無口な情報統合思念体製対有機生命体用ヒューマノイド・インターフェースは、事前の軽いアップをする素振りすら見せず、ただ黙って、敵陣のやや左寄りの位置――フットサルで言うところのピヴォ(最前線)のポジションへと、吸い込まれるようにスッと着いた。
おい長門、お前、誰かに何も言われずとも今のこの戦況と自分の役割が完璧に分かってるとでもいうのか。まさかお前まで、あのベンチで灰になっている谷口の熱い想いに応えようとして……。いや、流石にそれは俺の感情移入が過ぎるというもんだな。
長門投入後の布陣はこうだ。
長門(やや左ピヴォ寄り)
ハルヒ 古泉
キョン
国木田
俺たち三人(ハルヒ、古泉、俺)も、それぞれのポジションに着く。
最後尾のフィクソへ戻る直前、俺はすれ違いざまに古泉の肩を叩き、低く鋭い声で告げた。
「もし、俺がボールをクリアしたら、何が何でもボールを保持しろ」
「……。なぜそんな事を?」
古泉が意外そうに端正な眉をぴくりと動かす。
「相手ボールからのリスタートだからな。さあ、いくぞラスト十分」
それだけを言い捨てて俺は定位置へと戻る。切れ者で、この状況を面白がっている(あるいは『機関』の任務として必死な)こいつのことだ。それだけで俺の意図を正確に汲み取るには十分すぎるだろう。
ピィーーッ!!!
後半6分、野球部ボールで試合が再開された。
その直後、驚いたことに野球部の連中は、前線へ突撃せずに自陣の後方で横パスを回し始めたのだ。今までの猪突猛進を踏まえると、到底考えられない知性的な(あるいは人をナメきった)時間稼ぎのような挙動だった。
「おい、決めてみせろよ〜」
「おう、もう一発いかせてもらうわ!」
奴らの暢気な声が響いた瞬間、最後尾の国木田の顔が恐怖に強張った。
「ま、まさか……っ!!」
国木田は慌ててゴールマウスの真ん中へと戻り始める。
右サイドの深い位置にいた野球部員が、まるでピッチャーがマウンドから全力投球を繰り出すかのように、その太い右足を大きく、豪快に振り抜いた。
本日二度目となる、理不尽極まりない超ロングシュートの弾道が描かれる。
「いい、国木田!! お前は動くな!!」
叫ぶと同時に、俺の身体はすでに前方へと走り出していた。
そうだ。さっきから、妙に冴え渡った脳細胞が、あの弾丸の軌道を完全に予測していたんだ。 古泉のやや左斜め後ろ。パズルのピース、その全てが交差する終着駅は――ここだろ!!
俺は体育館の床を全力で踏み込み、空中へと飛び上がった。
体力測定の垂直跳びの数値なんて、お世辞にも他人に自慢できるもんじゃねぇってのに、どうしてこんなに身体が浮き上がるんだ。当たれ!! 頼むから当たってくれ!!
「うぐっ!?」
強烈な質量を持ったボールが、俺の額のド真ん中にクリーンヒットした。
バチン!!と脳を揺さぶる鈍い衝撃とともに、運良くヘディングという形で、野球部の必殺の弾道が空中で軌道を変えた。
古い小体育館のギャラリーから、今日一番の「おおおおおっ!?」という大歓声が沸き起こる。ベンチの奥からは、朝比奈さんが悲鳴に近い声を張り上げてくれているのがハッキリと聞こえた。
「キョンく〜〜〜〜〜〜んっっっ!!!!」
驚いたか、身体能力任せの脳筋猛獣ども。戦術もクソもないお前らの無茶苦茶なシュートが、なんでこのフットサル素人に完璧に読まれたのか分からねぇだろ。そりゃあ、分かるんだよ!!お前らの単調な目線と、バッティングフォームそのままの分かりやすい足の向きを、ずっと凝視していればよ!!
