“♪That’s the way〜 ♪That’s the way〜”
キックオフまで、あと10分。
先ほどから大体育館では、やたらと陽気なBGMが流れ続けている。
何年も前のアイドル曲だ。なぜ今この選曲なのかは知らないが、試合を待つ観客どもの期待を無駄に煽る効果だけは、どうやら十分に発揮しているらしい。
“♪枯葉がひらひら 空から舞い降りて
舗道に着地するまで時間を持て余してた
思っていたより地球はゆっくりと回っている
胸の奥に浮かぶ言葉を拾い集めよう”
――欅坂46『風に吹かれて』
思っていたより地球はゆっくりと回っている、か。
残念ながら、この団長を前にしたら地球の自転速度だって多少は上がるだろうよ。
下手をすれば公転周期まで短くなるかもしれない。そうなったら季節がどうなるのかは知らんが、とりあえず俺たちの寿命が縮むことだけは間違いなさそうだ。
そんなことを考えながら、俺はベンチへ戻った。
「はいはい! みんな冷やして! みくる、アイシング!!」
「は、はいぃ!」
鶴屋さんの声が、体育館の熱気の中を突き抜ける。
気がつけば、この人はすっかり第二マネージャーのような立場に収まっていた。というか、誰が任命したんだ。……聞くまでもないか。
俺たちがベンチに座ると、朝比奈さんが慌てた様子で、氷水の入ったアイシング用の器材を運んできた。そして、俺たち5人全員の首元に巻かれる。
「はい、キョンくん。首、冷やしますね」
「……お願いします」
首元に、ひやりとした感触が触れる。
「……っ」
冷たい。いや、冷たいというより、気持ちいい。
さっきまであれほど鬱陶しかった汗が、一瞬だけ引いていく気がした。この暑さの中では、氷水なんてものはもはや文明の象徴だ。火と車輪と氷水。この三つが人類史上の偉大な発明として教科書に載っていても、俺は異論を唱えない。 ……しかし。
「なあ」
俺は首元の器材を指差した。
「これ、どこから持ってきたんだ?」
「野球部が貸してくれたのよ」
同じく首元にアイシング器材を着けたハルヒが即答した。
「野球部?」
「ええ。試合中に使うんですって」
なるほど。
今回ばかりは、あの脳筋フィジカルモンスターどもに感謝せざるを得ないな。少なくとも、俺たちより先に、この学校でスポーツをやっている連中のほうが、こういう事態への備えは充実しているらしい。
もっとも、あいつらはこんな灼熱地獄で試合をすることまでは想定していなかっただろうが。
俺と谷口の二人は両膝にも、追加でアイシング用の器材が取り付けられた。
「うわっ、冷てぇ!」
「我慢してください」
朝比奈さんが申し訳なさそうに言う。
「いや、気持ちいいんですけど……」
「どっちなんだよ」
谷口が俺を見る。
「黙って冷やされてろ」
「お前もな」
そんな不毛な会話をしていると、ふと隣にいる古泉が目に入った。
こいつも首を冷やされながら、妙に真剣な顔で自分の右手首にテーピングを巻いている。何だ。いつからそんな本格的な選手になった。
「おい」
「はい?」
「何だ、それ」
俺は古泉の手首を指差した。
「テーピングです」
「見れば分かる」
「では、何が聞きたいんです?」
「何のためにやってるんだ」
古泉は、テーピングを巻く手を止めずに答えた。
「怪我の防止と、力の伝達を少しでもスムーズにするためですよ」
「……」
こいつ、本当に俺と同じ素人か?
