魔力の残滓と錆の匂いが薄れゆく森を抜け、三人はかつて女神の石碑が存在した場所へと戻ってきた。
そこには、一千年という風雪に洗われ、完全に崩れ去った白銀の砂の山が静かに横たわっていた。大気中に微かに漂う因果の歪みと、神話の時代の魔力の残滓だけが、ここがかつて時間の結節点であったことを無言で示している。
「ここだね」
千年後のフリーレンが、空っぽの左袖を風に揺らしながら砂の山の前で立ち止まった。
彼女は残された右手を持ち上げ、革表紙の魔導書をフェルンへと手渡す。
「この砂に直接触れた状態で、魔導書の魔法陣を展開して。フェルンの魔力波長に合わせてあるから、女神様の術式とすぐに同調できるはずだよ」
「……はい」
フェルンは魔導書を受け取り、足元の砂の山を見つめた。
その白い指先が、微かに震えている。
「フリーレン、俺たち……本当に帰れるんだよな」
シュタルクが背負った大斧を降ろし、どこか所在なさげに尋ねた。その顔には安堵と同時に、目の前に立つ変わり果てたフリーレンへの、拭い去れない哀惜が滲んでいる。
「うん。大丈夫だよ。ヒンメルが遺してくれたヒントと、あなたたちが繋いでくれた因果があるからね」
フリーレンは穏やかに微笑み、左側だけに残された薄い翡翠の瞳を細めた。
その笑みは、かつて旅の途中で見せていたものと少しも変わらない。だが、失われた片目と片腕、そして身に纏う圧倒的な静寂が、彼女が背負ってきた一千年という孤独の深さを物語っていた。
「……フリーレン様」
フェルンは木製の杖を握り締め、紫色の瞳に大粒の涙を浮かべながら、師の前に歩み寄った。
「私たちは……元の時代へ戻ったら、必ずあなたに伝えます。この帰還魔法を見つけ出すようにと。そしてオレオールを目指します。何があっても、必ず」
「……うん。頼んだよ、フェルン」
「それと……」
フェルンは声を詰まらせ、俯いた。
「……私たちは、この先もずっと、フリーレン様の側にいます。未来で何が起きようと、あなたが一人きりになってしまわないように……私たちは……」
「フェルン」
フリーレンの静かな声が、弟子の言葉を優しく遮った。
彼女は残された右手を伸ばし、フェルンの頭をぽんぽんと撫でた。懐かしく、温かい感触がフェルンの髪を伝う。
「私はね、一人じゃないよ。……ヒンメルたちと過ごした時間だけじゃない。あなたたちと旅をした記憶も、一緒に集めたくだらない魔法も、全部ここにあるから」
フリーレンは自分の胸元を軽く叩き、悪戯っぽくアホ毛を揺らした。
「それに、ほら。私はニ千年も生きてるんだ。今さらちょっとくらい一人で隠居したって、どうってことないよ。……ふふん、むしろ朝起きなくていいから最高だね」
「……フリーレン様。最後まで、ズボラです」
フェルンは涙を拭い、いつものように少しだけ頬を膨らませた。
「じゃあな、フリーレン。……飯、ちゃんと食えよ。あと、あんまり無理すんなよな」
シュタルクが鼻の頭を赤くしながら、ぶっきらぼうに手を振る。
「シュタルクもね。……フェルンを怒らせすぎないようにしなよ。あの子、怒ると結構しつこいから」
「あの、聞こえてますけど」
フェルンの咎めるような声に、フリーレンは声を立てて笑った。
そして、別れの時は訪れた。
フェルンとシュタルクは白銀の砂の山へと膝をつき、その冷たい粒子に直接手を触れた。フェルンが魔導書を開き、紡がれた女神の帰還術式へと自身の魔力を流し込む。
瞬間、砂の山から眩い光の柱が天へと立ち上った。
周囲の空間が激しく歪み、大気が澄んだ鐘の音のような共鳴音を立てて震える。光の粒子が二人を包み込み、重力の感覚が急速に希釈されていく。
光の膜の向こう側で、千年後のフリーレンが穏やかに右手を掲げ、小さく手を振っていた。
「いってらっしゃい。……じゃあ、またね」
その声を最後に、世界は圧倒的な白光によって塗り潰された。
――――――
―――
「……っ!」
激しい明滅とともに、強烈な浮遊感が途絶え、足元に確かな大地の感触が戻った。
冷たい風が頬を打つ。
原生林の鬱蒼とした木立、苔むした岩肌、そして目の前には――何事もなかったかのように聳え立つ白銀の『女神の石碑』。その石肌は役割を終えたかのように静まり返り、何の魔力も感じられない。
「……あ、れ……?」
シュタルクが目を丸くし、自分の両手を見つめた。
