涼宮ハルヒのフットサル   作:宮澤宏

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俺の悪友

 

 ハーフタイム残り五分。 

 国木田がホワイトボードの前に立ち、マーカーをトントンと叩きながら言った。

 

「後半、残り十分になったら長門さんを投入する」

 

「長門を?」 

 

 俺はスポーツドリンクの紙コップを持ったまま聞き返した。 

 

 長門をここで入れるのか。寸分狂わぬ極上のラストパスが供給されなければ、ピッチの上でただ静かに直立しているだけの「等身大の置物」と化すあの宇宙人を、この修羅場に投入するというのか。

 

「ああ。あの4人のフィジカルを相手にするなら、長門さんのあの規格外の決定力は絶対に必要になる。かなりのギャンブルだけどね。……問題は、それまでの最初の五分間をどう戦い抜くかだ」 

 

 国木田の言葉を聞きながら、俺は黙って壁の電光掲示板を見つめた。 

 1 - 2。まだ、たったの一点差。十分にひっくり返せる。

 だが、俺と谷口の足はもうとっくに限界に近い。そして向こうのピッチには、まだ底なしの体力を誇る四頭の猛獣がヘラヘラと笑いながら手ぐすねを引いて待っている。

 

 ――いや。そこで、俺の頭の中に何かが妙に引っかかった。 

 四頭。猛獣。走る。追う。食いつく。俺はホワイトボードを見つめたまま、ぽつりと、自分の意志とは無関係にその言葉を呟いていた。

 

「……鳥籠やろう」

 

「鳥籠、ですか?」 

 

 古泉がその長い前髪の奥から、すっと細い目をさらに細めた。

 

「しかし、相手は縦横無尽に走り込んでくる方達ですからね。一般的な鳥籠では、網を張って捕まえる前に、こちらの陣形ごと力ずくで食い殺されてしまうのでは?」

 

 ハルヒがすぐさまそれに続く。

 

「そうよ!あいつら、デジコンのモヤシどもとは筋肉の量が違うのよ!!」

 

「分かってる」 

 

 俺は答える。

 

「だから、普通の鳥籠じゃない」 

 

 谷口が露骨に嫌そうな顔をして、ベンチの床から這い上がってきた。

 

「おい待て、キョン。俺ら三人、さっきの前半だけで死ぬほど走ってたんだぞ? てか、お前だって、身体はもうとっくに限界なんじゃねぇかよ?」

 

「……」 

 

 そうだった。足は鉛のように重い。肺は熱い鉛を流し込まれたように焼けている。喉はカラカラで、さっきからいくらドリンクを飲んでも潤わない。 

 さっきまでなら、パイプ椅子から一歩動くだけでも億劫(おっくう)だったはずだ。なのに――。 

 俺は自分の両足を見下ろした。不思議だった。さっきまであれほど重かった身体が、今は妙に軽い。

 疲労そのものが消え去ったわけじゃない。むしろ筋肉はズタボロのはずなのに、頭の芯だけが異様なほどクリアに冴え渡っている。ドクドクと、心臓の鼓動がうるさい。沸騰した血液が全身の血管を猛烈な勢いで駆け巡っている。小体育館の薄暗い視界が、なぜか妙に鮮明で、野球部のユニフォームの水色が網膜に刺さるように強く見える。外を降る雨の音まで、やけに大きくハッキリと聞こえる。俺は自分の胸に手を当てた。――なんだ、これ。

 

「……そうだった」

 

「何がです?」 

 

 古泉が、俺の異変を察したように真面目なトーンで聞いてくる。

 

「俺、限界だったんだ」

 

「今さらかよ!?」 

 

 谷口がベンチでひっくり返りながら叫ぶ。俺はそんな奴らに苦笑した。

 

「いや。違う」

 

 そこで、ふと黙り込む。鳥籠(とりかご)。 

 なぜだ? どうして俺は、今この瞬間に、そんな専門的なフットサルの戦術の言葉を思いついた?別に国木田からあらかじめ教わったわけじゃない。今までの形ばかりの練習で一度だってやったわけでもない。 

 そもそも、俺はフットサルの高度な戦術なんて、これっぽっちも知らないただの素人のはずだ。それなのに。コートの向こうで笑う野球部の4人を見た瞬間――。 

 彼らのパワーを完全に無力化する「鳥籠」という最適解の盤面が、まるで最初からそこに印刷されていたかのように、俺の頭の中へカチリと浮かんできた。俺はゆっくりと、引き寄せられるようにホワイトボードへ近づいていった。そして、黒いマーカーを手に取る。 

 

 ……おい、何でだ? 何で俺は、この動き(戦術)を『知って』いるんだ……? 