「へえ」
谷口が横から身を乗り出した。
「そんなので変わるのか?」
「多少は」
「俺もやってみようかな」
「どうぞ、どうぞ」
古泉が即答した。
「余った分ならありますよ」
「本当か?」
「ええ」
谷口の顔が、少しだけ明るくなる。
「よし。じゃあ俺も――」
「お前はまず膝を冷やしてろ」
「何でだよ!」
やれやれ。俺たちがこんなことをやっている間にも、大体育館ではBGMが流れ続けている。
“♪アレコレと考えてても
なるようにしかならないし〜”
まったくだ。ただし、俺の場合は一つだけ訂正しておきたい。なるようにしかならない、なんて呑気なことを言っていられる状況なら、そもそもここまで考えてはいない。
問題は、俺たちが何もしなくても、どうやらこの試合は勝手に「何か」になっていきそうだということだ。
実況席。満員の観客。灼熱の大体育館。四隅で唸りを上げる巨大送風機。
そして、何を考えているのか分からない生徒会長。
……あと10分。俺は首元の氷水に触れながら、コートの向こうを見た。
なるようにしかならない。その通りだ。
だからせめて、なるべくまともな「なり方」をしてくれることを祈るしかない。
「……やれやれ」
俺が頭を抱えかけた、そのときだった。国木田が立ち上がった。
「ちょっと着替えてくる」
「は?」
思わず聞き返した。
「何で今さら着替えるんだよ。試合開始まで10分もないぞ」
「すぐ戻るよ」
国木田はそれだけ言うと、体育館の出口へ向かって歩いていった。
「……」
俺はその背中を見送った。嫌な予感しかしない。
数分後。
案の定、国木田は何かが変わって戻ってきた。体操着そのものは同じだ。
ただ、その下にぴったりとした白いアンダーシャツを着込んでいた。
「……」
俺は二度見した。
「何だ、それ」
国木田は自分の胸元を軽く引っ張る。
「アンダーシャツだけど」
「それは見れば分かる」
今日はこの会話が多いな。
「これなら、だいぶ汗を吸ってくれると思うんだけど」
「……」
俺は古泉を見る。古泉は両手首のテーピングを確認していた。
谷口を見る。谷口は、いつの間にか古泉からもらったテーピングを自分の手首に巻こうとしている。盛大に失敗していた。
ハルヒを見る。なぜか満足そうだった。
朝比奈さんはアイシング用の氷を追加している。
長門は相変わらず無表情だった。
……そして国木田は、汗対策のためにアンダーシャツを着込んでいる。
「お前までどうした……」
「暑いからさ、対策しなきゃでしょ」
「それだけか?」
「うん」
国木田は当然のことのように答えた。それだけなのだろう。おそらく、本人にとっては。
だが問題は、俺の周囲の人間が、一人ずつ妙な方向へ進化していることだった。古泉は戦術家になりつつある。国木田はいつの間にか、環境に最適化され始めている。谷口に至っては、その両方に付いていこうとして失敗している。
そして、その中心にいるハルヒは、そんな俺たちを見て、なぜか機嫌がいい。
……地球がゆっくり回っている?冗談じゃない。少なくとも、この団長の周囲だけは確実に回転速度を上げている。しかも、その渦の中に俺たちまで巻き込まれ始めていた。
“♪アレコレと考えてても なるようにしかならないし〜”
だからといって、何も考えずにいられるほど、俺は達観していない。あと10分足らずで生徒会との試合が始まる。俺は改めてベンチの連中を見回した。
「……」
誰か一人くらい、普通の奴はいないのか。そう思った瞬間、俺は気づいた。この中で一番何も準備していないのは――どうやら、俺だけらしい。
「……やれやれ」
俺は深く息を吐いた。すると隣から、谷口が言った。
「キョン」
「何だ?」
「俺もアンダーシャツ、着たほうがいいかな?」
「もう時間ねぇよ」
「じゃあテーピングだけでも」
「やめろ」
試合開始の時刻は、こちらの都合など一切お構いなしに刻一刻と近づいていた。
にもかかわらず、俺がやっていることといえば、頭の上に氷嚢を乗せ、体育館いっぱいに詰め込まれた観客をぼんやり眺めることくらいである。
いや、別にサボっているわけじゃない。これ以上何かをすると、本番が始まる前に体力ゲージがゼロになるという、至極まっとうな判断に基づく休養だ。
ベンチの両脇には、いつの間にやら二台の小型冷風機まで設置されていた。送風機ではない。冷風機である。
生徒会の配慮らしい。
なるほど、敵ながら気が利いている。これならベンチで試合を見守る朝比奈さんや鶴屋さんが、この巨大な蒸し風呂の犠牲になる心配もなさそうだ。というか、俺自身がここから一歩も動きたくない。できることなら、このまま試合終了まで冷風機の前で寝ていたいくらいである。
――熱中症。
頭の中に浮かんだその言葉を、俺はしばらく眺めていた。熱中症。暑さで倒れる。倒れる…。
