前半、3分。スコアボードは、依然として0対0のままだった。
だが、そんな数字はもう何の意味もなさない気がした。ボールは古泉の足元にある。それでも、俺の目は自然と対岸の会長を追っていた。
試合が再開された。ハルヒが飛び込む。門戸がかわす。古泉が寄せる。今度は常盤が、そこに入った。
「……!」
ボールが、また向こうへ逃げていく。常盤が青木へ戻した。青木は、ボールを受けるなり顔を上げる。その先を、門戸が走っていた。青木が蹴る。白いボールが、コートの上を斜めに横切った。
俺は追った。門戸も追った。そして――ボールは、寸分違わず門戸の足元へ落ちた。
何気ない一本のパスだ。少なくとも、傍から見れば。
だが、俺はその瞬間を見逃さなかった。門戸の足元に転がってきたボールは、いつものように、少し弾んでから止まった。技術としては、驚くようなものじゃない。なのに、次の動きが、これまでとまるで違った。
門戸はボールを止めると同時に、振り向きもせず常盤へパスを出す。まるで、常盤がそこにいることを最初から分かっていたかのような、迷いのない一本だった。常盤もまた、当然のようにそれを受け取り、間を置かずに次のパスコースへと繋げる。
「……なんだよ、それ」
思わず声が漏れた。門戸は俺の呟きになど気づかず、そのまま試合を進めていく。俺は違和感の正体を掴もうとした。何が変わった。技術そのものは、さっきまでと大差ない。門戸のトラップは相変わらず泥臭いし、常盤の身のこなしも人間離れしたものじゃない。
変わったのは、動きの「間」だった。
迷いがない。門戸が動くタイミングに、常盤の判断が一切遅れない。まるで、次に何をすべきかを、すでに二人でとっくに決めてしまっているかのような正確さだった。
俺は視線を対岸の会長へと向けた。あの男は、まだ自陣の深い位置に立ったままだ。だが、その視線は明らかに、門戸と常盤の一挙手一投足を追っている。
――あいつが、何か指示を出してやがるのか。
言葉は聞こえない。だが、門戸と常盤の動きの端々に、会長の意志のようなものが染み込んでいる気がしてならなかった。
そして、技術を教え込んだわけじゃない。なのに、二人が次に何をすべきか、その答えだけは、最初から知っているように動いている。まるで、あの男の頭脳が、コート全体に回線を伸ばしているみたいに。
ハルヒがボールを奪いにいく。門戸の足には触れられない。古泉が横から絡む。それでも、常盤がスッと間に入って抜けさせない。俺が的確なパスコースを読んでカットに入っても、その先には必ず門戸か常盤がいる。ーーそして、そのボールは、最後には必ず会長へと戻っていく。
まるで、川の水が高いところから低いところへ流れるように、自然に、当たり前のように。俺たちがどれだけ奪おうとしても、ボールは最終的にあの男の足元へと吸い込まれていくのだ。
「なんでそんな芸当ができるんだ!?」
俺は思わず、身体を密着させてくる会長へ叫んでいた。会長は、こちらを一瞥する。
「お前は、なんで補助輪なしでチャリに乗れるのか、説明できるか?」
俺は言葉に詰まった。
「それと、同じだ」
それだけ言うと、会長は俺の目の前でボールを受け取った。俺は反射的に足を出す。だが、ボールはすでにそこにない。会長の身体が、ほんの数センチだけ横へ流れる。それだけで、俺の伸ばした足は虚しく空を切っていた。
「……くそっ」
俺は体勢を立て直そうとする。だが、その時にはもう、会長は完全に俺の脇を通り抜けていた。
「それと、こんなのは序の口だ」
会長は振り向きもせず、静かに言った。
「お前を封じる策ですらない」
俺は、その背中を見送ることしかできなかった。