 俺の背後で、ハルヒが「早く言いなさいよ!」と急かすように腕を組んでいるのが見えた。そのハルヒの無邪気な笑顔を見た瞬間、俺の頭の中にひとつの「最悪な仮説」が浮かび、すぐにそれを打ち消した。やめろ。考えるな。今はこの目の前のチェス盤をひっくり返すことだけを考えろ。 

 俺はホワイトボードに、迷いのない速度でマーカーを走らせ始めた。

 

 ホワイトボードに走る黒いマーカーの軌跡を、ハルヒが怪訝(けげん)そうな顔で見つめていた。 

 俺は、野球部の4人の位置を、あえてピッチ上にバラバラに配置するようにバツ印で書き込んだ。フォーメーションもクソもない、ただの肉食獣の群れだ。 

 そして、その4人の陣形のちょうど真ん中に、ぽつんとひとつの丸を描く。ボールだ。

 

「こいつらは、とにかくボールを追う。一回戦のデジコン研みたいにハルヒを囲む命令(プログラム)で動いているんじゃなくて、ただボールという目の前の獲物に向かって、本能のままに一斉に食いついてくるんだ」

 

 俺はホワイトボードに、四人からボールへと向かう矢印を書き足した。

 

「だったら、最初からボールを奪わせなきゃいい」

 

「……?」

 

「でも、ただひたすらコートを広く使って逃げ回るんじゃない。そんなことをしたら、それこそあいつらの自慢のフィジカルと運動量に、外側から強引に食い殺されるのがオチだ」

 

 俺は、今度はボールを起点にして、野球部の4人の矢印をぐるりと円になるように、まるで鎖(くさり)を繋ぐように一本の線で結んでみせた。

 

「追わせ続けるんだ」 

 

 その瞬間、古泉の端正な表情が、ハッとしたように劇的に変わった。

 

「……なるほど」

 

「俺たちが、あいつらを閉じ込めるための『鳥籠』を形成するんじゃない」 

 

 俺は最後に、ボールに釣られて中央へ密集し、勝手に円形に固まっていく四人のバツ印を、外側からぐるりと大きく囲むように黒い太線を引いた。

 

「こいつら自身に、自分たちの足で、この『鳥籠』の中へ入ってきてもらうんだよ」 

 

 一瞬、ホワイトボード前にいる人間は誰も喋らなくなった。 

 換気のために全開にされた窓の外から、ざあざあと降り続く本降りの雨音だけがやけに大きく響いていた。そして他ならぬ俺自身が、今自分の口から飛び出したその突飛な言葉に、一番驚いていた。 

 ――違う。これは、俺の足りない脳みそが机の上で必死にひねり出した戦術なんかじゃない。前半戦で必死に繋いだ『三連環』の残像。足元で小刻みに跳ね回っていたボールの感覚。 こちらの見せた隙に、 面白いように群がってきた野球部の食いつき。 

 そして――この一年間、嫌というほど付き合わされてきた、涼宮ハルヒという理不尽な猛獣の扱い方。 

 その全てのバラバラだったピースが、野球部の4人を「ハルヒが4人いる」と考えたあの瞬間から、パズルのピースが噛み合うように、脳内で勝手に一本の線へと繋がっただけだったのだ。 

 俺は手元のマーカーを置き、肺の中の熱を逃がすように、小さく息を吐いた。

 

「……なるほどな」

 

「何がよ、さっきから気取っちゃって!!」 

 

 ハルヒが不満げに腕を組み、ホワイトボードの図面をキッと睨みつける。 

 俺は、そんな我が団長様の綺麗な瞳を、真っ正面から見据えた。

 

