国木田がボールを構える。俺は、いつものように前へ出た。当然、自分のところにボールが来る。そう思い込んでいた。
だが、国木田の蹴り出したボールは、俺の頭上を通り過ぎ、真っ直ぐ古泉の足元へと収まった。
……は?
俺は、一瞬、間の抜けた顔をしていたと思う。国木田は、俺と目を合わせることすらしなかった。ただ冷静に、次の展開だけを見ている。
――俺じゃなくても、始められるのか。
妙な感覚だった。今まで、攻撃の起点は、ほとんど俺の足元から始まっていた。だが、国木田はそれを、あっさりと別のルートへ切り替えていた。試合開始3分足らずで崩れたはずの「最初の5分は観察する」という作戦。あれを、こいつは、状況に合わせてまったく違う形に作り替えている。
古泉がボールを受けると同時に、ハルヒと谷口が同時に走り出した。
――やれやれ。国木田、お前も大概、俺たちに似てきたじゃねぇか。誰にも相談せず、勝手に作戦を変えてきやがる。
ボールはすぐに生徒会の連携と硬い守備によって奪われる。
また、生徒会がボールを回し始める。門戸から常盤へ。俺は、いつもの癖で、その流れを読もうとした。
――来る。門戸から常盤だ。
考えるより先に、身体が動きかける。だが、その瞬間、古泉の声が、頭の中で蘇った。
「あなたが読むということ、その行為そのものを利用している」
俺は、一瞬だけ、パスコースへ飛び込みかけた足を、止めた。
いつもなら、迷わずインターセプトに行っていた。だが、今日はそれで、二度も逆を取られている。門戸が溜める。常盤が動く。会長が、その裏を突く。俺の読みそのものが、あの男の餌になっている。
――だったら。
俺は、あえて動かなかった。読みを捨てたわけじゃない。ただ、自分の読みだけを、唯一の正解にしないことにした。
その一瞬の静止が、隙になった。
門戸から常盤へ、ボールがすんなりと渡る。生徒会の攻撃が、俺の目の前を、そのまま通り過ぎていった。
「谷口、右!」
ゴール前から、国木田の鋭い声が飛ぶ。谷口が、猛然と戻ってくる。息を切らしながら、それでも足だけは止めない。門戸へと渡ろうとしていたパスコースへ、ぎりぎりのタイミングで滑り込んだ。
カットには成功した。だが、勢いを殺しきれず、谷口はそのまま床へと転倒する。
「……っ、ぐあぁっ!」
悲鳴じみた声が上がった。右足首を押さえて、しばらく起き上がれない。
「谷口くん!!」
ベンチから、朝比奈さんの叫び声が響いた。俺たちは、慌てて谷口の元へと駆け寄ろうとする。
谷口は、足首を押さえたまま、悔しそうに顔を伏せていた。
ついに、こいつも限界か。
俺の頭に、一瞬、そんな考えがよぎった。だが、次の瞬間、谷口は顔を上げた。
「……何やってんだよ、俺!!」
拳を、床に叩きつける。
「こんなところで……ぼさっとしてる場合じゃねぇんだよ!!」
そして、立ち上がった。一歩。二歩。右足を、確かめるように踏み出す。そして――
ダッ!!
