涼宮ハルヒのフットサル   作:宮澤宏

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もろびとこぞりて

 歓声が完全に途絶えたわけではない。むしろ、観客席のざわめきは、前半終了直後よりもかえって密度を増しているようにすら感じられる。だが、コートの上だけは、まるで水を打ったように静まり返っていた。汗の匂いと、送風機の唸りと、遠くから聞こえる陽気なBGMだけが、そこにある現実のすべてだった。

 

 笠屋詩織は、生徒会側のベンチの前で、ただ立ち尽くしていた。

 控え選手たちが、忙しなくタオルやペットボトルを配って回っている。誰もが何かの役割を持って動いている中で、自分だけが、どこにも属さない透明な存在になってしまったような気がした。パイプ椅子に腰掛ける気にもなれず、笠屋はついさっきまで激しい攻防が繰り広げられていたコートを、ただぼんやりと眺め続けていた。まるで、その視線だけが、自分がまだこの試合に繋がっている、唯一の証であるかのように。

 

「会長……私、どうすれば……」

 

 声は、誰に届くでもなく、口の中で溶けて消えた。

 いつだって、答えをくれるのは会長だった。整理がつかなくなった場面でも、あの人はいつも、迷いのない声で次の道筋を示してくれる。そのはずだった。笠屋は、胸に手を当てるようにして、会長の座るパイプ椅子の方へと視線を移す。

 だが、そこにいる会長は、深く腰掛けたまま、俯いていた。何か途方もなく重いものを、一人で抱え込んでいるような横顔だった。声をかけることさえ、躊躇われた。

 

「しおり!! 突っ立ってないで、今はしっかり休め!! そして、水飲め!!」

 

 青木の大きな声が、水面に石を投げ込むように、笠屋の思考を割った。差し出されたペットボトルを、笠屋は機械的に受け取る。そのまま、勧められるままに、青木の隣へと腰を下ろした。

 

「シジマさん……」

 

 青木は、ペットボトルの水を勢いよく傾けながら、前を向いたまま言った。

 

「無理にみんなに合わせなくていいぞ」

 

 小柄な笠屋の身体が、一層、小さくまとまる。膝を抱えるようにして、自分の輪郭を、少しでも縮めようとするみたいに。

 

「……青木さん」

 

「それでいい。やりたくないことを無理にやるな」

 

 しばらくの間、二人の間には、言葉のない時間が横たわっていた。観客席のざわめきと、BGMの明るい旋律が、その沈黙の隙間を、他人事のように埋めていく。先に言葉を発したのは、笠屋だった。

 

「あの、青木さんは怖くないんですか。ゴールの前に立って……すごい速さのシュートがくるのに……それでも、守らなきゃいけないなんて……」

 

「怖いさ!!」

 

 即答だった。清々しいほどに、迷いのない即答。

 

「無茶苦茶怖い!! 特に涼宮のシュートなんて、なんだあれは!? 本当に女かあいつは!?」

 

 笠屋は、何も答えられなかった。自分なら間違いなく逃げ出すであろう、あの弾丸のようなボールを、この人は逃げることなく、正面から受けて立っている。仲間たちの築いてきたものを崩さないがために、たった一人で背負って、守っている。その強さの前では、どんな言葉もあまりに軽すぎるように思えた。

 

「ただな、男が一度でもやると言ったからにはやり遂げなきゃいけない」

 

「そういうのがかっこいいとか思ってるんですか?」

 

「違う!!」

 

 またしても、即答だった。

 

「頼まれたからだ。会長は、俺ならできると言ってくれた。俺を信じて頼んできた人のために、俺は最後までやり遂げたい……。それだけだ」

 

「でも、私、何もできませんでした……」

 

 笠屋の目に、涙が滲む。頬を伝う感触が、やけに冷たく感じられた。

 

「そんなことはないさ……。おまえはよくやった。モンもエミリさんも、全力を尽くした結果があれだった、ってだけだ」

 

 青木は、もう一度、ペットボトルを勢いよく傾ける。その視線は俯き続ける笠屋へと、優しく注がれていた。

 

「それに!! なんでもかんでも上手くやろうとするな!! やれることをしっかりやる。いつか、それが自分の役割になっていくんだ……。わかったか、しおり」

 