「お前だよ、ハルヒ」

 

「はぁ!?」

 

「お前のその、理不尽で、自分勝手で、前しか見えなくなる突撃のパターンを、一年間ずっと特等席で見せられてきたからこそ、俺には分かるんだよ」

 

 ハルヒが怪訝そうに眉をひそめ、俺の顔を覗き込んでくる。

 

「何が分かるっていうのよ?」 

 

 俺はホワイトボードに描かれた、哀れな野球部の4人のマークをトントンと指差した。

 

「猛獣ってのはな、力ずくで檻(おり)に入れる必要なんてどこにもないんだよ。あいつらの大好物の餌をしかるべき場所に置いてやりさえすれば、自分から喜んで檻の中へと飛び込んでくるんだ」 

 

 一瞬の静寂の後、ハルヒの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。

 

「……ちょっと、誰が猛獣よ!!!!」

 

「お前だよ」

 

「なんですってぇぇぇぇッ!?」 

 

 ベンチの隅で、冷却シートをおでこに貼ったままの谷口が「ぶふっ!」と盛大に吹き出した。隣の古泉も、口元を片手で覆いながら肩を小刻みに震わせて笑いを堪えている。ただ一人、軍師の国木田だけが、俺の描いたホワイトボードの軌跡を真面目な目で凝視し、小さく頷いていた。 

 俺はハルヒの怒号を無視して、一切笑わなかった。 

 俺の研ぎ澄まされた頭の中では、もう、数分後に幕を開ける後半15分間のピッチの光景が、鮮烈な映像として完全に完成していた。四頭の猛獣を、こちらの意図通りに四方から走らせる。ボールを追わせ、追いつかせず、絶対に奪わせない。 

 あいつらが自分たちのフィジカルの余裕に溺れ、ボールという餌に完全に目を回してバラバラに引き裂かれた、その瞬間――。後半残り10分。国木田のプラン通りに長門有希がピッチへと入った瞬間、俺たちの『鳥籠』は、外側から完全に、そして冷酷に閉じられる。 

 俺はグッと拳を握りしめ、胸の奥で静かに確信した。――これなら、いける。 

 

 ピィーーーッ!!!!  

 体育館の湿った空気を切り裂くように、運命の後半戦の開始を告げるホイッスルが響き渡った。さあ、下剋上の後半戦、勝負の時だ。

 

 さぁて、脳筋軍団め。ここからは俺たちの、本当の反撃の時間といこうか。 

 

 作戦会議の終盤、国木田はホワイトボードを叩きながら、俺たちに最終確認を告げていた。

 

「とにかく長門さんを投入するまでの最初の5分間は、一回戦の時よりもさらに丁寧に、それも素早くボールを回していくんだ」

 

「素早くってお前……。俺のライフはもうとっくに限界数値を下回って赤文字で点滅してんだっつうの!!」 

 

 谷口が泣き言を吐くが、国木田はそれを容赦なく無視して言葉を重ねる。

 

「それでも、絶対に守りには入らない。引いて守れば潰されるだけだ。隙さえあれば、僕たちは常にゴールを狙っていく姿勢を崩さないよ」

 

「だから人の話を聞けって……死ぬぞマジで……」

 

「少しでもパスコースが開けば、ためらわずにハルヒへボールを回していけ、って事だな」

 

 俺が国木田の意図を翻訳してやると、右サイドの古泉が「ええ、その通りです」と、いつも通りの胡散臭い笑顔を深く微笑ませた。 

 そして、最前線に立つ我が団長様が、拳を天に突き上げて不敵に笑う。

 

「任せなさい!!」 

 

 攻撃は最大の防御なり。まさに今の俺たちが、その言葉を体現していた。この野球部を翻弄するパス回しは、単なる時間稼ぎの逃げ惑いなんかじゃない。これ自体が、奴らの息の根を止めるための、俺たちの苛烈な『オフェンス』なのだ。 