いきなり、全力でコートを駆け出した。
「ええっ!?」
ベンチで、朝比奈さんが素っ頓狂な声を上げる。隣で、鶴屋さんが、少しだけ笑った。
「……あははっ!! あれくらいじゃ、あの子は止まらないっさ」
鶴屋さんの声に、朝比奈さんが目を丸くする。谷口は、ボールを追いながら、喉が張り裂けそうな声で叫んでいた。
「俺は……まだまだ走れるぞぉぉぉ!!」
――俺が相手の動きを読まなくても、仲間が守る。
俺は、その光景を見ながら、そんな言葉が自然と頭に浮かぶのを感じていた。それでも谷口の思いの丈は止まらない。
「いつまでもおんぶに抱っこしてるわけにはいかねんだよ!!」
ーー谷口、何言ってやがる。お前のその泥臭い走りと根性に俺たちがどれだけ救われてると思ってやがんだ……。
その直後だった。俺は、緩んだ守備の隙間を突いて、ボールを追いに前へ出た。対岸から、会長もまた、同じボールを目掛けて動いてくる。
ボールが落ちてくる。俺と会長、二人の間、ちょうど中間地点だった。奪うか、奪われるか。単純な話だ。単純なはずなのに、俺の頭の中では、余計な思考がまだぐるぐると渦を巻いていた。
会長がボールに触れる寸前、俺は身体を割り込ませた。だが、会長は崩れない。むしろ、俺の動きを見越していたかのように、静かに体を寄せてくる。
「お前は、相手を読む」
会長の声が、耳元で低く響いた。
「このチームは、寄せ集めであるがゆえに――お前の思考に依存している」
その言葉が、思っていたよりも深く突き刺さった。
寄せ集め。否定はできない。思いつきだけで世界を引っ掻き回す、口の悪い暴君みたいな団長。そんな団長に、成り行きだけで巻き込まれ続けている、ただの一般人の俺。何を考えているのか最後まで分からない、やたら顔だけはいいニヤケ面の超能力者。緊張するとすぐ涙目になる、意味不明にセクシーな衣装を着せられたコスプレ未来人。感情の起伏を分子レベルまで削ぎ落としたような、無口で読書好きの宇宙人。ノリと勢いだけで一年間を乗り切ってきたような、単純明快なお調子者。そして、本来なら帰宅部一直線だったはずなのに、いつの間にか妙な使命感に目覚めていた、生真面目な男。まともな部活動の体すら成していない、俺たちのチーム。
「だが――相手も、お前が読むことを利用できる」
その一言で、俺の足が、ほんの一瞬、鈍った。分かっている。分かっているんだ、そんなことは。だが、分かっていることと、それに抗えることは、まるで別の話だった。
俺は、会長の身体に食らいつくようにして、ボールへ足を伸ばした。だが、あの男は崩れない。俺の焦りを見透かすように、静かにボールをキープし続けている。
「じゃあ、あんたは何のために戦ってるんだ!?」
俺は、半ば八つ当たりのように叫んでいた。会長は、俺の勢いに動じることもなく、淡々と答える。
「俺は、生徒会のあいつらに――優勝っていう思い出を、与えてやりたい」
……何だよそれ、あんたそんな事言うキャラじゃないだろ。
「……それだけか?」
「普段、日の目を見ないあいつらに、頂点の景色を見せてやりたくなった」
ずいぶんとらしくない殊勝なことを言いやがる。
だが、会長の声にはこれまでの冷徹さとは少し違う、静かな熱のようなものが滲んでいた。門戸。常盤。青木。喜緑さん。この短時間で、俺なりにあいつらの人となりを、少しは知った気になっていた。この男は、あの連中のために、こんな学校行事のフットサル大会に、本気で首を突っ込んでいるということか。
「もう一度聞く」
会長は、ボールを俺との間合いの外へと逃がしながら、続けた。
「お前は、何のために戦う? 涼宮のためか?」
俺の中で、答えが形を成そうとする。だが、言葉にしようとした瞬間、そのどれもが、薄っぺらく感じられて崩れていった。ハルヒのため。それは、間違ってはいない気がする。だが、それだけだと言い切るのも、何か違う気がした。
「わかんねぇよ!!」
俺は叫んだ。他に言いようがなかった。
「ただ、うちの団長は優勝するって決めつけてやがる。もはや既定事実だと思い込んでやがる。どういうわけか、みんなそれを信じて疑わねぇ!!」
俺の言葉は、自分でも制御できないまま、次から次へと口を突いて出てきた。
「だから、叶えてやりてぇだけだ!!」
「それが、お前の答えか?」
会長の声は、変わらず平坦だった。
「他に何があるっていうんだ!!」
「違うだろう?」
俺は、答えられなかった。会長は、そんな俺を見透かすように、一段と静かな声で続ける。
「そんなに、あの女のことが好きになったのか?」
