後半5分40秒。俺のゴールによってSOS団が、3対2とリードしている。あと10分弱、このままリードを保てば、俺たちの勝利が決まる。明日の準決勝へと進むことができる。
だが、現実はそう甘くないということを、俺はこの一年と数ヶ月、身をもって知っている。特に今日この一日で、その学習量は例年の何倍にも膨れ上がっちまったがな。
――ここからは、人生で一番長い9分20秒かもな。
門戸は、汗を拭いながら呟いていた。
「強ぇな、SOS団……」
おいおい、そりゃこっちの台詞だ。お前らだって十分にイカれた集団だぜ。
意気消沈の生徒会ベンチでは、これまでにないほど鬼気迫る表情で、常盤がパイプ椅子から立ち上がっていた。その視線は、ピッチの門戸と会長を追っている。
そして――。常盤はゆっくりと、自分の足首へと手を伸ばした。ぐるぐると巻かれたテーピング。指先が、その端を探す。
ペリッ。
小さな音。常盤が、テーピングを外し始める。その瞬間。SOS団ベンチの鶴屋さんが、ふと顔を上げた。
「……ん?」
すぐ横の、生徒会ベンチ。常盤の足元。そして、テーピングを外している手。鶴屋さんの表情が変わる。
「……まさか」
隣にいた谷口も、その視線を追う。
「……あいつ」
常盤が、テーピングを外し終わる。谷口は、思わずパイプ椅子から立ち上がっていた。おい谷口、お前も他人事じゃないだろ、この状況。
門戸も、すぐにその様子を見つけた。
「おい……トッキ、おめぇ……」
しかし、その声は常盤には届かない。常盤はもう、ピッチしか見ていなかった。覚悟を決めた目をしていた。ベンチから笠屋を応援していた優しい兄ちゃんの目は、どこへ行ったんだ、まったく。人間、覚悟を決めた瞬間に、こうも表情が変わるもんかね。
「……戻るつもりっさ」
鶴屋さんが、静かに言った。
「……だろうな」
谷口が、グイッと拳を握る。
「……あいつも、まだ終わってねぇんだな。お互い、悔い残して終われねぇよな」
門戸も、常盤を止めようとはしなかった。むしろ――少しだけ笑う。早く来いよ、とでも言いたげな顔で。
会長が、ベンチを見る。視線の先にいたのは、喜緑さんだった。
そして、会長は喜緑さんの投入を決意したのだろうか。交代を告げようと、口を開きかけた。だが――。それよりも先に、常盤がコートへ出ようとする。
「何を考えてる……。トッキ!! お前には無理をさせるわけにはいかない」
「みんなが俺を必要としてるとは思っていません」
一拍。
「俺がみんなを必要としているんです」
そして、
「だから、戦わせてください」
そんなかっこいい台詞、言えるものなら俺も言ってみたいもんだぜ。俺の場合、言おうとすると絶対に途中で皮肉が混ざるからな。天性の性分ってやつなんだろうが…。
会長は、常盤の熱意を見る。しばらく沈黙。そして――。
「わかった」
「それならば……。外れるのは、俺。この俺だ」
会長自身が、コートを離れる。おい、あの会長が自分から前線を降りるなんて、この試合始まって以来、一番の異変じゃねぇか。
「喜緑」
「はい」
「行けるか?」
喜緑さんは、少しだけ笑う。
「もちろんです」
「……そうか」
会長は、それ以上、何も言わなかった。審判に交代を告げる。会長が、ピッチの外へと向かう。
鶴屋さんと谷口と朝比奈さんは、ベンチからその光景を見ていた。
「……会長がベンチに下がるのかよ」
「ふぇぇぇぇ……。なんでこんなに大きく入れ替えるんですか……」
「ふふっ。向こうも本気ってことっさ」
「なら――」
谷口は、タオルを振り払い、アイシングを取り外そうとする。
「こっちも、負けてらんねぇ。いつまでものんびり眺めてるわけにはいかねぇからな」
アップを開始しようとする谷口。おい待て、順番があるだろうが。
「まだ休む時間っさ、みくる!!」
「は、はいっ!!」
朝比奈さんと鶴屋さんが、はやる谷口をパイプ椅子に押さえ付ける。慌てるな、谷口。クライマックスはお前のために取っておいてやるからよ。
「……分かってますよ」
そして谷口は笑う。
「だからこそ、出る時は一番走る。誰よりもな。それが自分の役目だから……」
喜緑さんが、ベンチからコートへ入ってくる。二人が、サイドライン際ですれ違う。
「会長」
「なんだ?」
「……ありがとうございます」
