涼宮ハルヒのフットサル   作:宮澤宏

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時間平面の観測者

 6年前。門戸直哉、11歳。

 記憶の底にあるその日は、驚くほど高くて青い秋空が広がっていた。

 門戸直哉が住む古いマンションの隣の部屋に、常盤の一家が引っ越してきたのは、彼らが小学校5年生の頃だった。

 常盤の家庭が少し複雑なことを、直哉は母親の世間話から何となく察していた。どこか自分の居場所に迷っているような常盤を、直哉は「なぁ、遊ぼうぜ」と、ごく自然に外へ連れ出した。

 たまたま郵便受けに入っていた、地域のミニバスケットボールクラブの勧誘チラシ。

 それがすべての始まりだった。最初は、ただの暇つぶしのつもりだった。けれど、革のボールが手のひらに吸い付く感覚、アスファルトを蹴る音、そして何より――。

 

「この奪い合い、めっちゃおもしろい‼︎」

 

 夕暮れの公園で、小さな直哉は声を弾ませて笑っていた。知らず知らずのうちに、直哉はバスケの底知れない魅力に熱中していった。常盤も、不器用ながらに直哉の後ろを必死で追いかけていた。あの頃のコートには、何の境界線も、恐れるものもなかった。

 

 しかし、いつの頃からだろう。直哉の胸の奥に、冷たい影が忍び込み始めたのは。

 本気になればなるほど、その場所が、その時間が、そして隣で下手くそなりに笑っている常盤という仲間が、狂おしいほど大切になってしまう。

 そして直哉は、14歳になる前に、思春期の鋭い感受性で気づいてしまったのだ。

 

(大切になればなるほど、それを失ったときに、自分は生きていけないくらい傷つく)

 

 夜遅くまで帰らない母親の後ろ姿。いつの間にかいなくなっていた父親の記憶。形あるものは、いつか必ず壊れてしまう。

 だったら、最初から本気にならなければいい。楽しくなってきた瞬間に、自分から手を放して逃げてしまえば、誰も傷つかずに済む。

 

「そこそこ楽しい」

 

 そうやって直哉は、14歳のときにバスケを「なんとなく」のラベルで切り捨てた。

 そして今、高校の生徒会室。目の前に立つ会長は、直哉が必死に隠してきたその「臆病な檻」を、タバコの煙と一緒に吹き飛ばすような目で笑っている。

 

「お前ら、俺とおもしれぇことやってみねぇか?」

 

 会長のその言葉は、傷つくことを恐れて「そこそこ」で止まっていた直哉の心臓を、あの11歳の頃の「ボールの奪い合い」のような、剥き出しの熱量で激しく揺さぶり始めていた。

 

 5月の終わりの風は、もうすっかり初夏の匂いを孕んでいた。

 放課後の生徒会室の窓からは、グラウンドから響く野球部の掛け声や、遠くの体育館から漏れてくるバッシュの擦れる音が、生ぬるい空気と一緒に流れ込んでくる。

 高校2年生になった直哉たちの前には、新しく二人の1年生が座っていた。

 一人は、小柄で借りてきた猫のようにおどおどしている女子、笠屋詩織。もう一人は、制服の袖からすらりと伸びた手足が印象的な長身の男子、城山結善。

 城山は、直哉の中学時代のバスケ部の後輩だった。直哉はパイプ椅子に深く腰掛け、城山の長い手足を見上げながらぽつりと言った。

 

「お前、そのままバスケ続けてたらよかったんじゃねぇの?」

 

 城山は、人懐っこい笑みを浮かべて肩をすくめる。

 

「掛け持ちOK言われたんで、バスケ部でもありますよー。モン先輩のこと近くで見たくなったんで」

 

「やめた人間だぞ、俺は…」

 

 苦い記憶が脳裏をよぎり、直哉は声を少し低くした。しかし、城山はまっすぐ直哉の目を見つめ返した。

 

「俺は自分の心内には正直なんすよー」

 

 その真っ直ぐな言葉が、かつて「本気になるのが怖くて」逃げ出した直哉の胸の奥を、ちくりと刺す。

 一方、隣に座る笠屋は、何をしていいか分からない様子で指先をいじり、おどおどと二人を見上げていた。その頼りない姿に、常盤が優しく声をかける。

 

「君はなんで生徒会に?他にやりたい部活なかったの?」

 

「誰かの役に立ちたくて、ですかね……。それに私、背も小さいですから、スポーツとかは……」

 

 その言葉に、それまで黙って炭酸飲料を飲んでいた青木が、がたいのいい体を乗り出した。クラスで一番デカい彼の声が、生徒会室に響く。

 