俺の頭の中が、一瞬、真っ白になった。答えろ。何か言い返せ。だが、言葉が出てこない。肯定するのも、否定するのも、どちらも違う気がして、俺はただ黙り込むしかなかった。
その一瞬の隙を、会長は見逃さなかった。ボールを持ったまま、俺の脇を通り抜けようと、身体を大きく捻る。
――ふざけるな。
俺の中で、何かがぶつりと切れた。理屈も、答えも、もうどうでもよかった。
「知るか、そんなことぉぉぉぉぉ!!」
俺は叫んでいた。理屈も、戦術も、何もかも投げ捨てて、ただがむしゃらに足を出す。自分でも、何をどうしたのか、正直よく分からない。だが、次の瞬間、俺のつま先には、確かにボールの感触があった。
奪えた。
会長の一瞬の反応の遅れ。それが、計算だったのか、単なる偶然だったのか、俺には判断がつかない。ただ、事実として、俺はあの男からボールを奪い取っていた。
考える余裕なんてものはなかった。俺は前線へ向けて、力任せにボールを蹴り出した。
――こいつらが俺に依存してるだと? 片腹痛ぇな。
思わず、笑いが漏れた。どいつもこいつも、俺が少し目を離した隙に、好き勝手な方向へ猛ダッシュで駆け出していきやがるくせに。ハルヒなんて特にそうだ。国木田の作戦もお構いなしに、思いついたら即座に突っ込んでいく。谷口は谷口で、俺の指示より先に足が動く。古泉に至っては、何を考えているのか半分も分からない。
だけど俺は――そんなこいつらを、信じてる。……いや、必死なこいつらを見てると信じてみたくもなるんだよ!!
「いっけぇぇぇ!! 自分勝手共!!!」
俺は、ロングパスを前線へと送り込んだ。自分では、そこから先へ行かなかった。行かなくていいと、なぜか思った。
ボールが宙を舞う間、俺の視界の中で、3人が同時に動き出すのが見えた。
ハルヒが左から中央へ、斜めに切れ込んでいく。それを見た古泉が、ハルヒとは逆方向へとすっと流れる。谷口は、2人の動きを一瞬だけ確認すると、さらに前へと爆走した。捻ったはずの右足を引きずりながら、それでも谷口は走った。
誰も指示を出していない。俺も、何も言っていない。それなのに、3人は、まるで最初からそういう約束をしていたかのように、迷いなくそれぞれの場所へと散っていった。
「……なるほど」
古泉の声が、遠くから聞こえた。
「古泉! こっちだ!」
谷口が叫ぶ。古泉が、正確なパスを谷口へと通す。谷口が走りながらそれを受ける。生徒会の守備が、慌てて谷口へと寄っていく。
その瞬間だった。
「涼宮ぁぁぁ!!」
谷口の声が響く。谷口から放たれたパスが、中央へ侵入していたハルヒの足元へと吸い込まれていった。
俺は、少し後方から、その光景をただ見ていた。
自分が指示していない。自分が、誰の動きも読んでいない。なのに――目の前で、攻撃の形がちゃんと出来上がっている。
俺は、もう一度笑った。今度は、さっきよりも自然に、口元が緩んだ気がした。
――だけど俺は、そんなこいつらを信じてる。
ハルヒがボールを受け取った、その瞬間だった。あいつの髪が、ふわりと揺れた。
「……これ」
ハルヒが小さく呟く。俺にも、すぐに分かった。四隅の送風機。あの風だ。俺たちが谷口のシュート、そして生徒会の得点で、二度も思い知らされた、あの気まぐれな気流。
「……風、ですね」
古泉が呟く。
「またあれかよ!」
谷口が悪態をつく。だが、ハルヒの反応は違った。あいつは一瞬だけ目を細めると、真っ直ぐにゴールを見据えた。
「だったら――」
その声には、これまでにない種類の落ち着きがあった。
「使えばいいじゃない!」
その一言で、俺は理解した。俺たちは、この風を、ずっと「厄介な敵」だと思い込んでいた。だが、この女は、それを一瞬で「使える道具」に変換してみせた。理屈も分析もない。ただの直感だ。だが、それでいい。それこそが、あいつの持ち味だ。
古泉が、少しだけ外へ開く。谷口が、その隙を突いて中央へと走り込む。生徒会の守備が、慌てて2人を追った。
その結果、ハルヒの前に、ほんの一瞬だけ、シュートコースが生まれた。
「涼宮さん!」
「今だ、涼宮!」
「言われなくても分かってるわよ!」
ハルヒが、右足を大きく振り抜く。
「いけ、自分勝手の王様…。いや、決めて見せろ、団長」
俺は知らず知らずの内に呟いていた。
ボールが、ゴールへと真っ直ぐに向かっていく――かに見えた。だが、途中で、あの気流に触れた瞬間、軌道がわずかに変わった。
青木が、最初に読んでいたコースへと手を伸ばす。だが、ボールは、その予測から、ほんの少しだけ外側へと流れていく。青木の指先が、空を切った。
ボールは、そのままゴールへと吸い込まれていった。
ピィーーーッ!!!