……もし、この場にいる誰か一人くらいが暑さに耐えかねて倒れたら、今日の試合は中止になるんじゃないだろうか。
そうなれば、俺たちは晴れて帰宅できる。実に素晴らしい。
いや、待て。俺は一体何を考えているんだ。仲間の誰かが倒れることを期待するなんて、いくら疲れているとはいえ人としてどうなんだ。そもそも、そんなことを我らが団長が許すはずがない。つまり、却下。
俺のささやかな帰宅願望は、またしても涼宮ハルヒという巨大な壁に阻まれたのである。
そんな俺の葛藤など知ったことではないと言わんばかりに、体育館では音楽が鳴り続けていた。
最新のヒット曲が流れたかと思えば、次の瞬間には何年も前の懐メロが始まる。選曲の基準がさっぱり分からない。分からないが、観客はそれなりに盛り上がっているらしく、曲が変わるたびにあちこちから歓声が上がる。
まったく、試合前だというのに何なんだこの騒ぎは。
「みんな、そろそろ始めようか」
その声に顔を上げる。いつの間にか、国木田が立ち上がっていた。
相変わらず手にはメモ帳を持っている。こいつ、一体いつからそれを眺め続けていたんだ。しかも、体操着の下には例のタイトな白いアンダーシャツ。
どうしてお前までそんな格好になった。
……いや、考えるのはやめよう。ここ数時間は妙なことが多すぎる。
「作戦会議だよ」
国木田がそう言って、ベンチ後方に置かれたホワイトボードへ向かう。それを合図に、俺たちも一人、また一人と立ち上がった。ハルヒ、古泉、谷口、そして俺。長門も静かにベンチから離れる。
こうして俺たちは、試合開始直前の最後の作戦会議へ向かった。……さて、相手は生徒会。しかも、あの会長がいる。いったい国木田は、あいつらを相手にどう戦うつもりなのか。
俺としては、作戦そのものよりも、この暑さの中で試合をすること自体がすでに作戦ミスなんじゃないかと思えてならなかった。
さらさらと、ホワイトボードの上をペンの音が走る。俺はその様子を眺めながら、少しだけ首を傾げていた。
いつから国木田は、こんなふうに作戦会議を取り仕切るようになったんだ。
いや、別にこいつが馬鹿だと言っているわけじゃない。むしろ、俺たちの中ではかなりまともな部類だろう。少なくとも、思いつきだけで学校行事を巨大イベントへ変貌させる女や、何を考えているのか分からないニヤケ顔の男よりはずっと信用できる。
しかし、その国木田が今は体操着の下にぴったりしたアンダーシャツを着込み、メモ帳を片手にホワイトボードへフォーメーションを書き込んでいる。
どう見ても、ただの帰宅部ではない。……いや、考えるのはよそう。今日一日、そんなことを言い出したらキリがない。やがて国木田はペンを止めた。そこには、俺たちの名前が並んでいた。
キョン ハルヒ
谷口 古泉
国木田
「……何だ、これ」
思わず口に出た。
「スタメンだよ」
「それは見れば分かる」
問題はそこじゃない。俺は自分の名前とハルヒの名前を見比べた。
「俺が前か?」
「そうだよ」
「何でだ?」
「何でって……」
国木田は少し考えた。
「そこが一番いいと思ったから」
何という雑な理由だ。俺としては、皆を見渡せる最後列のフィクソあたりが希望だった。前へ出るより、後ろから状況を眺めて、危なくなったら誰かに任せる。実に合理的だ。
それに、ハルヒはともかく、俺にそんな決定力があるとは思えない。前に古泉を置いた方が、よほど得点の可能性は高いんじゃないのか。
俺がそんな不満を頭の中で並べていると、国木田はホワイトボードへ向き直った。
「相手の能力が分からない以上、最初から攻めるのは危険だと思う」
「生徒会相手にずいぶん弱気だな」
俺が言うと、国木田は首を横に振った。
「そういうわけじゃない。単純に情報不足なんだ」
静かな声だった。そして国木田は、ホワイトボードの中央に一人の名前を書いた。
生徒会長
さらに、その下へ。
最優先監視対象
「ずいぶん物騒な肩書きだな」
「そうかな」
国木田は気にした様子もない。
「バスケ部戦の映像を見る限り、他の選手は僕たちと大きな差はない」
そこまでは、俺も同意する。生徒会長以外の連中は、確かに普通だった。少なくとも、野球部やバスケ部のような、身体能力だけでこちらを押し潰してくる連中ではない。
「問題は会長だ」
国木田は、生徒会長の名前をペン先で軽く叩いた。
「彼がボールを持ったとき、周囲の選手がどう動くのか。それを最初に確認したい」
「……つまり?」
「会長を止めることだけを考えない」
国木田は言った。
「彼が何をすると、生徒会が強くなるのか。それを見る」
俺は少し考えた。
なるほど。生徒会長からボールを奪うことが目的じゃない。あいつがボールを持ったとき、何が起きるのかを観察する。
あの男が何をしているのか。そして、周囲がそれによってどう変わるのか。……何だか妙に国木田らしい。
いや、本当にそうか?
