涼宮ハルヒのフットサル   作:宮澤宏

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大丈夫だから

 笛が鳴った。前半戦が再開される。

 俺は、コートへと足を踏み出す前に、一瞬だけ腰に手を当てた。

 

 ――ピキッ。

 

 給水タイムの終わり際に感じた、あの小さな違和感。だが、痛いというほどでもない。せいぜい、朝起きた時にたまに感じる、寝違えの前兆みたいなもんだろう。

 

「……まだ走れる」

 

 自分に言い聞かせるように呟いて、俺はコートへと戻った。何せ今日一日で、俺の身体はもう十分すぎるほど酷使されてきたんだ。今更ちょっとやそっとの違和感で音を上げてたら、朝から今までの俺の努力が全部台無しになる。

 対岸で、会長がこちらを見ていた。眼鏡を外した瞳は、変わらず静かだった。だが、その静けさの中にこれまでとは違う、何か研ぎ澄まされたものが宿っている気がした。

 

「……いくぞ」

 

 会長の一言をきっかけに、生徒会の守備が一斉に動き出した。門戸が、俺の進路を潰すように立ちはだかる。常盤が、パスコースを切る位置へと素早く移動する。喜緑さんが、俺の次の選択肢を、あらかじめ塞ぐように立つ。青木が、後方から絶えず指示を飛ばしている。そして会長は、その全体を俯瞰する位置で、俺の最後の判断そのものを読もうとしていた。

 

 ――なるほど。おい、これは随分と至れり尽くせりな包囲網じゃねぇか。

 

 俺は、その配置の意味を、ようやく理解した。単純に、俺にボールを渡さないんじゃない。俺がボールを受けた「後」に、どこへ出すか。その選択肢そのものを、あらかじめ潰しにきている。まるで、俺がまだ決めてもいない未来の選択肢を、全部先回りして塞がれているみたいな気分だ。占い師に「お前の未来には三つの道があるが、そのどれも塞いでおいた」と言われているようなもんだ。ふざけた話だぜ、まったく。

 

「……俺を止めるんじゃない」

 

 俺は、思わず声に出していた。

 

「俺に、選ばせないつもりか」

 

「光栄に思え。俺たちは、そこまでお前を警戒している」

 

 会長の声が、静かに返ってくる。

 ありがたいこったね。こいつらには、俺がSOS団内で順列最下位の平団員兼雑用係ってことは分かってもらえないらしい。

 会長にそう言われた瞬間、俺の頭の中で、カチッ、と何かが起動する音がした。答えは、まだ出ていない。だが、俺の思考が、また一段、違う場所へと押し上げられていくのが分かった。

 俺は、強引に仕掛けた。一人、かわす。だが、二人目が立ちはだかる。右へ動けば門戸。左へ動けば常盤。パスを出そうとした先にも、喜緑さんが、当たり前のように立っていた。

 

 ――行き場がない。

 

 俺は、初めて、それをはっきりと自覚した。まるで四方をロープで囲まれたリングの中で、殴られる順番を待たされているボクサーみたいな気分だ。だが、その瞬間だった。さっきまで気になっていた腰の違和感が、いつの間にか消えている。

 

「……なんだよ」

 

 腰に手を当てる。

 

「動いてた方が、気にならないじゃねぇか」

 

 俺は、少しだけ笑った。人体ってのは案外都合よくできているもんだな。谷口の方を見る。谷口の顔色も、給水タイムのときほど悪くはなかった。あいつも、動くことで誤魔化しているクチなのかもしれない。俺は、隣を走る古泉に声をかける。

 

「古泉、どうやら俺はまだまだいけるようだ。だから心配すんな!!」

 

 古泉が、一瞬だけこちらを見た。

 

「……そうですか」

 

 笑っていなかった。その短い返事に、俺は何かわずかな不安のようなものを感じ取った。おい、いつものお前なら「いやはや、頼もしいですね」くらいの軽口を叩いてくるところだろうが。

 俺が封じられている分、生徒会の攻撃回数が増えていく。喜緑さんから常盤へ、常盤から門戸へ、そして中央の会長へ。

 

「――撃つ!」

 

 シュート。国木田が、それを弾く。

 

「……まだだ!」

 

