取りでついてきていた。
前を行く二人の背中を見つめながら、フリーレンは薄い翡翠の瞳を細め、「ふふん」と小さく鼻を鳴らした。
「……どうかされましたか、フリーレン様」
気配を察したフェルンが、歩調を緩めずに振り返る。少しだけ頬を膨らませたその表情は、フリーレンの脳裏に、かつて朝寝坊を咎められていた頃を思い出させた。
「ううん。なんだか懐かしいなと思ってね。いつもフェルンが先頭を歩いて、シュタルクが後ろでオロオロ警戒して、私が一番後ろをとぼとぼ歩いてたでしょ」
「俺はオロオロなんてしてねえよ! 戦士として周囲を警戒してんだ!」
シュタルクが肩の大斧の位置を直しながら抗議の声を上げる。そのやり取りを目を細めて眺めながら、フリーレンの頭のアホ毛が嬉しそうにぴくりと揺れた。
「千年も経つのに、ちっとも変わらないね。……私、何百年も聖典を解析しながらさ、こうしてまた三人で並んで歩けるの、けっこう楽しみにしてたんだよ」
穏やかな声には、長い隠居生活の中で大切にしまわれていた記憶の温もりが滲んでいた。片腕を失い、かつてのように大きな旅の鞄を持ち歩くこともなくなったが、この並び順、足音の重なり、森の匂い――そのすべてが、千年前のあたたかな旅の日々そのものだった。
「……フリーレン様、歩きながら余所見をしていると木の根に躓きますよ。足元に注意してください」
「うん。わかってるよ、フェルン」
淡々と窘める弟子の小言すら、今のフリーレンにとっては心地よい音楽のようだった。
だが、平穏な静寂は唐突に引き裂かれた。
原生林の奥深くから、大気を激しく圧迫する禍々しい魔力の奔流が立ち上る。
次の瞬間、何本もの巨木が棒切れのようにへし折られ、猛烈な突風とともに巨大な影が木々の中から飛来した。
「敵だ……っ!」
シュタルクが叫ぶよりも早く、フェルンは一切の予備動作なく木製の杖を正面へ突き出していた。
瞬時に展開される魔法陣。紫色のロングヘアが魔力の余波で激しく舞い上がり、瞬き一つの間に白紫の光線――『
人間が放ち得る極限の速射。そして速度だけではなく、高密度に圧縮された魔力が、絶対的な殺意となって敵の胸元を狙う。
だが――。
ガキンッ!と。
大気を震わせる硬質な轟音が鳴り響いた。
着地した巨影が振り抜いたのは、青黒い魔力を分厚く纏う一本の巨大な剣。フェルンが放った高密度の光線は、その刃に触れた端から火花を散らして霧散し、魔族の毛皮一枚すら焦がすことなく弾き飛ばされた。
「……っ!? 私の魔法が……効かない?」
フェルンは紫色の瞳を見開き、小さく息を呑んで後ずさりした。これほどの密度の速射を正面から無傷で弾かれた経験は、彼女の記憶にも数えるほどしかない。
砂塵の向こうから姿を現したのは、黄金の鬣を逆立てた獅子のような風貌を持つ巨躯の魔族だった。その手には、大気を歪めるほど濃密な魔力で鍛え上げられた巨大な刀身が握られている。
「……王剣のラーテル」
背後から、フリーレンの平坦な声が響いた。
彼女は残された薄い翡翠の瞳を細め、アホ毛をぴくりと揺らしながら、現れた魔族を見据えている。
「フリーレン、あいつを知ってるのか!?」
大斧を両手で構え、油汗を流しながら身構えるシュタルクに、フリーレンは淡々と解説を続けた。
「うん。魔力で構成された『決して折れない大剣』を操る魔族の将軍だよ。二人にとっては未来の話になるけど……千年前、北部高原であなたたちが激闘の末に討ち倒した、魔王軍残党の生き残りだ」
「私たちが倒した魔族の、生き残り。……それで、私の魔法も見たことがあり対処できる、と?」