会長は、足を止める。
「もう一度、私をここに戻してくれて」
「……礼を言われるほどじゃねぇよ」
喜緑さんが、顔を上げる。
「自由と勝手は似ているようで違う。分かるか?」
「……はい」
「だったら――、前者を選べ」
会長は、ピッチを見る。門戸。常盤。青木。そして、ベンチに控える自分たちの仲間たち。
「見せてみろ、お前の手に入れた"自由"とやらを。そして、決めてこい」
喜緑さんは、一瞬だけ目を見開く。そして――。
「はい……」
二人は、そのまますれ違う。会長はベンチへ。喜緑さんはコートへ。どんな会話があったのだろう。ただ、あの会長のことだ、なんとなく小難しいことを言っているのだろうと、勝手に思うことにした。相変わらず食えねぇ男だよ、お前は。
門戸が振り返る。常盤と目が合う。
「……遅ぇぞ、トッキ」
「ごめんごめん」
そして笑う。
「ここからだから。やってやろうよ、モンちゃん」
選手交代。
笠屋OUT。会長OUT。喜緑IN。常盤IN。
生徒会チーム、フォーメーション。
城山 喜緑
門戸 常盤
青木
『さぁ、ここで生徒会が大きく動きます。何と会長がベンチに下がり、前半負傷した常盤くんが戦線復帰!! 核とも言える選手が抜けた生徒会は今後どうなっていくのか、大変気になります!! そして常盤くんのコンディションやいかに……』
やれやれ、実況よ……。お前も分かってねぇな。このチームの核なんて、とっくに置き換わってんだぜ。会長が抜けたから弱くなる、なんて単純な話じゃねぇんだよ、この生徒会は。
ベンチへと戻る笠屋。常盤が、その頭にそっと手を置く。
「頑張ったね、しーちゃん」
少し笑う。
「俺も負けてらんないから……。しーちゃんの頑張り、絶対無駄にしないから」
その言葉を聞いた直後、笠屋は身体を震わせた。
「泣くのは全部が終わった後だって、青木さんから教わりましたから……」
「しおり!! 俺はお前を誇りに思う!! 胸を張れ!! お前はすごい!!」
青木が叫ぶ。笠屋は涙を堪え、常盤を見送る。何も言えない。ただ、その背中を見送るだけだった。
常盤負傷後、一瞬崩れかけた生徒会の陣形を繋ぎ止めたのは、紛れもなく、笠屋という一人の少女だ。その小柄で健気な献身性。そして、何よりも内に秘めた熱い闘志に、俺は最大限の敬意を表したい。
一方、SOS団。俺の頭は、蒸気機関の如く沸騰していた。もちろん比喩である。実際に湯気が出てたら、それはそれで別の意味でヤバいことになってる。
――ダメだ。向こうはなんか知らんうちに盛り上がっているが、こっちとらちっとも頭が回らねぇ……。
当然とも言えた。門戸とのマッチアップ。全てを出し切った読み合いを強行してしまった俺は、気力と体力を完全に消耗していた。あの熱苦しいやり取りの代償を、今になって耳を揃えて支払わされている気分だ。
――畜生。あいつに乗せられて、意地になりすぎちまったぜ。
給水タイムまでの1分数十秒、どう耐え切るかが、俺の目下の課題となってしまった。あぁ、情けない。実に情けない。ついさっき、勝ち越しゴールを決めていた男の台詞とは思えねぇな。
「キョン!! 大丈夫か!? ふらついてるよ!!」
大丈夫なわけがないだろうよ、国木田。まともに言葉が聞こえるだけ、奇跡と思ってくれよ。
「あの……。こんなこと言うのも何ですが、交代されたらどうですか?」
さすがは知性担当だ。ごもっともなことを言いやがる。
「そうね。そんなんじゃ、猫の手にもならないわ。幸い、ベンチには後半からずっと待機してくれている人間がいるんだし……」
ハルヒが、ベンチの谷口を見た。今か今かと出番を待ち続けている。だから少しは落ち着け、谷口。お前が出たがってる気持ちくらい、こっちにも嫌というほど伝わってきてるからよ。
――……んなこたぁ、分かってるよ。だがな……。
俺は、首を横に振った。
「いや、俺は出るぜ。あいつには休んでもらう。誰が何と言おうとな!!」
谷口をまだコートへは戻さない。また選ばせてもらうぜ。ハーフタイムで俺は「休むこともチームへの貢献」だと理解したからな。だから谷口は休ませる。ただし、自分自身は残る。我ながら、都合のいい理屈だとは思うがね。
ハルヒと古泉が、ほぼ同時に深いため息をついた。おいおい、ため息は俺の専売特許だと思ってたんだがな……。
