ドクリ。
そんな音が、確かに聞こえた気がした。心臓の音にしては、随分と場違いな場所から響いてきたような感覚だった。
大体育館。溢れかえる観衆。割れんばかりの歓声。
あぁ、そうか。俺は今、フットサルの試合をしていたんだったな。
腰の鈍い痛みが、まだ残っている。俺は一度、目を閉じた。
……なぜか、妙な感覚がする。何かを見ていた気がする。いや、見ていた、というより――誰か他人の人生を、勝手に覗き見していたような。
バスケットボール。14歳。常盤。青木。生徒会。
そして――。
「……門戸」
目の前にいる男の姿を見て、俺は呟いた。門戸がこちらを見る。その目から、俺は視線を逸らさなかった。
……いや。ちょっと待て。
「……直哉」
自然と、そんな単語が口をついて出ていた。門戸の眉が、ほんのわずかに動く。俺自身も、その瞬間、固まった。
なんだ、今。俺は何て言った?なんで俺が、初対面のはずのこいつの下の名前を、当たり前みたいな顔をして呼んでるんだ。
「…………お前、俺と会ったことあるっけ?」
門戸が聞いてくる。直哉。それが、こいつの名前なのか。おかしい。なんで俺が、初対面のはずのこいつの下の名前を知ってる。俺は、こいつのことを「門戸」としか呼んだことがないはずだ。そもそも――直哉なんて、いつどこで聞いた。
「……」
考えようとした瞬間。さっきまで頭の片隅に引っかかっていた違和感が、すっと消えていった。まるで最初から、そんなものは存在しなかったみたいに。
「……まあ、いい」
今はそれどころじゃない。目の前には門戸がいる。勝たなきゃいけない相手がいる。
門戸直哉――。いや、やっぱり変だ。俺は、いつからこいつをそう呼んでいたんだ。
門戸は、俺から目を逸らさない。一歩も退かない。ただ、真っ直ぐに俺を見ている。
「……そういう顔するんだな」
門戸は何も答えない。ただ、低く構える。
俺も腰を落とした。鈍い痛みが走る。
「……まだ、やれる」
視界の端で、生徒会のベンチが動いているのが見えた。常盤が、小柄な女子選手に何かを伝えている。
「いいかい、しーちゃんの役目忘れないで。とにかく落ち着かせること。それだけでいい。あとは会長に任せて」
「はい!! わかりました、祥吾さん」
「よし、じゃあ行って!! 困ったらモンちゃんを呼んで。きっと、何とかしてくれるから……」
そう言うと、常盤はにっこりと安心させるように微笑んだ。つられて、笠屋という名らしい彼女もニコリと微笑む。
「あと、みんなと一緒でトッキでいいから」
そう言いながら、常盤はコートへ向かう笠屋の背中を優しく押した。
祥吾さん。それが常盤の名前なのか。直哉、祥吾――それがあいつら二人の名前か。これまでどこか掴みどころのなかった、いや、俺たちが勝手にそう思い込んでいただけだろう。そんな二人の輪郭が、なぜか少しだけ、はっきりとしていくように感じた。
笠屋が、遅れてコートに入ってくる。笛が鳴る。試合が再開された。
前半11分。常盤の負傷交代によって入った、笠屋詩織へとボールが渡る。小柄な身体、後ろで束ねた髪。だが、さっき会長から名前を呼ばれた直後のような動揺は、もう消えていた。表情は、意外なほど落ち着いている。
「……いつも通り。いつも通り」
自分に言い聞かせるように呟いている。ベンチの常盤も、声をかけていた。
「しーちゃん、足元じゃない! 前見て、前! みんなの位置、要確認!!」
「はい!」
力強い返事だった。
笠屋が動き出す。生徒会の陣形は、常盤を失って明らかに乱れかけていた。だが、笠屋が周囲を見渡す。門戸。青木。喜緑さん。会長。それぞれの位置を、一つ一つ確認していく。
「モンさん、少し下がって!」
門戸が下がる。
「シジマさん、中央!」
ゴレイロの青木が、ゴールネットの中央へと戻り、構える。シジマ。それが青木の名前か。どういう漢字を当てるのか知らんが、それも渾名なのか本名なのか、俺には判別のしようがなかった。
「エミリさん、そこです!」
喜緑さんが、どこか不服そうに動く。
笠屋の指示で、少しずつ、乱れかけていた形が戻っていく。会長が、笠屋を見た。
「……悪くない。いいぞ、しおり」
笠屋は、派手なプレーをするわけじゃない。だが、乱れた盤面を、着実に整理していく。チーム全体の呼吸を整える。メトロノームの役割。それが、彼女の武器だった。
SOS団の攻撃。ハルヒが、左サイドでボールを受ける。笠屋が、正面に立った。
