涼宮ハルヒのフットサル   作:宮澤宏

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頭脳はフィールドを駆ける

 俺たち三人が死に物狂いで繋ぎ続けた、高速のローテーション連携。――「三連環(トライアングル・チェイン)」(※今、俺が脳内で勝手に命名した)。  

 しかし、流石に目の前の野球部のアラ(と言っても、フォーメーションもポジションもあったもんじゃない奴らだが)の一人が、血相を変えて俺を力ずくで潰しにかかってきた。いくら脳味噌まで筋肉でできている連中とはいえ、ここまで同じ形を繰り返されれば、こっちが次にどんな手を打ってくるかくらいはお分かりのようだった。

 

「戻ってくるのも、やっぱ早ぇか……!」 

 

 筋骨隆々の太い腕が、俺の薄っぺらい胸板を目がけて容赦なく伸びてくる。ファウルすれすれのラフプレーで、強引に流れを止めにくるつもりか。どうしてどいつもこいつも運動部の奴らは気性が荒いんだ、畜生。

 

「右から、左……」 

 

 気づけば、自然とそんな言葉が口から漏れていた。 

 考えるよりも先に、俺の身体が勝手に駆動する。相手の突進が目の前に迫ったその一瞬、俺は素早く身体を右へと流した。誘われるように敵の巨体が右へブレる。そして、鶴屋さんが言っていた通り、奴の身体がほんの僅かながら外側へと大きく開いた。

 

「こっちの動きが、弱いんだろ?」 

 

 勢いのまま、俺は軸足を鋭く踏み替え、今度は左へと爆速でスライドした。 

 バットを振り抜いた後のように体勢を崩した野球部員を、俺は紙一重のステップで難なくかわし、完全にその裏へと抜け出していた。  

 

 サンキュー、鶴屋さん。あなたの言った通り、あいつら左への切り返しが信じられないくらいザルだぜ! 

 

 一瞬の静寂の後、小体育館の入り口付近からワッと大きめの歓声が上がったのが聞こえた。しかし、今の俺にはそんな周囲の評価はどうだってよかった。

 

「フェイント……?」

 

「お前、いつからそんな器用な真似ができるようになったんだよ!?」 

 

 背後から古泉の驚きを含んだ呟きと、谷口の素っ頓狂な絶叫が聞こえる。

 知るか、俺だってそんな芸芸ができるなんて今この瞬間まで知らねぇよ。

 

「いっけぇぇーー!! キョンくんっ!!」 

 

 ベンチでは、鶴屋さんがメガホン代わりに両手を口に当てて大はしゃぎしていた。  

 すかさず、もう一人の野球部員がハルヒへのパスコースを塞ぐようにスライディング気味に足を伸ばしてくる。だがな、それくらいは俺のちっぽけな脳細胞でもとっくに読めてるんだよ、この脳筋め!!俺は右足のつま先で、ボールをふわりと浮かせた。ロブパスだ。ボールはするりと、床を滑ってきた相手の長い足を綺麗にかわしていく。

 

「そのまま打てぇぇぇぇッ!!」 

 

 そこに待っていたのは、御馳走を前にした子供のような、ハルヒの満面の笑みだった。

 

「――もらったぁぁぁッ!!」 

 

 ボールが床に落ちるよりも早く、ハルヒは身体全体のバネを一瞬で右の足先へと集約させた。ジャストのタイミングで放たれる、文字通り豪快極まりないボレーシュート。

 

「『爆風直撃弾』(ブラスト・ボレー)!!!!」 

 

 なんだよ、その頭の悪そうな名前は……。

 しかし、ハルヒのネーミングセンスを呆れる俺の顔は、なぜかニヤリと不敵に笑っていた。これは間違いなく決まる。ボールがハルヒの足に当たった瞬間のあの爆音を聞いただけで、俺にはその確信があったからだ。 

 

ズドォォンッ!!!!  

 

 小体育館の古い壁が今日一番の音を立てて振動し、引きちぎられんばかりにゴールネットが激しく揺れ動いた。 

 

 前半9分、ゴール!! 

