門戸のゴールによって、生徒会が3対3の同点に追いついた。両チームが、それぞれのベンチへと戻っていく。会場には、まだ試合の熱気が濃厚に残っている。
しかし、選手たちは誰も口を開かない。
ここまでの激戦によって、誰もが、言葉を出す余力すら惜しんでいるようだった。
まぁ、無理もねぇ。
俺だって、今すぐこの場に倒れ込んでもおかしくねぇくらいには消耗している。
なのに――。
なぜだ。なぜ俺の身体は、まだ動く。
それどころか、あれだけ俺を苛んでいた腰の鈍痛ですら、どこかへ消えちまったような感覚だった。
……いや。消えた、というのとは少し違う。
痛みが抜けたわけでもない。
身体が軽くなったわけでもない。
ただ――俺が、それを感じなくなっている。
おかしいだろ、これは。
普通、疲労ってのは溜まるもんであって、都合よく蒸発したりはしねぇはずだ。
まるで身体の中に、俺の知らない誰かが、勝手に燃料を注ぎ足していきやがったみたいな――そんな気味の悪い感覚だった。
2分間の給水タイム。
朝比奈さんと鶴屋さんの二人が、慌ただしく動いている。
鶴屋さんが、俺たちの首元に素早くアイシングを取り付けていく。
朝比奈さんは、キンキンに冷えたスポーツドリンクを配っている。
俺は、それを一気に飲みながら、隣の生徒会ベンチを見た。
そこには会長。喜緑さん。常盤。青木。笠屋。城山。
そして――門戸。俺は、門戸を見つめる。
今、このコートの支配者は、間違いなく、あいつだ。
先程、感じた「何か」が、まだ自分の中に残っている。
――なぜだ。なぜ俺は、あいつと対峙すると、頭脳が勝手に回転し始めて、この「何か」がむくむくと蠢くんだ。こいつは、一体なんなんだ。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
ただ――。これまでの俺とは、何かが違っている。それだけは、妙にはっきりと分かる。
しかし、それでも……。この試合に勝てるのならば……。
――いや。違う。勝ち負けだけの話じゃねぇ。
今の俺にとっては――。
――お前の中には何がいる? 門戸直哉……。
ドクン。
何かが胎動するような音が、俺の頭に直接響いた。頭脳の回転数が、さらに速まっていく。ギアは、勝手に上がり続けている。誰の許可も取らずによ。
――おい、俺を一体どうするつもりだ……。
その時だった。隣にいた長門が、何かを呟いた。
もちろん、誰にも聞こえないように。俺の耳にも、ほとんど届かないくらいの声量で。
「……精神への干渉は不可能」
「………」
「……外部情報の飛来を確認」
長門は、それだけ言うと、また静かに前を向いた。
……おい、待て。
何だ、今のは。聞こえたような、聞こえなかったような。だが、こいつが意味のないことを口にするタイプじゃないってことは、この一年数ヶ月で嫌というほど分かっている。
――精神への干渉は不可能。
何を言ってやがる。俺の頭の中で起きていることと、何か関係があるのか?
――外部情報の飛来。
じゃあ、一体何が飛来したっていうんだ。俺の中で蠢いている、この「何か」と関係があるのか?