「……あんたが相手?」
「そうです」
「みくるちゃんみたいね……。どいて!」
ハルヒが突破を仕掛ける。笠屋も負けじと対応する。ハルヒが一度、切り返す。笠屋もついていく。
「……!」
もう一度、逆へ。
「私も……読めますから」
「へぇ……! おもしろいじゃないの!!」
ハルヒが速度を上げる。笠屋も食らいついていく。身体能力では、明らかにハルヒに分があった。だが、笠屋は、ハルヒの進路を先回りして塞ぐ。
「……やるじゃない!」
「団長さんからお褒めの言葉……。よきです」
……何だよ、よきって。おい、生徒会の中にも変な語彙を使う奴がいたのか。
「でも――」
ハルヒが一気に加速した。笠屋が、半歩遅れる。ハルヒが前へと抜けていく。
「……!」
「私のほうが速い!」
ハルヒが突破する。だが――笠屋は、すぐに体勢を立て直した。
「まだ終わってません!」
ハルヒのパスコースを、身体一つで切ってみせる。
「……!」
古泉へのパスが、それで潰れる。俺はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
――あの子、常盤の代わりってだけじゃない。
派手な突破を止める。味方の位置を修正する。ハルヒが空けた場所を埋める。乱れそうな生徒会を、もう一度、丁寧に整える。
――整える役目か。国木田とはまた違う、あいつらなりの秩序の守り方ってわけだ。
しかし、SOS団も負けてはいなかった。門戸が前へ出る。谷口が、それを追う。右足には違和感、左足には擦り傷。それでも、全力で走っている。
「まだだ……!」
接触。これまでの蓄積疲労が、そこで一気に牙を剥いた。身体がふらつき、バランスを崩す。
「うわっ――!」
ドンッ!
今度は左脇を、床に強く打ちつけた。
「……っ!」
谷口が、一瞬だけ顔を歪める。だが、すぐに立ち上がった。
「……痛ぇ。痛ぇけどよ」
それでも、走る。
「弱音吐くような奴のところになんか、勝利の女神は降りてこねぇんだよ!!」
谷口……。お前……。俺もつられて叫んでいた。やれやれ、参ったね。だが、あいつのそんなところを見せられたら、気持ちが動かねぇわけがねぇだろ!!
「お前らぁぁぁぁぁ!! うちの特攻隊長が命懸けで走ってんだ!! 前半残り、少しも気ぃ緩めんじゃねぇぞ!!」
「あったりまえじゃないの!!」
ハルヒが、
「無論!!」
古泉が、
「死んでも止める!!」
そして国木田も叫ぶ。
喜べ谷口、お前にSOS団特攻隊長の称号を、正式に授与してやるぜ。
谷口が、再び全力でダッシュする。
「――っ!」
左脇に、また痛みが走る。一瞬、速度が落ちる。だが、止まらない。
「……クソッ!」
ベンチでは、朝比奈さんが谷口の姿に、思わず声を漏らしていた。
「谷口くん……」
「たぶん、大丈夫じゃないっさ」
鶴屋さんが、静かに答える。
「……!」
「でも、あの子は走る」
谷口が、また走る。
「……走っちゃうんだろうね」
鶴屋さんは、辛そうな顔をしながらも、走り続ける俺やハルヒや古泉の方を見ていた。
「……大好きな人たちが困ってるとこ見たら、助けに行きたくなっちゃうんだろうね」
その一方、コートの上では、確かな変化が起き始めていた。
門戸がボールを受ける。今までなら、こういう時、あいつは必ず会長を見ていたはずだ。だが――見ない。
「こっちだ!」
自分で判断している。喜緑さんが走る。青木が、後方から上がってくる。笠屋がその形を整えようとする。会長が一瞬だけ、反応に遅れた。
「モン?」
「モンさん、そこなら青木さんを――」
「いや」
門戸が、逆方向へと動く。
「え?」
喜緑さんも、別方向へと走り出した。
「エミリさん、そっちは――」
「こっちのほうが、楽しそうです」
「……!」
笠屋は、二人を見ながら、必死に修正しようとする。
「待ってください!」
しかし――二人とも、止まらない。誰一人として、止まらなかった。もうこの局面は、笠屋一人の制御できる次元を超えていた。
その時、笠屋の足元へ、こぼれ球が転がってきた。ハルヒが、猛ダッシュでそこへ突っ込んでくる。ハルヒの目は、もう一般の女子高生のものじゃなかった。覚悟を決めた、勝負師の目だった。
その勢いに圧倒され、笠屋は思わず涙を浮かべながら、その名前を叫んだ。
「モンさーーーん!!」
その瞬間だった。
「泣くな。もう大丈夫だぞ、シオ」
猛然と自陣へ戻ってきた門戸が、ハルヒからボールを奪う。