傷一つない手の平。背中の大斧の重み。つい先ほどまで死闘を繰り広げていたはずの身体には、疲労の痕跡すら残っていなかった。
「フェルン、危ないって言ったでしょ」
背後から、あまりにも聞き慣れた、平坦で眠たげな声が降ってきた。
振り返ると、そこには両腕を揃え、両の翡翠の瞳をぱちくりと瞬かせ、赤い杖と旅の鞄を携えた小柄なエルフの少女――現代のフリーレンが、呆れたようにアホ毛を揺らしながら立っていた。
「……フリーレン、様……?」
フェルンは息を呑み、信じられないものを見るように師の全身を見つめた。
傷のない右目。そこにある左腕。そして、何気なく地面を踏み締めるその姿。
「触らないでって言ったそばから触っちゃうんだから。……ん? 二人とも、どうしたの? そんな驚いた鳩みたいな顔して」
フリーレンは不思議そうに首を傾げた。
時間にして、石碑に触れてからほんの一瞬。瞬き一つするほどの間に、二人は千年の時を往復してきたのだ。
フェルンは込み上げる感情を必死に抑え込みながら、呼吸を整えて口を開いた。
「……フリーレン様。私たちは今、千年後の未来へ飛ばされていました」
「えっ」
フリーレンのアホ毛がぴくりと跳ねた。
続いてシュタルクが、身振り手振りを交えながら堰を切ったようにまくし立てる。
「本当なんだ! オイサーストに行ったら俺たちの石像があって、ゼーリエに会って、それから千年後のフリーレンに会ったんだ! 未来のあんたは森の小屋で隠居してて、片目と片腕がなくて……それから、ラーテルっていう魔族を倒して……!」
常人であれば荒唐無稽と一蹴するであろうその話を、フリーレンは遮ることなく最後まで静かに聞き届けた。
やがて、彼女は薄い翡翠の瞳を細め、顎に指を当ててぽつりと言った。
「……そっか」
一切の疑念を挟まない、極めて淡々とした納得だった。
「女神様の魔法による時間跳躍だね。私もちょっと前、80年前に意識を飛ばされたことがあるから分かるよ。……未来へ飛ぶパターンもあるんだ。神話の時代の魔法は本当に理屈が通らないや」
フリーレンは石碑を見上げ、それからフェルンへと視線を戻した。
「で? 未来の私は、元気にやってた?」
「……はい」
フェルンは木製の杖を抱きしめ、師の目をまっすぐに見据えて、託された約束を告げた。
「未来のフリーレン様から、言付かっております。『旅が終わったら、時巡りの鳥の章を徹底的に解析して、千年前に戻る帰還魔法を探せ』と。……私からも、お願いいたします」
フリーレンは一瞬だけ目を丸くし、それから可笑しそうに小さく笑った。
「あはは、なるほどね。……ヒンメルと同じことを私にやらせる気だ」
彼女は赤い杖の先端で地面を軽く突き、北へと続く薄暗い森の奥を見据えた。
「分かったよ。旅が終わったら、何百年かけてでもその魔法を見つけておく。……未来のフェルンたちを、ちゃんと元の時代へ帰してあげなきゃいけないからね」
風が木々を揺らし、木漏れ日が三人の足元を柔らかく照らし出す。
途方もない時間の円環を越え、彼女たちの旅路は、再び静かに歩みを進めようとしていた。
苔むした白銀の石碑は、一千年の風化などなかったかのように、ただ静寂だけをたたえて佇んでいる。二人がほんの一瞬の間に行き来した途方もない未来の残滓は、森の木漏れ日の中に溶け、どこまでも穏やかな日常の匂いへと戻っていた。
フェルンは木製の杖を胸元で抱きしめ、歩き出そうとする師の背中を、紫色の瞳で見つめた。
「……フリーレン様」
「ん? なに、フェルン」
フリーレンは足を止め、白いツインテールを揺らしながら振り返る。薄い翡翠の瞳が、不思議そうに瞬いていた。
「千年後のフリーレン様は、この旅の結末を教えてくれませんでした。私たちがオレオールに辿り着けたのか、ヒンメル様たちと言葉を交わせたのか……そのすべてを、知らなくていいことだと。……なぜなのでしょうか」
その問いに、フリーレンは少しだけ首を傾げた。頭のアホ毛がぴくりと揺れる。
やがて彼女は、遠い昔の記憶を慈しむように、小さく口元を綻ばせた。
「きっと、ヒンメルならそうしたからだよ」
「ヒンメル様が……ですか?」
「うん。ヒンメルはね、いつだって旅の『今』を楽しんでいたから。困っている人を助けて、くだらない依頼を受けて、ダンジョンを隅々まで探索して……そうやって道草を食いながら歩いた十年間が、私たちのすべてだった」
