これは、この物語が幕を開ける少し前の物語…。
夕暮れの体育館には、いつも乾いた埃と、誰のあぶらともつかない汗の匂いが充満している。
門戸直哉は、14歳の引き締まった身体をコートの隅で小さく揺らしながら、ゴールリングを見上げていた。
西日が大きな窓から差し込み、激しく動く床の上の埃をきらきらと金色に光らせている。その光のカーテンを引き裂くようにして、同級生の東が鋭いドライブから見事なレイアップシュートを決めた。
ボールがネットを揺らす快音は、自分の手から放たれたものではない。もっと高く、もっと鮮やかな弧を描いて落ちていくその放物線を、直哉はいつからか、少しだけ冷めた目で見送るようになっていた。
バスケは嫌いじゃない。及第点のシュートも打てるし、パスの配給もそこそこ上手い。ただ、東のようにコートの空気を一瞬で支配してしまう本物の天才を前にすると、胸の奥にある熱の逃げ場が分からなくなるのだ。
そんなコートの上で、直哉とは全く違う理由で浮いている男がいた。小学校からの同級生、常盤だ。
常盤は致命的にバスケが下手だった。今日もパスをファンブルし、先輩に怒鳴られている。なのに、あいつはなぜか、誰よりも楽しそうにボールを追いかけているのだった。
部活が終わると、直哉と常盤はいつも並んで学校を後にする。
自転車のペダルを漕ぎ出すと、夕方の少し冷えた風が、火照った頬をなでていった。並木道の影がアスファルトの上に長く伸びている。
東たちの放つ圧倒的な光から逃げるように走る帰り道。でも、隣に常盤の漕ぐ自転車の、少し立て付けの悪いチェーンの音が響いているだけで、不思議と世界の尖った部分が丸くなっていく気がした。
直哉は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「お前、下手だよなー」
常盤は気を悪くする風でもなく、のんきに笑った。
「下手だねー、全然上手くならない」
「なのになんで続けてんだよ」
本当に不思議だった。自分は「そこそこ上手い」のに、天才たちとの差に勝手に絶望して熱くなれずにいる。なのに、どうしてあんなに下手な常盤が、楽しそうに笑っていられるのか。
常盤は自転車のハンドルを握り直すと、夕日に目を細めて言った。
「俺、モンちゃんと一緒にバスケやるの楽しいから」
直哉は一瞬、ペダルを漕ぐ足を止めそうになった。胸の奥の、一番柔らかいところを不意に突かれたような気がして、急に耳の裏が熱くなる。直哉はわざと乱暴にペダルを漕ぎ、常盤の少し先へ出た。
「なんだよそれ……。あと、もうモンちゃん言うのやめろよ」
「えー、いいじゃん別に」
常盤の笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。
家に向かう一本道。自分の部屋はもう三週間も片付けていなくて散らかり放題だ。境界線をきっちり引くのが「掃除」なら、自分にはその才能が致命的に欠けている。けれど、常盤との間にあるこの曖昧で心地よい境界線だけは、悪くないなと直哉は思っていた。
時計の針が19時半を回る。
誰もいない静かで冷え切った台所へ、直哉は滑り込んだ。ここだけは、彼が自分の「境界線」を正しく保てる聖域だった。
トントン、と小気味よい音を立てて、キャベツとベーコンを刻んでいく。 鍋にバターを溶かし、具材を炒める。じゅわあ、という湿った音が、先ほどまで体育館で響いていたバッシュの音や、帰り道の常盤の声を、優しく包み込んでいく。
コンソメのキューブを落とし、弱火でじっくりと煮込む。湯気とともに、甘く温かい匂いが台所に満ちていった。
コートの上で、どれだけ高く跳ぶ彼らを見上げて無力感に苛まれても、このスープの完璧な味付けだけは、直哉だけのものだ。
カチャリ、と深夜近くになって静かに玄関のドアが開いた。
「ただいま……。あ、いい匂い。直哉、まだ起きてたの?」
仕事で疲れ切った母親の声が響く。
「おかえり。スープ、温め直すよ」