会場中が、どっと沸いた。
「心配ないよ。いざって時には必ず助けに来てくれる…。モンちゃんは正義のヒーローだもの」
生徒会ベンチでは常盤がそう言いながら、声を震わせていた。
それじゃあ俺は、その正義のヒーローとやらに相対する怪獣か何かかい?ちなみに宇宙人はもう既にいるんだがな。
「来ると思ってたぜ、そこに」
「キョン、なんで、あんたがそこにいるのよ……」
俺は、そのまま門戸の前へと躍り出た。やれやれ、陣形完全無視かよ。まぁ、こっちも似たようなもんだが。
「弱い奴、泣いてる奴、困ってる奴がいたら助けてやるのが世の常だろ?」
「それだけには同意してやる」
俺たち二人のマッチアップの、ゴングが鳴った。
「……門戸」
「……キョンだっけか? 変なあだ名だな」
二人が向かい合う。これまでなら、門戸は会長を見ていたはずだ。次にどこへ動くべきか。誰へパスを出すべきか。会長の指示を、いつも待っていた。
しかし――今は、違う。門戸が、ボールを受ける。俺は、間合いを詰めた。
――来る。
門戸が、右へ動く。俺も右へ。一歩。二歩。俺は、門戸の身体の向きを見る。肩。腰。視線。そして、次に出すであろうパスコースを読む。
――右から中央。
そう判断した瞬間、門戸が、動きを止めた。
「……!」
門戸が、ボールを足裏で止める。俺の動きが、一瞬だけ止まった。
「……そうやって読むんだな」
「!」
門戸は笑わなかった。ただ、俺を見ている。
「お前が、どう動くか」
「……何?」
「分かってきた」
俺は、一歩下がった。門戸が、前へ出る。今度は俺が、後退する。
――こいつ……。
今までの門戸は、会長の作った形を、忠実に守るだけの男だった。だが今は――自分で相手を見ている。自分で判断している。
門戸が、右足を振った。パス――ではない。俺の足元へ、ボールを運んできた。
「……!」
門戸が、身体をぶつけてくる。俺は、それを堪えた。ボールは、門戸の足元にある。
「逃がすかよ!」
足を伸ばす。門戸が、ボールを引く。俺の足が、空を切った。
「……まだだ」
門戸が、反転して一気に前へ出る。俺は、それを追った。
そして――横に並んだ。
「お前、今までこんな動きしてなかっただろ」
「してなかった。つうか、できなかった」
「じゃあ、なんで今できる?」
門戸は、前を向いたまま答えた。
「……知らねぇよ」
一瞬、門戸の目が変わる。
「ただ――」
ボールを、前へと運んでいく。
「今は、こうしていたい」
「……!」
門戸が、加速する。俺も追う。二人が、並走する。門戸は、ゴールだけを見ているわけじゃなかった。左に喜緑さん。右に笠屋。中央に会長。そして、自分を追ってくる俺。その全部を、見ていた。
――こいつ、見えてやがる。
門戸が、一瞬だけ俺を見た。そして――俺の逆を突く。右へ抜ける。
「なっ――!」
完全には抜かせない。俺は、身体を入れた。門戸も止まらない。二人の身体が、並ぶ。
「……何だか知らねぇけど、負けたくなくなってきた」
「俺だってな!! しかも、お前よりとっくの昔からだ!!」
俺たち二人の身体が、激しくぶつかり合う。俺は、そのまま門戸に問うた。
「なぁ、あの常盤ってやつはお前にとって何なんだ?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、門戸がニコッとしながら答える。
「大親友だ。ただし、あいつは俺よりも強いぞ。当然キョン、お前よりもだ」
やけに自信満々に言ってくれるじゃねぇか。
俺は、ボールへ足を伸ばす。門戸が、ギリギリでかわす。そのまま、前方へとパスを出した。その先にいたのは――喜緑さんだった。
俺は、思わず振り返る。門戸は、そのまま走り続けている。
――自分で選んだのか。
これまでなら。会長が指示する。門戸が動く。喜緑さんが動く。常盤が合わせる。そうやって、生徒会というチームは成立していたはずだ。
だが、今は違う。門戸が、自分で判断し、自分で動き、自分でパスを出した。そして――喜緑さんも、その動きに、自然と合わせている。
「……ゲームを作ってる」
その言葉が、思わず口から漏れた。
「モンさん、そこは――」
「分かってる」
「……え?」
門戸は、もう走り出していた。笠屋が、慌てて周囲を見渡す。会長。門戸。喜緑さん。自分。そしてボール。
「……待ってください!」
笠屋が、「整理する側」として、必死に生徒会を立て直そうとする。だが、門戸と喜緑さんは、すでに、今までの生徒会の「型」から完全に外れ始めていた。