 涙は、いつの間にか大粒のものに変わって、膝の上へと落ちていった。せめて、ありがとうございます、の一言だけでも伝えたい。だが、どうしても、言葉にならなかった。

 

「今は泣くな。全部終わってから泣け」

 

 青木は、前を向いた。力強く、コートを、自分が守り続けるゴールを、見据えている。

 

「それにできなくて当然だ。そのために俺たちがいる……」

 

「そうだよ、しーちゃん。俺たちが何とかする。でも、しーちゃんにもまだやるべきことがある」

 

 常盤が、そこへやって来た。いつものような、和やかで、どこかぼんやりとした顔ではなかった。真剣そのものの、初めて見る表情だった。

 

「もう少し耐えてて。俺、まだいけるから。すぐ行く……。すぐ飛んでいくから」

 

 常盤は横を向く。その先には、あの男が立っていた。

 

「ほら、モンちゃん。女の子、泣かしたんだから責任取らなきゃだよ」

 

「トッキ……。おめぇな……」

 

 門戸は頭に乗せていたタオルを振り払い、恥ずかしそうに言った。

 

「シオ、辛くなったら俺らを見ろ。後ろは振り返るな。振り返ったって、青木の守るゴールしかねぇ。俺たちが何とかしてみせるさ」

 

 笠屋は、涙を拭った。そして、震える声で、小さく頷いた。

 

「はい……!!」

 

 門戸は、相手ベンチを見つめる。そこには、彼がいた。涼宮ハルヒでもない。古泉一樹でもない。あの男が、そこにいる。疲労を隠し切れていない、いや、もう隠そうともしなくなった、あの男が。

 体育館の高い天井から差し込む照明の光が、その視線の先を、ぼんやりと照らしていた。まるで、これから始まる何かを予告するみたいに。

 

「なぁ、トッキ……」

 

「何? モンちゃん」

 

「俺、あいつに勝ちたい……。勝ちたくなった」

 

 その声は静かだった。だが、これまでの門戸の言葉のどれよりも確かな熱を帯びていた。

 

 両チームに与えられた、10分間のハーフタイム。

 歓声は、止まっていない。むしろ、観客席のざわめきはさっきよりも増しているくらいだ。だが、俺たちSOS団のベンチだけは、まるで別の空間に切り取られたみたいに静まり返っていた。足元に置かれた冷風機から届く心地よい風が、誰の熱も冷まさないまま、虚しく通り抜けていく。耳に入ってくるのは、朝比奈さんと鶴屋さんが慌ただしく動く音と、体育館のスピーカーから呑気に流れてくる陽気なBGMだけだった。

 

 俺たち5人の首元には、アイシングが施され、そのままベンチに座らされている。俺と谷口に至っては、両膝にもだ。やれやれ、まるで戦場から運ばれてきた負傷兵の集団だな。

 頭は、猛烈な勢いで回転している。だが、身体がついてこない。この乖離が、今の俺にとって一番厄介な問題だった。

 

 ハルヒがフットサル大会に出ると言い出したあの日から、ここまでの出来事を、俺は断片的に思い返していた。

 

 最初は、ただの学校行事だった。自分が本気で試合をするなんて、これっぽっちも思っていなかった。それがいつの間にか――。

 デジコン研を倒し、野球部を文字通りの死闘の末に撃破した。予想外にも、勝ち上がってきた。信じられないことだが、これは今日一日の出来事だ。全くもって信じられない。永遠に終わらない夏休みというものは、既に経験済みだが、あれとどこか似たような感覚がある。時間の流れが、今日だけ、どこか曖昧になっている気がする。

 そして今、目の前には、俺たちより明らかに強い生徒会チームがいる。ハルヒはともかくとして、実力は俺たち一人一人よりも、確実に上だろう。こんな暇人と帰宅部の寄せ集めのようなチーム。比べること自体が烏滸がましいだろうよ、まったく。

 俺は、隣の生徒会ベンチをチラリと見た。会長は、難しい顔をしながら、何やら考え事をしている。心中はお察しするぜ。完璧に統率が取れていたと思っていた自分のチームに、突然問題児が、それも二人も出てきちまったんだからな。そりゃ、そんな顔にもなるだろ。