俺は一瞬、国木田の横顔を見た。今日の朝まで、こいつはこんなふうにホワイトボードの前に立ち、俺たちへ戦術を説明するような男だっただろうか。 違う。
……待て、違うと断言できるほど、俺はこいつのことを理解していたか?
分からない。最近、この「分からない」という言葉を使う回数が妙に増えている気がする。
「まず、谷口」
「おう」
国木田に呼ばれ、谷口が顔を上げた。
「君は会長に食いつこうとしないで」
「は?」
谷口が眉をひそめる。
「ボールを奪いにいくなってことかよ?」
「一対一で勝とうとしないってこと」
国木田は即座に答えた。
「距離を取って、進路だけを消す」
そう言いながら、ホワイトボードに簡単な矢印を書き加える。
「無理に奪わなくていい。ボールがどこから来て、会長がどこへ出すのか。それだけ見ていて」
「それだけ?」
「それだけ」
国木田は続ける。
「君の身体にも、かなり無理がかかってる。後半のためにも、ここで無駄な勝負をする必要はないよ」
谷口は腕を組んだ。
いつもなら「俺に指図するな」くらい言いそうなものだが、しばらく考えたあと、やがて小さく息を吐いた。
「……任せてくれ」
谷口が顔を上げる。
「前の試合でへばった分は、必ず取り返す」
「別に、それを取り返すための作戦じゃないんだけどな」
国木田が困ったように言った。
「分かってるよ」
谷口はそう言って、少しだけ笑った。
「だから任せろって言ってんだ」
……こいつまで妙に格好よくなってどうする。
「古泉君は中央」
今度は古泉だ。
「会長がボールを持ったら、谷口と挟む。ただし、二人とも前へ出ないこと」
「承知しました」
古泉が、前髪をかき上げながら答えた。
……。本当にどうしちまったんだ、お前。
今日の古泉は、いつもより妙に真面目だ。いや、普段から真面目ではあるんだが、そういう意味じゃない。
手首にはテーピング。さっきまで怪我でもしている選手みたいな顔でストレッチをしていた。そして今は、作戦を聞いて妙に力強く頷いている。
こんなことで熱くなれるような奴じゃなかっただろう、お前は。
「それから、キョン」
「はいはい」
俺の番が来た。
「君は前線でボールを追わなくていい」
「……それでいいのか?」
「むしろ、追っちゃ駄目だ」
何だそれ。
「相手のパスコースを一つだけ消してくれ」
「一つだけ?」
「うん。一つでいい」
国木田は俺を見る。
「自分で奪おうとしなくていい。君がそこにいることで、相手が出せないパスを一つ作ればいいんだ」
個人技で勝負するな。自分から何かを起こそうとするな。ただ、相手の選択肢を減らせ。
……なるほど。何となくだが分かる。つまり、俺は相手を追い回すんじゃない。相手に「こっちには出したくない」と思わせればいい。ずいぶん地味な役だな。
「そして、涼宮さん」
「はい!」
待ってましたとばかりに、ハルヒが一歩前へ出た。国木田はホワイトボードの右側を指差す。
「右をお願い」
「何であたしが右なのよ!」
国木田は少しも動じなかった。
「君が一番、相手の注意を引くから」
「……なるほど!」
即座に納得した。お前はそれで納得するのか。
「涼宮さんがボールを持てば、相手は必ず寄る」
国木田は説明を続ける。
「そうすれば中央が空く。その瞬間、涼宮さんから古泉君」
右から中央へ。
「古泉君からキョン」
中央から前線へ。
「この縦の連携を狙いたい」
なるほど。古泉は状況を読む役。ハルヒは相手を引きつける役。
そして俺は、空いた場所へ入り込む役ということらしい。……何だか、俺だけが妙に人任せな気もする。
まあいい。俺が何かするより、周りが勝手に動いてくれる方が、こちらとしても楽である。
国木田は一通り説明を終えると、ホワイトボードに書いた矢印や名前を消し始めた。そして、最後に生徒会長の名前だけを残す。
「最初の5分は、勝とうとしなくていい」
「……は?」
俺は思わず聞き返した。
「5分も?」
「5分だけだ」
国木田は生徒会長の名前を指差した。
「相手を観察する」