 すぐに立ち上がる。やれやれ、こいつ、いつからそんな根性の座ったゴレイロになったんだ。帰宅部だった頃の面影が、もう見当たらねぇ。

 再び、生徒会の攻撃。喜緑さんが、中央で谷口をかわし、常盤へ。シュート。国木田が、また反応する。二本目のセーブだった。俺は、思わず振り返る。――また、国木田だ。

 三度目の攻撃。SOS団の守備が、一瞬だけ崩れる。会長が、ゴール前へと躍り出る。

 

「いい加減、これで終わりだ!!」

 

 シュート。国木田が前へ出て、身体を投げ出す。ボールがこぼれる。だが、国木田は二度目の反応で、それを確実に押さえ込んだ。

 

「……まだ、終わらせない!!」

 

 俺は、その姿を見て、ようやく理解した。

 

 ――俺が全部読まなくてもいい。

 ――俺が全部止めなくてもいい。

 ――国木田が、後ろにいる。

 

 給水タイムで俺たちが辿り着いた答えが、初めて実際のプレーとして証明された瞬間だった。国木田、お前、ホワイトボードにフォーメーションを書き殴っている時よりも、今の方がよっぽど頼もしく見えるぜ。

 俺と古泉が、一瞬だけ目を合わせる。言葉はなかった。俺は、そのままボールを古泉へと預けた。古泉が前へ出る。会長が、それに反応する。

 

「……古泉か」

 

「ええ」

 

 古泉が、静かに答える。

 

「どうやら、あなたのお相手は、僕のようですよ」

 

 会長は、笑わなかった。その瞬間から、古泉が俺に代わる司令塔として機能し始めた。俺を封じた反動で、古泉に自由が生まれている。ただ、そのパスの精度は変わらず高い一方、動き出しには、ほんの僅かな遅れがあった。俺の目には、それがはっきりと分かった。

 

 ――お前も、相当キツいんだな。無理してんじゃねぇぞ、副団長。

 

 古泉が会長を引きつける。俺には、門戸と常盤がついてくる。その一瞬、中央へとハルヒが走り込んできた。

 

「キョン!!」

 

 俺は顔を上げた。

 

「こっちよ!!」

 

 パスを出す。ハルヒが受ける。門戸が寄せる。ハルヒは、一瞬だけ動きを止めた。呼吸が、明らかに荒い。それでも、

 

「……まだよ」

 

 一歩、また一歩。門戸を強引に抜き去る。シュート――ではなかった。古泉へと折り返す。古泉のシュートを、青木が身体を投げ出して防ぐ。

 

「……あーっ!! もうっ!! あとちょっとだったのに!!」

 

 ハルヒが絶叫する。俺は、思わず声をかけた。

 

「今の、俺を助けたのか?」

 

「はぁ?」

 

 ハルヒが、心底心外だという顔をした。

 

「違うわよ」

 

 そして、続ける。

 

「私が勝ちたいから、走っただけ!」

 

 さらに。

 

「あんた一人に勝たせるつもりなんて、最初からないんだから!」

 

「……そうかよ」

 

 俺がそう返すと、ハルヒは満足そうに笑った。「俺中心のチーム」が、いつの間にか「俺を含めた、全員のチーム」に変わっている。それを、こいつは今、走ることで証明してみせていた。相変わらず口は悪いが、こういう時のこいつの笑顔だけは、素直に格好いいと思ってしまうのが、俺としても腹立たしいところだ。

 攻守が入れ替わる。喜緑さんがボールを持つ。谷口が、それを追う。喜緑さんは軽くかわす。だが、谷口はそれでも、しつこく追い続けた。

 

「待ちやがれぇぇぇ!!」

 

「……まだ来ますか、しつこいんですね」

 

「来るに決まってんだろ!!」

 

「さっきからすごく辛そうですよ」

 

「だから何だ!! こんなところでへばってらんねぇんだよ!!」

 

「もうじき、楽にさせてあげますよ」

 

 喜緑さんが谷口に向けて和かに微笑む。

 

「完膚なきまでにその心を挫いてね」

 

「違うぜ…。楽になるのは、俺たちの大勝利っていう栄光のフィナーレの後だけだ」

 

 谷口が、喜緑さんの進路を潰した。完全に奪い取ったわけじゃない。だが、確かに、止めた。喜緑さんが、初めて、谷口を真正面から見つめる。

 

「……なるほど」

 

 二人の凌ぎ合いは続く。

 

「なんで、そんなに頑張れるんですか?」

 

「仲間が困ってるからに決まってんだろ!!」

 

「居場所のため、なんですね」

 

 喜緑さんは、静かに呟いた。

 

「それなら私と一緒です」

 

 そして、少し間を置いてから、こう続けた。

 