直哉は立ち上がり、静かな夜の台所でガスコンロに火をつけた。青い炎が、小さな鍋を包み込む。
明日もまた、あの埃っぽい体育館へ行かなければならない。けれど、お腹の底からじんわりと温まっていくスープの匂いに包まれながら、直哉は「モンちゃん」と呼ぶあいつのパスを、明日はもう少しだけ丁寧に受けてみようかと、静かに思った。
部活を辞める理由は、誰かを納得させられるような大層なものではなかった。
「なんとなく、つまらなくなっただけ」
直哉が口にしたその言葉を、周囲の大人や東たちは『受験に専念するため』という都合の良いラベルに貼り替えて納得した。けれど、一番最初に打ち明けた常盤だけは、ラベルの裏にある直哉の本当の気怠さを、そのまま受け止めてくれたようだった。
「じゃあ、俺も辞めるよ」
放課後の、いつもの夕暮れの帰り道。常盤は自転車のハンドルを握ったまま、あっさりとそう言った。
「あんなに頑張ってたじゃん」
思わず声を大きくした直哉に、常盤はいつもの締まりのない顔で笑いかけた。
「モンちゃんいなきゃ、面白くないから」
それから二人の時間は、急速にその熱を失っていった。
塾の自習室の硬い椅子に座り、だらだらと参考書をめくる毎日。体育館の乾いた埃の匂いも、バッシュが床をこする甲高い音も、すべてが遠い世界の出来事のように薄れていく。窓の外を通り過ぎる季節だけが、直哉の散らかった部屋の床を、秋の落ち葉から冬の乾いた光へと静かに模様替えしていった。
15歳になり、春が来て、二人は揃って地元の県立高校へ進学した。
制服が水色のブレザーに変わったけれど、通うのは成績が普通の、これといって特徴もない、何の変哲もない学校だった。
高校の体育館からも、放課後になるとバスケットボールの弾む音が聞こえてくる。
けれど、直哉も常盤も、もうその扉を開けようとはしなかった。直哉は相変わらず、夜遅く帰る母親のために台所で完璧な手際でスープを煮込み、自分の部屋の掃除からは目を背け続けている。
ただ、時折、夕暮れの帰り道に常盤の自転車のチェーンが鳴るのを聴いていると、直哉の胸の奥が、ほんの少しだけ冷たく爆ぜるような感覚がすることがあった。
あの時、天才たちの背中を見上げていた14歳の自分の、あの行き場のない「熱」は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
何もない、けれど何かが決定的に変わってしまった三人の青い春が、静かに始まろうとしていた。
高校の教室は、中学のそれよりも少しだけ広くて、少しだけ冷めていた。そこで門戸直哉は、青木というがたいのいい男と席が前後になった。クラスで一番声がデカい青木は、中学時代は野球部だったらしいが、高校では何の部活にも入っていなかった。
「野球部ってさ、強くても弱くても練習きついだろ。それに俺より上手いのなんていっぱいいるし」
購買の焼きそばパンを頬張りながら、青木はデカい声であっけらかんと言った。その言葉は、直哉の胸の奥にある、ずっと名前のつかなかった澱(おり)にするりと滑り込んできた。なぜだか、驚くほど気が合った。
「甲子園目指したいとかなかったの?」
直哉が尋ねると、青木はコーラでパンを流し込みながら、笑って首を振った。
「全然。周りが野球やってたから何となくやってただけ」
ますます気が合った。
「なんとなく」で何かを辞めてしまった自分を、ここでは誰も責めないし、大層な理由を求めることもない。いつの間にか、直哉と青木の二人に、あの致命的にバスケが下手だった常盤を加えた三人で行動することが、新しい日常の形になっていた。声のデカい青木と、のんきな常盤、そして一歩引いた直哉。変哲のない県立高校の、変哲のない放課後。
そんなある日、常盤が放課後の教室で、およそあいつには似合わないパンフレットを広げて言った。
「ねえ、これ。生徒会が募集してる地域のボランティア活動。俺、参加しようと思うんだよね」