「それで、5分使うのか?」
「うん」
国木田は、少しだけ表情を変えた。いつもの、どこかのんびりした顔ではない。
「この人が、何を考えているのか。それを知る」
その言葉のあと、一瞬だけ沈黙があった。巨大な送風機の音。遠くから聞こえる観客のざわめき。体育館では、さっきまで流れていた曲が終わり、次の曲が始まっている。
その中で国木田は、静かに言った。
「分からない相手と戦うとき、一番やってはいけないのは」
一度、言葉を切る。
「自分から勝手に、相手を決めつけることだ」
俺は黙った。
……何だよ。
何なんだ、その妙に格好いい台詞は。そんなことを考えながら、俺はホワイトボードを見る。
生徒会を倒す作戦じゃない。生徒会が、どうやってバスケ部を倒したのか。それを知るための作戦だ。
つまり、国木田は勝負そのものだけを見ていない。その向こう側にある何かを見ようとしている。今日の朝まで、こいつは本当にこんなことを考える奴だったか。
……いや。考えるのはよそう。今は、頼りになるならそれでいい。
「よし!」
突然、ハルヒが立ち上がった。
「最初の5分で全部暴いてやるわ!」
「……それは予定にないかな」
国木田が苦笑いを浮かべる。
「何でよ!」
「観察するだけでいいんだ」
「観察してたら5分なんてすぐ終わるでしょ!」
それはその通りだ。だが、俺には分かる。予定にないことをするのが涼宮ハルヒという存在だ。
そして、おそらく。今日ここまで俺たちの周囲で起きてきた、予定にない出来事のほとんども――その例外ではない。
国木田がホワイトボードの最後の一行に線を引いた、そのときだった。体育館のスピーカーから、やたらとよく通る声が響いた。
『試合開始5分前となりました。両チームの代表者一名は、ステージ前の審判団までメンバー票を提出してください』
俺は体育館に掛けられた時計を見た。あと5分。たった5分で、俺たちは生徒会と試合をするらしい。
何だそれ。どうにも実感が湧かない。
「当然、あたしが行くに決まってるでしょう!」
待ってましたとばかりに、ハルヒが勢いよく立ち上がった。
「待て」
俺は反射的にその肩を掴んだ。
「何よ」
「お前は座ってろ」
「なんでよ!」
「なんでって……」
理由を説明しなければならないのか。俺は周囲をちらりと見てから、少し声を落とした。
「お前だと、また会長に因縁をふっかけかねん」
「ふっかけないわよ!」
「前科がある」
「一回だけじゃない!」
「認めるのかよ」
一回でも自覚があるのか。
「それに、一回きりじゃない」
ハルヒは俺を睨んだ。
しかし、その程度でこちらがひるむようなら、今日この日まで〝その他雑用平団員〟など務まっていない。
俺は国木田の手に収まっていたメンバー票を、ほとんどひったくるように手に取った。
「俺が行く」
「キョン!」
ハルヒが俺の背に向かって叫ぶ。
「何だ」
「絶対、勝手に変なことしないでよ!」
「それはこっちの台詞だ」
俺はそう言い残し、ベンチを離れた。首と両膝にはアイシング器材。自分でも何とも間抜けな格好だと思う。せめて外してから行けばよかった。
すると、
「頑張れよー、文芸部! じゃなかった、SOS団!」
背後から声が飛んできた。
「暑さに負けないでー! あと一試合だよー!」
「勝って明日に進もう!」
「野球部に勝ったのがマグレじゃないって証明してくれ!」
……何だ?
俺は一瞬、足を止めそうになった。応援されている。俺たちが?よりによって?
今まで、我々の活動をまともに理解している人間が何人いるのかすら怪しかったSOS団が。いや、実際にはろくな活動など一切してこなかった暇人たちの集まりが大勢の人間から声援を受けている。
どういう風の吹き回しだ。背後では、ハルヒが何やら嬉しそうな声を上げている。聞こえなかったことにした。俺は何も聞いていない。
そもそも、こんな格好で応援されるのは非常に困る。
ステージ前には、すでに審判団が待機していた。おそらくサッカー部の下級生たちだ。
……本当に下級生か?
