俺は目を閉じた。
頼む。頼むから、もうやめてくれ。今日はもう十分だ。いや、十分どころではない。朝から現在に至るまで、俺の人生で必要になるとは思えない経験を、通常なら数年かけて摂取する分くらいまとめて体験している気がする。
海賊映画のテーマ曲。Queen。選手紹介。意味不明なPV。スポットライト。そして、なぜか俺たちの過去を完全に把握している何者かの映像編集技術。
次は一体、なんだ。そう思った。
“♪心すれ違う 悲しい生き様に ため息漏らしていた――”
「……」
誰かが、歌っていた。最初は一人だった。
観客席のどこか。マイクを通したわけでもない。別に聞かせるつもりで歌っているようにも聞こえない。ただ、隣にいる誰かに聞かせるような、そんな歌声だった。
けれどすぐ隣から、もう一人の声が重なった。そして、また一人。
“♪だけど この目に映る この街で僕はずっと――”
気がつけば、体育館のあちこちから同じ歌が聞こえていた。
……何なんだよ。
俺はゆっくりと顔を上げた。観客席を見る。そこにいるのは、知らない生徒ばかりだった。
野球部の連中。デジコン研の連中。それ以外にも、今日一日、何度か俺たちの試合で見かけたような顔がある。名前は知らない。話したこともない。
それでも、隣にいる奴の肩に腕を回していた。
“♪人を傷つけることに目を伏せるけど――”
誰かが歌う。その声に、また誰かが重なる。
“♪優しさを口にすれば 人は皆傷ついていく――”
さっきまで「ヨーホー!」だの「会長ぉぉぉ!」だの叫んでいた連中まで、今度は妙に真剣な顔をして歌っている。
情緒の振れ幅はどうなっているんだ。いや、そんなことはもうどうでもいいのかもしれない。
いつの間にか、ハルヒがベンチから離れていた。
コートとベンチの境目。そこまで歩いて行くと、一度だけ立ち止まる。そして、ゆっくりと振り返った。
「……どうした?」
俺が言っても、ハルヒは答えなかった。ただ、観客席を見ていた。
いつものように、何か面白いことを思いついた顔ではない。勝ち誇ったような顔でもなかった。
ただ少しだけ、笑っていた。
「キョン」
「何だ」
「あんたも来なさい」
「嫌だ」
反射的に答えた。だが、ハルヒは当然のように俺の返事を無視した。
「ほら」
「だから嫌だって言ってるだろ」
「いいから」
そう言って、俺の左肩に腕を回してくる。……この女は、本当に人の話を聞かない。
そのまま、ハルヒが歌い始めた。別に上手いとも下手とも言わない。ただ、その声が聞こえた。それだけだった。
けれど、すぐ近くから誰かが合わせた。また一人。そして、いつの間にか体育館中が歌っていた。
「……すげぇ」
谷口が小さく呟いた。俺も、何も言えなかった。国木田はメモ帳を手にしたまま、観客席を見ている。古泉は笑っていた。いや、正確にはいつもの笑い方とは少し違っていた。朝比奈さんは、少し離れたところで目元を押さえている。鶴屋さんは、その隣で笑っていた。
そして長門は。何も言わず、体育館中に広がっていく歌声を聞いていた。
ハルヒが、古泉を見る。
「古泉君」
「はい」
「来なさい」
「喜んで」
……返事が早い。
古泉がこちらへ来ると、ハルヒがその肩にも腕を回した。谷口が続く。
「お、おい。何だよこれ」
「谷口」
「分かったよ!」
まだ何も言われていない。国木田も来た。朝比奈さんが、その隣へ。
「わ、わたしもですかぁ?」
「もちろんっさー!」
鶴屋さんが笑いながら、朝比奈さんの肩に腕を回した。気がつけば俺たちは、いつものように集まっていた。
……いつものように、というのも妙な話だ。
普通、友人同士が集まるときに、全員で肩を組んで歌い始めることなどない。
少なくとも、俺の人生ではなかった。そして俺はもう、何が起こるのか分かっていた。
だから逃げようとした。ほんの少しだけ。
誰にも気づかれないように、一歩後ろへ下がろうとする。
その瞬間だった。右腕を、誰かに掴まれた。
「……」
俺は横を見る。長門だった。
「長門」
「……」
「離せ」
長門は離さなかった。
「お前まで何なんだよ」
「……」