「関係ないだろ、そんなの」

 

 笠屋がびくりと肩を揺らす。けれど、青木の目はひどく真剣で、温かかった。

 

「誰かのために一生懸命やる。きっと見てくれてる人はいる。そうじゃなきゃおかしいだろ?」

 

 かつてボランティアで泥まみれになりながら、誰かの「ありがとう」に救われた青木だからこそ言える、不器用で確かな全肯定だった。常盤も嬉しそうに笑い、笠屋の緊張をほぐすように言う。

 

「ま、気楽にやっていこうよ。しーちゃん」

 

「しーちゃん?」

 

「あ、ダメだった?」

 

 小さく首を振って、ほんの少しだけ緊張の解けた笑みを浮かべる笠屋。

 直哉は、窓の外を流れる白い雲を見つめていた。天才たちから逃げて、傷つかないための「そこそこ」の檻の中に隠れていたはずだった。それなのに、自分の周りには、どういうわけか変わった人間ばかりが集まっていく。そして、生意気な後輩も、臆病な後輩も、不器用な仲間たちも、全員がどういうわけか、自分という人間を慕い、ここに集まっているのだ。

 

「お前らなぁ……」

 

 直哉は呆れたように呟きながらも、胸の奥がじわりと温かくなっていくのを止められなかった。大切なものを増やせば、失ったときに傷つく。そう知っているのに、この場所が愛おしくなっている自分がいた。

 

 その時だった。

 カチャリ、と小気味よい音を立てて生徒会室のドアが開いた。初夏の生温かい風を切り裂くようにして入ってきたのは、眼鏡の奥の目を一切笑わせず、しかし口元だけを不敵に歪めた会長だった。

 

「ずいぶんと賑やかだな。……ちょうどいい、揃っているなら話をしよう」 

 

 会長は直哉たち5人の顔をゆっくりと見渡した。そして、あの低く、夜の底を引き摺るような声で告げたのだ。

 

「お前ら、俺とおもしれぇことやるときが来たぞ」

 

 物語の歯車が、後輩たちを巻き込んで、今度こそ決定的に回り始めようとしていた。

 

「常盤と青木には事前に言っておいたが、球技大会を開催することになった。俺らも生徒会チームとして参加する」

 

 会長はそう告げた。直哉は耳を疑い、思わず一歩前に出た。

 

「はぁ? なんなんすか、それ? しかも、何やるかも聞いてないし……」

 

「モン、おまえバスケやってたんだろ?」

 

 会長が、眼鏡の奥の三白眼を少しだけ細め、いつもの人を食ったような調子で直哉に声をかけてきた。

 

「常盤から聞いた。しかも、そこそこ上手かったんだろ?」

 

「……ッ」

 

 直哉は隣の常盤を睨みつけたが、常盤は「あはは、ごめん」と頭を掻いている。会長は構わず続けた。

 

「フットサルやることになったから、協力してくれ」

 

「……嫌っすよ」

 

 直哉は露骨に嫌そうな顔をして、きっぱりと拒絶した。

 

「スポーツなんてめんどいこと、もうしませんよ」

 

「なんでだ?」

 

「あと、バスケなんてとっくの昔にやめたんで」

 

「でも、やってたことには変わりないだろ?」

 

「……だからって、フットサルまでやる義理はないでしょう」

 

 熱中して、大切になって、また失うのが怖い。その本音を「めんどい」という言葉の裏に隠して、直哉は再び逃げようとした。常盤と青木は「まぁまぁ」という顔で直哉を見ている。1年生の城山は「えー、モン先輩のプレイ見たいっす」と目を輝かせ、笠屋はおろおろしている。

 

――その時だった。直哉の後ろから、サラサラと規則正しくペンを走らせる、静かな書き物の音が聞こえた。直哉はハッとして振り返る。

 

(あぁ……。エミリん、来てたのか……)

 

 喜緑江美里。門戸たちの知らぬ間に、いつの間にか生徒会の書記になっていた女子生徒だ。

 知らぬ間に、と言うのもおかしな話なのだが、本当にいつの間にか、まるで最初からそこにいるのが世界のルールであるかのように、この生徒会室に現れるようになったので、そう言うしかなかった。けれど、常盤も青木も、そしてあの会長ですら、彼女の存在を誰も不思議がらない。いつも優しく笑顔を届けてくれる、少し不思議で、ひどく頼りになる良い先輩だと、直哉は思っていた。

 喜緑は直哉の視線に気づくと、手元のノートから顔を上げ、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。

 

「おもしろそうですね」

 