「フェルン。ゾルトラークはね、千年という月日の間に完全に研究し尽くされて、魔族にとってもただの『古典魔法』になっちゃったんだ。この時代の魔族はみんな、何かしらゾルトラークへの対抗策を持っている。特にこいつの大剣にはあらゆる術式を切り裂く特性があるから、並の攻撃じゃ傷一つつけられないだろうね」
フリーレンはそこで言葉を区切り、足元の土壌――極めて微弱に張り巡らされた、蜘蛛の巣のような術式の痕跡に視線を落とした。
「こいつ……、千年間ずっとこの辺りに潜んでたみたいだ。この崩れた石碑の周囲に、風化に紛れるほど薄い探知の網を張り続けてね」
「潜んでたって……千年間もか!?」
シュタルクが息を呑む。
魔族の長大な寿命と、一度刻まれた怨敵への執着。人知を超えたその執念を肯定するように、獅子の魔族――ラーテルは血のように赤い瞳を細め、裂けた口元から鋭い牙を覗かせた。その喉奥から、地鳴りのような低く傲慢な笑い声が漏れ出る。
「クハハハハ……! いかにも。千年前、全盛期の貴様らに敗れ、辛酸を舐めたあの日から、我はこの時だけを待ち続けていた」
ラーテルは大剣の切っ先を地面に突き立て、岩盤を容易く砕きながらフェルンを指し示した。
「かつての戦いの折、貴様らが漏らした言葉――『若い頃、石碑の魔力で飛んだ未来でも戦ったことがある』という戯言を、我は聞き逃さなかった。ならば、この崩れ去った石碑の跡地に必ずや現れるはずだとな」
空気が張り詰める。因果律の書き換えによって生じた空間の揺らぎを感知し、蜘蛛の糸を手繰り寄せるようにして、魔族の将軍は完璧な奇襲を果たしたのだ。
「まさか千年もかかるとは思わなかったが、全盛期には遥かに至らぬ、未熟な小娘の姿で未来へと渡ってくるとは。……長きにわたり魔力を殺し、時の結節点に網を張り続けた甲斐があったというものだ」
大剣が青黒い魔光を激しく噴出させ、大気が軋むような重低音を響かせる。
「貴様がこの時代で死ねば、千年前の我らの敗北も、軍団の壊滅も、すべて無かったことになる」
身勝手極まりない冷酷な論理。
因果の法則すら都合よくねじ曲げようとするラーテルの殺意が、刃のような重圧となって三人の肌を撫でた。
「千年の執念、その身で味わうがいい。過去からやってきた忌まわしき魔法使いよ、貴様の歴史は、この我が大剣の下で潰えるのだ!!」
大気を切り裂く轟音が、原生林の木々を激しく揺るがす。
「死ねいッ!」
ラーテルが踏み込んだ瞬間、足元の岩盤が蜘蛛の巣状に砕け散る。巨躯からは想像もつかない俊敏さで間合いを詰めた魔族の将軍は、青黒い魔力の奔流を纏う大剣を一閃させた。
「ぐ、あああっ……!?」
フェルンの盾となり、攻撃を正面から大斧で受け止めたシュタルクの身体が、まるで木の葉のように吹き飛ばされた。背後の巨木に背中を強打し、湿った腐葉土の上に転がる。腕の骨が軋み、額の傷痕から冷や汗が吹き出していた。
「シュタルク様!」
フェルンは即座に杖を構え、一切の迷いなく魔力を解放した。幾何学図形の魔法陣が幾重にも重なり、紫色のロングヘアが激しい風圧に舞い上がる。放たれた『
だが、ラーテルは嘲笑うかのように大剣を無造作に払った。
耳障りな金属音とともに、無数の光弾は火花となって四散する。一千年の時を経てなお研ぎ澄まされたフェルンの速射すら、その刀身に微かな傷一つつけることができない。
「クハハハ! そのような旧式魔法、効かぬわ小娘! 我が大剣は『決して折れぬ剣』。あらゆる術式を切り裂く絶対の刃なり! まずはバカな戦士の小僧から叩き斬ってくれる!!」
ラーテルが大剣を頭上高く振り上げる。圧倒的な膂力と魔力の圧迫感に、シュタルクは姿勢を崩したまま大斧を手に身構え、フェルンの紫色の瞳に冷たい焦燥が走った。