 喜緑さんはというと、お淑やかな顔で、差し出されたスポーツドリンクを飲んでいる。自分が会長の悩みの種だということに、気づいていないのか? それとも、分かった上で涼しい顔をしているのか。あの人に限っては、どっちもあり得る気がする。

 俺から見て、一番奥のベンチで、女子選手が泣いていた。笠屋とかいう、常盤の代わりに出た選手だ。その周りには、青木、常盤、門戸。おいおい、いくら上手く試合運びができなかったからって、そんなに泣くほど責めることはないだろうよ。まぁ、俺には関係ない話だが。

 

「直哉」

 

 また、俺はあの名前を呟いていた。俺は、身体を動かそうとする。だが、思うように動かない。

 

 ――頭だけは、嫌になるほど回ってやがる。なのに、身体は、もう言うことを聞かねぇ……。アドレナリンもドーパミンも、都合よく出てきちゃくれねぇらしい。

 

 本来なら、ここで後半に向けた作戦会議を始めるべきだった。だが、誰も口を開かない。ハルヒですら大人しい。ただ、目の前のコートを眺めているだけだ。お前のそんなところを見ると、逆に不安になっちまうんだがな、団長さんよ。

 古泉も、疲労を隠しきれていない。谷口も、先ほどまでの勢いがない。国木田も、何かを考え込んでいる。

 俺は、その沈黙に、耐えられなくなってきた。

 

 ――何か言えよ、国木田……。

 

 俺は、国木田を見た。

 

 ――お前が言い出さなきゃ、本当に俺たちはただの烏合の衆で終わっちまうぞ。

 

 だが、国木田も、いつまで経っても口を開かない。これまでの戦術が通用しなくなっている。それは分かる。身をもって、嫌というほど分かっている。

 ただ時間だけが、無情に過ぎていく。最初に口を開いたのは、意外にも、ハルヒだった。

 

「後半どうするの?」

 

「逆転はまぁ……可能な範囲でしょうね」

 

 少しの間を置いて古泉が、そう答えた。

 

 ――古泉、なんだその気の抜けた言い方は? 前半のあの勇姿はどこへいったんだ。

 

 国木田が、静かに口を開いた。

 

「なんだか、相手は戦い方が変わったような気がした」

 

 その言葉に、鶴屋さんが反応する。スポーツドリンクを配りながら、

 

「そう、そこっさ!!」

 

 鶴屋さんは、前半終盤の生徒会の変化を整理してみせた。会長のシステムと、門戸の即興が噛み合わなくなり始めていること。その一連の解説が、頭に半分残りかけていた靄を、少しずつ晴らしていく。

 

「会長は、試合全体を把握する人だっさ。一つ一つの情報を集めて、1から10までのピースを揃えて、点を線に変える。その線を使って、チーム全体を動かす」

 

 鶴屋さんは、続けた。

 

「でも門戸くんは違う。その瞬間、その場所、その選手の状態を見て判断する。決められた形に従うんじゃなくて、その場で作曲するみたいに、即興でゲームを作っちゃう」

 

「しかも、門戸くん自身がそのゲームの中心になる」

 

 俺は、思わず口を開いた。

 

「あの喜緑さんのバケモノじみたシュートを生み出したのは、紛れもなく門戸のプレーだ」

 

 頭の回転速度が、徐々に速まっていくのを感じる。これだ。これが俺が求めていた感覚だ。

 

「そして、それは会長の思考の外にあった、予想外の即興プレーだ」

 

 古泉も、考え込むように黙った。

 

「だとしたら、これは相当厄介ですね」

 

 少し間があって、古泉が続ける。

 

「警戒すべき案件が、また一つ増えたということになりますから」

 

「いや、違う……」

 

 俺は、そう言った。一同が、口を揃えて聞き返す。

 

「え?」

 

 頭の中で、何かが繋がり始めていた。

 

「会長と門戸……」

 

「会長の戦術は、いわば建設だ。あいつはその設計士なんだ。図面も素材も費用も、最初から全部決まっていて、それを期間通りに組み立てていく。最後には、全部、会長の予定通りに仕上げられちまう」

 

 俺は、頭に浮かんだ言葉を、ただ口にし続けた。

 