 後半が始まった直後から、ピッチ上のSOS団の動きは、前半とは明らかに違っていた。 懲りていないというか、学習能力の無い野球部が、案の定「また4人でまとめて潰しに行くぞ!」とばかりに、楽しそうに一斉に突っ込んでくる。 

 しかし、その牙が届く寸前で、俺がワンタッチでボールを逃がす。受け取った古泉が流れるようなステップで逆サイドへと展開する。そこへ走り込んだ谷口が、あえて泥臭く身体を張って敵を引きつける。 

 それを、狂ったようなテンポで、丁寧に、かつ目にも留まらぬ速度で何度も何度も繰り返していく。「――『三連環』(トライアングル・チェイン)Ver.2だ」

 

 お前たちは、自分たちの意志でボールを「追っている」と思っているんだろう。だがな、実際にはその真逆だ。お前たちは俺たちのパスの軌道によって、走る方向を、走る速度を、完全に「追わされている」んだよ。前半とは根本的に構造が違う。俺たちはもう、こいつらのフィジカルから逃げ回っているんじゃない。この狭い檻(コート)の中で、こいつらを都合よく走らせて目を回させているのだ。 

 左サイドを往復する谷口は、もうとっくに限界を超えた領域に達していた。普通の人間ならとっくに白目を剥いてコートにぶっ倒れて救急車で搬送されているレベルだ。だが、あいつは倒れない。足をもつれさせ、ふらふらになりながらも、ただただ気合いだけで前線への走りを止めようとしなかった。

 

 気合いと根性、か……。お前のそういう、お調子者のくせに土壇場になると、泥臭く踏ん張るところだけは、同級生として嫌いじゃないぜ、谷口。 

 谷口、お前が吐き出しそうな肺を叩いて作り出してくれたその無駄のない動き、絶対に無駄にはしねぇ!! 

 

 そして、後半5分。ついにチェス盤の上の駒が、劇的に動き出す。 

 俺たちの超高速ローテーションに釣られ、ボールという餌を追いかけ回し続けた野球部4人の陣形が、東西南北へと完全にバラバラに引き裂かれた。その瞬間、ピッチの中央に広大なオープンスペースがぽっかりと口を開ける。 

 その光景を、最前線のハルヒが見逃すはずがなかった。

 ハルヒは迷うことなく、その爆発的な推進力で敵の死角へと鋭く侵入していく。俺の冴え渡った網膜が、そのハルヒのユニフォームの動きを完璧に捉えた。 

 谷口!! このパスに、お前の文字通り命を削った執念の思いも全部乗せて届けてやる!! 俺は右足を大きく振り抜いた。それはシュートを蹴るのと全く同じ感覚、全く同じ強烈なインパクトで放たれた、前線への弾丸パス。――これが、俺の脳細胞が導き出した新設計だ。

 そしてこれを受け取れるのは、ハルヒ。おそらく、お前だけだ。

 

「――『閃撃配球』(ストライクパス)!!!!」 

 

 

 地を這うような光速の低空パスが、野球部のディフェンスの間を文字通り閃光のように擦り抜け、走り込んだハルヒの足元へと寸分の狂いもなく吸い込まれた。 

 ハルヒはそれを受け、一切の躊躇(ちゅうちょ)も、一瞬のタメすらも作ることなく、トップスピードのまま右足を狂おしい速度で振り抜いた。

 

「――『爆風一閃直撃弾』(ブラスト・フラッシュ・バレット)ォォォ!!!!」

 

 ドガァァァァンッッッッ!!!!  

 体育館のすべての窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げて振動し、放たれたボールはゴールキーパーの顔の真横を文字通り「光」となって突き抜け、ネットの天井を千切り取らんばかりの勢いで激しく突き刺さった。 

 

 ゴール!! 