「モン、戻れ!」
「……いや」
「喜緑、そこじゃない!」
「大丈夫ですよ」
「そういう問題じゃ――」
会長の言葉が、そこで止まった。門戸と喜緑さん。二人とも、自分の判断で動いている。会長が作った、あの完璧な練習パターンから、確かに外れている。
笠屋は、必死に全体を見渡していた。門戸。喜緑さん。青木。会長。そして笠屋自身。
「……」
どこを埋めても、別の場所が空く。門戸が前へ出れば、後ろが空く。喜緑さんが自由に動けば、中央の意味が変わる。自分が合わせれば、また別の場所が空く。
「……こんなの……」
初めて、整理しきれない。
「……練習に、ありません……」
ベンチでは、鶴屋さんが、じっとコートを見つめていた。
「……始まったね」
「何がですか?」
「ゲームを作ってる人が、変わったっさ」
鶴屋さんの視線は、会長と門戸の間を、静かに往復していた。
「今までは、会長が全部を動かしてた」
「でも今は――」
門戸が、自分でパスコースを作る。喜緑さんが、勝手に走る。
「門戸くんが、ゲームを作り始めてる」
「……」
「そして喜緑さんも、自分で動き始めた」
俺は、門戸を見た。喜緑さんを見た。笠屋を見た。会長を見た。
「……」
今までなら、会長を読めばよかったはずだ。しかし――門戸は、会長の指示を待っていない。喜緑さんも、決められた場所にいない。笠屋ですら、二人の動きを、もう整理できずにいる。
「何がどうなってやがる……。読めねぇ」
一瞬、俺の思考が、完全に停止した。
門戸が、サイドへと動く。ボールを受ける。
「モン!」
門戸は、そのまま前へ出た。会長の指示を、無視する。そして叫んだ。
「エミリん!」
喜緑さんが、走る。
「待って!」
笠屋の声が、間に合わない。門戸が、クロスを上げた。
ボールが、ゴール前へと舞う。少し高い。送風機の影響で、僅かに軌道が変わる。普通なら、届かない高さだ。
だが、喜緑さんが、跳んだ。身体を反転させる。
バイシクルシュート。
「――!」
「な――! バケモンかよ、この女……」
送風機の風が、ボールをわずかに流す。だが――それすらお構いなしに、喜緑さんのシュートは、真っ直ぐゴールへと向かっていった。国木田は、あまりの速度に、一歩も反応できなかった。まるで長門を相手にしているみたいなもんだ。
ボールは、無情にもネットへと突き刺さった。
ゴォォォォル!!
1-2。生徒会、勝ち越し‼︎
SOS団、1点ビハインド。
観客が、大歓声を上げる。実況が、慌ただしくざわつく。
「……入ったか」
ボールがネットに入ったのを確認した門戸は、自軍のベンチへとピースサインを向けた。ただし、顔は向けない。あくまでも、指でVをかたどった腕だけを、そちらへ向けている。生徒会ベンチの常盤も、同じVサインでそれに応えた。もちろん、満面の笑みで。語らずとも、この二人には、通じ合うものがあるらしかった。
「……」
喜緑さんは、何も言わなかった。
「……」
笠屋も、何も言わなかった。
「マジかよ……」
青木だけが、呆然と呟いていた。
会長は、喜緑さんを見た。他のメンバーを見た。誰一人、喜びの感情を露わにしていない。味方ですら、ただ立ち尽くしているだけだった。
「やっと、少しだけ楽しくなってきましたね」
喜緑さんは、そう言った。
「後半は、もっと自由にやれるといいのですが……」
そして、前半終了を告げるホイッスルが、体育館いっぱいに鳴り響いた。
主審の笛。前半終了。
スコアボードには――SOS団 1-2 生徒会。
選手たちが、それぞれのベンチへと戻っていく。俺は、コートを振り返った。門戸。喜緑さん。笠屋。青木。そして、会長。
――妙だ。勝ってるはずなのに――。
俺は、会長を見た。
――会長が、焦ってる。
門戸を見る。喜緑さんを見る。
――違う。焦ってるんじゃない。
――自分の手に余る存在を、二つも抱え込んじまったんだ。
一つは、門戸。もう一つは、喜緑さん。
俺の目に、鋭い光が戻ってくる。止まっていた頭が、再び激しく回転を始めた。
「後半、付け込むなら――そこしかねぇ」
前半終了。ハーフタイムへ。
スコアは、SOS団1、生徒会2。
生徒会のベンチでは、常盤が、明るい声で叫んでいた。
「よしっ!! 行くよ、モンちゃん。絶対に勝つから」
そう言って常盤は、テーピングで固定された足の氷嚢を外し、軽くアップを始めていた。