生徒会のボール回しが始まる。門戸、常盤を経由し、再び会長への浮いたパス。それは、これまで何度も見てきたはずの、ただのトラップだった。なのに、俺はその瞬間、目を離せなくなった。
浮いたボールが、会長の足元へと落ちてくる。普通なら、衝撃を殺すために、足を少し引く。少しでもタイミングがずれれば、ボールは大きく弾んで、次のプレーへの準備が遅れる。
だが、会長の足は、動かなかった。いや、正確には違う。動いているのに、動いていないように見える。ボールが触れる瞬間、足首から先だけが、まるで別の生き物のように、ほんの数ミリ単位で沈み込む。衝撃を吸い取る、というより、衝撃そのものを最初からなかったことにしているような、そんな滑らかさだった。
ボールは、まるで最初からそこに置かれていたかのように、ぴたりと止まる。次の瞬間には、もう会長の身体は次の動作に移っている。受ける、止める、運ぶ。本来なら三つに分かれているはずの動作が、一つの流れるような所作として完成していた。
「……気持ち悪いくらい、綺麗ですね」
隣で見ていた古泉が、珍しく本音を漏らした。いつもの余裕のある声じゃない。純粋な、技術への戦慄が滲んでいた。
「お前でも真似できないのかよ」
「僕にも、多少の心得はあるつもりですが」
古泉は、自分の足元を一瞥した。
「あれは、心得や練習の量で片付く話じゃありませんね。トラップという行為そのものの定義が、あの人だけ違う気がします」
「何だよ、それ」
「普通は、ボールを止める。あの人は――ボールに、次にどこへ行くべきかを教えている」
古泉の言葉に、俺は返す言葉を失った。
「ちょっと、二人して感心してないで!!」
ハルヒが苛立たしげに声を上げる。
「あんなの、大したことないわよ! 次奪えばいいだけでしょ!」
「涼宮さん、その意気やよし、ですが」
「うるさいわね、分かってるわよそんなこと!」
ハルヒはそう言い捨てると、また会長へと突っ込んでいった。だが、その先には、いつの間にか門戸が立ち塞がっている。
「くっ……!」
ハルヒが舌打ちする。俺は、そんなあいつの背中を見ながら、思わず呟いていた。
「あいつ一人で、コート全体の速度を変えてやがる」
「え?」
「あいつがボールを持ってる時だけ、時間の流れが違う。ゆっくり見えるのに、実際は誰よりも速い」
「……キョン、それ、ちょっと格好つけすぎじゃない?」
いつの間にか近くにいたハルヒが、呆れたような顔で俺を見た。
「うるさい、思ったことを言っただけだ」
「まあ、言いたいことは分かるけどね」
ハルヒは、悔しそうにコートの中央を睨みつける。
「あんな奴に、私たちが敵わないわけないでしょ」
「その根拠のない自信だけは、変わらないんだな、お前」
「根拠ならあるわよ。私たちがここまで来たのが、その証拠じゃない」
ハルヒの声には、いつもの傲慢さと同じくらいの、確かな熱があった。俺は、それに何も言い返さなかった。
一方、ベンチでは、鶴屋さんが腕を組んだまま、コートを見つめていた。
「……にゃー、これはちょっと厳しいっさね」
「え、そんなに、ですかぁ?」
朝比奈さんが、不安そうに鶴屋さんを見上げる。
「うん。さっきまでは、SOS団のみんなが自分たちのペースでボール回してたっさ。でも今は違う」
鶴屋さんは、コートの上を指でなぞるように示した。
「見て、みくる。谷口くんも古泉くんも、みんな自分の陣地に戻ってばっかりっさ。攻めるとか、そういうの、もう頭にないっさよ」
「……」
「ボール持ってても、まず取られないようにって顔してる。あれ、押されてる時の顔っさね」
朝比奈さんは、その言葉に何も返せなかった。ただ、心配そうにコートを見つめている。
「でもね、みくる」