「それに対して門戸は……。そう、譜面の無いところから音楽を生み出す指揮者だ。その場に揃っている楽器や奏者の状況を見て、一曲を作り上げる」

 

「そして時には自らも、その交響曲の演奏者となる」

 

 少しの間、誰もがあっけらかんとしていた。それでも俺は続けた。

 

「合わない。この二人が、コート上に共存することは難しい」

 

 俺は、そう断言した。谷口が、呆れたように言う。

 

「キョン、お前、なんで言葉がそんなに説明的なんだ? 確か野球部の時もそうだったよな?」

 

 俺は、答えなかった。答えなど、持ち合わせていないからだ。この妙に整った比喩が、俺の中のどこから湧いてくるのか、俺自身が一番知りたい。

 その代わり、俺の頭に、一つの言葉が浮かんだ。

 

「何かしらの化学反応でも起きない限り、今の生徒会は……」

 

 その瞬間、俺自身が、その言葉に引っかかった。

 

 ――化学反応……?

 

 俺は、古泉を見た。これまでの試合を思い出す。俺が考える。古泉が理解し、動く。俺が、そこから新しい形を作る。俺たち二人の思考がぶつかり合うことで、最初には存在しなかったプレーが、何度も生まれてきた。

 

 ――いけるかもしれん。こいつと上手くやることができれば……。

 

 俺は、古泉を見た。

 

「試してみよう」

 

「……?」

 

「古泉、俺を操ってみろ」

 

 古泉が、黙る。

 

「このチームは、後半からお前のものだ」

 

「ちょっとあんた、勝手に決めないでよ!!」

 

 ハルヒが、慌てて割り込んでくる。だが、古泉の表情の方が、俺にとっては気になった。

 これまで俺は、自分自身が試合を読み、チームを動かしてきた。その俺が、自ら主導権を手放す。この決断が、正しいのかどうか、正直、俺にも分からない。だが、直感的に、これしかないと思った。

 

「待ってよ、キョン。前半で決めた役割分担はどうするの?」

 

 国木田が、静かに聞いてくる。

 

「あれは、選手個人の力が突出したチームにこそ相応しい戦術だ」

 

「そんなの、うちじゃハルヒくらいしかいないだろ?」

 

「これから先、勝ち上がっていくには――」

 

「俺らみたいな素人チームに合ったスタイルじゃない」

 

 前半までの戦術を、否定するわけじゃない。ただ、今のSOS団には、もっと別の戦い方が必要だ。俺には、それがはっきりと見えていた。

 

「勝ち上がるって、お前よぉ……」

 

 谷口が、若干呆れたような顔をする。だが、その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。

 

「やってやるよ!!」

 

「至極当然じゃない!!」

 

 谷口とハルヒの反応は、対照的だった。谷口は、呆れながらも乗ってくる。ハルヒは、最初から疑ってすらいない。まったく、こいつららしいというか、こういう時の温度差が、いかにもうちのチームだ。

 

「ここから後半は、当たり前だが、総力戦だ」

 

 俺は、ベンチを見渡した。長門。朝比奈さん。鶴屋さん。そして国木田、古泉、谷口、ハルヒ。

 

「ベンチも含めた、持てる力全てを投入した連携……。これしかない」

 

 誰か一人が突出するのではない。全員が、それぞれの場所から集まる。

 

 自然と、ベンチの前に円ができ始めた。

 

「じゃあ、僕からまず提案だ」

 

 国木田が、神妙な面持ちで、そう切り出した。

 

「谷口。君には一旦、休んでもらう……」

 

「は!? 何、言ってやがるんだ!? 俺はまだまだ走れる!! このチームの役に立てるんだ!!」

 

「その考えが危ないんだよ……。後ろから見てて、よく分かる。今の君は、もう限界をとっくに超えてる。気力だけで持ち堪えてる状況だ」

 

 谷口が、言葉を失う。俺なら、こんなことを親友に面と向かって言えなかったかもしれない。しかし、国木田は言ってくれている。それだけでも、ありがたい存在だと、つくづく思った。

 

「だから、後半の給水タイムまでの7分間、しっかり休息を取ってもらう」

 

「給水タイム明けの8分間で、全てを出し切ってもらいたい」

 

「必ず谷口が必要な場面が来る!! それまでに、体力を取り戻しておいてほしい」

 