答えない。ただ、俺の腕を掴んでいる。その視線だけで、何となく分かった。分かってしまった。
「……お前も、やりたいのか」
「……」
長門は、ほんの少しだけ首を横に振った。違うらしい。
「じゃあ何だよ」
「……」
また答えない。おい。それでは会話が成立しない。俺は周囲を見回した。
ハルヒ。古泉。谷口。国木田。朝比奈さん。鶴屋さん。全員、もう肩を組んでいる。
長門だけが、少し外側にいた。俺の腕を掴んだまま。
……なるほど。そういうことか。
「一回だけだぞ」
長門は、何も言わなかった。俺は右腕を動かす。
長門の肩に腕を回した。長門もほんの少しだけ俺のほうへ近づいた。
そして俺たちは歌い始めた。八人の声が、体育館中の歌声に重なっていく。
いや、正確には7人だ。長門は歌っていない。俺の右肩に腕を置いたまま、真っ直ぐ前を見つめている。
誰が先導したわけでもない。指揮者がいるわけでもない。
それでも、不思議なくらい、声は一つになっていた。
〝♪僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる〟
ーー尾崎豊『僕が僕であるために』
俺は歌いながら、ふと思った。
今日まで俺たちは何をしてきたんだろうな。最初は、ただの学校行事だった。ハルヒが勝手に出ると言い出した。谷口が巻き込まれた。国木田が作戦を考えた。古泉が、いつの間にか本気になった。朝比奈さんと鶴屋さんが世話を焼いた。長門は、ずっとベンチにいた。
そして俺はその全部に付き合わされた。ただ、それだけの話だった。……はずだ。
なのに。いつの間にか、こんなにたくさんの人間が俺たちを見ている。俺たちの名前を知っている。俺たちの試合を覚えている。さっきまで敵だった連中まで。今は、同じ歌を歌っている。
俺は、隣を見る。長門。ハルヒ。古泉。谷口。国木田。朝比奈さん。鶴屋さん。
いつもの連中だ。……何も変わっていない。
いや最初から、変わってなんかいなかったのかもしれない。
変わったのは、俺たちじゃない。俺たちを取り巻いていた景色のほうだ。
体育館を見る。そこには、数え切れないほどの生徒がいた。知らない顔ばかりだった。
それでも今だけはまるで、この瞬間を忘れないようにしているように見えた。
この大会のことをこの、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい一日のことを。
笑って。叫んで。走って。負けて。勝って。そしてここまで来たことを。ーー忘れないために。
歌声が、最後の余韻を残して消えていった。
しばらく誰も動かなかった。俺も動けなかった。
するとハルヒが、こちらを振り返った。
「キョン」
「何だ」
「勝つわよ」
それだけだった。俺は少し笑った。
「……言われなくても分かってる」
「そう」
ハルヒは満足そうに頷く。そして一度、体育館全体を見渡した。
俺たち。生徒会。観客席。全部を。
その顔に、いつもの笑顔が戻る。
「……あと」
「まだ何かあるのか」
「まだ終わらせないわよ」
俺は眉をひそめた。
「何をだ」
ハルヒは、当たり前のように言った。
「青春を」
「……」
「まだ、終わってないんだから」
その瞬間、俺は嫌な予感がした。いや。今までの嫌な予感とは、少し違う。もっと、どうしようもなく。この先もずっと続いていくような。そんな予感だった。
ハルヒがコートのほうを向く。
「行くわよ」
ハルヒは、コートの中央で立ち止まった。
俺たちはその少し後ろにいる。審判団は笛を持っている。生徒会の連中も、すでに反対側のコートへ出てきていた。あとは、笛が鳴るだけだ。
本当に。今度こそ。……そう思っていた。
ハルヒが、ふいに歌い始めるまでは。
“♪俺たちの時代を忘れないで 風に吹かれていたあの頃を”
「……」
俺は立ち止まった。何をしているんだ、こいつは。
伴奏なんかない。誰かがマイクを渡したわけでもない。ただ、ハルヒが一人で歌っていた。
“♪俺たちの時代を忘れないで 風に吹かれていたあの頃を”
このワンフレーズしか歌わない。このワンフレーズを延々と繰り返し歌っている。誰の、何ていう曲何だ?