鶴屋さんは、少しだけ声のトーンを変えた。
「押されてるからって、負けてるわけじゃないっさ。キョンくんの顔、見てみ」
「え……?」
「あの子、こういう時こそ、ちゃんと目が死んでない。むしろ、面白がってるみたいな顔してるっさよ」
朝比奈さんが、俺の方をちらりと見た。俺自身は、そんな顔をしている自覚は、正直まったくなかった。
「みくるも、信じて応援するっさ!」
「は、はいっ!」
二人の声は、コートの喧騒にかき消されて、俺の耳にはほとんど届いていなかった。だが、なんとなく、その声の熱だけは伝わってくる気がした。
――前半、まだ4分。
俺は、自分の頭の中で警報が鳴り響いているのを感じた。国木田が立てた作戦を思い出す。最初の5分は、勝とうとしない。相手を観察する。だが、その作戦は、今この瞬間、完全に瓦解していた。
俺は、コート全体を見渡した。ハルヒが必死に守備に追われている。古泉も、攻めるどころか、自陣深くまで戻ってボールを追いかけている。谷口に至っては、すでに息が上がっていた。
――俺たち、4人全員が、攻守に走り回されてる。
誰も「観察」なんてしていなかった。ただ、相手のペースに飲み込まれ、ボールを取り返すことだけに必死になっている。それ以外の選択肢が、いつの間にか消えていた。
「戻って!! みんな、一度戻ってラインを整えて!!」
ゴール前から、国木田の切羽詰まった声が飛んでくる。だが、正直なところ、その指示に従う余裕なんて、もう誰にも残っていなかった。今この瞬間に誰かが守備の位置を離れれば、そのままゴールを割られる。誰もがそう理解していたからこそ、誰も動けなかった。
そして、その均衡を破ったのは、また会長だった。
常盤から出た、何気ない縦パス。それを受けたのは会長だ。だが、会長はボールを持たなかった。ワンタッチで、逆サイドの死角へと、綺麗に流す。
その先に、喜緑さんがいた。
「……っ!」
まるで最初からそこにいたかのように、気配なく現れる。会長からの通し切ったパスが、寸分の狂いもなく彼女の足元へと収まっていく。ゴール前には、誰もいなかった。
「させるかぁぁぁ!!」
中盤から猛然と走り戻ってきたのは、谷口だった。息を切らしながら、それでも足だけは止めていない。ぎりぎりのタイミングで滑り込み、シュートコースへ身体を投げ出す。
スライディング。
ドッ、という鈍い音とともに、谷口の足がボールに触れた。喜緑さんの狙っていた軌道が、わずかに逸れる。ボールはゴールポストの外側へと転がっていった。
体育館全体が、揺れるほどの歓声に包まれる。
「根性だけなら誰にも負けねぇんだよ!!」
床に倒れたまま、谷口が吠えた。
だが、その直後だった。谷口が身体を起こそうとして、顔をしかめる。膝から先、擦りむいた肌が、床の摩擦で赤く裂けていた。
「……谷口くん!?」
ベンチから、朝比奈さんが悲鳴のような声を上げる。審判が試合を一時中断させた。俺たちは慌てて谷口の元へと駆け寄る。
「大丈夫かよ、お前」
「んなもん、平気に決まってんだろ……」
言葉とは裏腹に、谷口の顔は完全に痛みで歪んでいた。国木田が肩を貸し、俺たちはベンチへと谷口を運ぶ。
――やれやれ。とはいえ、今のは正真正銘のファインプレーだ。あそこで谷口が戻っていなければ、間違いなく決められていた。
「谷口くん、消毒しますね……!」
ベンチで朝比奈さんが、震える手で救急箱を開ける。すぐ隣では、鶴屋さんが腕を組んで、コートを見つめていた。
「にゃはは、さすが谷口くん! でも、なんか変な感じっさね」
「変って、何がですかぁ?」
朝比奈さんが消毒液を谷口の膝に当てながら聞く。谷口が「うぎゃっ」と情けない声を上げるのを尻目に、鶴屋さんは真剣な顔でコートを指差した。