前半6分30秒、ゴール!!!!
1-1。SOS団、同点!!
ゴール:ハルヒ(大会通算4点目)
アシスト:谷口(今大会初アシスト)
審判の笛。そして大歓声が、体育館いっぱいに弾ける。
「よっしゃあああああ!!」
ハルヒが叫ぶ。
「入ったぁぁぁ!!」
谷口が両手を突き上げる。
「……見事です」
古泉が、静かに微笑んだ。
俺は、ハルヒの様子を見ていた。拳を握り、確かに喜んでいる。だが、その顔には、これまでのような「自分一人でやってやった」という得意げな色は、なぜか見当たらなかった。こいつは古泉を見て、谷口を見て、そして少し離れた場所にいる俺を見た。
「……まだまだこんなもんじゃないわ、私たちは」
それだけ言って、また前を向く。
その頃、ベンチでは、朝比奈さんが思わず立ち上がっていた。
「入りました……! 同点……ですぅ!」
隣で、鶴屋さんも笑顔を浮かべている。朝比奈さんは、嬉しそうに鶴屋さんを見た。
「これで、振り出しですよね?」
鶴屋さんは頷いた。
「うんっ。見事だったねぇ」
だが、その視線は、すぐにコートの向こう側へと移っていく。会長。門戸。常盤。喜緑さん。青木。誰一人として、慌てた様子を見せていなかった。
「……でも」
鶴屋さんの声のトーンが、少しだけ落ちる。
「まだ、あっちは慌ててないっさ」
朝比奈さんも、つられるように生徒会側を見た。
青木がボールを拾い上げる。会長は、汗を袖で拭いながら、変わらず淡々としていた。門戸も、常盤も、落ち着き払っている。喜緑さんの表情にも、動揺の色は見当たらない。
「……会長」
青木が、短く声をかけた。会長は、それに応えるように、静かに口を開いた。
「予定通りだ」
その言葉に、青木は小さく頷いただけだった。何が予定通りなのか、コートの外にいる誰にも、その意味は分からなかった。
会長は、少しだけ視線を上げ、俺たちの方を見る。
「俺たちがやることは、変わらない」
そして、静かに付け加えた。
「こいつらを、給水タイムまで走らせる」
試合が再開される。1対1になったことで、俺たちには、確かな勢いが生まれていた。だが、生徒会もまた、崩れることなく攻撃を再開してくる。俺は、まだ会長の問いに答えを出せずにいた。
攻めるでもなく、崩れるでもない。両チームが、互いの出方を測りながら、ただボールを回し続ける時間が続いた。門戸が下げる。常盤が戻す。古泉が奪おうと寄せるが、するりとかわされる。俺は最終ラインで、無理に飛び込まず、コースだけを消し続けた。
派手さのない、静かな攻防だった。だが、その静けさの中に、さっきまでとは違う緊張が張り詰めているのが分かった。どちらも、次の一手で流れが決まると分かっている。だからこそ、迂闊には動けない。
ベンチの隅で、長門は、文庫本を開いていなかった。
珍しい、と思った。試合が始まってからずっと、あいつはページをめくり続けていたはずだ。だが今は、閉じた本を膝の上に置いたまま、じっとコートを見つめている。その視線は、ボールを追っているのか、それとも別の何かを見ているのか、俺には判断がつかなかった。
ただ、長門があの本を開かずにいる時間が、これまでの試合の中で一番長く続いていた。
朝比奈さんはコートを見つめながら小さく呟いている。
「……キョンくん」
「大丈夫っさ」