……分からねぇ。今の俺には、考えることが多すぎる。
長門、お前、今、俺に何かを教えようとしたのか。それとも――。ただ、観測したことを口にしただけなのか。
どちらにしても、今の俺には、その意味を考える余裕がない。
「……」
俺は、もう一度、門戸を見た。
あいつも、こちらをちらりと一瞥した気がした。
……気のせいか。
そう思った、その時。また――。
ドクン。
俺の中で、何かが動いた。
給水タイムは、あと少しで終わる。俺の中の「何か」は、まだ胎動を続けている。
給水タイムの、残り時間はわずかだった。体育館の高い天井から差し込む照明の光が、ベンチに座る生徒会の面々の輪郭を、静かに縁取っていた。
門戸は、紙コップに残った水を見つめながら、自分の手のひらへと視線を落とした。掌の皮膚に滲んだ汗が、蛍光灯の光を鈍く反射している。そして、ふと、口を開いた。
「……俺はなぜ、〝熱〟を持つことを怖れていたんだ?」
その声は、誰かに聞かせるためというより、自分自身に問いかけるような、静かな響きだった。常盤が、その声に気づいて振り向く。門戸は、構わず続けた。
「熱中すると、周りが見えなくなる」
「楽しくなってくると、何かを失う気がする」
「だから俺は、いつも途中で逃げてた」
だが、今は違う。自分は、コートにいる。しかも、仲間の音を聞きながら、プレーしている。門戸は、小さく呟いた。
「……俺は、いつからこんなに熱くなれるようになった?」
「……お前は、それを知っているのか?……キョン」
答えは、当然、返ってこなかった。問いはただ、体育館の喧騒の中に溶けて、消えていった。
その門戸を、常盤はしばらく黙って見つめていた。スポーツドリンクのボトルを傾け、何気ない調子で聞く。
「ねえ、モンちゃん」
「なんでキョンなんかに、そんなに執着するのさ?」
門戸が、視線を上げる。常盤は、悪意のかけらもない、いつも通りの調子で続けた。
「案外、大したことじゃないんじゃない?」
門戸は、少し考える。
「……大したことじゃない。そうか?」
「うん。キョンに勝ったからって、モンちゃんがモンちゃんじゃなくなるわけじゃないじゃん」
門戸は、答えられなかった。ただ、常盤の言葉が、胸の奥に引っかかっていた。
門戸は、コートの方へと視線を戻した。
「……そうかもしれねぇな」
だが、その目には、まだキョンへの強烈な執着の色が、確かに残っていた。
その横で、城山はタオルを首に掛けたまま、静かにコートを見つめていた。
「……面白いっすねー」
笠屋が、その呟きに反応して振り向く。城山の視線の先には、SOS団の面々がいた。ただし、彼が見ているのは、個人の姿だった。城山は、目に映ったものを、そのままの解像度で言葉にしていく。
「まず、みんながキョンとか呼んでる人ですけど……。この人はまず相手の重心を見る。そして、視線から次の動きを読む。この二つを僅か数秒の間で、瞬時に判断している。味方の位置も同時に把握して、ボールを持っていなくても周囲を観察している。運動部でもないのに、これだけやってるなんてびっくらぽんですねーーー」
その声が、不意に、いつものひょうきんなトーンから、真面目な色を帯びた。
「最大の問題は、俺たちが『キョンの動きを読む』ということすら利用する選手だということです」
門戸たちは、城山の口から流れ出る言葉に、思わず息を呑んだ。
「いつもの善ちゃんじゃないみたい……。新情報ありがとうございます……」
笠屋が、驚きを隠せずに言った。城山は、それを気にも留めず、さらに続ける。
「さらに、あの涼宮ぱいせん……」
「待て、ゆいぜん」
遮ったのは、門戸だった。
「掻い摘んで話せ」
城山の顔に、いつものおちゃらけた笑みが戻った。
「りょーーーかいーーー」
城山が分析した涼宮ハルヒの姿は、要約すると、こうだった。ボールを持った瞬間の突破判断が速い。味方の位置より、自分が作れるスペースを優先する。しかし――キョンが絡むと、その動きが変化する。キョンの判断に反応して走るだけではなく、キョン自身を動かすこともある。
さらに、古泉一樹について。キョンの動きを見てから動くのではなく、その一手先を、あらかじめ作っておく。キョンが変化させた状況を、さらに組み替える。攻撃の「二手目」を、常に用意している選手。
城山は、そこまで話すと、一つ結論を口にした。
「キョンぱいせんは、ただの司令塔じゃーない」
「自分自身が状況の一部になっている」
そして、
「だから、あの人だけを止めても意味がない」
常盤が、和やかに尋ねる。
「ユイユイ、それ全部試合中みつけたの?」
城山は、ニッと白い歯を見せながら、答えた。
「とーーーぜんっすよ」