「あそこの門戸くんと常盤くんの動き。さっきまでとぜんぜん違うっさよ」
「そう、なんですか?」
「うん。前は、二人でわいわい喧嘩しながらやってたじゃん。でも今は、まるで一人が二人分動いてるみたいっさ。門戸くんが右に動いたら、考える前に常盤くんがもう左を埋めてる。あれ、普通に練習しただけじゃ絶対無理っさよ」
鶴屋さんの言葉に、朝比奈さんが不安そうな顔で振り返った。
「そんな……。じゃあ、あの人たち、どうやって……」
「さあ? でも」
鶴屋さんは、少しだけ笑った。
「あそこの会長さん、めがっさ何か持ってるっさね。ただの高校生って感じじゃないっさ」
その言葉を、俺はベンチの端で聞いていた。鶴屋さんの野生の勘は、こんな時でも侮れない。あの野球部戦の時と同じだ。俺たちがまだ気づいていない何かを、こいつは肌で感じ取っている。
「キョンくん」
治療を終えた朝比奈さんが、心配そうにこちらを見た。
「谷口くん、まだ動ける状態じゃ……」
言い終わる前に、当の谷口が包帯をぐるぐると自分の膝に巻きつけながら、勢いよく立ち上がっていた。
「おい、待て。お前、まだ――」
「うるせぇ!!」
谷口は俺の言葉を遮り、包帯を巻いた足で、軽く床を踏みしめる。痛みに顔をしかめながらも、その目にはまだ、燃えるような光が残っていた。
「1日2回もぶっ倒れてられっかよ!!」
その一言で、俺は何も言えなくなった。野球部戦で一度、こいつは限界を超えて涙を流した。あの時の悔しさを、こいつはまだ覚えている。だったら、俺が止める言葉なんて、最初から意味を持たない。
「……無理すんな」
俺はそれだけ言った。谷口は、ニヤリと笑って、コートへと駆け戻っていく。
審判の笛が、試合再開を告げた。
「さあ、みんな! ここからが正念場だよ!」
国木田がゴール前から声を張り上げる。俺は自分の頭を、無理やりにでも回転させた。今のままじゃ駄目だ。相手のペースに完全に飲まれている。何か、陣形を立て直す方法を――。
俺は素早く指示を飛ばした。谷口の負傷で一時的に空いた穴を埋めるため、俺自身がやや後方へ下がり、古泉に前線を託す。ハルヒには、無理に一人で仕掛けず、まず俺と古泉でボールを繋いでからという指示を出した。
その通りに、俺たちは動いた。だが。
「ポイントゲッターを、俺だと決めつけるなよ、古泉」
会長の声が、古泉の耳元で響いた。古泉が慌ててパスを出そうとした瞬間、その進路に会長自身が滑り込んでいた。だが、奪いには来ない。ただ、コースだけを塞ぐ。古泉は仕方なく、後方の常盤へとパスを戻すしかなかった。
「……っ」
俺は目を見開いた。あいつ、ポイントゲッターの役割を、あえて周りに分散させてやがる。誰か一人を潰せば済む話じゃない。誰が点を取ってもいいように、システムそのものを組み替えている。
ベンチの隅で、長門は文庫本を開いていた。試合が始まってから、ずっとそうだった。ページをめくる音すら聞こえないくらい、静かに、ただそこにいた。
だが、常盤がボールを受けたその瞬間、長門の指が止まった。
俺は気づかなかった。後になって、朝比奈さんがそっと教えてくれたことだ。長門は、本を閉じたのだという。音も立てずに。ただ、静かに表紙を合わせて、膝の上に置いた。
そして、顔を上げた。
いつもと変わらない、感情の色を映さない瞳。だが、その視線だけは、まっすぐにコートの中央――会長の背中へと向けられていた。
誰も、その視線の意味を聞かなかった。長門も、何も言わなかった。ただ、じっと、次に起きることを見届けようとしているみたいだった。
まるで、これから起きることを、もうすでに知っているかのように。