「でも私は、もう少し自由にやってみたくもなりました」

 

 その直後だった。審判の死角で、喜緑さんが谷口の体操着の袖を、軽く引っ張った。ファウルには取られない。だが、それは生徒会の徹底された規律に生まれた、最初の小さな亀裂だった。おいおい、清楚な文芸部相談員第一号だと思っていたが、あんたもなかなかやってくれるじゃねぇか。

 谷口が、強引に喜緑さんを抜こうとする。喜緑さんが一瞬遅れる。門戸がカバーに入る。だが、その門戸の戻りも、いつもより僅かに遅かった。

 

 そして――。

 

 その隙を埋めようとしたのが、常盤だった。

 こぼれたボールが、ちょうど中間地点に浮いていた。谷口が突っ込んでくる勢いを見た常盤は、迷わず身体を跳ね上げる。ヘディングで、相手のシュートかクロスかを、先に潰すつもりだったんだろう。悪くない判断だった。

 だが常盤の身体が宙に浮いた瞬間、俺は妙な違和感を覚えた。あいつの跳躍は、これまで何度も見てきた。あの軽やかな動きじゃなかった。どこか、力の入れ方がぎこちない。ボールに額を当てるその瞬間、常盤の身体は、僅かに軸を崩していた。

 ゴツン、という鈍い音。ボールが弾かれる。だが、常盤の身体は、そのまま空中でバランスを崩し、着地した瞬間、常盤の身体が大きく傾いた。

 

「――っ!」

 

 声にならない声を上げて、常盤がその場に崩れ落ちる。

 

「トッキ!?」

 

 門戸が、真っ先に駆け寄った。俺たちも、思わず動きを止める。

 常盤は、右足首を両手で押さえながら、床の上で身を丸めていた。歯を食いしばっているのが、離れた場所からでも分かる。

 

「……大丈夫、大丈夫」

 

 絞り出すような声。だが、その顔は、笑おうとして、笑いきれていなかった。

 審判が、すぐに試合を止める。青木と喜緑さんが、慌てて駆け寄る。生徒会側のベンチからも控えの部員が数人、飛び出してきた。

 

 ――やれやれ。着地一つで、こんなに簡単に脚は壊れるのか。

 

 俺は、その光景を見ながら、少しだけ背筋が冷たくなるのを感じた。フットサルってのは思ってたよりずっと、容赦のない競技らしい。今まで散々「相手を潰す」ことばかり考えてきたが、目の前で本当に誰かが潰れる光景を見ると、当たり前だが、まるで気分の良いものじゃなかった。

 

「モン、落ち着け」

 

 会長が、静かに門戸の肩に手を置いた。門戸は、それでも常盤の傍を離れようとしなかった。

 

「トッキ、立てるか?」

 

「……いける。いけるから…。ちょっと、待って」

 

 常盤は、脂汗を浮かべながら、それでも小さく笑ってみせた。

 

「へへ……。ダサいとこ、見せちゃったな」

 

「ダサくねぇよ、バカ」

 

 門戸の声が、明らかに震えていた。

 結局、常盤は担架こそ必要としなかったものの、両脇を支えられながら、コートの外へと運ばれていった。ベンチに座らされ、すぐに氷嚢が右足首に当てられる。テーピングと湿布の応急処置が、慌ただしく施されていくのが、遠目にも見て取れた。

 俺たちのベンチとは対照的な光景だった。同じように限界を抱えながら戦っている連中だ。当たり前だが、あっちにも、当たり前に「誰かが潰れる」瞬間はある。俺は、そのことを、これまでどこか他人事のように考えていた気がする。

 

「……交代だ。しおり、急遽で悪いが頼む」

 

 会長がベンチに座る、控え選手に向かっていった。その選手は明らかに動揺している。仕草はうちの朝比奈さんそっくりだ。見ていてこっちが心配になる。

 審判へ向けて、髪を束ねた小柄な女子選手が一人、青いビブスを着て、コートへと入る準備を始めた。門戸は、しばらく常盤の方を振り返っていたが、やがて拳を強く握り締めて、コートへと向き直った。

 

「モンちゃーん、すぐ戻るから!! 心配しないでー!! あと、しーちゃん。いつも通り、練習通りやれば大丈夫だから!!」

 

 常盤はベンチから声を張り上げる。

 

「モンちゃんて……。その呼び方、お前……」

 

 そう言いながら、門戸の肩は震えた。その目には、さっきまでとは明らかに違う、何か重たい光が灯っていた。

 