「はあ? お前がボランティア?」
青木が目を丸くして大声を出す。直哉も眉をひそめた。
「なんでまた急に」
「いや、なんか面白そうだし。二人も手伝ってよ。人手が足りないんだってさ」
常盤はいつもの締まりのない顔で、けれどどこか譲らない目で二人を見つめた。
結局、直哉と青木は「だるいな」と言い合いながらも、常盤のペースに巻き込まれる形で、渋々その活動を手伝うことになった。
それは、週末の土曜日、町の古い公民館とその周辺の雑木林を掃除する、という何の変哲もない地域の美化活動のはずだった。
しかし、掃除が何よりも苦手な直哉にとって、その「散らかった場所」へ足を踏み入れることは、かつて14歳の自分が置いてきてしまった『あるもの』と、再び対峙することになる始まりだったのだ。
十月の終わりの風は、雑木林の木々を激しく揺らし、乾いた落ち葉の匂いを町中に振りまいていた。
地域のボランティア活動を終えた門戸直哉は、16歳の身体を包むジャージを汗だくにし、爪の間にまで黒い泥を詰め込んでいた。あれほど嫌いだった「散らかった場所の掃除」だったはずなのに、不思議と嫌な気分ではなかった。
公民館の前に集まった地域のお年寄りたちから、冷たいお茶のペットボトルと一緒に「ありがとうねえ、助かったよ」という言葉をかけられたとき、直哉の口元からは、自分でも驚くほど自然な笑顔がこぼれていた。
「誰かの為になるのっていいかもな……」
ぽつりと言った直哉の言葉を聞き逃さず、隣にいた常盤が「モンちゃん、そんなこと言うんだ」と、これまでにないほど大きな声で笑った。その隣で、泥がついたスニーカーをコンクリートに打ち付けながら、青木がいつものデカい声で応じる。
「俺はいい感じに退屈しのげて、いい感じに体動かせるからいいや」
何となく始めたボランティアだったが、三人はその流れのまま、放課後の居場所として生徒会に加入することになった。
放課後の生徒会室は、あの西日の差し込む体育館の喧騒とも、塾の自習室の息苦しさとも違っていた。ストーブの灯油の匂い、古い書類の紙の匂い。そこで三人で過ごす時間は、直哉にとって、自分の「境界線」を穏やかに保てる新しい聖域になりつつあった。
季節は足早に過ぎていった。文化祭の片付けが終わり、並木道の木々が完全に葉を落とし、放課後の5時が夜のように暗くなり始めた頃。世界が灰色と白のグラデーションに染まる、冬が到来しようという、ある日のことだった。
生徒会室の窓の外で、今年最初の冷たい霙(みぞれ)がガラスを叩き始めたとき、直哉は手元の書類をトントンと机に揃え、静かに口を開いた。
「俺、生徒会、抜けるわ」
ストーブの爆ぜる音が、一瞬、やけに大きく響いた。常盤の手が止まり、青木が怪訝そうに眉をひそめて直哉を見る。14歳のあの日、バスケ部を「なんとなく」辞めたときと同じ、ひどく静かで、けれど誰にも動かせない確かなトーンが、冬の生徒会室に満ちていった。
窓の外では、今年最初の冷たい霙(みぞれ)がガラスを叩き始めていた。 生徒会室のストーブが、時折、爆ぜるような小さな音を立てる。
手元の書類をトントンと机に揃え、門戸直哉は静かに口を開いた。
「俺、こういうの向いてないんだと思う。……だから、やっぱり生徒会抜けるわ」
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「なんとなくつまらなくなった」そう言って14歳でバスケを辞めて、逃げ出したあの日と同じ、ひどく静かなトーンだった。
でも、本当の理由は違っていた。生徒会活動が嫌いなわけじゃない。常盤や青木と一緒にいるのも嫌じゃない。むしろ――楽しかったのだ。楽しすぎて、何かにまた少しずつ熱中しかけている自分に気づいてしまった。だから、自分の底を知るのが怖くて、その前にリセットしたかった。
青木が怪訝そうに眉をひそめ、直哉を見据える。
「なんでだ?」
「別に。向いてないんだよ、こういうの」