空中から着地し、激しい脳震盪(のうしんとう)を堪えながら、俺は前方に向かって心の中で吠えた。
後は任せたぞ、古泉!!ボールはまだ死んじゃいねぇ。絶対に、あの猛獣どもに再び奪い返されるんじゃねぇぞ!!
俺が視線を上げたその瞬間、古泉一樹の長い身体は、すでに地を這うようなスピードでセカンドボールへと走り出していた。
その顔からは、いつもの、あの胡散臭い100万ドルの微笑みは跡形もなく消え去っていた。
かつて閉鎖空間で世界の命運を賭けて戦っていた時ですら見せたことのないような、剥き出しの、真剣そのものの眼光で、古泉は弾んだボールをその足元へと完璧に収めようとしていた。
「走れぇぇぇぇぇ!、古泉!!」
そして何が何でも、その長い手足としぶとい執念でボールを奪われるなよ!!もし、今ここで完璧にボールをキープしてマイボールにできたのなら、お前の望み通り、あの不条理の塊みたいなハルヒの耳元で、何回だって『I love you』って大声で囁いてやるからよ!!(※無論、命の保証はないがな!)
俺が額を真っ赤に腫らしながらクリアした、あの弾丸シュートのセカンドボール。
その着地点は、ピッチの中央、やや相手陣地寄りのきわどいスペースだった。
古泉は最短距離のステップでその場所へと到達する。だが、流石に野生の反射神経を誇る野球部の連中だ。運悪く、ほぼ同時のタイミングで敵のアラの一人がボールへと猛然と滑り込んできていた。
衝突は避けられない。古泉は、いつもの胡散臭い笑顔を完全にかなぐり捨て、剥き出しの鋭い眼光を目の前の野球部員へと送りつけた。
ドガッ!! と、体育館の床を激しく踏み鳴らす音とともに、息を呑むような激しい1on1が幕を開けた。
泥臭く奪い、力ずくで奪い返す。肉体と肉体が激しくぶつかり合い、ダサいSOS団ゼッケンが敵の指に引っかかって嫌な音を立てて引き絞られる。だが、古泉は体幹を微塵もぶれさせない。
野球部員が力任せに身体をねじ込んできた、そのほんの一瞬の、ステップの重心の傾き。古泉の長い右足が、その僅かな隙を鋭く突いた。
カツン、と短い音がして、古泉は最小限のロールターンで相手の突進をいなし、完全にその裏へと抜け出していた。
わあぁぁぁっ!!!!!
古い小体育館の天井を突き破らんばかりの、凄まじい歓声がギャラリーから沸き起こる。
信じてたぜ、古泉!! このSOS団の男連中の中で、あのゴリラどもと真っ向からの肉弾戦で競り勝てるとしたら、閉鎖空間で巨大な巨人とやり合っているお前しかいねぇんだからな。
俺のヘディングクリアと、お前の執念の突破。俺たちの、10回に1回しか起きないはずの奇跡の博打が、今この土壇場で完璧に決まったぜ!!