『選手の交代をお知らせ致します。常盤くんに代わりまして、笠屋さん…』

 

 プレーが再開される。生徒会の連携に、明らかな綻びが生まれていた。喜緑さんの呼吸を整える時間が増える。青木の声が、少しだけ弱くなる。

 

「右! 門戸、右!」

 

 その声が、一瞬だけ遅れた。門戸が振り返る。

 

「……ブルー?」

 

「なんでもない!」

 

 その直後、俺がボールを受けた。門戸が寄せてくる。いつものような、冷静な守備じゃなかった。どこか、荒い。俺は抜けようとする。門戸が、身体を強く入れてきた。

 

 ドンッ!

 

 笛が鳴る。

 

「生徒会、ファウル!」

 

「……は?」

 

 門戸が、主審へと詰め寄った。

 

「今のがファウル?」

 

「接触がありました」

 

「いや、ボールに行ってただろ!」

 

『おっと!? 門戸選手、審判に抗議しています!』

 

 実況の声が、体育館に響く。

 

『ここまで非常に冷静だった門戸選手ですが、少しずつプレーが荒くなってきています!』

 

「モン。もういい」

 

 会長が、静かに止める。

 

「戻れ」

 

 門戸は、不満そうにしながらも、コートへと戻っていった。俺はその背中を見送りながら、思った。

 

 ――荒れてきた。

 ――あいつも、余裕がなくなってきている。

 まあ、無理もねぇか。相棒があんな形で戦線離脱したんだ。俺だって、あんな状況で平然としていられる自信はねぇよ。

 ファウルの地点で、ハルヒがボールを拾った。

 

「……私が蹴る」

 

「ハルヒ?」

 

「何よ」

 

「お前、蹴れるのか?」

 

 ハルヒが、ニヤッと笑う。

 

「誰に言ってんのよ、私がこのSOS団の団長よ!!」

 

 生徒会が壁を作る。青木が指示を飛ばす。

 

「右! コース切れ!」

 

 会長も、じっとハルヒを見ていた。

 

「……来るか」

 

 ハルヒが、ボールを置く。一度、深く息を吸った。そして――

 

 ドンッ!!

 

 強烈な直接フリーキック。壁の脇を、鋭く抜いていく。

 青木が飛ぶ。だが――

 

 カァンッ!!

 

 ボールは、ポストに直撃した。

 

「うおおおおお!!」

 

 観客席から、悲鳴に近い歓声が上がる。跳ね返ったボールが、ゴール前へ。そこへ、古泉と会長が、ほとんど同時に反応した。

 

『跳ね返った!! まだ終わっていない!!』

 

『古泉選手と会長、ほぼ同時にボールへ!!』

 

 二人が、ボールを挟んで向かい合う。

 

「……お前か」

 

「……ええ」

 

 これは、単純なドリブル勝負じゃなかった。次に何をするか。その読み合いだった。会長は、古泉が俺へ出すと読んでいる。だが、古泉は俺へ渡さなかった。会長が動いた瞬間、ボールは俺には触れず、谷口へ、谷口からハルヒへ、そしてハルヒから、再び古泉へと戻っていく。

 

「……!」

 

 会長が、初めてその意図に気づいた顔をした。この俺を封じればいい。そう考えていたはずだ。だが――俺を封じたことで、他の奴らが逆に自由になっている。ザマァみろってんだ。俺一人潰したところで、こっちにはまだ4人もいるんだよ。

 古泉が、再びボールを持つ。会長は完全に意図を読んだ、と確信していたはずだ。だが、古泉はその一段上を行った。会長が一歩動いた瞬間、古泉は逆方向へと抜けていく。

 

「……チッ」

 

 会長が、初めて舌打ちを漏らした。会長のこんな崩れた表情、今日初めて見たな。古泉も息が上がっている。それでも、

 

「……まだ、読めますね」

 

「……そうかよ」

 

 会長が、静かに返す。そして、こう続けた。

 

「一応聞いておく。古泉、お前は何のために戦う?」

 

「今はただ、仲間と熱くなりたいだけですよ。何の理屈も損益も関係なく、僕の脳はそう答えています」

 

 古泉は、いつになく素直にそう答えた。

 

「一度、覚えると忘れられなくなりますね」

 

「この〝熱〟ってやつは……」

 

「お前、そんなキャラじゃなかっただろ」

 

「そっくり、言い返しますよ」

 