フリーレンは赤い杖の石突で地面の土を優しく撫で、北の空を見上げた。
「もし最初に結末を知ってしまったら、その道中に流れる時間や、そこで出会う誰かの言葉が、ただの『結果への通過点』になっちゃうでしょ。それはきっと、すごくつまらないことだ。だから未来の私も、教えなかったんだと思うよ」
「……なるほど。それが、勇者ヒンメルというお人だったのですね」
フェルンは納得したように目を細め、静かに頷いた。未来で見た自分たちの立派な石像も、過酷な戦いの果ても、いま目の前にある一歩一歩の積み重ねの先にある。先回りは必要ないのだと、師の言葉が心に沁み渡っていく。
「ま、俺たちらしいっちゃ、らしいよな!」
シュタルクが大斧を肩に担ぎ直し、破顔した。
「先のことが分からないからこそ、目の前の飯が美味いし、怖い魔物が出たら必死に戦えるんだろ。な、フェルン!」
「……シュタルク様は、もう少し先のことやお金の使い道を考えて生きるべきだと思います」
「おい! 今ちょっといい話風にまとまりかけてたのに、なんで俺だけ怒られんだよ!?」
むう、と小さく頬を膨らませるフェルンと、慌てて両手を振るシュタルク。
そのやり取りを眺めながら、フリーレンは「ふふん」と小さく鼻を鳴らした。
「さ、行こっか。……あ、そういえばね」
フリーレンは思い出したようにアホ毛をぴくりと揺らし、二人を振り返った。
「この先にある村に、『冷めたお湯を一瞬で飲み頃の温度にする魔法』の魔導書が伝わってるらしいんだよね。街道から少しだけ逸れるんだけど……ちょっと寄り道して貰いに行かない?」
いつもの調子で持ち出された、何の役にも立ちそうにない「くだらない魔法」の提案。
シュタルクは「うげっ」と顔を顰め、いつものようにフェルンが『フリーレン様、またそんな無駄遣いをして』と怒るのを待つように身構えた。
だが、フェルンの紫色の瞳が微かに揺れた。
脳裏をよぎったのは、あの森の小さな小屋。片腕になった師が、慣れた手つきで淹れてくれたハーブティーのあたたかな湯気と、そこに漂っていた穏やかな匂い。一千年の時を越えて自分たちを迎えてくれた、あの優しい隠居の記憶。
フェルンは木製の杖を両手で抱え直すと、ふわりと柔らかく口元を綻ばせた。
「……いいですね、フリーレン様。その村へ寄り道しましょう」
「ええっ!? フェルン、マジで言ってるのか!?」
シュタルクが目を丸くし、信じられないものを見るように叫んだ。
「いつもなら『またそんな役に立たない魔法を集めてどうするのですか』って怒るところだろ!?」
「シュタルク様、失礼です。この寒い北部高原で、いつでも飲み頃の温かいお茶が飲めるというのは、非常に実用的な魔法だと思います」
驚愕するシュタルクを他所に、フリーレンは嬉しそうに胸を張った。
「むふー。フェルンもようやく民間魔法の素晴らしさが分かってきたみたいだね。朝起きたときにすぐ温かいお湯が飲めるし、すごく便利そうだよね」
「……フリーレン様はまず、朝ちゃんと起きられるようになる魔法を探すべきだと思います」
「えー」
軽口を叩き合いながら、三人は再び北へと続く森の小道を歩き出した。
やがて何百年、何千年という歳月が流れようとも――この歩みの記憶は、決して色褪せることはない。
空高く澄み渡る北部高原の青空の下、女神の石碑を背にした三人の影は長く伸び、静かに遠ざかっていった。
あとがき
これにて「フェルンが1000年後の未来に行く話」は完結です。
本作にお付き合いいただき、またお気に入り登録や評価をいただきまして、本当にありがとうございます。
読んでもらえているなあという実感が活動のモチベになっております。
原作の過去編はかなり好きなストーリーなので、今回はそれをオマージュした作りの話にしてみました。過去と未来、因果律が交錯する世界設定は、書きながら頭がこんがらがるので構成が難しいですが、自分なりにカタチになったと思います!
お楽しみいただけていれば幸いです。
改めまして皆様、読了、本当にありがとうございました。
最後にページ下部より評価や感想を付けていただけると、とてもとても嬉しいです。次回作への励みになります!
p.s.
8/25より、「勇者ヒンメルと竜の墓場の話」を連載開始しています。
そちらもよろしければぜひ、お付き合いください!