鶴屋さんが、静かに応える。
「あの顔なら」
俺は、前を向いていた。答えは、まだない。だが、もう迷ってはいなかった。
「さあて――」
鶴屋さんの声が、ベンチの喧騒の中で、なぜか妙にはっきりと響いた。
「ここからだよ」
前半、給水タイムまで残り30秒。
スコアボードの数字は、変わらず追いかけっこを続けている。だが、俺の中では、何か一つ、確かな手応えのようなものが生まれていた。
ピィッ。
審判の笛が、短く鳴った。
「両チーム、給水!!」
試合が、一時中断される。ハイドレーションブレイク。つまりは給水タイムだ。
選手たちが、それぞれのベンチへと戻っていく。俺も重い足を引きずりながら、ベンチへと向かった。
朝比奈さんが、いつものように駆け寄ってくる。俺がドリンクを受け取ろうとした、その時だった。
「……どうぞ」
声の主は、朝比奈さんじゃなかった。
俺は、思わず動きを止めた。長門が、俺の目の前に、スポーツドリンクの入った紙コップを差し出していた。
「……長門、お前がか?」
「補給は必要」
長門は、それだけ言うと、次はハルヒの元へと向かった。
「有希?」
ハルヒも、明らかに戸惑っていた。差し出されたコップを見て、それから長門の顔を、まじまじと見つめる。
「あなた、こういうことするのね」
「必要な作業」
長門は、感情の色を映さない声でそう答えると、また次の紙コップを手に取った。谷口の元へ、古泉の元へ、国木田の元へ。一つずつ、丁寧に配って回っている。
俺は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。あいつが、ベンチでただ本を読んでいるだけの存在じゃなかったことは、あの長い長いスタメン発表PVでもう十分に思い知らされたはずだった。
谷口が倒れた瞬間、目を細めていたこと。俺たちの誰かが苦しんでいる時、小さく身を乗り出していたこと。
それでも、目の前で、あいつが自分から動いて、仲間にドリンクを配っている姿には、やっぱりどこか、慣れない違和感があった。
「……変わったよな、長門も」
俺は、誰に言うでもなく呟いていた。隣で、ハルヒも同じように長門の背中を見ている。
「変わってなんかないわよ」
ハルヒは、少し不機嫌そうに言った。
「有希は、最初からあんな感じだったの。私たちが、ちゃんと見てなかっただけ」
その言い方に、俺は少しだけ驚いた。ハルヒらしくない、妙に静かな声だった。
長門が、最後に自分のコップを手に取り、ベンチの隅へと戻っていく。座り直すと、また膝の上に文庫本を広げた。だが、ページはめくらない。視線は、また静かに、コートの向こう側へと向けられていた。
俺は、スポーツドリンクを一口飲んだ。冷たさが、乾いた喉に染み渡っていく。
鶴屋さんが俺たち5人の首元に、アイシング器材を素早く取り付けていく。
スコアボードには、1対1の数字が、静かに浮かんでいる。
俺は、まだ考えていた。会長から投げかけられた、あの問い。
――お前は、何のために戦う。
答えは、まだ出ていない。だが俺は、さっきの三人の姿を思い出した。ハルヒ。古泉。谷口。誰に言われるでもなく、自分の意志で走り出した奴らの姿を。
――今は、答えがなくてもいい。
俺は、そう思うことにした。少なくとも、この給水タイムが終わるまでは。