その絶対的な窮地に、一歩、静かに前に出る影があった。
「……相変わらず、魔族の考えることは大雑把だね」
平坦で、どこか眠たげな声。
千年後のフリーレンだった。彼女は空っぽの左袖を風に遊ばせながら、残された右手を無造作に掲げ、ラーテルの大剣へと向けた。片側だけの翡翠の瞳が、至極どうでもいいものを見るように細められる。
「フリーレン様、下がってください……! 魔法ではあの剣は――」
フェルンの制止を遮るように、フリーレンは淡い光を指先に灯した。
「『刃物をすごく錆びさせる魔法』」
ぽう、と間の抜けたような薄茶色の魔力光が弾け、ラーテルの大剣を包み込んだ。
「……む? なんだこの生温い魔力は……」
ラーテルが怪訝そうに眉をひそめた瞬間、青黒く輝いていた大剣の刀身が、急速に変色を始めた。
ジュウジュウと音を立てて光沢が失われ、見るも無残な赤茶色の分厚い錆が、瞬く間に刀身全体を覆い尽くしていく。刃こぼれが広がり、まるで何年も泥水の中に放置されていた鉄屑のように、ボロボロと赤錆の粉を撒き散らし始めた。
「な、なんだこれは……!? 我が魔力で編み上げた至高の大剣が……腐っていく……!?」
「これはね、昔、貪欲な武器商人が自分の武器を効率よく売り捌くために開発した魔法なんだよ」
フリーレンはアホ毛をぴくりと揺らし、平然と言ってのけた。
「他人の剣を錆びさせて使えなくすれば、自分の剣が売れるでしょ。……くだらない魔法だけど、こういう時には案外役に立つ」
「ふ、ふざけるな……! 形がどうあれ、この剣の根底たる魔力は不滅だ! 我が剣は折れぬ!」
ラーテルは激昂し、錆びた大剣を握り直して咆哮した。
だが、その切っ先は目に見えて微かに揺らいでいた。
フリーレンは潰れた右目を閉じたまま、薄い翡翠の左目だけで冷徹に魔族を射抜いた。
「ラーテル。お前の剣はたしかに折れない。……でも、魔法はイメージの世界だ。そんなに朽ち果てた剣を見て、まだ折れないイメージが維持できる?」
その言葉が、ラーテルの脳髄を鋭く刺し貫いた。
視界に映る、赤錆にまみれて崩れ落ちそうな鉄塊。魔族が拠って立つ「絶対の確信」に、取り返しのつかない亀裂が走る。
――折れるかもしれない。
ほんの一瞬、ラーテルの脳裏をよぎったその疑念こそが、魔力による絶対の理を打ち砕く決定打となった。
「シュタルク。今だよ」
フリーレンの静かな合図に、地面に膝をついていた赤髪の戦士が弾かれたように突貫した。
「うおおおおおおおおっ!」
恐怖を気迫で塗り潰し、シュタルクは全身の筋力を大斧に込めて振り上げた。閃光のような一撃が、錆びついた大剣の腹を真正面から捉える。
バキィィィィィンッ! と。
甲高い破砕音が森に響き渡った。決して折れないはずの魔力の大剣に、中心から斜めに走る巨大な亀裂が刻まれる。
「な……馬鹿な……っ!?」
「フェルン」
フリーレンの短い呼びかけと同時に、すでにフェルンの杖先には極限まで圧縮された白紫の光が集束されていた。
「……シュタルク様は、バカではありません」
冷ややかに言い放ったフェルンの杖から、極大の『
轟音とともに放たれた光の奔流は、亀裂の入った大剣を粉々に粉砕し、そのままラーテルの獅子の巨躯を真正面から貫通した。青黒い血煙が舞い散り、魔族の身体は黒いボロくずのような魔力の塵となり霧散していく。
「このような……ふざけた術と、旧式魔法に……我が剣が……」
怨嗟の声を残し、ラーテルの肉体は黒い灰となって風に吹き散らされた。
あとには、へし折れて地面に転がる錆びた大剣の破片と、魔力の残滓が漂う静まり返った森が残されるだけだった。