 喜緑はそう言いながら、ただ優しく微笑む。その微笑みを見た瞬間、直哉の胸の奥の頑ななブレーキが、まるで魔法にでもかけられたように、ふっと軽くなってしまった。この人が「おもしろそう」と言うのなら、断るわけにはいかないような、奇妙な説得力がそこにはあった。

 

「……分かりましたよ、やればいいんでしょ、やれば」

 

 直哉は頭を乱暴にかきむしり、観念したように息を吐いた。会長はそれを見て、口元だけで満足そうにニヤリと笑った。

 こうして放課後、直哉はしぶしぶ他の生徒会メンバーとともに、練習場所として指定された市内の公営体育館へと向かうことになった。

 夕暮れの街を、自転車を並べて走る。向かう先は、体育館。

 かつて14歳の自分が、「本気になる恐怖」に負けて、置き去りにしたものがまだ残っている場所だった。

 

 西日が長く伸びるアスファルトの上を、自転車のチェーンを鳴らしながら進んでいく。

 直哉は少しだけペダルを漕ぐ足を速め、先頭を行く会長の横に並んだ。日頃、胸の奥でずっと燻っていた疑問を、今なら聞けるような気がしたからだ。

 

「そういや、なんで文芸部なんて気にかけてる……っていうか、いっつもちょっかい出してるんですか? ほっとけばいいでしょ……」

 

 会長は前を向いたまま、口元だけでフッと冷たく笑った。眼鏡のブリッジを押し上げる。

 

「そうしろとうるさいからな」

 

「は?」

 

 直哉には、その言葉の意味が全く分からなかった。

 そうしろ、とは誰の命令だ。学校の上の人間か、それとも他校の不良の派閥か。会長の横顔からは何も読み取れなかった。

 

「涼宮ハルヒなんて、相手にしない方がいいんじゃないですかねぇ……」

 

 直哉はペダルを漕ぎながら、SOS団とかいう、高校生らしい平穏な日常から完全に逸脱した、彼らのことを改めて考えていた。

 いや、意味もなく学友が集まり、ただ理由もなくその日をぐだぐだと過ごすというのは、ある意味では最も日常的で、ありきたりな高校生の姿とも言えるのか。そんなことよりも、直哉がどうしても理解できなかったのは、なぜあんな唯我独尊で頭のおかしい女の周りに、あんなにも惹きつけられ、集まっていく人間がいるのか、ということだった。

 

(東みたいな天才とも違う……あいつらは一体、何なんだ)

 

 大切なものを増やして傷つくのを恐れる直哉にとって、理由なく誰かと繋がり、世界の中心で嵐のように暴れ回る涼宮ハルヒという存在は、生理的な恐怖すら覚える、最も近づきたくない「混沌」そのものだった。

 

「……着いたぞ」

 

 会長の低い声で、直哉の思考は強制的に遮断された。気がつけば、一同は市内の公営体育館の前に到着していた。

 

「うわぁ、大きいですね!」

 

 笠屋が自転車を止めて声を弾ませ、城山は「懐かしいなぁ、この埃の匂い」と、長く伸びた手足を伸ばした。青木と常盤は、早くもフットサルボールを足元で転がし始めている。

 そして直哉のすぐ後ろには、いつの間にか追いついていた喜緑さんが、相変わらず穏やかで、すべてを見透かしたような完璧な笑顔を浮かべて立っていた。

 

「さあ、始めようか。お前たちの『そこそこ』の実力を見せてもらおう」会長が体育館の重い扉を押し開ける。

 中から流れ出してきたのは、かつて直哉が14歳のときに置き去りにしてきた、あの乾いた埃と、誰かの汗の匂い――そして、何かが新しく爆ぜるような、圧倒的な熱の予感だった。

 

 体育館の、どこかひんやりとした更衣室で体操着に着替え、直哉たちは埃っぽいコートの上に散らばった。

 水銀灯がジジジと低い音を立てて灯り、直哉たちの影を床の上に不自然に長く伸ばしていく。

 最初にボールを蹴り出したのは常盤だった。意外なことに、常盤のキックはなかなかの様になっていた。インサイドできっちりと捉えられたボールが、鋭い回転を伴って青木の足元へ転がっていく。

 

「トッキ、上手いじゃないか‼︎」

 

 がたいのいい体を揺らしながら、青木がデカい声で感心したように叫んだ。常盤は「えへへ、中学のとき、体育の授業でちょっとね」と、締まりのない顔で頭を掻いている。

 一方、1年生の城山は長い手足を持て余すようにして、ただサッカーボールをバスケットボールのように弾ませて遊んでいるだけだったし、笠屋に至ってはボールを蹴ろうとして空振りしそうになり、ずっと見ていないと心配になるような危うい動きを繰り返していた。