 1 - 1。  

 ゴール:ハルヒ(大会通算2点目)

 アシスト:キョン(大会通算4つ目)

 

 幾何学の戦術と凡人の意地が、ついに最強のフィジカルモンスターの壁をこじ開け、SOS団が同点へと追いついた瞬間だった。

 

 前半9分。ハルヒの同点ゴール直後、会場の第二体育館は、先ほどまでのカビ臭い静寂が嘘のようにざわつき始めていた。 

 あのガタイのいい柔道部が手も足も出なかったフィジカルモンスターどもに対し、文芸部という名の暇人の集まりが真っ向から食らいついているのだから、見物人の誰もが自分の目を疑ったとしても当然と言えば当然だった。 

 ふと、汗を拭いながら自陣のベンチを見た。あろうことか、朝比奈さんがベンチのパイプ椅子の横で「よ、よかったですぅ……!」と感極まって号泣している。その隣では、鶴屋さんも弾けるような笑顔でポンポンを大きく振り、歓声を上げてくれていた。 

 

 朝比奈さん、見ててくれましたか? この俺の必死の活躍を。実際にゴールを決めたのはあそこにいる破壊神(ハルヒ)ですが、あのフェイントとアシストを出したのは、他でもないこの俺ですからね……。

 

「よっしゃあああーーー!! これからどんどん行くわよーーー!!」 

 

 案の定、ハルヒのテンションは最高潮に達していた。 

 それと完全に対照的に、俺はふぅー、と肺の中の熱い空気をすべて吐き出すように、大きく長い息をつく。

 

「やれやれ……」 

 

 もう策は使い切った。というか、それ以前に俺の身体が本格的に限界へと近づいて来ている。足の筋肉がプルプルと震え、息も完全に上がって来ている。谷口だって同様だ。見ればコートの隅で情けなく膝に両手をつき、肩で荒い息をしてやがる。残りの前半と後半のことを考えたら、ここからは少しでも無駄な走りを削って、計画的に体力を使わないと本当にまずい。

 

「もう、さっきの『三連環』(トライアングル・チェイン)は使えんな……」

 

 ここから前半残り6分。どうやって目の前の猛獣どもを押さえつければいい? 

 かと言って、引いて守りを固めることだけは絶対に避けたい。スペースを消したところで、あいつらの得意な泥臭い肉弾戦に巻き込まれるだけなのは火を見るより明らかだったからだ。 

 そうこう考えているうちに、無情にも審判の笛が鳴り、試合が再開される。 

 ん? ふと前方を見ると、センターラインに並んだ野球部の奴らが、何やらヘラヘラと笑いながら話し込んでやがる。あの脳筋軍団が、まさか作戦の打ち合わせだと? 

 ホイッスルが吹かれた。またもさっきのように4人同時に突っ込んでくるのかと身構えていた。しかし、ボールを受け取ったファーストの男は強引に仕掛けることなく、後方をのんびりと走り込んできたレフトの男へと、軽いワンタッチで後方へパスを戻した。 

 

 ここでパス!? あの脳筋どもが、この期に及んで横着なパスなんかをするのか!? はっ、まさか!? 

 嫌な予感がして、俺は慌てて後ろの自陣ゴールを見た。 

 ゴレイロの国木田は、さっきの『三連環』の攻勢のノリのまま、ゴールの前から大きく前に出てしまっていた。

 

「国木田、下がれーーー!!」 

 

 俺が叫んだ時には、もうすべてが遅かった。 

 ボールを受けた野球部員が、まるでピッチャーがマウンドからバックホームの送球でも投げるかのように、右足を一閃したのだ。

 野球部の放った超ロングシュート。体育館の湿った空気の中を、大きく、綺麗な弧を描いて飛んだボールは、必死に手を伸ばしてバックステップを踏んだ国木田の頭の上を無慈悲に越え、そのままゴールネットへと突き刺さった。 

 

 前半11分、ゴール!!

 1 - 2。 

 野球部、追加点。 

 SOS団、再び一点のビハインド。 

 

 俺たちは誰も何も言えず、ただ無残にボールが吸い込まれたネットの揺れを、呆然と見つめていることしかできなかった。

 

「なっ、いけるって言っただろ?」

 

「マジかよお前、コントロールすげえな!」 

 

 コートの向こうから、野球部の楽しそうな歓声が聞こえた。  

 遠距離射撃(超ロングシュート)……。

 

 フットサルのセオリーを無視して、自陣から強肩ならぬ「強脚」だけでゴールを狙ってくるなんて、こんな無茶苦茶な真似までできるのかよ、脳筋軍団め。 

 その時、俺の頭の中に電撃のような閃きが走った。 

 戦術なんて関係ない。理不尽な身体能力と、遊び半分のノリだけで、見たこともない不条理な一撃を叩き込んでくるその姿。 

 これじゃあ、本当に――「ハルヒが4人フィールドにいる」のと一緒じゃないか。まてよ。ハルヒが、4人だと……? 