 後半5分。 

 2 - 2。  

 ゴール:ハルヒ(大会通算3点目)

 アシスト:キョン(大会通算5つ目)

 

 SOS団がついに最強のフィジカルモンスターたちを相手に、同点へと追いついた瞬間だった。

 

 凄まじい衝撃音が小体育館の壁を震わせ、ハルヒの放った弾丸がネットに突き刺さった瞬間、会場は前半の同点弾のときを遥かに凌ぐ大歓声とざわめきに包まれた。 

 外の雨を避けるためか、あるいはSOS団の快進撃の噂を聞きつけたのか、いつの間にやらギャラリーの数は倍近くにまで膨れ上がっているような気がする。

 

「おいおいおい、マジで追いつきやがったぞ……!」

 

「対戦相手、本当にあの文芸部の暇人たちかよ? 嘘だろ?」 

 

 だが、そんな外野の驚嘆の声など、今の俺の耳元には一切届かなかった。それは他の仲間だって同じはずだ。 視界の端のベンチでは、朝比奈さんと鶴屋さんがまるで自分のことのように抱き合いながら、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねている。そして、パイプ椅子に座っていた長門有希が、それまで静かに開いていた文庫本を、そっと音もなく閉じたのが見えた。

 

「キョーーーーンッッッ!!!!」 

 

 弾頭を叩き込んだ我が団長様が、まるでスペインの猛烈な闘牛さながらの勢いで、ピッチの中央にいた俺の元へと突っ走ってきた。

 

「ナイスパァァァーーースッッッ!!!!」

 

「しゃああぁぁぁッッッ!! どうだ見たかこの野郎ォ!!!!」 

 

 俺たちは互いに右手を高く掲げ、パァンッ!! と鼓膜が弾けるほどの猛烈な勢いで、力強くハイタッチ(というよりは手のひらを弾き合わせるような、荒々しい一撃だ)を交わした。 

 

 やれやれ。普段の俺なら絶対にこんな体育会系の暑苦しい真似なんてする柄じゃあ無いってのに、どうしてこう、この空間の熱気ってやつは人間の理性を狂わせるかね。あまりの勢いでぶつかり合ったせいで、俺の右の手のひらがジンジンと不快なほどに痛い。

 

「おいおい、あいつらマジかよ」

 

「こんな学校行事に、あそこまで本気になってるのか〜?」

 

「別にいいんじゃねぇの? なんか微笑ましいじゃん、文芸部」

 

 コートの向こう側から、野球部のゴリラどものそんな軽薄な会話が聞こえてくる。

 

 追いつかれたというのに、お前らはまだそんな余裕のセリフを吐いていられるのか。ふん、おめでたい頭をしてやがるぜ。俺たちがどれだけ死に物狂いで脳細胞を焼き切れ、お前たちを走り回らせてこの血の滲むような2点目を叩き出したか、その筋肉の詰まった脳みそじゃ想像すらできねぇんだろうな。

 

「流石ですね、お二人とも。実に見事な崩しでした」 

 

中央へ走り込んできていた古泉が、いつも通りの100万ドルの笑顔を浮かべながらやって来て、俺の胸元へ優しく拳を向けてきた。 

 

 やれやれ、一回戦の時といい、今回の『三連環』のローテーションといい、こいつの献身的なランニングが無ければこのゴールは無かったのも事実だ。一応、形だけでもこいつの労をねぎらっておいてやるか……。 

 

 俺は少しだけぶっきらぼうに拳を突き出し、古泉とガチッと力強いグータッチをかました。古泉は満足そうに微笑むと、そのまま隣のハルヒともカツンと拳を合わせる。――異変が起きたのは、まさにその直後だった。  

 ドサッ、という、水を含んだ砂袋でも床に叩きつけたかのような、鈍く重い音が俺たちのすぐ後ろから響いた。

 

「谷口ィィィッッッ!!!!」 

 

 自陣のゴール前から、ゴレイロの国木田の引きつった叫び声が上がる。 

 心臓がドクリと跳ね、俺とハルヒ、古泉の三人は、弾かれたようにすぐさま後ろを振り返った。そこでは、左サイドのライン際で全ての体力を絞り出してパスを繋いでいた谷口が、文字通り膝からカビ臭い体育館の床へと崩れ落ち、ピクリとも動かずに突っ伏していたのだった。

 

 谷口の突然の異変により、ピッチ上の試合は一時中断された。 

 俺、ハルヒ、古泉、そしてゴール前から全力で走ってきた国木田の4人は、ライン際に倒れ込む谷口の元へと一斉に駆け寄った。 

 ギャラリーの騒めく声が、体育館の雨音に混じって少しずつ大きくなっていくのが分かる。 俺と古泉は、左右から谷口の汗まみれの身体に肩を貸し、ゆっくりと上体を起こした。