 谷口は、取り乱していた。自分の役割を奪われたように感じているのが、はっきりと伝わってくる。

 

「ちょっと待てよ、俺が休んだら――誰が走るんだよ……?」

 

 しかし、国木田は答える。その言葉に、迷いはなかった。

 

「僕たちが走る。君がここまで走ってきた分も、僕たちが背負う。今度は僕たちが君を支える番なんだ」

 

 谷口にとって、「走らないこともチームへの貢献になる」という、新しい価値観が突きつけられていた。

 

「……代わりは?」

 

「一人しかいないだろ……」

 

 国木田が、視線を長門へと向ける。

 

「長門に何ができるんだよ!? そりゃ、パスがくれば最強だけどよ!! そんなこと簡単に許してもらえる相手じゃないことだって、俺にもわかるぜ!!」

 

「それは違う!!」

 

 俺は、思わず叫んでいた。全員が、俺を見る。

 

「今、言っただろ? 全員で戦うって……」

 

 俺は、長門を見た。

 

「長門が何をするかは、パスを受けてから決めるんじゃない」

 

「お前はずっと、ここから試合を見てた。俺たちが何をして、相手がどう動いて、どこで崩れたのか……。全部見てただろ?」

 

 長門は、静かに頷いた。

 

「だったら、長門――お前にしかできないことをやれ」

 

 長門が、立ち上がる。

 

「……その判断に、矛盾は無い」

 

 谷口は、肩を震わせ、泣き始めた。

 

「頼むよ。走らせてくれ。俺にも戦わせてくれ……」

 

「谷口……」

 

「高校に入って、ようやく一生懸命にやりたいことができたんだ……。だから……」

 

 俺は、谷口の肩にそっと手を掛けた。何も言うな。もう十分に、その気持ちは伝わってる。

 

「俺は涼宮や古泉と違って何でもこなせるわけじゃねぇ……。国木田みたいに頭がキレるわけでもねぇ……。俺みたいな凡人はここじゃ、走ることぐらいしかできねぇ、だから……」

 

「ダメだ。休んでもらう」

 

 谷口が、俺の胸ぐらを掴む。そして、俺に向かって叫んだ。

 

「キョン!! 俺は、俺はここに後悔だけは置いていきたくねぇぇぇ!!!! お前に分かるか!? この気持ちが!!」

 

「お前がここで動けなくなることが、俺の後悔だ!! 黙って言うことを聞け!!」

 

 谷口は、黙った。俺は、谷口を抱きしめた。汗でびっしょりになった体操着だった。それは不屈のファイターが魂を込めて、このコートを走り抜けた証でもあった。

 

「お前の根性と魂は、俺がコートに持っていってやる。お前と一緒に戦う。だから、ここで休んでいろ……」

 

 俺の声は、震えていた。

 こうして、SOS団の役割が、改めて再構築されていく。

 

 俺は、古泉の指示を受け、自分自身を一つの駒として使う。古泉は、後半のゲームデザインを担当する。ハルヒは、突出した個人能力による突破役。国木田は、全体のシステム制御と、後方からの状況整理。長門は、ベンチから見続けた試合情報を、コート上で活かす。谷口は、後半7分間の休息と、給水タイム後の8分間への備え。鶴屋さんは、試合の流れと選手の状態の把握。朝比奈さんは、選手のコンディションを支える。

 誰一人、同じ役割ではない。しかし――全員が、同じ目的を持っている。

 

 ハーフタイム終盤。俺と古泉の、最後の打ち合わせが始まった。

 

「それで、具体的にどうこのチームを掌握せよというのですか?」

 

「好きにやっていいぞ。お前に任せるって言ったんだ。言ったからには任せる」

 

 古泉は、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。

 

「いやはや、答えになっていませんよ、それでは」

 

 その顔を見て、俺は、少しだけ安心していた。

 

「やっといつもの顔が戻ってきやがったな」

 

 俺の顔つきが、一段と鋭くなる。

 

「無駄に器用なお前のことだ。俺にもハルヒにも、上手く合わせられるだろう。だがな、俺はさらにその一段上のことをやる。そっからお前の腕の見せ所だ。でも、俺はさらにその上のことをやる。これを繰り返す」