 その瞬間、俺の疲れ切った頭脳の奥底で高速回転が始まる起動音がハッキリと鳴り響いた。  

 俺はすぐさま、ゴール前で悔しそうに顔を歪めている国木田に向かって、大声で声を張り上げた。

 

「国木田!! 一回タイムアウトだ!!」 

 世界でただ一人、この俺だけは、あの理不尽極まりない猛獣(ハルヒ)の扱いを、嫌というほど心得てるんだよ!!

 

 フットサルにおいて、前後半に一回ずつだけチームに与えられるタイムアウト。その時間はたったの1分間だ。 

 ベンチに集まった俺たちは、お互いに肩をぶつけ合うほどの距離で、簡潔に、そして明確に言葉を交わさなければならなかった。 

 ハルヒ以外の男連中は、全員が疲労と焦燥で顔を引き攣(つ)らせていた。だが、その目は不思議とまだ誰も死んじゃいなかった。

 もちろん、この俺だってそうだ。ここまでお膳立てが揃っちまった以上、ただのレクリエーションだとナメてかかっている野球部の連中に、学校中に、一泡も百泡も吹かせてやりたいという泥臭い意地が、腹の底で静かに燻(くすぶ)っていた。

 

「一旦、攻めるのをやめよう」 

 

 俺が開口一番にそう告げると、案の定、我が団長様が噛みついてきた。

 

「……はぁ!? あんた、戦う前から諦めるつもり!?」 

 

 えぇい、人の話は最後まで聞け。お前がいつもそうやって結論を急ぐから、世の中の怪奇現象や時空の歪みがややこしいことになるんだよ。

 

「俺たちはあと4分間、点を取りに行かない」 

 

 俺の言葉に、古泉が少し驚いたように細い目を見開いた。

 

「なるほど。無理に勝負を焦らず、時間を使うつもりですか」

 

「そうだ。1-2の1点ビハインドなら、まだ十分に射程圏内だ。ただし、絶対にボールを奪われるな。ここで無理に前半のうちに追いつこうとして前がかりになれば、カウンターを喰らうか、あるいは後半戦が始まるまでに俺たちの足が完全に終わる。1-2のまま前半を耐えきれば、後半に十分ひっくり返せるチャンスはある」 

 

俺はそこから、声をさらに一段階潜めて、鶴屋さんの助言をベースにした具体的な『パス回しの罠』を小声で作戦として伝えた。

 

「やれるかどうかわかんねーけどよ……やるしかねえか」 

 

 谷口が青ざめた顔のまま、腹を括ったように笑う。

 

 「ええ、やってみるしかありませんね。あなたのタクティクスに賭けましょう」 

 

 古泉がいつもの不敵な笑みを静かに取り戻し、ゴレイロの国木田も頼もしくノートを閉じた。

 

「試合はまだ終わっちゃいないよ。みんな、やれるだけのことやろう」 

 

ピィーーッ!!! 

 

 1分間の終了を知らせる無情な笛が、狭い体育館に響き渡った。 

 よし、行くぞ。俺たちはそれぞれのポジションに着こうと、作戦会議の円を解きはじめた――その時だった。

 

「ちょっと待ちなさい!! 円陣は!?」 

 

 動きを止める俺たち4人。全員が、怪訝な顔でハルヒを振り返った。

 ハルヒは腰に両手を当てて、いつも通り何の根拠もない。しかし、世界を丸ごとひっくり返しそうなほど自信たっぷりの笑顔を輝かせていた。

 

「こういう勝負所の時は、円陣でしょ!!」 

 

 やれやれ。どこまでも形から入りたがる我が団長様だ。だが、不思議と今の俺たちの胸に、それを拒むような冷めた感情は一ミリも残っていなかった。 

 俺たちは互いに顔を見合わせ、小さく笑いながら、再びお互いの肩をガチッと組み合った。実際にやってみると少々気恥ずかしいものだな……。

 隣の谷口の汗臭い肩の感触に顔を顰(しか)めつつも、胸の奥の鼓動が確実に速くなっていくのが分かった。

 

「前半残り4分!! SOS団、気合い入れていくわよーーー!!」

 

「「「「おおぅ!!!!」」」」 

 