さっきまで尾崎を歌っていたのだから、今さら何を歌い出そうが驚くべきではないのかもしれない。
しかし、なぜこの曲なんだ。俺はハルヒを見る。ハルヒは観客席を見ていなかった。俺たちも見ていない。ただ、真っ直ぐ前を向いて歌っていた。その声だけが、体育館に響いている。
さっきまで大騒ぎだった観客席が、いつの間にか静かになっていた。誰も歌わない。誰も叫ばない。誰かが「ヨーホー!」などと言い出すこともない。体育館中の人間が、ただハルヒを見ていた。
……おい。試合はどうした。
俺はそう言おうとした。しかし、その瞬間。自分の口から、小さく歌声が漏れた。
“♪俺たちの時代を忘れないで…”
「……?」
俺は口を閉じた。今、俺、歌ったか?いや、間違いなく歌った。
ハルヒの歌を聞いていたら、言葉が勝手に頭の中に浮かんできた。そして気がつけば、口が動いていた。
「……何で知ってるんだ、俺」
誰に言うでもなく呟く。答える者はいない。当然だ。俺自身が知らないんだからな。
ハルヒが、ほんの少しだけこちらを見た。笑った。
何だよ。お前、最初から俺が歌うと思ってたのか。
「……勝手に歌うなよ」
俺はそう言った。しかし次の瞬間、俺は歌っていた。
ハルヒの歌に合わせる。最初は小さな声だった。けれど、ハルヒの声と俺の声だけが、静まり返った体育館に響いている。
何だ、この状況。さっきまで散々、青春がどうとか終わらせないとか言っていた直後に今度は二人で知らない歌を歌っている。
普通なら、誰か止めるだろ。……誰も止めなかった。俺とハルヒの歌は続いていた。
そして、別の声が聞こえた。俺は横を見る。古泉だった。いつものように笑っている。
ただし、今は何も言わない。何も説明しない。そのまま、俺たちの歌に声を重ねていた。
「……お前まで歌うのかよ」
俺が言う。
「なかなか、悪くありませんから」
だから何がだ。歌えと言っているのか、喋れと言っているのか、どちらかにしろ。
「……おい」
谷口が、俺を見た。
「何だ」
「もういいだろ」
「何がだ」
「ここまで来たらよ」
谷口は、妙に恥ずかしそうな顔をしていた。
「……もう、どうでもいいだろ」
そう言って、俺の肩に腕を回してきた。
「おい」
「黙ってろ」
「何でだよ」
「うるせぇ」
反対側から、国木田が近づいてくる。
「国木田?」
「……僕も、いいかな」
「何がだ」
俺が聞くより早く。国木田は谷口の肩に腕を回した。そして
三人で歌い始めた。いや、歌う、というより。叫んでいた。
肩を組んで。声を張り上げて。もう歌が上手いとか下手とか、そんなことはどうでもよかった。
“♪俺たちの時代を忘れないで 風に吹かれていたあの頃を 俺たちの時代を忘れないで……”
「お前ら……」
俺は一瞬、呆れた。そのくせ気がつけば俺も叫んでいた。
何なんだよ、これ。
俺たちは何をしている。これから準々決勝だぞ。相手は生徒会だ。
勝たなきゃならない。
なのに俺は、谷口と国木田に肩を挟まれて、体育館の中央で知らない歌の同じ歌詞の部分を叫んでいる。
……。
もういい。知るか。ここまで来たら、どうにでもなれ。俺は、もう一度声を張り上げた。
ハルヒが笑った。古泉が歌っている。いつの間にか、俺たちの周りに声が集まっていた。
「……」
俺は、ふと反対側を見た。生徒会の連中がいた。門戸。常盤。青木。喜緑さん。そして、生徒会長。全員、俺たちを見ている。
……まさか。いや……。
今日という一日を振り返れば、もはや何が起きても驚くべきではない。しかし、門戸が歌い始めた。
「……おい」
俺は目を見開いた。常盤が続く。喜緑さんも。そして生徒会長が、小さく口を開いた。その声が、聞こえた。
「お前らまで歌うのかよ」
思わず、そう呟いた。返事はなかった。生徒会の連中は、ただ歌っていた。
俺たちの対戦相手が、れから勝負をする相手が、同じ歌を。同じように歌っていた。
何だよ。さっきまで尾崎で感傷的になっていたと思ったら、今度はこれか。お前ら、本当に俺たちと試合する気あるのか。
……まあ。