その言葉には、これまでの飄々とした調子には似つかわしくない、確かな重みがあった。窓の外の光が、ちょうどその瞬間、雲の切れ間から差し込んで、彼の横顔を照らしていた。
「私もいいですか?」
笠屋が、申し訳なさそうに手を挙げた。彼女が見ていたのは、城山とはまったく違う場所だった。個人ではなく、関係性。糸の一本一本ではなく、その糸が織りなす、全体の模様。
「キョンさんが動くと、涼宮さんが動く」
「涼宮さんが動けば、古泉さんが動く」
「古泉さんが状況を変えれば、キョンさんもまた変わる」
そして、視線を谷口、長門、国木田へと向けていく。
「でも……それだけじゃありません」
国木田が後ろにいるから、キョンが前へ出られる。長門がいることで、相手が守備の判断を迷う。谷口が走ることで、守備の位置が動く。ハルヒがスペースを作る。古泉が、そのスペースを利用する。キョンが、その全体を繋ぐ。
笠屋は、静かに、しかし確信を込めて言った。
「このチームは……一人一人が繋がっているんです」
城山が、その言葉を聞いて、ゆっくりと笠屋を見た。まるで、自分が見ていた景色の、欠けていたもう半分の輪郭が、そこで初めて補われたかのような、静かな視線だった。
城山は個人を見る。笠屋は関係を見る。二つのまったく違う視点が、体育館の喧騒の中で、静かに重なっていった。
「だったら、答えは簡単すね」
城山が言った。
「……はい」
笠屋が、頷く。二人は、同時にSOS団の方へと視線を向けた。
城山は、ホワイトボードに手を伸ばし、マーカーを走らせる。
「一人を止める」
と書いて、それを、すぐに線で消す。
次に、
「二人以上を孤立させる」
と書いた。笠屋が、それに補足する。
「キョンさんだけを止めても、古泉さんが動く」
「涼宮さんを止めても、キョンさんが別の場所へ動く」
「だから……」
「繋がりそのものを、チョッキンしちゃう」
城山は、そう言うと、ホワイトボードに「SOS団攻略法(仮)」と走り書きを始めた。
一、キョンを孤立させる。判断力を奪うのではなく、選択肢を減らす。二、キョン―古泉の接続を切る。二人が連続して次の手を作れないようにする。三、ハルヒ―キョンの接続を切る。ハルヒの突破が、キョンの判断に繋がらないようにする。四、谷口の走りを孤立させる。走った先に、味方との連携がない状態を作る。五、国木田への「逃げ道」を消す。攻撃を一度リセットできる場所を、なくす。
城山は、それを一通り書き終えると、まとめるように言った。
「つまり――、SOS団を一人ずつ倒す必要はない。二人以上を同時に孤立させればいいってことっすね」
「うん。激しく同意」
笠屋が、力強く頷く。
だが、そこで、城山の表情に、一瞬だけ、影が差した。
「……ただ」
「何よ、善ちゃん?」
「これをキョンぱいせんが理解したら、逆に利用されちゃう可能性があるんすよねーーー」
笠屋の目が、大きく見開かれる。
「俺たちが〝キョンぱいせんを孤立させようとしている〟こと自体を、あの人が読めば――」
「つまり、SOS団を分断しようとする生徒会の動きを、キョンが逆手に取る可能性があると……」
会長の声が、静かに、その言葉を継いだ。
「そう。そうなれば、あの人は自分を囮にするでしょうね」
「……!」
笠屋の口から、小さな声が漏れる。
少し離れた場所で、会長はずっと、二人のやり取りを聞いていた。以前ならば、「こうしろ」と、自分自身が指示を下していたはずの場面だった。だが今は、そうしなかった。会長は、二人の分析を最後まで聞き終えると、静かに口を開いた。
「……いい作戦だ」
城山と、笠屋を見る。
「だが、忘れるな」
「作戦通りに動くことと、作戦に縛られることは違う」
その視線が、門戸へ、常盤へ、喜緑さんへ、青木へ、そして城山、笠屋へと、一人ずつ、静かに巡っていく。
「相手も考えてくる。なら、俺たちも考え続ければいい」
そして、最後に。
「今の俺たちなら、それができるだろ? なぁ、モン?」
「ういっす」
門戸が、短く答える。その声には、迷いのない、確かな熱が宿っていた。
審判の笛が、遠くから聞こえてくる。給水タイムの終わりを告げる、あの音だった。全員が、コートを見た。窓の外の光は、いつの間にか、また少しだけ、角度を変えていた。
門戸のゴールによって、生徒会が3対3の同点に追いついた。
給水タイムの残り時間。先ほどまで俺の中で蠢いていた〝何か〟への不安や疑問は、いつの間にか意識の奥へと追いやられていた。代わりに、俺の頭脳は、勝手に試合の分析を始めている。
「あ、あのキョンくん。お水、ちゃんと飲まないと……」
朝比奈さんが囁く声が聞こえた。だが、その声もすぐに、遥か彼方へと飛んでいってしまう。すみません、朝比奈さん。俺の脳味噌は今、他所のことに構ってる余裕がねぇらしいです。
――俺が相手チームなら、どう攻める?