「何が何でも保持しましたよ!!」
古泉が前線を向いたまま、鋭く声を張り上げる。
「さぁ、始めよう!!」
俺はふらつく足に力を込め、ピッチの全域に向かって吠えた。
さあ、脳筋猛獣ども。お前たちを絶対に抜け出せない幾何学の迷宮へと閉じ込めてやる。 今ベンチで真っ白な灰になって俺たちを見つめている谷口の、あの泥臭い執念の想いも全部詰め込んだ、SOS団の真の戦術――『新・鳥籠』の開幕だ!! 古泉の足元からハルヒへ。ハルヒから、中央の俺へ。 餌に群がる猛獣の習性を利用した、悪魔のタイムマネジメントが再びピッチの上で駆動し始めた。
俺は自陣のセンターサークルから少し離れた位置で、足元にボールを保持したまま、上体を低く構えて静かにその時を待った。
普通のフットサルの試合なら、こんなものはただのあからさまな誘いだ。少しでも戦術を頭に入れているチームなら、ここまで清々しいほどの罠など誰も乗ってこないだろうし、大人しくブロックを作ってこちらの出方を見るはずだ。
普通ならば、な。
――だが、お前らは違った。
「そらもらったァ!!」
案の定、野球部の一人が、前後のバランスなど微塵も考えずにあっさりとその巨体を揺らして食いついてきた。
サンキュー、期待を裏切らないガチムチ脳筋くん。お前らのその単純なところが、今の俺たちにとっては世界一愛おしいぜ。
奴の長い足が届く直前の、まさにその瞬間に俺は右足を一閃した。
鋭い地を這うパスが、最前線のハルヒへと完璧に渡る。
ボールを受け取ったハルヒの目の前には、広大なスペースが広がっていた。本来のハルヒのプレイスタイルなら、ここから猪突猛進のスピードで前へと強引に突破していけるはずだ。
だが、ハルヒは行かない。あえてその場でスピードを緩め、上半身を小刻みに揺らして、背後から迫るディフェンスを自分の元へと不気味に引き寄せた。
一人、そして二人目が、一斉に獲物を囲むようにハルヒへと向かって殺到する。
ハルヒは奴らの鼻先がボールに触れるかという極限のタイミングまで引きつけてから、軸足の裏でクン、とボールの軌道を真逆へと変え、逆方向の古泉へと正確にパスを逃がした。
お前ら、まだ気づかねぇのか。今のハルヒはな、敵のディフェンスを突破するためにドリブルをしているんじゃない。お前ら脳筋どもの『進行方向』を都合よく決めるために、あえて目の前でボールをチラつかせてるんだよ。
そう。今の我が団長様は、お前たちを檻へおびき寄せるための、この上なく極上で、この上なく凶暴な『猛獣の餌』そのものだ!!
ハルヒに群がった野球部の背後、完全にノーマークになっていた右サイドのスペースに古泉が音もなく現れ、優雅にパスを受ける。
目の前でボールが移動したことで、野球部の連中は「次こそは!」とばかりに、再び揃って古泉の元へとドタドタと走り出す。
しかし古泉は、自慢の頭脳で奴らの進行方向をすでに完全に読み切っていた。
カツン、と軽いワンタッチ。古泉がダイレクトではたいたボールは、再び最後尾の俺の元へと綺麗に戻ってくる。
いいぞ古泉、完璧なリターンだ!! さあ、するとどうなる? 野球部のゴリラどもは、今度はまた俺を追って、さっきいたポジションへ無駄に引き返すしかなくなるよなぁ!?
おいおい、本当の幾何学の迷宮は、ここからが本番だぞ、猛獣ども!! ゲームが終わった後で、自分たちの筋肉に割かれた脳みその少なさを、床に這いつくばりながら存分に後悔するんだなぁ!!
ピキピキと、俺の太ももとふくらはぎの筋肉が、いよいよ本格的な悲鳴を上げ始めていた。血管が破裂しそうなほどにドクドクと拍動し、一歩踏み出すたびに凄まじい激痛が走る。 ただ、それでも俺の足は止まらない。止まるわけにはいかなかった。
こんな、学校の球技大会のフットサルコートの真ん中で、情けなくぶっ倒れて途中棄権なんかしてたらなぁ……。あそこでベンチのパイプ椅子に腰掛けて、魂が抜けかかった顔で俺たちを見つめている、あのバカな悪友(谷口)に、生きて合わせる顔がねぇんだよ!!
「まだまだ行くぞ、古泉!! ボールを回せ!!」
俺たちの即興の檻に閉じ込められ、自分たちが追い詰めていると錯覚したまま四方八方へ激しく走らされる野球部。
さあ、お前たちの自慢の体力とスピードを、この見えない檻の中で徹底的にすり潰してやろう。俺たちの新・鳥籠の迷宮は、まだ入り口に入ったばかりだぞ、脳筋ども!!