 ハルヒの号令に全員の声が重なり、俺たちは一目散にそれぞれのピッチ上のポジションへと駆けていった。 前半残り4分。これ以上の失点は絶対に許されない。 

 なぁに、国木田の言う通りだ。あとはただ、ピッチの上でやれるだけのこと、やるだけさ。

 

 前半11分、試合再開。 

 SOS団のキックオフだ。ハルヒが軽く蹴り出したボールが、センターラインの手前で俺の足元へと渡ってくる。

 俺は、眼前に広がるピッチの上で今か今かと牙を剥いている、4頭の野獣どもをじっと見つめた。 

 

 あいつらは、全員ハルヒだ。

 ボールを奪えば、なりふり構わず前へ行く。ほんの少しでも隙があれば、どこからでもシュートを狙う。近くに味方がいようがいまいが、自分が主役として突っ込んでいく。そして何より――「自分が完全にゲームの主導権を握っている」と錯覚した瞬間、周囲の状況が一切見えなくなる。 

 だったらよ、何も真正面からハルヒを止める必要なんてどこにもないんだ。ハルヒにその圧倒的なフィジカルで好き勝手に暴れさせて、その『行き先』だけを、俺たちが裏から誘導して決めてやればいい。 

 わかる。わかるぞ。俺のちっぽけな頭脳は今、間違いなく人生最高速度のギアでフル回転してやがる。普段の中間テストや期末テストでも、この超感覚の100分の1でいいから発揮されてほしかったと言わざるを得ない。 

 ドッ!! と床を蹴る音がして、野球部員の一人が俺の足元のボールを目がけて猛然と突っ込んできた。 俺は逃げる。しかし、完全に相手を突き放すようには逃げない。あえて「あと一歩踏み込めばボールを取れそう」な、絶妙に危うい距離感をあざとく保ち続ける。

     

 そうだ……来い。ハルヒなら、ここで絶対に食いつく。「今なら奪える」と脳が判断したら、絶対に猪突猛進してくる。 

 狙い通り、一人が猛烈な勢いで食いついてきた。それにつられるようにして、さらに二人目が連動する。そして、俺の誘導に釣られた三人目までもが、中央の狭いスペースへとゾロゾロと寄ってきた。 

 俺は、その三人目の足が届く直前のギリギリのタイミングで、左サイドの谷口へボールを回した。

 

「谷口!!」

 

「だから恐ぇって言ってるだろ!!」 

 

 ワンタッチ。パスを受けた谷口は、俺の指示通り、わざと少しだけ慌てたようにバタバタと危なっかしい素振りを見せた。お前は本当にこういう『頼りない素人の演技』だけは天才的に上手いな。 

 その隙を逃さじと野球部がさらに群がるが、ボールはすでに古泉の足元へ。古泉もダイレクトのワンタッチ。野球部がその長い足に食いついた瞬間、今度は全く逆方向のオープンスペースへとボールを奇麗に逃がす。

 つまり、再び俺のところだ。 

 

 これは、野球部の連中に「自分たちが正解の道を選んで追い詰めている」と思わせているように見せて、実はそのすべての選択肢を俺たちが事前に用意してやったトラップの道だ。

 俺たちの今の目的は、「追加点をもぎ取りに行くこと」じゃない。この前後半15分という特別ルールの中で、野球部の4人を徹底的に無駄走らせして、その底なしの体力を削り取ることだ。

 野球部の連中は、自分たちが前線からハイプレスをかけて俺たちを追い込んでいると思っている。だが実際には、その構造は完全に真逆だった。 

 俺たちが、ボール一本で野球部の4人を、四方八方へと都合よく動かしているのだ。それに気づくこともなく、せいぜい手のひらの上で踊り狂いながら振り回されやがれ、猛獣ども!! 

 時計の針は、俺たちの意図通りに確実に進んでいく。 

 

 前半残り3分。 

 前半残り2分。 

 

 奴らの足の回転が、ほんの僅かに鈍り始めたその瞬間、俺の思考がさらに一段階先へと進んだ。 

 そうだ……。こいつらは、全員ハルヒなんだ。 

 だったら――ハルヒがフィールドに4人いるなら、4人とも同じように、完全にバラバラの方向へ振り回してやればいい。右、左、中央。目まぐるしく変化する俺たちのパス回しに翻弄され、野球部の四人の位置関係が完全にバラバラに引き裂かれた、その一瞬。 

 俺はそれまでの静かなキープを突如として破り、ボールを前方のスペースへと鋭く転がした。 

 谷口が走る。中央を古泉が駆け上がる。そして、逆サイドの広大な更地から、我がSOS団の真なる破壊神――ハルヒが猛烈な勢いで侵入してくる。一気の電撃カウンターだ。 

 