 直哉は自分の足元にある、バスケのそれよりも一回り小さくて重いフットサルボールを見つめた。一度だけ、軽くつま先で突いてみる。

 

「バスケとは違うよな、やっぱり……」

 

 手ではなく、足。床を弾む感覚も、自分の思い通りになる可動域も、すべてが違っていた。これでは料理のように「完璧にコントロールする」ことなんて到底できない。ドリブルさえままならない自分の不器用さに、直哉は早くも軽く溜め息を吐いた。

 少しだけ苛立ちを紛らわせるようにして、直哉はコートの奥に突っ立っていた会長の足元へ、適当に浮かせたパスをふわりと回してみた。

 バウンドし、不規則に変化する放物線。

 

「よっ」

 

 会長は、高校生離れしたあの尊大な言葉遣いとは裏腹に、驚くほど軽い声を上げた。

 そして、吸い殻を踏み消すかのような無造作な動きで右足を伸ばし、直哉の不揃いなパスを、まるで足の甲に磁石でもついているかのようにピタリと静止させてみせた。完璧なトラップだった。

 直哉は思わず目を見張った。

 

「やったことあるんですか?」

 

「ねぇよ」

 

 会長は眼鏡のブリッジを押し上げ、自分の足元のボールを見下ろしたまま、冷淡に首を振った。

 

「でも、なんだか知らねぇがこれだけはできる。そして、ここから始めていく」

 

 その言葉の響きに、直哉の背筋をひやりとした冷たい風が通り抜けていった。やったことがないのに、できる。それは、先ほど道すがら会長が口にした「そうしろとうるさいからな」という不気味な言葉と、完全に地続きにある現象だった。

 

「モン、お前、さっきから足元が死んでるぞ。書類を作る時のような潔癖さを、その錆びついた身体にも少しはくれてやれ」会長は口元を不敵に歪めると、トラップしたボールを直哉の足元へ強く蹴り返してきた。

 

「なんでこんなこと始めたんですか?」

 

 弾むボールの音の合間に、直哉は日頃の疑問をそのままぶつけた。なぜ不良の会長が、生徒会チームを率いて球技大会なんていう健全なイベントに参加するのか。会長すぐには答えず、足元のボールを小さく転がした。眼鏡の奥の三白眼が、水銀灯の光を反射して冷たく光る。

 

「おまえ、一番になったことあるか?」

 

 直哉はわずかに眉をひそめた。なぜ、この人はいつも質問を質問で返すのだろうか。会長の独白は、体育館の広い空間に染み渡るように続いた。

 

「俺は日の目を見ないまま、自分の価値まで否定してしまう人間が何より嫌いだ」

 

 タン、と乾いた音を立てて、会長がボールを蹴る。

 

「お前らは、ここにいるだけでいい人間じゃない」

 

 放たれたボールは、正確な軌道を描いて直哉の足元へと転がってきた。そこに込められた言葉の重さに、直哉の胸の奥がどくりと跳ねる。「そこにいるだけでいい人間じゃない」――それは、傷つくのを恐れて「そこそこ楽しい」檻の中に閉じこもっていた直哉を、無理やり外へと引き摺り出すような言葉だった。

 直哉は足元でボールを受け止め、今度は意識して、会長の足元へと真っ直ぐに蹴り返した。

 

「俺は正直、人の上に立つような人間じゃないし、お前がいれば大丈夫なんて言われたことも一度も無い」

 

 戻ってきたボールをトラップしながら、会長は自嘲気味に、けれどどこか楽しそうに口元を歪めた。

 

「ある日、言われたよ。お前って何でも器用にこなすけど、結局何がしたいの?って」

 

 コートの隅では、常盤と青木がこちらを見ていた。後輩の城山も、おどおどした笠屋も、そしてすべてを知っているかのように微笑む喜緑も、二人のラリーを静かに見守っている。

 最悪の第一印象だったはずの男が、今、ボールの往復を通じて、直哉の閉ざされた心の境界線を容赦なく踏み越えようとしていた。

 

「頑張っているのに結果が出ない人間は、簡単に背景になる。じゃあさ、結果が出なければ、存在していないのと同じじゃないか?」

 

 会長の言葉は、冷たい刃のように体育館の空気を切り裂いた。

 直哉は何も言えなかった。ただ、14歳のあの日、自分より高く跳ぶ天才たちの陰に隠れ、自ら「背景」になることを選んでコートを去った自分の後ろ姿が、強烈に脳裏に蘇っていた。結果を出せない自分には価値がない。そう思っていたからこそ、傷つく前に逃げたのだ。