俺たちも人のことは言えない。そのときだった。誰かが、観客席から叫んだ。いや、叫び声じゃない。歌声だった。一人ではない。もう、すでに何人もの声が聞こえていた。
俺たちが歌っている。生徒会も歌っている。その二つを聞いていた観客席がまるで、もう我慢できなくなったみたいに。一斉に歌い始めた。
「……」
体育館が、揺れた。今度は比喩じゃないかもしれない。さっきまで静まり返っていた場所から、一気に声が上がる。
野球部。デジコン研。今日戦った連中。今日戦わなかった連中。名前も知らない生徒たち。全員が歌っていた。誰が始めたのかもう、分からない。
いや、最初はハルヒだった。そこから俺が歌った。古泉が続いた。谷口と国木田が来た。生徒会が歌った。そして気がつけば体育館中が歌っていた。
何人かは、歌いながら泣いていた。
「……」
俺は、そちらを見た。なぜ泣いているんだ。分からない。たぶん、本人にも分かっていない
朝からずっと。意味の分からないことばかり起きて。海賊映画のテーマ曲が流れて。Queenが流れて。選手紹介をされて。尾崎を歌って。青春は終わらないとか言われて。そして今、全校生徒がなぜかこの曲のワンフレーズを繰り返し歌っている。
“♪俺たちの時代を忘れないで 風に吹かれていたあの頃を”
ーーTHE ALFEE『ROCKDOM -風に吹かれて-』
泣く理由なんて、どこにもない。なのに泣いている。……いや、だから泣いているのかもしれない。俺は歌いながら、体育館を見渡した。
そのとき、
「……あれ?」
俺は、ふと気づいた。ステージの上。
さっきまで、なぜか設置された実況席しかなかった場所。
それしかないはずだった。
俺は、目を細めた。いつの間にやら、スクリーンがまた降りている。
……誰がやった。いつからこうなっていた。まったく気づかなかった。しかし、今はもうそんなことを考えている場合ではなかった。
巨大なスクリーン。そこに白い文字が浮かんでいた。たった一行だけ。
俺は、歌うのをやめた。谷口が何か言っている。国木田も。ハルヒも、こちらを見た。
だが、俺には聞こえなかった。体育館中の歌声の中でその文字だけが、なぜかはっきりと見えた。
WE ARE STILL HERE.
……。
俺たちはまだ、ここにいる。俺は、もう一度その言葉を見た。
俺たちはまだ、ここにいる。……そうか、まだ、ここにいるのか。
これから戦う生徒会の連中も。観客席で歌っている連中も。みんな、まだここにいる。
……そうか。
俺は、ようやく分かった気がした。いや、分かった、というほど立派なものじゃない。ただ、胸の奥にあった何かがようやく言葉になりそうな気がした。
俺は、もう一度仲間たちを見た。そして、コートの中央にあるボールを見た。
まだ、ここにいる。だったら、まだ終わりじゃない。
「……」
俺は小さく息を吐いた。もういい。本当に、もういい。これ以上何が起きようが知ったことか。俺たちは、まだここにいる。だったら――
「……やるか」
俺は、コートの中央まで歩いた。
さっきまで歌っていた連中も、まだ誰一人として動こうとしない。向こう側では、生徒会の連中もこちらを見ている。
審判は笛を手にしている。ボールも審判の手の中にある。あとは、試合を始めればいい。実に簡単な話だった。なのに。
俺は一度だけ、深く息を吸った。
「……おまえら」
ハルヒが振り返る。
「集まれ」
「……え?」
ハルヒが目を丸くした。
「ちょっと待ちなさいよ」
谷口も怪訝そうな顔をする。
「おい、キョン」
「何だ」
「お前がやるのかよ」
「何がだ」
「いや、何がって……」
谷口は俺と周囲を交互に見た。
「これ、円陣だろ?」
「そうだ」
「お前が?」
「俺が」
「……マジかよ」
国木田まで、珍しいものを見るような顔をしている。
「キョンがこういうこと言うの、珍しいね」
「俺だって、たまには言うさ」
「いや、そういう問題じゃないと思うけど」
もっともな意見だった。
古泉はというと、いつものような笑顔を浮かべている。
「なるほど」
「何がなるほどだ」