――このチームの現状の戦術は?
――そこに弱点はあるのか?
――俺と古泉の化学反応を、さらに強めるには――。
門戸が、現在のコート上の〝支配者〟であることを、俺はもう一度、嫌になるほど再確認する。門戸は、常盤、喜緑さん、城山、青木の動きを音として捉え、それらを一つの曲へと組み合わせている。まったく、いい気なもんだぜ。
ならば――。門戸そのものを、連携から切り離せばいい。
限られた時間の中で、俺は一つの作戦を組み立てる。後半開始まで、時間がない。俺自身も、自分が考えた作戦が、決して十分なものではないと分かっている。
――やれやれ、この程度の作戦しか考えられないとはな……。我ながら、なんたる様だ。
それでも、今はこれで行くしかない。
「みんな、聞いてくれ」
全員が、俺を見る。
「今から、ラスト8分間の作戦を意見具申する」
俺の戦術プレゼンが始まった。作戦の基本は、「門戸を生徒会の連携から分断する」こと。極めて単純明快だ。凝った作戦を練る余裕なんて、正直、俺の頭にも今は残ってねぇ。
門戸を止めるのではない。門戸に、連携へ参加させない。マエストロである門戸を孤立させれば、生徒会の攻撃に生じる一瞬の隙を利用できるはずだ。
俺は即ち、門戸への囮である。ひたすら門戸へ張り付く。門戸の攻撃参加を食い止め、生徒会の連携から分断する。そのため、俺自身も一時的に、SOS団の連携から外れる。最も危険な役割だ。
「俺が門戸を引きつける」
「俺があいつを連携から切り離す」
ハルヒは、喜緑さんへのマークと、得点源としてのフィニッシャーだ。俺の言葉を受け、ハルヒは、隣のベンチにいる喜緑さんを警戒する。
「バケモンにはバケモンぶつけるしかねぇだろうよ」
喜緑さんの〝息を殺した抜け出し〟に注意しながら、自らはゴールを狙う。今回は少々、強引な突破も許すものとする。得点源として、勝ち越し点を奪う役目だ。
「誰がバケモンよ。まぁ、今回はいいわ……」
ハルヒは、静かに言った。
古泉は、不気味な存在である城山へのマークと、連携の核を担う。俺が門戸に張り付くことで、SOS団の中央に穴が空く。その穴を、古泉が埋める。谷口を縦横無尽に走らせ、ハルヒへ的確なパスを繋ぐ。隙があれば、自らもゴールを狙う。ただし……。
「お前にそんな野心があるとは思えねぇがな」
「おやおや……。やる時はやりますよ」
谷口は、常盤へのマークと、走力による撹乱だ。自由奔放に動き回る常盤へ張り付く。それだけ。
「とにかく走れ!! 常盤に遅れることだけは許さん!!」
「やれるだけのことはやるけどよ……。あいつ、無茶苦茶早いぞ……」
――そんなことは分かってる。だから、お前に頼むんだ。根性っていう数値化できないものを、誰よりも持ち合わせてるお前にな。
しかし俺は、ただ走るだけではなく、状況に応じてワンタッチパスも混ぜるよう、谷口に要求した。谷口にとっては、難題この上ない話だろう。
「できるわけねぇだろ、そんなテク……」
谷口は、失笑しながらそう言った。だが、その直後には、古泉にやり方を聞き始めていた。おいおい、やる気満々じゃねぇか。文句を言う暇があるなら、最初から素直にそう言え。
この役割は、重要だ。常盤を追い続けることで、生徒会の自由な動きをさらに変化させる。そして、その動きによって、喜緑さんや城山の判断にもズレを生じさせる。
俺は、作戦を説明し終えた。
「とりあえず、今はこれで行くしかない」
全員、理解はできても、どこか納得しきれない顔をしていた。まぁ、そうだろうな。俺だって、この作戦を発表しながら、内心では自分自身に突っ込みを入れてる有様だ。
「どうして、あんたそうなのよ?」
ハルヒが、声を震わせながら言ってきた。
「結局、あんた一人で全部抱え込もうとしてるじゃないのよ!!」
俺は、何も言わなかった。ハルヒを見ようともしない。ハルヒは、泣いているような気がした。しかし俺は、それを気のせいにする。あいつは、こんなことでは泣かないはずだ。
「雑用係は全部一人でやらなきゃいけない義務でもあるわけ!?」
「そんな決まり作った覚えないわ!!」