普通のフットサルの練習でやるような『鳥籠』なら、決まった三角形の頂点を、ボールが機械的に回るだけだ。
でも、俺たちがこの限界状態で紡ぎ出している、この『新・鳥籠』は根本的に何から何まで違う。
三つの頂点がただパスを回しているんじゃない。最後尾に立つこの俺が、お前ら野球部が次にどちらの方向へ、どれほどの速度で走るかを、毎回必ず『一手先』の盤面として冷徹に設計し、コントロールしているんだ。
俺からハルヒへ、地を這うような光速の高速パス。野球部のうち二人が、餌に引き寄せられるようにハルヒへと猛然と食らいつく。ハルヒから古泉へ、間髪入れない高速パス。ハルヒに食いつけなかった残りの野球部どもが、今度は焦って古泉の元へと一斉に食らいつく。 古泉から、再び最後尾の俺の足元へ戻る高速パス。目の前でボールを動かされた野球部が、今度はまた俺を引きずり下ろそうと、回れ右をして戻ってくる。
お前らの単細胞な頭脳なら、当然ここで俺から再び最前線のハルヒへパスが出る、と本能のレベルで思い込むはずだ。
だが、その時にはもう、罠の網は完全に絞られている。
「そこだ、古泉!!」
ハルヒへ出すと見せかけた、俺の視線によるフェイント。
俺は敵のプレスの逆を突くように、最終的なパスの終着駅を、右サイドで完全にフリーになっていた古泉へと鋭く変更する。
ガチムチの野球部員のシューズが、体育館の床の上で悲鳴を上げるように激しく軋んだ。お前らは完全に、俺の目線一つに逆を取られてステップを乱している。
さらに古泉からハルヒへ出す――と見せかけて、古泉は長い右足のヒールで、背後から走り込んできた俺の足元へと優雅にボールを落とす。
俺はそれを、ピッチの外側から内側へ。内側から外側へ。はたまた内側からまた内側、外側から外側へと、狂ったようなテンポと変則的なルートで、延々と、容赦なく繰り返してやった。
そうするとどうなる? お前らはもう、自分たちの網膜と筋肉が捉えているボールの軌道に対し、「次にどこへ向かって走ればいいのか」を、自分たちの頭で判断することすらできなくなるよなぁ!?
いいか、この悍(おぞ)ましい迷宮をピッチの上に作っちまってるのは、他でもないお前たち自身だ。俺と古泉と我が団長様が、お前らを閉じ込めるための檻を外側に作っているんじゃない。お前ら4人が、ただ目の前のボールという餌を追いかけて、コートの上を盲目的に走り回った――その『無駄な足跡の軌跡』そのものが、お前らの退路を断つ絶対的な迷路の壁になってるんだよ。
焦り、目を回し、自分たちのステップに足をもつれさせ、ただただ汗と湿気に塗れて消耗していく野球部の四頭の猛獣め。俺たちの張り巡らせた、このピッチの上に浮かび上がる冷酷な幾何学模様の底へと、そのまま静かに沈んでいくがいい。
野球部の連中は、いまだにこのピッチの上に張り巡らされた「見えない檻」の仕組みを、その脳みそで理解することができずにいた。
目の前に、転がるボールがある。だから、身体能力に任せて強引に奪いに行く。しかし、あと数センチというところで一歩届かない。俺たちが正確なワンタッチでパスを続ける。奴らは血相を変えてまたボールを追う。
やはり、あと一歩のところでまた届かない。お前らは、ただその無駄な反復運動をコートの上で繰り返しているだけだ。
そして、そんな無知な全力疾走を何度か往復させられているうちに、気がつけば、野球部4人の位置関係はピッチの上で完全にバラバラに引き裂かれていた。
一人は右サイドのライン際。一人は中央のデッドスペース。一人は自陣の後方に取り残され。最後の一人は、餌であるハルヒを必死に追って前線へと釣り上げられている。
ボールを追っていたつもりになっていたら、自分たちの強靭な身体能力に任せたご自慢のオフェンス陣形を、自分たちの足で勝手に破壊させられていた。これこそが、俺の脳細胞が設計した幾何学の迷宮の、恐るべき正体だ!!