「何が向いてねぇんだ?」
「……知らねぇよ」
直哉は吐き捨てるように言った。自分でも、この胸の奥にある「熱への恐怖」をどう言語化していいか分からなかった。
ただ一人、常盤だけは、その言葉の裏にある直哉の輪郭をすべて察していた。
「……モンちゃん、また?」
生徒会室を出ようとした直哉の足が、ぴたりと止まる。
「……何がだよ」
「バスケ辞めたときと同じ顔してる」
その言葉は、直哉の一番触れられたくない核心に、鋭く、深く刺さった。耳の裏が急速に熱くなる。
「一緒にすんなよ」
「一緒だよ」
常盤の声は震えていたけれど、真っ直ぐだった。
「モンちゃん、楽しくなってきたとき、いつも逃げるじゃん」
直哉は、何も言えなくなった。
気まずい沈黙を破ったのは、がたいのいい青木だった。彼は直哉を引き止めようともせず、あっけらかんと言った。
「分かった」
今度は直哉が、裏切られたような心地で驚く。
「……止めねぇのかよ」
「止めてほしいのかよ?」
「……そういうわけじゃねぇよ」
「じゃあ好きにしろ」
冷たく突き放すような青木の言葉に、直哉は逃げるようにドアのノブに手をかけた。その時だった。
「行くなよ‼︎」
振り返ると、常盤が泣いていた。大粒の涙を流しながら、叫んでいた。
「なんでそんな簡単に行くんだよ、直哉……! 続けてみなきゃわかんないことだってあるじゃんかよ。熱中することが逆にダセェとか思ってんじゃねぇよ‼︎」
「熱中することがダサい」――その剥き出しの言葉が、直哉のプライドを粉々に砕く。何も言えなくなり、立ち尽くす直哉の背中に、青木が静かに声をかけた。
「モン、今日はとりあえず帰れ。明日2人でゆっくり話せよ」
直哉は弾かれたように、冬の冷たい雨の中へと飛び出していった。
直哉が去った後の、薄暗い帰り道。
霙が混じるアスファルトの上を、青木と常盤は並んで歩いていた。常盤の自転車のチェーンが、いつもより寂しげな音を立てて鳴っている。
「俺、ちっちゃい頃さー。体でかい奴らから、いじめられてたんだよ」
常盤が、赤くなった鼻をすすりながらぽつりと言った。
「まぁ、何となく想像できる」
青木が白い息を吐きながら応じる。
「でも、モンちゃんいっつも助けに来てくれてさー。俺にとっては幾つになっても正義のヒーローなんだよね」
「あいつは優しいからな」
青木の声には、すべてを見通したような温かさがあった。
「普段ずっとカッコつけて冷めたふりしてるけどさ、困ってる人いたらほっとけないんだよね……。だから、たぶん戻ってきてくれるよ、モンちゃん」
その夜、直哉は誰もいない静かな台所で、いつも以上に丁寧にスープを煮込んでいた。
トントンと響く包丁の音。じゅわあ、と溶けるバターの匂い。
かつてはここだけが自分のコントロールできる聖域で、ここ以外はすべて散らかった部屋の混沌(こんとん)だと思っていた。
でも、昨日の常盤の涙を、青木のぶっきらぼうな優しさを思い出す。
熱中することは、ダサいことなんかじゃない。自分の「そこそこ」な限界を知るのが怖くて、傷つく前に境界線を引いていたのは、自分自身だったのだ。
「……弱いやつ置いて、泣いてるやつ置いて逃げてたまるかよ」
完璧な塩加減に仕上がったスープの湯気を見つめながら、直哉は小さく呟いた。
翌日の放課後。
生徒会室の古い木製のドアが、静かに開いた。ストーブの匂いと、二人の気配がそこにある。
「うっす」
直哉が、少し気まずそうに、でも昨日までとは違う、すっきりとした顔で部屋に入ってくる。
その姿を見た瞬間、常盤と青木の顔に、冬の寒さをすべて吹き飛ばすような、とびきりの笑顔が咲いた。
新しく生徒会長の座についたのは、三人の知らない男だった。
名前は「好きに呼んでくれ」だそうだ。最初は、少し古風で真面目な堅物ぐらいにしか思っていなかった。
「その件については、私の一存で処理してもかまわんよ」だとか、「次回の予算案をこちらに提出してくれたまえ」などと、高校生とは思えないような、どこか尊大で浮世離れした言葉遣いをする男だったからだ。