常盤がボールを受ける。会長が静かにそっと一言だけ告げる。
「言った通りにやってみろ」
その言葉に応えるように、常盤と門戸が動き出す。まるで二人で一つの生き物であるかのように、ワンタッチ、ワンタッチで、狭いスペースを縫うようにボールを運んでいく。俺たちの誰も、その連携に食らいつくことができなかった。
そして、ゴール前まで運ばれたボールが、門戸の足元へと収まる。
俺は身構えた。てっきり、力任せの強烈なシュートが来ると思っていた。だが、門戸が放ったのは、そんな予想とはまるで違う軌道だった。
ゴールポストのやや斜め上へ、ふわりと浮かせるような、頼りなさげな一撃。
「あんなの、枠外だろ……!」
誰かがそう呟いた。俺も、内心では同じことを思っていた。あんな軌道じゃ、絶対に入らない。
だが、対岸から、会長の声が聞こえた。
「〝魔物〟ってやつを、見せてやるよ」
その言葉と同時に、四隅の送風機が、また唸りを上げた。
俺は、はっとして風の流れを見た。だが、もう遅い。ふわりと浮いたボールは、体育館の中を巡る不規則な気流に、まるで導かれるように乗っていく。
軌道が、僅かに、しかし確実に、内側へと曲がっていった。
誰もがゴールを外れると思った、その瞬間。
ボールは、まるで最初からそこに吸い込まれることが決まっていたかのように、ゴールネットの隅へと静かに収まっていった。
ピィーーッ!!!
審判の笛。
――前半5分。生徒会、先制。
0-1。SOS団、1点ビハインド。
俺たちは、その光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。谷口が悔しそうに床を叩く。国木田が唇を噛んでいる。ハルヒは、珍しく声を失っていた。
俺は、風に流されていくボールの残像を、頭の中で何度も反芻していた。あれと同じ現象を、俺たちも見た。谷口のシュートが、あの風で外れた。だが、あいつらは、その同じ風を、逆に武器として使っている。
――俺たちが「厄介な自然現象」だと思っていたものを、こいつらは最初から「利用できる駒」として扱っていた。
その差が、今の一点になった。
ゴールを決めた喜びを爆発させるでもなく、生徒会の面々は、淡々と自陣へと戻っていく。門戸だけが、少しだけ疲れたような笑みを浮かべ、常盤と拳を合わせていた。
そして、会長が、また俺の元へと歩み寄ってくる。
「……何だよ、まだ何かあるのか」
俺は、絞り出すような声で言った。会長は、いつもの平坦な調子で、静かに口を開く。
「俺も、お前をキョンと呼ばせてもらう」
「……」
「キョン。お前は、何のために戦う?」
俺は、言葉に詰まった。
何のために。そんなこと、今まで考えたこともなかった。ハルヒに巻き込まれたから。谷口が泣いていたから。ここまで来たから、勝ちたいから。答えは、いくらでも浮かぶ気がした。だが、そのどれもが、今この男の前では、あまりにも薄っぺらく思えた。
俺が黙り込んだのを見て、会長は小さく息を吐いた。それは、失望とも、あるいは予想通りとも取れる、感情の読めない吐息だった。
「給水タイム明けの、前半残り8分」
会長は、静かに告げた。
「そこで、お前たちを完全に沈める」
俺は、何も言い返せなかった。
「それが嫌なら――」
会長は、一度だけこちらを見た。
「この答えを、用意しておくんだな」
それだけを残し、会長は背を向けて歩いていった。俺は、その後ろ姿を見つめながら、拳を握りしめる。
スコアボードには、0対1の数字が浮かんでいた。
前半、まだ5分。
なのに、俺の中では、まるで試合全体の主導権を、根こそぎ奪われてしまったかのような、そんな感覚だけが残っていた。