 

「お前ら3人に会った時、思ったよ。こいつら、おもしれぇなって。他人から見れば派手ではないけれど、自分なりの価値を持っている人間だったからな」

 

 いつの間にか、体育館の床を叩くボールの音は完全に途絶えていた。

 楽しそうにボールを蹴っていた常盤も、がたいのいい体を強張らせた青木も、長い手足を持て余していた城山も、おどおどしていた笠屋も、全員が動きを止め、会長の言葉にじっと聞き入っている。コートの隅でストップウォッチを握る喜緑の微笑みだけが、静かに二人の影を見つめていた。

 

「俺は努力している人間に、その努力が報われた証を与えたい。こんなちっぽけな学内の球技大会でも、優勝という誰にも否定できない結果を手に入れれば、お前らの存在を誰も無視できなくなる」

 

 会長は足元に転がっていたボールを、片手でひょいと拾い上げた。

 その手つきは驚くほど乱暴で、けれどどこか、世界の理不尽なルールそのものを掴み取っているかのような絶対的な力強さがあった。眼鏡の奥の三白眼が、水銀灯の下でギラリと不敵に光る。

 

「だから、俺がそこに連れてってやる。お前らの価値は俺が証明してやる」

 

 最悪の第一印象。今でも好きになれるかは分からない。

 けれど、直哉の胸の奥で、14歳のあの日以来、完全に凍りついていたはずの心臓が、痛いくらいに激しくドクリとまた脈打ち始めた。

 

「……勝手に人の価値を決めるなよ、会長」

 

 直哉は、自分でも驚くほど低く、けれど確かな声で呟いた。その目は、もう会長から逸れてはいなかった。

 

 

 

 ――俺は……。俺は一体、何を見ている……。

 

 俺は、ようやく自分というものの輪郭を確認する。確かに、ここにいる。この体育館に。

 

 いや、待て。ここは、俺たちが試合をしていた北高の体育館じゃない……。ここは、どこだ!? 今まで見ていたものは、一体何だったんだ!?

 

 誰も、俺の存在に気づいていないのか!?

 

 ……違う。この世界において、存在していないのは、どうやら俺の方らしい。

 

 じゃあ、俺は一体、何だ?

 

 門戸がいる。俺に対して、背を向けている。その先の光景を、俺はまるでVTRの早送りでも眺めているような、妙に他人事めいた立場で見ていた。

 

 会長が、喜緑さんが、常盤が、その他の生徒会メンバーが、次々と体育館を出ていく。

 

 ――何だお前ら、もう練習は終わりなのか?

 

 やがて、扉が閉まる。異様な光景が、目の前にあった。門戸ただ一人が、この場に残り、俺に対して背を向けている。

 

「お、おい……」

 

 門戸が、振り返った。開口一番、こう言った。

 

「ちゃんと見ていたかい、キョン」

 

 ……普段の、というか、俺の知る門戸の口調じゃない。目付きも、明らかに違う。俺は、恐る恐る、目の前にいる人物に尋ねた。

 

「ここはどこだ? お前は誰なんだ? 門戸か……?」

 

「今はこの姿を借りている……、いや、少し違うかな……」

 

 結局、何一つ質問に答えちゃいねぇじゃねぇか。おい。

 

「まぁ、そんなことどうだっていい。この子の記憶を投影してみたんだよ。340号になり得る可能性のこの子を。でもまさか、このディメンションにも"あの"言葉を言う子がいるなんてねぇ……」

 

 340号?ディメンション?何言ってやがる。俺の頭の処理能力を、盛大に置き去りにしていくつもりか。

 

「君にも少し、興味が湧いてきた。ちょっと観測してみようかな」

 

 はっきり分かったことが、一つだけあった。この男は、門戸じゃない。そして、ここは、俺のいた世界じゃない。

 

 門戸らしき人物は、俺を見つめながら、静かに続けた。

 

「そろそろ君のディメンションに戻る頃だね。心配するな、全部忘れているよ」

 

「いい休息になっただろ? それじゃ、またいつか会おう」

 

 そう言われた瞬間、また、あの目眩が俺を襲った。背後から何かに吸い込まれるような、強烈な感覚。

 

「キョン!! キョンてば!!」

 

 誰かが、俺を呼んでいる。

 

「何、ぼさっとしてんのよ!!」

 

 ……。あぁ、ハルヒ。お前だったのか。

 

 北高の体育館。歓声を上げる観客たち。生徒会。そして、門戸。

 

 そうか。まだ、終わってなかった。むしろ――ここからが、正念場だったな。

 

 

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