 

 よかった。最悪の事態(心停止などだな)だけは免れたようだ。意識ははっきりとある。 だが、谷口は俯いたまま、力なく小さく何かをぶつぶつと呟いていた。

 

「キョン、すまねぇ……。すまねぇ……。俺、もう一歩も、走れねぇ……」 

 

 その声は震えていた。

 見れば、谷口の目から大粒の涙が溢れ出ていた。あのお調子者で、格好つけることしか頭にないはずの谷口が、こんな学校中の奴らが見ている大勢の前で、声を詰まらせて男泣きしているのだ。 

 胸の奥から、言葉にならない熱い塊が爆発的な勢いで突き上げてきた。俺はすぐさま、胸ぐらを引き剥がすような勢いで谷口に向かって言い放っていた。

 

「何、言ってやがる!! お前が死に物狂いで繋げてくれたからだろ!! お前が限界を超えて左サイドを何度も何度も走り込んでくれたおかげで、俺たちは野球部に追いつくことができたんだぞ!!」 

 

 普段の冷めた俺なら、こんな青臭いセリフは恥ずかしくて絶対に口が裂けても言わない。なのに、溢れ出る感情を止めることができず、次から次へと喉の奥から言葉が溢れ出てくる。ダメだ、視界が急激に滲んできやがった。俺の目頭にも、熱い涙が猛烈に込み上げてきている。

 ハルヒもまた、俺に負けないほどの怒鳴り声を上げた。

 

「そうよ!! あんたがいなきゃ、これからどうしたらいいのよ!! 次の準々決勝は!? その次は!? 優勝するのよ、私たちは!!」

 

「涼宮ぁ……」 

 

 谷口は鼻水をすすりながら、ハルヒの顔を見上げた。

 

「必ず……必ず次の試合までに、意地でもこの足を動かせるようにする。だから、だからよ……」 

 

 床にポタポタと、谷口の涙がこぼれ落ちる。

 お前、そんなに俺たちのために、この急造チームのために、文字通り身体を張って走ってくれてたのかよ。

 

「この試合……絶対に勝ってくれ……。キョン、頼む、約束してくれ……。俺はまだ…。まだ何もできちゃいねぇ!!お前らのためになりてぇ!!」

 

 気づけば、俺の頬にも一筋の熱い涙がこぼれ落ちていた。 

 俺はそれを、ダサいSOS団ゼッケンのついた体操着の袖で乱暴に拭い去り、谷口の目を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「もちろんだ……。約束する。お前の席は、ちゃんと次の試合まで空けておいてやるよ」

 

 主審から保健室へ行くかと声をかけられたが、谷口はそれを頑なに固辞した。

 

「みんなが勝つ瞬間に、俺もここにいたい。同じベンチで見ていたいんだ」

 

 そう言って、朝比奈さんと鶴屋さんに支えられながら、パイプ椅子へと引き上げていく。 

 

 全く、お前みたいな素人が残ったところで、確実に勝てる見込みなんてこれっぽっちも無えってのによ。 

 だが、あいつは、俺の数少ない悪友の一人は、ここまで命を削ってバカ強い運動部に一太刀浴びせてみせたんだ。 

 ここで熱くならなきゃ、ここで燃えなきゃ、男じゃねぇ。 

 何も言葉を交わさずとも、隣に立つ古泉の鋭い眼光と、国木田の固く結ばれた唇を見れば、彼らも俺と全く同じ「非常識な闘志」を燃やしていることは一目瞭然だった。 

 そして――。お通夜のようなベンチの隅で、俺たちの、最強にして最大の秘密兵器が、静かにその腰を上げて立ち上がっていた。  

 長門有希。悪友の遺志を継いだ宇宙人が、感情を一切廃した瞳で、ゆっくりとピッチへと歩みを進める。ここから、野球部の余裕を絶望へと書き換える、本当のチェスが幕を開けるのだ。

 

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