しかし、その化けの皮が剥がれるのは一瞬だった。
「ふぅ……」
放課後の生徒会室。窓を開け放ち、会長は平気な顔でポケットからラッキーストライクを取り出して火をつけた。紫煙が真冬の風に揺れる。常盤が目を丸くし、青木が呆れたように鼻で笑う。
直哉たちはすぐに理解した。こいつは、所謂(いわゆる)不良だ。それも、小綺麗な制服の裏に底の知れない闇を隠し持った、質の悪い手合い。
会長はデスクに気怠げに頬杖をつき、煙草をくゆらせながら三人を見据えた。
「門戸、常盤、青木……だったな」
「よく覚えてますねぇ」
青木が少し挑発するように、がたいのいい体を揺らす。
「名前くらい覚えるだろ。君たち三人の中が妙にいいことは、嫌でも耳に入ってくる」
会長はフッと冷たく笑うと、机の上に置かれていた地域のボランティア活動報告書に手を伸ばした。
パラパラとページをめくっていた会長の指が、ある一箇所でピタリと止まる。
眼鏡の奥の三白眼が、鋭く細められた。会長が見つめていたのは、直哉が担当したページだった。
それは、常盤や青木の雑な書類とは一線を画していた。異様なほどに字が綺麗で、誤字が一つもない。予算や人数の数字も寸分の狂いなく綺麗に揃っており、提出された書類の角までもが、定規で測ったようにきっちりと揃えられていた。
包丁を握り、完璧な分量と手順でスープの味を調える直哉のあの「潔癖さ」が、無意識に書類の上にトレースされていたのだ。
会長は煙草を灰皿に押し付け、直哉をまっすぐに見上げた。
「お前、こういうの得意なのか?」
直哉は目をそらし、ぶっきらぼうに返す。
「……別に」
「じゃあ、なんでこんな綺麗なんだ?」
「気になるから」
整っていないもの、境界線が曖昧なものが、ただ生理的に気持ち悪いだけだ。
直哉の答えを聞くと、会長は口元だけで少し笑った。
「なるほどな」
その瞬間、直哉の胸の奥で、冷たいアラートが鳴り響いていた。
(……こいつ、嫌な奴だ)
常盤はただ圧倒されているだけで、青木も「変な奴だな」くらいにしか思っていない。でも、直哉だけは本能的に、会長の底にある「他人の本質を容赦なく暴く目」に、強烈な嫌悪感を抱いていた。
そして同時に、会長の目もまた、直哉に対して「お前も感じ悪いな」と告げているのが分かった。
お互いの第一印象は、これ以上ないほどに最悪だった。だが、嫌悪と同時に、直哉の心には別の感情も芽生え始めていた。
会長は口が悪い。態度も最悪だ。けれど、直哉の書類の「綺麗さ」の理由を、ただ真面目だからではなく、直哉の内面にある『業(ごう)』のようなものとして一瞬で見抜いてみせた。
(こいつ、人間をよく見てる――)
西日の差し込む生徒会室。煙草の焦げた匂いの中で、三人の生ぬるかった放課後は、この最悪で、切れるように聡明な男の手によって、ゆっくりと、しかし確実に動かされようとしていた。
「お前ら、俺とおもしれぇことやってみねぇか?」
会長は、窓の外の青い闇に向かって煙草の煙を吐き出しながら、低く、愉しげにそう言った。
その言葉は、生徒会室の古びた床を小さく揺らしたような気がした。
高校生離れした尊大な言葉遣いも、平気でルールを破る不良としての傲慢さも、すべてはその「おもしれぇこと」という不穏な響きの中に溶けていく。
「おもしれぇこと、って何です?」
青木が眉をひそめて聞き返す。常盤はただ、会長の横顔をじっと見つめていた。
会長はすぐには答えず、ただ不敵に口元を歪めただけだった。そして、
「まだ決めてねぇよ」
それは、直哉たちが必死で守ろうとした「ぬるま湯の放課後」を、跡形もなくぶち壊してしまうような、底知れない熱を孕んだ誘いだった。
第一印象は最悪。こいつのことは好きになれない。そう思ったはずなのに、直哉の胸の奥で、14歳のあの日からずっと眠っていたはずの「何か」が、ドクリと不穏な音を立てて跳ねた。