「名付けて――『三位一体の鳥籠・迷宮』(トリニティ・ケージ・ラビリンス)よ!!!!」
最前線で敵を引きつけていたハルヒが、自らの髪を激しく揺らしながら、この美しい檻に向かって勝利を確信したような快活な怒鳴り声を響かせた。
なんだよその、無駄に語呂(ゴロ)のいい必殺技みたいな名前は。だが、今のこの盤面を表す言葉としては、これ以上ないほどおあつらえ向きだぜ、団長さん!!
「おい、どこだ!?」
「そっちじゃない、マークを見ろ!」
「ボールはどこにいった!!」
「いや、こっちだ! 早く戻れ!!」
完全に目を回した野球部の間では、もはや指示ともつかない怒号と混乱がすっかり生じ始めていた。奴らの自慢の機動力は、今や味方の進路を塞ぐだけのただの障害物へと成り下がっている。
その一方で、パスを回し続けるSOS団の俺たち3人は、お互いにほとんど言葉を交わすことすらしていなかった。
狂え、猛獣ども。自分たちの自慢の筋肉に溺れたまま、この檻の中でドタバタと踊り狂ってろ。そして息を合わせろ、SOS団!!
アイコンタクトも、事前の打ち合わせも何も必要ねぇ。俺たちがこの一年間で培ってきた「理不尽への耐性」があれば、この程度のシンクロなんて朝飯前だ!!
激痛に震える俺の右足の足元へ、古泉からの正確無比なヒールパスが三度(みたび)戻ってくる。 俺の限界寸前の脳内では、もう、この長かった二試合目の『仕上げ』(フィニッシュ)の光景が、寸分の狂いもなく完全に構築され尽くしていた。
そう。左サイドのピヴォの位置で、感情の消えた瞳のまま静かに佇んでいる、我がSOS団の最終兵器――長門有希までの、完璧極まる一本のパスコースが、今この瞬間に美しく開通したのだ!!
いくぞ、長門。お前までのパスコースは、今、俺の網膜の奥に完璧な一本の光のラインとして開通している。これが、この死闘に終止符を打つ、俺たちの命がけの勝ち越しゴールになるはずだ。
――いや、待て。まだだ。まだこの盤面(チェスボード)は完全に閉じていねぇ。
「キョン、早く出しなさいよ!!」
前線でハルヒの鋭い悲鳴のような声が響いたが、俺の右足は、ボールを保持したままピタリと動きを止めていた。己の足の筋肉がすでに限界を通り越し、いつ千切れてもおかしくないほどの激痛に苛まれているというのに、俺はあえて、そこからさらに一枚、二枚と、頭の悪い泥臭いパスワークを古泉との間で執拗に続けた。
「ちょっ、ちょっとキョン!? 今のは完璧にノーマークだったじゃないのよ! 何やってんのよ!!」
「……」
ハルヒが部室の机を叩くような勢いでピッチの上で地団駄を踏み、古泉だけが、俺の張り詰めた横顔を見て何かを察したように静かに息を呑んだ。
今の長門の位置。それに釣られるであろう野球部の残りの守備位置。奴らの今現在の運動量、および疲労度。ここから数秒間の、肉体的な行動範囲……。
俺の限界を迎えて沸騰した頭脳からは、自分でも信じられないような不気味な計算データが、言葉として自然と口元から溢れ出ていた。
そして。お前たちが目を回し、最後の最後、その巨体を投げ出して長門の足元へ突っ込んでくる、その未来の軌道が――。
「……見えた」
「はぁ!?」
ハルヒが素頓狂な声を上げたその瞬間、俺の目の前に、先ほどよりもさらに広く、さらに美しく、最前線の長門有希へのラストパスの射線が、今度こそ完全に開通した。
「これが――この試合の収束点だ!!!!」
俺の右足から放たれたパス。
だがそれは、誰もが予想したであろう、長門の足元へ鋭く突き刺さる地を這う弾丸パスではなかった。
俺が放ったのは、野球部の頭上をのんびりと越えていくような、ふわりとコートの空中に投げ出された滞空時間の長いロブパス。すなわち――。
「――『弧描配球』(パラボラパス)!!!!」