「いえ。あなたが自分から、こういうことを言い出すとは思っていなかったので」
「俺だって、いつまでも付き合わされてるだけじゃないんだよ」
「これは失礼しました」
その言い方が妙に腹立たしい。ハルヒは腕を組んだまま、俺を見る。
「……なんか調子狂うわね」
「お前まで何なんだよ」
「だって、いつも文句ばっかり言ってるじゃない」
「それとこれとは話が別だ」
「ふーん」
ハルヒは少しだけ笑った。
「まあ、いいわ。みんな、行くわよ」
「いや、俺が呼んだんだが」
「細かいこと気にしない!」
……やっぱりこいつはこいつだった。
俺はベンチのほうへ振り返った。そこには長門と朝比奈さんと鶴屋さんがいる。
「長門」
「……」
長門が顔を上げる。
「朝比奈さん」
「は、はいっ」
「鶴屋さんも」
「おっ?」
3人がこちらを見る。
「こっち来てください」
「え、わたしたちもですか?」
「当たり前でしょう」
「でも、試合に出るのは……」
「関係ありません」
自分でも驚くくらい、きっぱりと言葉が出た。
「俺たちだけでやるわけじゃありませんから」
朝比奈さんが、少し目を見開いた。鶴屋さんは一瞬ぽかんとしたあと、いつもの笑顔になる。
「……キョン君さ」
「何ですか」
「なんか今日、ちょっと男前じゃない?」
「やめてください」
「照れてる?」
「照れてません」
「顔赤いよ?」
「体育館が暑いだけです」
「ふふっ」
この人まで何なんだ。
長門は何も言わずに立ち上がった。朝比奈さんも慌ててベンチを離れる。鶴屋さんが、その後ろからついてくる。
やがて、8人がコート中央に集まった。ハルヒ。古泉。谷口。国木田。長門。朝比奈さん。鶴屋さん。そして俺。いつの間にか、一つの円ができていた。全員が俺を見る。
「……何だよ」
谷口が言う。
「いや」
「何だ」
「本当にお前がやるんだな」
「だから何がだよ」
「円陣だよ」
「……そうだよ」
俺は少しだけ顔をしかめた。
「悪いか」
「悪くはねぇけどよ……」
谷口は苦笑する。
「なんか、お前が言うと妙に本気っぽくて怖ぇんだよ」
「失礼な奴だな」
国木田も笑っていた。
「でも、僕も少し意外だった」
「お前まで言うのか」
「だって、キョンってこういう役、一番嫌がるじゃない」
「……まあな」
俺は苦笑した。
「俺も、そう思ってたよ」
ハルヒが俺を見る。
「じゃあ、どうして?」
「……さあな」
本当に分からなかった。ただ、さっきスクリーンに浮かんでいた文字が、頭から離れない。
WE ARE STILL HERE.
たったそれだけだ。それだけなのに、どうにも引っかかっていた。
「……とにかく」
俺は一歩、円の中央へ出た。
「始めようぜ」
全員が静かに近づいてくる。ハルヒが小さく笑った。
「……なんか、変な感じね」
「何がだ」
「キョンが仕切ってる」
「うるさい」
「でも――」
ハルヒが手を差し出した。
「嫌いじゃないわよ。こういうの」
俺は、その手を見た。ほんの一瞬だけ迷ってから、自分の手をその上に重ねる。
「……そうかよ」
続いて、古泉。谷口。国木田。朝比奈さん。鶴屋さん。そして長門。8人の手が重なった。円陣が完成する。
俺は顔を上げた。今度こそ、本当に始まる。
……たぶん。
「……なあ」
俺は口を開いた。
「俺たち、今日一日ずっと変なことばっかりやってきたよな」
谷口が笑う。
「今さらかよ」
「今さらだ」
俺も笑った。だが、それも長くは続かなかった。
「けどな」
全員の顔を見る。
「俺は、今日のことを一つも無駄だったとは思いたくない」
誰も何も言わない。
「怪我したことも。くだらないことで喧嘩したことも。作戦が失敗したことも。俺が散々文句を言ったことも」
「それは多すぎますね」
「うるさい、古泉」
小さな笑いが起きた。それでいい。これが俺たちだ。
「全部ひっくるめて、ここまで来たんだ」
俺は重ねていた手を一度解き、拳を握った。
「だから、もう一度だけ言う」
息を吸う。
「俺たちは、ここにいる」
WE ARE STILL HERE.
