海いいですよね、潮の匂いに波の音、それで誰かと行く思い出、夏にピッタリな感じで…生徒との話しか描かないのかって?(そのうち別のも書きます)
おっと誰からか電話が…
海辺の町に来たのは、夕方だった。
先生と生徒は、防波堤の上を歩いていた。夏の終わりの海は観光客も少なく、潮の匂いだけが妙に濃かった。
先生「君、海に来たかったの?」
生徒「先生が行こうって言ったんじゃないですか」
先生「そうだったっけ」
生徒「そうですよ」
先生「じゃあ、私が忘れてたんだね」
生徒「先生、最近よく忘れますね」
先生「年齢のせいかな」
生徒「まだそんな歳じゃないでしょう」
先生「じゃあ、君のせいだ」
生徒「なんで僕なんですか」
生徒は笑った。
先生も笑った。
それから二人は、しばらく黙って海を見ていた。
波は穏やかだった。
遠くに、小さな灯台が見える。
生徒「先生」
先生「ん?」
生徒「海って、昨日より近くなってません?」
先生「……何、それ」
生徒「だって、昨日はあの岩までしか見えなかったのに」
先生「今日は潮が引いてるんじゃない?」
生徒「そういうものですか?」
先生「海なんだから、そのくらい変わるよ」
生徒「なるほど」
生徒は納得したように頷いた。
けれど、先生は少しだけ違和感を覚えた。
昨日。
昨日もここへ来た。
そう言われるまで、先生はそのことを思い出していなかった。
先生「……君」
生徒「はい」
先生「昨日もここに来たっけ?」
生徒「来ましたよ」
先生「二人で?」
生徒「二人で」
先生「何話した?」
生徒「いろいろです」
先生「例えば?」
生徒「先生が、海は嫌いじゃないって」
先生「……私、海が嫌いなんだよ」
生徒「そうでしたっけ」
先生「うん。昔から」
生徒「じゃあ、昨日の先生は違う先生だったのかもしれませんね」
先生「そんなわけないだろ」
生徒はまた笑った。
その笑い方が、少しだけ寂しかった。
夕陽が海に沈み始める。
防波堤の下では、波が一定の間隔で砕けていた。
先生「そういえば、どうして海なんだ?」
生徒「最後に見ておきたかったからです」
先生「何を?」
生徒「海を」
先生「それだけ?」
生徒「それだけです」
先生はそれ以上聞かなかった。
聞かないほうがいいことが、この世にはいくつかある。
少なくとも、そのときの先生はそう思った。
少し歩いたところで、生徒が立ち止まった。
生徒「先生」
先生「今度は何?」
生徒「あれ、見てください」
生徒が指差した先に、小さな家があった。
海沿いに建つ古い家で、窓にはカーテンが掛かっていない。
先生「空き家かな」
生徒「そうですね」
先生「知ってるの?」
生徒「知ってます」
先生「誰の家?」
生徒「僕のです」
先生は足を止めた。
先生「……君の?」
生徒「はい」
先生「でも、君の家って町の反対側じゃなかった?」
生徒「今は、こっちです」
先生「いつ引っ越したの?」
生徒「去年です」
先生「聞いてないな」
生徒「言ってませんから」
先生「そういう問題じゃないだろう」
先生は苦笑した。
生徒は家を見つめている。
生徒「先生」
先生「うん」
生徒「中、見ていきます?」
先生「いいの?」
生徒「最後ですから」
先生「……最後って、さっきから何のこと?」
生徒は答えなかった。
代わりに家の扉を開けた。
中には家具がほとんどなかった。
ただ、壁に一枚だけ写真が飾られている。
先生は近づいて、それを見た。
海を背景にした写真だった。
生徒が写っている。
その隣に――先生がいた。
先生「……これ」
生徒「去年の写真です」
先生「私、覚えてない」
生徒「そうでしょうね」
先生「どうして?」
生徒「先生は、その日に忘れたので」
先生「何を?」
生徒は写真を外した。
裏側には日付が書かれていた。
去年の八月。
そして、その下に小さな文字があった。
『先生が帰ってしまった日』
先生「……帰った?」
生徒「はい」
先生「私は、君を置いて帰ったの?」
生徒「違います」
先生「じゃあ?」
生徒「僕が、先生を置いて帰ったんです」
先生は意味が分からなかった。
けれど、生徒の声には冗談の気配がなかった。
先生「君は、何を隠してる?」
生徒「隠してるんじゃありません」
先生「じゃあ何?」
生徒「先生が思い出せないだけです」
生徒は窓を開けた。
潮風が部屋の中に入り込む。
カーテンがない窓から、夕暮れの海がよく見えた。
生徒「先生」
先生「うん」
生徒「海、近くなりましたね」
先生「……そうだね」
生徒「昨日より?」
先生「昨日より」
生徒は満足そうに笑った。
生徒「じゃあ、そろそろ帰りましょう」
先生「どこへ?」
生徒「先生の家です」
先生「君は?」
生徒「僕も帰ります」
先生「この家に?」
生徒「はい」
先生「でも、ここは――」
先生は言葉を止めた。
何かがおかしい。
けれど、その「おかしい」が何なのか分からない。
生徒は玄関まで歩いていった。
そして靴を履く前に、振り返った。
生徒「先生」
先生「何?」
生徒「明日も来てくれますか?」
先生「海に?」
生徒「はい」
先生「もちろん」
生徒「約束ですよ」
先生「約束」
生徒は笑った。
先生は先に外へ出た。
数歩進んだところで振り返る。
先生「君、早く来なよ」
返事がない。
家の中は静まり返っている。
先生はもう一度呼んだ。
先生「……君?」
それでも返事はなかった。
先生は家の中へ戻った。
誰もいない。
家具もない。
写真もない。
さっきまでそこにあったはずのものが、何もなかった。
ただ、窓だけが開いている。
先生はしばらく立ち尽くしていた。
やがて、壁に何かが残っていることに気づいた。
写真を飾っていた跡。
四角く、そこだけ壁紙の色が違う。
先生は指で触れた。
その瞬間、ようやく思い出した。
去年の夏。
海。
この家。
生徒。
そして、自分が一人で帰ったこと。
――生徒は、その日に海で亡くなった。
先生はしばらく目を閉じた。
それから、誰もいない部屋に向かって小さく笑った。
先生「……そうだったな」
窓の外では、海が静かに揺れていた。
先生は家を出る。
防波堤の上まで戻ると、さっきまで隣にいたはずの生徒が見えないことに気づいた。
けれど、不思議と探そうとは思わなかった。
ただ海を見る。
昨日より、ずっと遠くなっていた。
その帰り道、先生の携帯が鳴った。
知らない番号だった。
出る。
何も聞こえない。
ただ、遠くで波の音がする。
そして最後に、聞き慣れた声がした。
生徒「先生」
先生「……うん」
生徒「明日も来てくださいね」
電話は切れた。
先生は海のほうを振り返った。
夕日はもう沈んでいる。
暗い海の向こうに、小さな灯台だけが見えた。
先生はしばらくそこを見つめてから、歩き出した。
明日も来るつもりだった。
ただ――
誰との約束だったのかだけは、もう思い出さないことにした。