フットサルのセオリーで言えば、最悪の失策(ミスパス)だ。こんなふんわりとしたボール、トラップしてシュートを打つまでに、敵のディフェンスに強引に身体を入れ替えられて潰されるのがオチだからな。
現に、そのパスの軌道を見た瞬間、我が軍師の国木田はおろか、ハルヒや古泉の顔からすらも、一気に血の気が引いていくのが分かった。
だがな、そのパスが長門の元へと届く、まさにその瞬間のことだった。
完全に目を回して遅れていたはずの野球部の一人が、野生の直感だけで「ここが最後の勝負所だ」と吠えながら、長門の足元を目がけて、床を削るような凄まじい決死のスライディングを敢行してきたのだ。
もし、俺がさっき地を這うパスを出していたら、長門に届く前に、間違いなくあの長い足にクリアされていただろう。
「有希ィィィッ!!!!」
ハルヒが絶叫する。
突っ込んできた野球部の巨体。床を滑る凶悪なスライディング。
だが、その肉体の突撃を前にしても、我がSOS団の最終兵器は、感情の消えた瞳のまま、ただ静かに、その小さな身体をピッチの上へと、ふわりと跳ね上げさせた。 長門は飛んだ。重力という概念をその場で一時的に忘れてしまったかのように、敵の決死のタックルをいとも簡単に、美しく空中へと回避してみせたのだ。
そして、宙に浮いたまま、やや身体を横へと寝かせた不気味なほどの空中姿勢のまま、俺の放った『弧描配球』の放物線を、その右足――ではなく、利き足ではないはずの左足のインステップで完璧に捉えた。
この怪物(宇宙人)にとって、右足だの左足だの、あるいは重力だの空中姿勢だのといった有機生命体のハンデなんて、これっぽっちも関係ねぇ!!
ドゴォォォォォォンッッッッッ!!!!!
本日何度目か分からない、だが、これまでのどれよりも重く、凶悪なまでの破裂音が小体育館の古い壁に反響した。
あまりの衝撃波にギャラリーの誰もが文字通り我に返り、目を見開いた頃には――。 白く激しく揺れ動くネットの奥で、放たれたボールが、何事もなかったかのように静かにゴールゾーンの中で転がっているのが見えた。
ピィーーッ!!!
後半12分、ゴール。
3 - 2。
ゴール:長門(大会通算4点目)
アシスト:キョン(大会通算6つ目)
見たか、脳筋軍団め。凡人の意地と悪友の涙と、そして長門の不条理な一撃が、ついにこのピッチの盤面を完全に引っくり返し、我がSOS団がついに今大会最強のフィジカルモンスターたちを相手に、奇跡の勝ち越しをもぎ取った瞬間だった。
白く激しく揺れ動くネットの奥にボールが転がった瞬間、古い小体育館の天井が物理的に吹き飛ぶんじゃないかと思うほどの、文字通り割れんばかりの大歓声が俺たちの頭上へと降り注いできた。
「いいぞーーー!! 頑張れ文芸部!!」
「このまま、野球部を倒しちまえっ!!」
「あともうちょっとだよ!! あと3分!!」
「3分!! あと3分だけ死ぬ気で耐えてくれーーー!!」
いつの間にか体育館の入り口まで埋め尽くしていたギャラリーの面々が、誰も彼もが身を乗り出して、喉がちぎれんばかりの声で俺たちを応援してやがる。
やれやれ。世間で言うところの『判官贔屓(はんがんびいき)』ってやつか。弱小の文化系部活が、圧倒的な体育会系の巨人を引きずり下ろそうとしているこの構図は、外野から見ればこれ以上ない極上のエンターテインメントなんだろうな。
……いや、今の俺たちの胸に燻っているこの熱い塊を思うと、そんな冷めた言葉で片付けるのは、ちょっと違う気がした。
汗に濡れた前髪を乱暴にかき分けながら、自分たちのベンチへと視線を走らせる。
朝比奈さんは小さな身体をぎゅっと震わせ、両手で口元を覆いながら必死に涙を堪えていた。その隣で、鶴屋さんもメガホンを大きく振り回して感情を爆発させている。そして――谷口。谷口はどこだ!?