「この先もずっと……、ずっと一人で戦い続けるわけ?」
「そんなの……。そんなのおかしいと思わないの?」
誰も、何も言えなかった。やがて、俺が口を開く。
「義務とかじゃねぇよ」
「それが俺にやれることだからだ」
一瞬、言葉を止める。
「……いや、違うな」
「やれることじゃない」
「やるべきことなんだ」
そして、ハルヒを見た。
「ハルヒ、お前にもあるだろう? やるべきことが」
重い沈黙が落ちる。給水タイムの2分間など、とっくに過ぎ去ったような感覚だった。
静寂の中、最初に口を開いたのは、朝比奈さんだった。
「み、みなさん……」
朝比奈さんは、泣いていた。ゆっくり、ゆっくりと、言葉を浮かべるように話し始める。
「私がみなさんにしてあげられることは、本当に、本当に些細なことでしかありません」
「けど……けど……」
声が震える。
「これだけ頑張らなきゃいけないことなんですか!?」
「みなさんが体も心もボロボロになっていくところ、私はもう、黙って見ていたくありません……」
朝比奈さんは、泣き崩れる。鶴屋さんが、その身体を支えた。
「最初、みなさんの試合を見た時、本当に優勝できるって思いました。夢じゃないんだって……」
「それが実現できる人たちだと……」
しかし、言葉が続く。
「でも、違いますよね」
「だんだん分かってきましたから……」
「だから……。だから、もうこんなに頑張ることないんじゃないかって……」
朝比奈さんの言葉は、全員の耳に、静かに届いた。しかし、それだけで戦いを終えられるほど、この試合は甘くない。俺たちは、それぞれ首元のアイシングを外していく。
俺は、アイシングを朝比奈さんへと優しく手渡し、言った。
「泣かないでください。せめて、勝ってから泣きましょうよ……」
「朝比奈さんの気持ち、俺たち全員に伝わってますから」
「でも、今は逃げる時じゃない」
全員の顔つきが変わる。もう一度コートへ戻り、試合の結果と向き合う覚悟を決めた顔だった。
「必ず、無事に帰ってきますから」
そう言い終えると、俺は、少しだけ微笑んだ。柄でもないことを言ってる自覚はあるが、まぁ、たまにはこういう日があってもいいだろう。
そして、再びコートへと向かう。長門は、谷口と入れ替わる。
「……あとは任せた」
「おうよ……。任せときな」
ハルヒが、立ち上がる。
「絶対に勝つわよ!!」
「もう、勝つしかないんだから!!」
俺たちは、コートへ向かった。周囲からは、これまで以上の大歓声が巻き起こっている。
「もう誰がどっちを応援してんのか、わかんねぇな、こりゃ……」
少しだけ笑う。
「勝とうが負けようが、北高の伝説くらいにはなれんじゃねぇか? 俺たち……」
その言葉に、ハルヒが反応した。
「何言ってんのよ、キョン!!」
「人は結果と結論にしか、目を向けないわ!!」
「どれだけ頑張った過程があってもね!!」
その言葉を聞いた瞬間――。俺の身体に、強烈な目眩が走った。
「……なんだ?」
視界が揺れる。
「なんだ、これ……?」
立っていることすら、難しい。周囲の音が、急速に遠ざかっていく。
意識が、薄れていく。ハルヒたちの姿が、ぼやけていく。俺は、何が起きているのか、まるで理解できなかった。
そして――。意識が、どこか別の場所へと、引きずり込まれていく。
――声が聞こえる。誰のものか、分からない声だった。
「モン!!」
「おい、モン!!」
「練習始めるぞ!!」
少年が、我に返る。どこかのアリーナ。遠くを、ぼんやりと見つめていたらしい。
門戸直哉、11歳。
「やばっ!! ぼーっとしてた!!」
周囲を見回す。見覚えのある顔を見つけた。しかし、どこか幼い。
「お前、常盤か?」
「何だよ急に、常盤って。いつもみたいにトッキでいいじゃん」
あぁ、そうだな。
しかし、何か引っかかる。
――……でも、誰か今、変なこと言わなかったか?
しばらく考える。
「確か……」
「4とかって……。なんの番号だ?」
風が吹いた音がした。違和感は、その風の中に、静かに消えていく。門戸直哉の時間が、再び動き始める。