「給水タイムまで――あと少しだ」
「そこまでなら、俺が持たせる」
残り1分と数十秒。俺は、自分の限界を理解しながら、それでも戦い続けることを選んだ。
「ま、好きにしなさいよ」
ハルヒは楽しげに笑いながら、自分のポジションに着いた。お前のその笑顔、何だか妙に安心させられるね。腹立たしいことに。
試合再開。門戸が常盤を見る。
「お前に合わせる。それくらいできるだろ?」
常盤は、心底楽しそうに答える。
「どうかなぁ……。モンちゃん、そんな器用なことできるかなぁ……」
「お前、冗談で言ってるだろ?」
常盤は笑う。
「もちろん!! 俺についてこれるのなんて、モンちゃんぐらいでしょ」
二人が走り出す。門戸と常盤。かつてバスケットボールで一緒にプレーしていた二人が、今度はフットサルのコートで再び並ぶ。
「何年一緒にいると思ってる? お前が考えてることなんか、秒で分かる」
「頼もしいね、腐れ縁!! いや、運命!!」
常盤から門戸へボールが渡る。周囲を置き去りにする高速の連携が始まる。常盤の動きは、前半とは明らかに違う。
「早えぇ!!」
思わず声が出た。
「常盤のやつ、前半と加速が段違いだろ!!」
それだけじゃない。その大胆な動き方……。まるで別人じゃないか。それに加えてポジショニング、重心の使い方、相手に悟らせない目線の使い方、そしてドリブルスキル……。こいつ、本当に素人か?
――お前、天才型だったのかよ……。
常盤はニッコリ笑う。
「ペース配分くらい考えるよね、普通は」
おいおい、待て、それだけじゃ説明がつかないだろう!! 俺は、いとも簡単に常盤に抜かれていく。この俺が、だ。体力の限界を差し引いても、この差はちょっと堪えるものがあるぜ。
常盤は残念そうにしながら、
「あれ? モンちゃんが気に掛ける割にはキョンって、大したことないんだね……」
おい、そこは黙っといてくれ。せめて建前だけでも。
「バスケやらせなきゃ、天才なんだけどな」
門戸が言った。常盤は、余裕たっぷりに返す。
「バスケだけは上手くならなかったねー……。何でだろ?」
二人は、フィールドを駆け抜けていく。
会長のやり方に合わせていたことで、これまで抑え込まれていた常盤のプレースタイル。それは――自由。
常盤は、自分の判断だけで動く。決められたルートには入らない。次のプレーも読ませない。変幻自在のボール回しによって、SOS団の守備が崩されていく。
「何なのよ、これ!!」
ハルヒが叫ぶ。そこへ門戸が入る。一見、無秩序に見える局面。しかし門戸は、その場で状況を読み取り、即興で攻撃を組み立てていく。さらに喜緑さんが、前へと飛び出す。
「これが自由×自由の連鎖だ!!」
常盤の自由。喜緑さんの自由。そして門戸の即興。三つの力が噛み合い、攻撃が一気に加速する。おいおい、こっちが総力戦の化学反応を発見したと思ったら、向こうも似たようなもんを見つけ出してやがるじゃねぇか。似た者同士なのかもな、俺たちと生徒会は。
門戸から喜緑さんへ。ドンピシャのタイミングでパスが通る。喜緑さんが、強烈なシュートを放つ。
しかし――。ゴール前まで戻っていたハルヒが、横っ飛び。どうにかクリアする。
「どうよぉぉぉぉぉぉ!!!!」
ハルヒが吠える。会場が沸き立つ。
――そんな芸当ができるのは、うちじゃお前くらいだよ。
しかし、ボールは再び門戸へ。俺には、もう門戸とマッチアップする気力が残っていない。
門戸は、ボールを見ながら呟いた。
「また、聞こえてきやがった……しかも3つ」
「トッキの音も、エミリんの音も、ゆいぜんの音も全部違う。もちろん、俺から聞こえてくる音もだ」
「トッキの音は何だか落ち着く。でも、急に激しくなる」
門戸が、古泉を抜く。
「エミリんはひたすら静か……。でも、分厚い」
ハルヒすらも、難なくかわす。
「ゆいぜんは……。何だこれ、ひたすら騒がしいな」
一拍。門戸が、ニヤリと笑う。
「合わせてやる。4つの音、全部この俺が合わせてやる」
常盤が自由に動く。喜緑さんが自由に動く。城山が、長いリーチを生かして前へ出る。
門戸が、そのすべてを、その場で繋ぎ合わせる。一見すると無秩序。しかし、すべてが一つの流れになっている。まるで――交響曲。