「キョーーーンッ!! 国木田ァ!! 涼宮ァ!! 古泉ィィッ!! お前ら、凄すぎるぞコンチクショー!! 格好よすぎるだろ!!」
ベンチの最前線。谷口は、さっきまでの「一歩も動けない」と言っていた重度の疲労なんてどこかへ忘れてしまったかのように、パイプ椅子の前から身を乗り出し、大粒の涙をボロボロと流しながら、喉をからして叫び続けていた。 その顔を見た瞬間、俺の胸の奥のドクドクという拍動が、さらに一段階跳ね上がる。
おい待て。これ、マジで勝てるのか!? あのハルヒが突拍子もなく言い出した、ただの学内球技大会のフットサルの試合で、俺たちは本当に、本物の運動部の化け物どもを下剋上して、勝利を掴み取ろうとしているのか!?
「あと3分!! みんな、絶対に守りに入っちゃダメだ!! 引いたら負ける!! 最後まで僕たちのフットサルで、ゴールを狙い続けよう!!」
後ろを振り返ると、最後尾からピッチ全体を見つめる国木田が、固く拳を握りしめて声を張り上げていた。その目には、ハッキリと熱い涙が浮かんでいた。
馬鹿野郎。ゴールを守る最後の砦のお前が、そんなにボロ泣きしてやがったら、迫りくる弾道が見えなくなってゴール守れねぇじゃねぇかよ!!
だが、その国木田の涙の叫びで、俺たちの腹は完全に決まった。 国木田、お前は間違いなく、俺たちSOS団にとって、諸葛亮孔明以上の天才軍師だよ。
お前が前を向けと言うなら、この足が今ここで千切れ飛んだって、俺は前線へ走ってやるさ!!
ピィーーッ!!!
後半13分。野球部ボールで、いよいよ運命の最終局面(フィナーレ)が幕を開ける。
だが、何故だ!? 試合が再開されるその瞬間になっても、俺の沸騰した脳細胞は、その狂ったような超高速の回転を止めることをしなかった。ストップがかかるどころか、むしろギチギチと軋みを上げながら、さっきよりもさらに早く、さらに深く、ピッチ上のすべての未来の軌道を計算し始めてやがる。
おい長門、教えてくれ。さっきのお前の不条理なボレーシュート。俺の頭脳は、あれをこの試合の『最終収束点』だとは、これっぽっちも認めてねぇって言いたいのか? 俺の冴え渡りすぎた脳は、激痛を訴えるこのボロボロの肉体に対し、静かに、だが逆らうことのできない絶対的な命令を繰り返し訴えかけていた。
――『俺が決めろ。俺の手で、この大熱戦の最後を締めくくれ』と。
野球部の一人が、プライドを完全にへし折られた顔のまま、最後の大突撃を開始した。 俺の瞳が、ギラリと不敵な光を放つ。上等だ。お前たちのその最後の突進の軌道すらも、この俺の迷宮(檻)の中に、綺麗に吸い込ませてやる!!
後半残り3分。
一点を追う立場となった野球部の連中は、流石にプライドを完全にへし折られたかのような形相になり、せめてもの意地をゴールへぶつけるべく、これまで以上の凄まじい嵐のような猛攻を仕掛けてきた。
ピッチの上は、もはや戦術がどうこうと言える綺麗な盤面ではなかった。
肉体と肉体が激しくぶつかり合い、泥臭く奪い、奪われ、さらに死に物狂いで奪い返しを続けるという、息をもつかせぬ肉弾戦の応酬がただ延々と続いていく。
残り2分。
俺の脳細胞は、いよいよ限界の閾値を突破して、さらに異常な速度で高速加速を始めていた。ピッチ上の空気のわずかな流れ、敵の筋肉の収縮、ボールの回転数までがスローモーションのように脳内に直接流れ込んでくる。
おいおい待て。これじゃあまるで、俺の脳みそが何だか人外の領域へと近づいているような気さえしてくるじゃねぇか。だがな、そんなおぞましい考えは真っ向から、全力で全否定してやる!! 神に誓って、俺は神人(しんじん)とやり合う世界線の超能力者でもなければ、情報改変能力を持つ宇宙人の仲間でもない。ただのSOS団の終身名誉雑用係を務める、どこにでもいる平凡な一般人なんだからな!!