 

 古泉は、手を顎に乗せた。

 

「つまり、その繰り返しの先に……あなたの言う化学反応がある、と?」

 

「そうだ。つまり、これは俺とお前の勝負でもある」

 

「なるほど。実に興味深い提案ですね」

 

 古泉は、少しだけ目を細めた。

 

「ですが、僕にも一つ、お聞きしたいことがあります。あなたのその私的な思惑が、このチームの敗退の要因になり得る可能性については、どうお考えで?」

 

「まぁ……。そんときはそんときさ」

 

 他のメンバーに気づかれないように、俺は古泉の耳元で囁いた。

 

「ハルヒを賭けてやってもいいぜ?」

 

 古泉は、満面の笑顔を浮かべた。

 

「それは実に魅力的な提案ですが、遠慮しておきますよ」

 

「あなたが何を賭けようと、僕は僕自身の理由で、この舞台に立たせていただきます」

 

 それでこそ、古泉一樹だ。さぁて、俺とお前。どっちが相手の一手も二手も先を取れるのか……。やっと、面白くなってきやがったぜ。

 

 ハーフタイム終盤。生徒会のベンチには、試合再開の気配が、静かに満ちていた。

 門戸と青木は、床に片膝をつき、それぞれの筋肉をほぐしていた。誰に言われるでもない、身体に染み付いた儀式のような動作だった。ボールが再び蹴られる瞬間を、彼らはもう、身体の奥で先取りしているようにも見えた。

 笠屋は、両チームの配置が書かれたボードと、まだ睨めっこを続けている。指先で、選手の名前を示す記号を、何度もなぞる。答えは、そこには書かれていなかった。

 

「私がやれること……。みんなのためにやれることは何?」

 

 声は、誰に問うでもなく、その言葉はただ宙へと溶けていった。

 

「しおり、考えすぎるな!! 目の前のことをこなせばいいんだ!!」

 

 青木の、一際大きな声が飛ぶ。その響きは、体育館の喧騒の中でも、不思議とまっすぐに届いた。

 

「ちょっと、ブルー。しーちゃんにプレッシャーかけるなって」

 

 常盤がそう言いながら、いつでも試合に戻れるよう、軽いダッシュを繰り返している。足首に巻かれたテーピングが、その動きに合わせて白く小さく揺れていた。

 門戸は、ハムストリングスを伸ばしながら、誰にも聞こえないように、ひとりごちた。

 

「俺は門戸直哉だ。ただ一人の門戸直哉だ。それ以外に誰もいねぇ」

 

 それは、確認のようでもあり、祈りのようでもあった。三年前、あの西日の差し込む体育館で置き去りにしてきたはずの熱を、彼はようやく自分自身の名前として、取り戻そうとしているようだった。

 

 喜緑江美里だけは、動かなかった。

 パイプ椅子に腰掛けたまま、優雅な仕草で、相手ベンチの誰かを見つめている。その視線の先に何があるのか、誰にも分からなかった。彼女自身にすら、分かっていないのかもしれなかった。ただ、その横顔には、これまで誰も見たことのない、静かな熱量が、確かに宿っていた。

 長く考え込んでいた会長が、ふいに立ち上がった。

 

「後半について話す。まず喜緑……」

 

 喜緑江美里は、振り向かなかった。返事さえ、しなかった。

 その沈黙は、拒絶ではなかった。むしろ、彼女はもう、コートの向こう側だけを見ているようだった。まるで、この短い休息の時間そのものが、彼女にとってはもう、意味を失ってしまったかのように。

 

「一旦、ベンチに下がってもらう」

 

 その一言は、体育館の喧騒の中に、静かに、しかし確かな重みを伴って落ちた。誰も、すぐには反応できなかった。門戸のストレッチの手が、一瞬だけ止まる。常盤の足も、宙に浮いたまま固まった。

 ようやく、喜緑江美里が会長の方を向いた。その口元には微笑みが浮かんでいる。首を小さく、優雅に傾げる。それだけだった。

 

「はい?」

 

 たった二文字の問い返しが、まるでこれから始まろうとしている何かの予告のように響いた。窓の外ではいつの間にか雲が切れ、午後の光がまた少しだけ、その角度を変え始めていた。

 

 

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