試合が再開される。俺は、まだ完全には晴れない頭を、無理やり試合モードへと引き戻した。
――考えるな。今は、目の前の一秒だけを見ろ。
門戸は奪ったボールを足元へと収める。しかし、すぐには動かず、一瞬、常盤の位置を確かめるように視線を送った。俺は、その視線の先を追った。
――来る。門戸から常盤だ。
これまで何度も見てきたパターンだ。門戸が受けて、溜めて、常盤へ流す。俺は、その一手先を読んで、パスコースへと身体を投げ出した。
「そこだ――!」
俺は、常盤へのコースへ滑り込む。だが、門戸はパスを出さなかった。
ボールを足元に置いたまま、ほんの一瞬、動きを止める。俺の身体は、もうインターセプトの体勢に入りきっていた。止められない。
その、たった一瞬の静止が、俺の予測とタイミングを完全に狂わせた。
――しまっ……。
門戸が止めた、まさにその隙間を縫うように、逆サイドから会長が走り込んでくる。俺の視界の外側、完全に無警戒だった場所から。
「くそっ……!」
俺は慌てて体勢を立て直そうとする。だが、もう間に合わない。会長は、門戸から出されたパスを受けるでもなく、ただそこにいることで、俺の読みそのものを裏切ってみせたのだ。
会長の足が振り抜かれる。低く、鋭いシュートが、ゴール右隅を目掛けて飛んだ。
「うわっ……!」
ゴール前で、国木田が咄嗟に身体を投げ出す。技術らしい技術はない、というと語弊があるが、少なくとも派手さのない、泥臭い反応だった。ただ、その気迫だけで、ボールは辛うじて指先に触れ、ゴールラインの外側へと弾かれていった。
ピィッ、と短い笛が鳴る。ゴールキックだ。失点はしなかった。だが――。
俺は、その場に立ち尽くしていた。今の一瞬、俺は完全に、逆を取られていた。
「……」
古泉が、静かに俺の隣に立った。いつもの余裕のある笑顔じゃない。表情のない、まっすぐな目だった。
「今のは、あなたの判断ミスです」
「……分かってる」
「いえ」
古泉は、はっきりと言葉を重ねた。
「分かっていません」
俺は、思わず古泉を見た。こいつが、こんな風にはっきりと俺に反論するのは、珍しい。いや、初めてかもしれない。
「あなたはずっと、相手の次の手を読もうとしている」
古泉は、淡々と続けた。
「でも――あの人は、あなたが読むということ、その行為そのものを利用している」
「……」
「僕たちは、今まで、あなたの読みを信じて動いてきました」
古泉の声には、非難の色はなかった。ただ、事実を告げる、冷静な響きだけがあった。
「でも、それが今、逆に弱点になっています」
俺は、何も言い返せなかった。反論の言葉が、一つも浮かんでこない。あいつの言う通りだ。俺はずっと、次の一手を読むことに全てを賭けてきた。だが、その「読み」自体を、あの男は餌にしている。俺が読めば読むほど、その裏をかかれる。
――じゃあ、俺はどうすればいい。
そう考え込んだ瞬間だった。
「じゃあ、読むのをやめればいいじゃない」
ハルヒの声が、横から飛んできた。俺は、思わず顔を上げる。
「……は?」
「あんたが全部考えなくていいって言ってんのよ!」
ハルヒは、腕を組んで俺を見下ろしていた。慰めるような優しさは、その声のどこにもない。むしろ、いつもの通り、乱暴で、身も蓋もない言い方だった。
だが、その言葉は、なぜか俺の頭の奥に、小さな棘のように刺さって残った。
審判の笛が、ゴールキックの再開を告げる。俺は、答えの出ない問いを抱えたまま、自分のポジションへと戻っていくしかなかった。
前半、まだ5分。スコアボードには、0対1の数字が変わらず浮かんでいる。
だが、点差以上に、俺の中で何かが、確実に揺らぎ始めていた。