 いいぞ、ハルヒ――。だが、お前にここでシュートを打つ必要は、これっぽっちも無い。  

 

 俺はハルヒの足元へ完璧なパスを渡したところで、体育館の壁にかけられた電光掲示板の時計に目をやった。残り、10数秒。

 

「ハルヒ!! 無理に決めるな!!」

 

「はぁ!? なんでよ!! 今、完全にチャンスじゃないのよ!!」

 

「いいから、そのままボールを持ってろ!!」

 

「なによもうっ!!」 

 

 ハルヒが怒鳴り声を上げながら、その場でピタリとボールを足元にキープした。 

 慌てて野球部の二人がボールを奪い返しに突進してくる。しかし、ハルヒの辞書に「自分のキープしているものを他人に明け渡す」などという殊勝な言葉は存在しない。

 ハルヒは意地になってその小さな身体を入れ替え、迫りくる男二人の突進を力ずくでおさえ込んでボールを死守した。――そして。 

 

 ピィーー、ピピッーー!!!!  

 

 サウナのような第二体育館に、前半戦終了を告げる長いホイッスルが鳴り響いた。 

 俺はその場にガクッと膝に手を突き、肩を激しく上下させて大きく息を吐き出した。きつい。本当にきつい。ふくらはぎの筋肉はとっくに限界を訴えてピキピキと震えている。それでも、俺のちっぽけな脳細胞をフル稼働させて、なんとかこの猛攻を最少失点で凌ぎきったのだ。 

 にじむ汗を拭いながら、壁のスコアボードを見上げる。 

 1 - 2。1点差。上出来だ。少なくとも、あのフィジカルモンスターどもに防戦一方でボコボコにされるという、最悪の展開だけは綺麗に避けられた。

 

「はぁ……はぁ……死ぬ……マジで今度こそコート上の露と消える……」 

 

 隣で谷口が完全に魂の抜けた、真っ白な顔をして床にへたり込んでいる。 

 右サイドの古泉も流石に荒い息を吐いていたが、その端正な表情には、どこかすべてを見通したような満足げな笑みが浮かんでいた。

 

「予定通り、ですね」

 

「ああ」 

 

 俺は短く、それだけ答えた。

 そして、ふと視線を前へと戻す。少し離れたセンターライン付近で、ハルヒが野球部の連中へと鋭い睨みを利かせていた。首筋から大量の汗を流しながらも、その瞳の奥にある絶対的な光だけは、まるで死んでいない。いや、それどころか――。

 

「……まぁ」 

 

 俺はそんなハルヒの横顔をしばらく眺めながら、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いていた。俺の口元が、ほんの少しだけ自嘲気味に緩む。

 

「本物には勝てねぇけどな」 

 

 どれだけ野球部がハルヒ並みの不条理なスペックを誇ろうが、この世界に本物の涼宮ハルヒはただ一人しかいない。その本物の「猛獣の扱い方」を世界で一番熟知しているのが誰なのか、奴らに後半戦で思い知らせてやる。

 

「ちょっと、何よキョン!!」 

 

 案の定、地獄耳の団長様が鋭く振り返って俺を睨みつけてきた。

 

「なんでもねぇよ」

 

「なんでもない顔じゃないでしょ! 今絶対にあたしの悪口言ってたわね!」

 

「いいからさっさと休め。まだ後半があるんだぞ」

 

「言われなくても分かってるわよっ!」 

 

 ハルヒがいつものようにぷんぷんと怒鳴り声を上げる。 

 俺はそんな理不尽な日常の光景に小さく苦笑しながら、冷たい氷嚢が待つベンチへと向かって重い足取りを歩み出させた。――勝負は、ここからだ。 

 

 ピィッ。 

 

 主審が残った選手たちをベンチへ促す。 

 俺たちは、10分間のハーフタイムへと入った。

 

「みなさん、ナイスファイトです〜〜〜!!」 

 

 ベンチに戻るなり、朝比奈さんがチアのポンポンを投げ出して、今度こそボロ泣きしながら俺たちを迎えてくれた。

 

「みんな、めがっさ凄いよ!! あの野球部に一点差で善戦してるなんて!!」 

 