俺たちはさらに追加のゴールを狙って前線をうかがった。しかし、敵のゴールマウスはあまりにも遠かった。
流石に俺と古泉の肉体には、もう一歩を踏み出すだけの体力すらこれっぽっちも残されておらず、さっきの『三位一体の鳥籠・迷宮』(トリニティ・ケージ・ラビリンス)を再びハメ直すだけのエネルギーは、どこを探しても残っていなかったからだ。
残り1分。
時計の針が非情にタイムアップを告げようとしたその瞬間、ピッチの中央でついにハルヒが強引に相手からボールを毟(むし)り取った。ハルヒはそのまま、持ち前の負けず嫌いを爆発させて単独のドリブルを強行する。
その必死な背中を見た瞬間、俺の沸騰した脳は、勝手に未来の『答え合わせ』を始めやがった。
ハルヒは敵のディフェンスに囲まれながらも、やや狭いパスコースへ無理矢理、最前線の長門に向けて強烈なラストパスを渡そうと右足を振った。
しかし、その軌道は、必死に足を伸ばした野球部のアラに完璧にブロックされる。ボールが激しく跳ね返り、敵の前線へとこぼれていく。
カウンターが始まる。それも、俺たちの足が完全に止まった、これ以上ない最悪のタイミングでだ。
誰もが、ギャラリーの誰もが「文芸部の奇跡もここまでか」と絶望した、まさにその刹那だった。
「――来ると思っていたぜ、ここに……!」
床を蹴る鈍い音がして、俺の身体は誰もいないオープンスペースへと滑り込んでいた。 ブロックされて激しく宙を舞った、こぼれ球の落下地点。そこは、ピッチの左サイドで直立する長門の、やや斜め向かい。敵陣のゴール前、わずか数メートルの聖域。
野球部のディフェンダーが誰一人として予測すらしていなかったその場所に、他でもないこの俺が、最初から待ち構えていたかのようにピタリと存在していた。
「なんであんたがそこにいるのよぉぉぉーーーっっっ!?」
ドリブルの体勢を崩したハルヒが、信じられないものを見たという風に目を見開いて絶叫する。
わかっちまったんだから、しょうがねぇだろ……。 野球部のゴレイロは、さっきの不条理ボレーを警戒するあまり、長門の動きに対して過剰に意識を引っ張られ、わずかにポジションを前に引きずり出されていたんだ。その結果、ゴールマウスの右隅に、ほんのぽっかりと出来ていた「終わりのスペース」。そこだけが、この試合に残された唯一無二の狙い目だったんだよ!!
俺はふらつく右足の全ての筋肉に、最後の力を込めて一閃した。
シュートとも言えない、ただ泥臭く、執念だけで押し込んだ右足のインパクト。
パァンッッッッ!!!!
放たれたボールは、前に出かかっていたゴレイロの指先をかすめ、吸い込まれるようにゴールネットのド真ん中を激しく突き刺した。 ボールが床へと落ち、弾む。
まさにその瞬間だった。
ピィーーー、ピピィーーーッッッッ!!!!
小体育館の古ぼけた天井を完全に突き破るような、試合終了の長いトリプルホイッスルが、湿った空気の中に鳴り響いた。
ゴール。そして――試合終了。
4 - 2。
ゴール:キョン(大会初得点)
勝った。マジで勝っちまった。
凡人の意地と、悪友の涙と、そしてハルヒという猛獣への対策を極めすぎた雑用係の右足が、ついに最強のフィジカルモンスターたちを完全なるチェックメイトへと追い込み、我がSOS団が、奇跡のベスト8進出をもぎ取った瞬間だった。