あの文字が、また頭に浮かんだ。
「だったら、最後まで立ってようぜ」
声が少し震えた。別に怖いわけじゃない。たぶん。
「この先で何が起きるかなんて、俺には分からない」
ハルヒを見る。
「こいつがまた何を始めるかも分からない」
「ちょっと!」
ハルヒが抗議した。
「でもな」
俺は笑った。
「それでいいんだと思う」
俺は一人ずつの顔を見た。
「だって俺たちは、最初から何が起きるかなんて分からないまま、ここまで来たんだからな」
誰も口を挟まない。だから俺は、そのまま続けた。
「今日一日を、今日だけで終わらせるな」
「この瞬間を、ただの大会の一試合にするな」
「勝っても負けても、あとで思い出せるくらい、滅茶苦茶な一日にしようぜ」
谷口が笑った。国木田が頷く。古泉の顔から、いつもの余裕が少しだけ消えた。長門は何も言わない。ただ、俺を見ている。
俺は、最後に全員を見渡した。
「俺は――」
言葉が一瞬、喉につかえた。まあいい。今さら格好なんかつける必要もない。
「俺は、この8人でここまで来たことを、絶対に後悔したくない」
拳を中央へ突き出す。
「だから勝つ」
ハルヒが拳を重ねた。
「勝つわよ!」
古泉。
「ええ」
谷口。
「当たり前だ!」
国木田。
「もちろん」
朝比奈さん。
「はいっ!」
鶴屋さん。
「あったりまえっさ!」
最後に、長門が拳を重ねた。俺は叫んだ。
「行くぞ、SOS団!」
ハルヒも叫ぶ。
「私たちこそが最強よ!」
「おおおおおおおッ!」
7人の声が、体育館いっぱいに響き渡った。長門、言葉を発することはなくともお前の気持ち、しっかりと伝わってるぜ。
……。……。……あれ?
誰も動かない。俺たちは、そのまま円陣を組んでいた。全員、妙に真剣な顔をしている。さっきまで歌っていた観客席も、いつの間にか静まり返っていた。俺はゆっくりと手を下ろす。
さて、ここから何をすればいいんだったか。そのときだった。
「……SOS団」
背後から、やけに冷静な声がした。俺たちは一斉に振り返った。
審判だった。笛を首から下げたまま、ものすごく困った顔をしている。
「そろそろ試合始めていい?」
「……」
誰も答えない。
「もう10分くらい開始遅れてるんだけど」
「……」
体育館が静まり返った。俺は天井を見上げた。そうだった。試合をするんだった。
「……すみません」
「謝るくらいなら、早く位置について」
審判は淡々と言った。
ハルヒが俺を見る。
「キョン」
「何だ」
「行くわよ」
「さっきも聞いた気がするぞ、それ」
「いいから!」
ハルヒが俺の背中を押した。
「ほら、みんな!」
「はいはい」
古泉が笑いながら走っていく。
「よっしゃ!」
谷口も駆け出す。
「谷口、そこじゃない」
「分かってるって!」
国木田が呼び止める。
「お前こそ、どこへ行くつもりだよ!」
「こっちだよ!」
「だったら最初からそうしろ!」
……いつもの光景が戻ってきた。朝比奈さんはベンチへ戻りながら、こちらへ小さく手を振った。
「キョンくん、頑張ってくださーい!」
「ありがとうございます!」
鶴屋さんも笑いながら拳を握る。
「行ってこーい!」
そして長門。俺と目が合った。何も言わない。ただ、小さく頷く。俺も頷き返した。
「……よし」
俺はセンターサークルへ入った。反対側では、生徒会の連中もそれぞれのポジションについている。さっきまで肩を組んで歌っていた連中とは思えない。今は、全員が試合をする顔になっていた。
ハルヒが俺の横を通り過ぎる。
「キョン」
「何だよ」
「絶対勝つわよ」
「分かってる」
「……今度こそね」
「ああ」
俺はコート中央を見る。審判がボールを抱えて歩いてくる。観客席がざわめき始めた。
さっきまで歌声に包まれていた体育館が、今度は試合を待つ空気へと変わっていく。
俺は一度だけ、後ろを振り返った。ベンチに長門がいる。朝比奈さんがいる。鶴屋さんがいる。観客席には、俺たちを見ている連中がいる。
そして向こう側には、生徒会。
……そうだ。ここまで来たんだ。だったら――
「始めようぜ」
誰に言うでもなく、呟いた。審判がボールを中央へ置く。笛を口元へ。体育館が静まり返った。
一瞬。ほんの一瞬だけ、時間が止まったように感じた。そして――
ピーーーーーッ!
鋭い笛の音が、体育館いっぱいに響き渡った。ボールが蹴られる。ついに、俺たちと生徒会の準々決勝が始まった。
ここまで、長かった。本当に、長かった。
……いや。まだだ。まだ、始まったばかりだ。