 鶴屋さんの曇りのない弾けるような笑顔を見ていると、不思議とすり減った体力が少しだけ回復していくような気がした。

 ただ、大変言いづらいことではあるが、あちらの野球部はガチの戦闘モードではなく、ただの楽しいレクリエーション感覚で暴れ回っているだけなんですけどね、鶴屋さん……。

 俺は朝比奈さんから手渡された氷嚢を頭の上に乗せ、差し出されたスポーツドリンクの入った紙コップを一気飲みした。乾ききった喉を冷たい液体が通り抜けていく。 

 視線を落とすと、谷口はベンチ前の床に文字通り大の字になって倒れ込んでいた。おでこに冷却シートを何枚も貼り付けられ、朝比奈さんから特大の団扇(うちわ)で必死に煽ってもらっている。

 

「あぁ……朝比奈さんの優しい香りが漂う……。俺、もうこのまま死んでもいいや……」 

 

 そのまま、潔くあの世へ昇天しちまえ。ただし、俺からの全力の拳の鉄槌を脳天に食らった後でな!! 

 

 谷口はだらしなくヨダレを垂らしそうになりながらも、思い出したようにホワイトボードを見上げた。

 

「しかしよぉ、国木田。試合前、あいつらのこと自分の役割を完璧に理解してる組織力抜群のチームって言ってなかったか? 蓋を開けてみたら、戦術もクソもないただの猪突猛進じゃねぇかよ……」

 

 国木田は冷えたタオルを首に巻き、手元のメモ帳をトントンと叩きながら答えた。

 

「いや、一回戦の柔道部戦からメンバーを丸ごと変えてきたからね……。たぶん、文芸部相手の『余裕』ってやつじゃないかな。戦術を使うまでもないって思われてるんだよ」

 

「なんだよそれ、気にくわねぇなー」 

 

 谷口が面白くなさそうに鼻を鳴らす。国木田はさらに眉をひそめて続けた。

 

「いずれにしても、さっきのロングシュート……。あれは本当に厄介だよ。あんな飛び道具があるなんて、流石に計算に入れていなかった」

 

「気にすることねぇよ。あんなのただのマグレだ」 

 

 俺は早くも三杯目(表面張力ギリギリまで注がれたやつだ)のスポーツドリンクに突入しながら、国木田の不安を切り裂いた。

 

「たまたまシュートコースがぽっかり空いて、たまたま国木田がセオリー通り前に出て来てたから入っただけのシュートだ。十回やって一回入るかどうかのマグレ。あいつらに『もう一回同じのやってくれ』って言ったって、そう簡単に再現できねぇよ」 

 

 そう言い捨てながら、俺は飲み干した紙コップを無造作に握り潰し、パイプ椅子にどっかと深く腰を下ろした。 

 

 しかし――。 

 氷嚢の冷気を頭から浴びながら、俺の脳裏にさっきのピッチの残像が鮮烈に蘇ってくる。 俺はなぜ、あんな目まぐるしいワンタッチのパスワークを咄嗟に思いつき、この足で行うことができたんだ? 

 国木田のノートの隅にだって書いていなかったし、この一週間の練習の中で、一度だってやったことがない連携だぞ。 

 俺は腕を組み、にじむ汗を拭うのも忘れて少し考え込んだ。 

 もしかして、俺たちはボールを回していたんじゃない。――野球部自体を、回していたのか? 

 ハルヒと同じ性質を持つあいつらを、自分たちの望む場所へ、望むタイミングで強制的に誘導するためのトラップとしての連携。それこそが、あの俺たちが即興で展開した『三連環』(トライアングル・チェイン)の本当の正体なんじゃ……。 

 いや、待て待て、落ち着け。それをフットサルど素人のこの俺が編み出したというのか? 戦術の本の一冊も読んだことがない、ただの凡人であるはずのこの俺が? 

 そんなはずは――。

 

「キョン!! キョンてば!!」 

 

 鼓膜を震わせる鋭い声に、俺はハッと我に返り、勢いよく顔を上げた。 

 すぐ目の前に、不満げに腰に手を当てた我が団長様が立っていた。

 

「何よ、さっきから一人でずっとぶつぶつ言って!! 何か野球部を木端微塵にするいい考えがあるなら、ちゃんとみんなの前で堂々と言いなさいよ!」 

 

 俺は部室の壁の電光掲示板に目をやった。思考の海に沈んでいる間に、知らぬ間に10分間のハーフタイムは残り5分にまで縮まっていた。  

 後半のホイッスルが鳴る前に、俺はこの化け物チームを本当に下剋上するための、真の戦術を言葉にしなければならなかった。

 

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