妙に姿勢がいい。腕を組んでいるだけで威圧感がある。俺が1年のときにこんな連中がいた記憶はない。まあいい。
今日は朝から、記憶にないものばかり増えている。そして向こう側からも、一人の人影が歩いてきた。
青いビブス。生徒会側の代表者らしい。俺は少しだけ身構えた。てっきり会長本人が来るものだと思っていた。だが。
「……」
違った。喜緑さんだった。
「こんにちは」
喜緑さんは微笑みながら、俺に挨拶する。
「ああ、どうも」
それだけだった。我ながら、もう少し気の利いた挨拶はなかったのかと思う。
しかし、喜緑さんを前にすると、どうにも余計なことを言いたくなくなる。
俺はメンバー票を審判へ渡した。喜緑さんも同じように、生徒会側の紙を差し出す。
それで終わり。……のはずだった。
ふと、視線が交差した。喜緑さんが俺を見ている。何を考えているのか、まったく分からない。
いや、別に俺だって、何か考えているわけではない。何もないなら、何もないでいい。ここで二人して黙っていても仕方がない。
「……じゃあ」
俺は適当に口を開いた。
「ええと。お互い、正々堂々と」
「ええ」
それで終わった。今度こそ終わりだ。俺は踵を返した。
そのとき喜緑さんの視線が、俺の肩越しに移った。その先にいるのは――長門だった。
「……」
喜緑さんが長門を見る。長門も喜緑さんを見る。
体育館は相変わらず騒がしい。
観客は叫び、誰かが笑い、どこかではホイッスルまで鳴っている。
なのにその二人の周囲だけ、妙に静かだった。
「……」
何秒経ったのか分からない。長門は何も言わない。表情も変わらない。喜緑さんも、ただ長門を見ている。
……何なんだ。知り合いか?
いや、知り合いなのは知っている。そういう意味じゃない。何かあるのか。何もないのか。どっちだ?
聞こうかとも思った。だが、長門に聞いたところで、「何も」と答えるだけだろう。そういう奴だ。
俺はベンチへ戻った。そして、一応呼んでみた。
「長門」
「……なに」
「……いや、何でもない」
案の定だった。
その瞬間体育館に流れ続けていたBGMの音量が、ゆっくりと下がっていった。
さっきまで観客の気分を無駄に煽っていた音楽が、いつの間にか遠ざかっていく。
そして次の瞬間、聞き覚えのある、やたらと壮大な旋律が体育館を支配した。
海賊がどうとか、カリブ海がどうとかいう、あの映画のテーマ曲である。
なぜ今それを流す。
『さああああああああっ!!』
「うおっ!」
突然、実況の声が体育館全体に響き渡った。
俺は思わず肩を跳ね上げた。心臓に悪い。
『いよいよです!! 皆さん、準備はできていますか!?』
観客席から歓声が上がる。
それまでのざわめきとは明らかに違う。歓声。拍手。足を踏み鳴らす音。映画音楽。
それらが全部混ざり合って、ただでさえ暑い体育館の温度をさらに上げているようだった。
巨大なサウナ。いや、興奮のるつぼ。好きな方を選べ。しかし、一つだけ聞いていいか。いったい何の準備だ、これは?
『お待たせいたしましたーー』
実況が、わざわざ間を置く。観客が息を呑む。
なぜ息を合わせられるんだ。
『両チームのスターティングメンバーを紹介していきましょう!!』
……。
俺は呆然とステージを見た。まさか今までのは、前座だったのか。
まったく俺はただ、いつも通りの学校生活を送っていただけのはずだ。それがどういうわけか、コンピ研もといデジコン研と試合をすることになり、野球部と試合をすることになり、挙げ句の果てにはこんな大観衆の前で生徒会とフットサルをする羽目になっている。
朝の俺に教えてやりたい。お前が今日一日を無事に終えたいと思っているなら、今すぐ布団に潜り込め、と。まあ、今さら言っても遅いが。
どうやら俺たちは、本当に引き返せないところまで来てしまったらしい。
なら、もういい。ここまで来たんだ。最後まで付き合ってやる。涼宮ハルヒと。古泉や長門や、谷口や国木田たちと。そして、このわけの分からない一日と。
……もっとも。その時の俺は、まだ知らなかった。
これから始まる試合が、俺たちの考えていたような単純な勝負ではないことを。
そして、俺たちが相手を観察するよりもずっと前から――あの生徒会長が、俺たちを観察していたことを。