 二人とも、笑わなかった。おいおい、お前ら、随分と似た者同士みたいなことを言い合ってるじゃねぇか。分析屋同士、通じ合うものでもあるのか。

 プレーが続く中で、小さな異変が、両チームに連鎖していた。門戸は肩で息をしている。喜緑さんは、呼吸を整える時間が増えていた。青木の声は、少しだけ弱くなっている。会長自身も、呼吸が荒くなっていた。ベンチでは、常盤が氷嚢を当てられたまま、心配そうにコートを見つめている。

 俺たちも同じだった。俺は腰の違和感。古泉は疲労。谷口は、足と体調。ハルヒは、荒い呼吸。国木田だけが、集中力だけで踏ん張っている。

 俺の頭の中で、また、カチッ、と音がした。

 

 ――そうか。

 ――こいつらも、試合を重ねている。

 ――控えの数は違っても、条件は、ある程度一緒だ。誰も彼も、無事なままここまで来た奴なんて、一人もいねぇんだ。

 

 プレーが、一瞬止まった。壮絶なボールの奪い合いの中、俺と会長が、正面から向かい合う。

 

「……面白ぇな」

 

「……何がだ」

 

「俺たちも、お前らも――」

 

 会長は、一拍置いてから続けた。

 

「だいぶ、余裕がなくなってきたみてぇだ」

 

 俺は、何も答えなかった。ただ、コートの隅で氷嚢を当てられている常盤の姿を、視界の端に捉えていた。

 

 前半11分。会長が両手で「T」の字を作った。

 

 ーータイムアウトを切ったか。

 

 笛が鳴り、生徒会がベンチへと戻っていく。会長が、静かに作戦を説明し始めた。だが、喜緑さんはその言葉をあまり聞いていないようだった。彼女の視線は、どこか遠くを見つめている。気のせいだろうか、「どうすれば、自分はもっと自由に点を取れるか」――そんなことを、考えているようにも見えた。

 そして、もう一人。門戸も、会長の言葉を、真剣には聞いていなかった。汗を拭いながら、その視線は、コートに立つ俺の方へと向けられていた。

 

「……モン!!」

 

 会長が、鋭く声をかける。

 

「聞いてんのか? お前は少し感情を抑えろ」

 

「……聞いてますよ」

 

 門戸は、そう答えた。だが、その視線は俺から離れなかった。

 

 ――同じ頃。門戸の記憶の中では、時計の針が、数週間前まで巻き戻っていた。

 

「モン、おまえバスケやってたんだろ?」

 

「常盤から聞いた。しかも、そこそこ上手かったんだろ?」

 

 まだ、フットサル大会に出ることすら決まっていない頃。会長が、いつもの調子で、門戸に声をかけていた。

 

「フットサルやることになったから、協力してくれ」

 

「……嫌っすよ」

 

「常盤と青木は快諾してくれたんだがな……」

 

 門戸は、露骨に嫌そうな顔をしていた。

 

「スポーツなんてめんどいこと、もうしませんよ」

 

「なんでだ?」

 

「あと、バスケなんてとっくの昔にやめたんで」

 

「でも、やってたことには変わりないだろ?」

 

「……だからって、フットサルまでやる義理はないでしょう」

 

 あの時は、ただの手伝いのつもりだった。断り切れなかった、腐れ縁の延長。それだけのはずだった。

 

 ――現在。門戸は、コートに立つ俺を、じっと見つめている。

 ――あの時は、ただの手伝いのつもりだった。

 ――なのに。

 

 

 タイムアウトが終わる。笛が鳴った。

 俺は、立ち上がる。一歩。二歩。その瞬間だった。

 

 ズンッ。

 

 腰に、鈍い痛みが走った。

 

「…………」

 

 ハルヒが、振り返る。

 

「キョン?」

 

「……なんでもない」

 

 もう一歩。

 

 ズンッ。

 

 俺の表情が、一瞬だけ歪んだのが、自分でも分かった。

 

 ――さっきまでは、気にならなかった。

 ――動いている間は、忘れていられた。

 ――でも。

 

 俺は、腰に手を当てた。

 

「……まだだ」

 

 顔を上げる。

 

「まだ、走れる……」

 

 

 コートの対岸では、門戸が、会長とベンチの常盤を交互に見つめながら、自分の過去を反芻していた。

 

 3年前。門戸直哉、14歳。

 これはまだ、彼が何者でもなかった頃、やるせない灰色の毎日を送っていた頃の話だ。

 

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