SOS団はもうボールを奪えない。コート全体が、門戸の指揮によって動いていく。ちくしょう、この場に立って手も足も出ねぇのは、正直腹が立つくらいだ。
――味方全員があいつの統率によって動いている。しかも予定調和にない即興によって……。
「いやはや、まさにルカ・モドリッチ、といったところでしょうか」
古泉が、静かに呟いた。お前、こんな状況でも冷静に比喩を捻り出してくる余裕があるのかよ。
「本気の彼の前では――僕たちは、演奏会の観客でしかない。彼こそが、マエストロですよ」
常盤が、ボールを持つ。門戸が走る。常盤から門戸へ。最後のパス。
「トッキ!! お前とやってる時が、俺は一番楽しい!!」
「俺も!! 今、めっちゃぞくぞくする!!」
門戸が、右足を振りかぶり、シュート体勢に入った。おい待て、まだボールは来てねぇぞ。そんな見切り発車をかましたら、派手に空ぶって、この大観衆の前で最高の笑い物になるだけだ。
「必ず、ここに来る。あいつなら、そうする」
門戸の気迫が、また一段と上がったのを感じた。そして――本当に、常盤はそこへパスを出しやがった。それも、よりにもよってインパクトが一番伝わる瞬間に、だ。おいおい、息ぴったりすぎんだろ、お前ら。
常盤が、人差し指を突き出し、ゴールを指差す。銃でも構えてるつもりか、それは。そして、一言。
「ばびゅん!!」
常盤の指鉄砲の銃身が、揺れる。何だその効果音は。あと、その構え、どう見てもカタギの動きじゃねぇぞ。
それと同時に、門戸のシュートが放たれた。
ゴォォォォル!!
後半7分。3-3。試合は再び、振り出しへ。
生徒会が、同点に追いついた。門戸と常盤。かつての親友二人が、最高の形でゴールを生み出した。
後半7分終了。主審の笛。給水タイム。選手たちが、ベンチへ戻っていく。まったく、絵に描いたようなハッピーエンドを俺たちの前で見せつけやがって。
しかし、俺は、門戸の元へと向かった。
「なんでお前はあんなことができる? 何がお前を動かす?」
門戸は、俺を見る。そして、ただ一言。
「俺が門戸直哉だからだ。俺がここに存在していることが確かな理由だからだ」
俺は、何も言い返せなかった。門戸は、それだけ言うと、ベンチへと戻っていく。
その背中を見つめる。
――なんだこいつ、さっきからわけわかんねぇことばっか言ってやがる……。でも、なぜだ? なぜ、俺はこんなにも熱くなってきている?
その瞬間――。死んでいた俺の頭脳が、瞬く間に高速回転を始める。
――おいおい、俺の脳が答えをはじき出しやがった。
「こんな、どうにもなりそうもない絶望的な状況でも――」
「門戸に立ち向かえ。そして、門戸を倒せと」
「そう直に命令してきやがった」
これが男の本能ってやつか? 冗談じゃない。俺は戦闘狂を気取った覚えなんて、これっぽっちもねぇんだがな。柄でもない、と自分でも思う。
だが、どうやらこの疼くような欲求には、逆らいきれそうにない。まったく、都合のいい時だけ本能とやらを持ち出しやがって。
俺の目に、再び力が戻る。門戸という怪物を前に、俺は一度燃え尽きた。しかし、俺の中の怪物は、再び胎動を始めていた。その怪物はまさに今、この世に生を受けようとしている。大袈裟な言い方だが、今はそれくらいの気概で挑まなきゃ、あの門戸には追いつけねぇ。勝てねぇ。
俺は、真っ直ぐにベンチへと向かった。
――俺の中で蠢くこの"何か"が表に出始めたら……。おそらく、もう後戻りはできなくなるだろう。ただ、それでこの試合に勝てるのなら……。安いもんだ。
SOS団ベンチ。俺は、ベンチに戻る。谷口が、立ち上がる。
「準備は出来てるんだろうな?」
「おうよ!!」
「待ちくたびれたぜ!!」
俺は、谷口を見る。そして静かに言った。
「お前が必要な時が来たぞ……」
谷口が笑う。その笑顔を見ただけで、なんだか少し、肩の力が抜けた気がした。
スコアボードには――3-3。
両チームとも、最後の数分を残している。門戸は、完全に「マエストロ」として覚醒した。常盤は、「自由」を取り戻した。喜緑さんも、自由に動き始めた。会長は、自らコートを離れ、仲間を信じる側へと回った。
そして――。俺は、復活した。谷口も、再びコートへ戻る準備を終えている。
さぁて、これでようやく、お互いの手札が出揃ったってわけだ。