ピィーーー、ピピィーーーッッッッ!!!!
長いトリプルホイッスルが小体育館に鳴り響いた瞬間、俺をギリギリのところで支えていた脳内のネジが完全にぶっ飛び、俺はその場に泥のように崩れ落ちていた。
もう、限界なんて言葉はとっくの昔に通り過ぎていたんだ。今、俺の脳裏を支配している唯一の感情は、歓喜でもなければ達成感でもない。ただただ、「やっと、やっとこの地獄のサウナから解放されて終わってくれたのか……」ということ、それだけだった。
しかし、世界の不条理は、俺にそんな静かな余韻に浸る時間さえも与えちゃくれないらしい。
「うおおおおおおおおおッッッ!!!!」
「キョーーーーーンっっっっ!!!!」
ドガッ!! という猛烈な衝撃とともに、床に突っ伏していた俺の背中に、後ろから二つの巨大な質量がまとめて強烈に抱きついてきた。
見なくても分かった。国木田と、さっきまでベンチで灰になっていたはずの谷口だ。
二人して、もはや日本語として認識することすら不可能な野生の獣のような雄叫びを俺の耳元で全力で張り上げている。うるさい。耳がキーンとするから少しはボリュームを考えろ。
奴らの酸欠になりそうなほどの熱い抱擁が少しだけ落ち着いてから、俺は床に顔を伏せたまま、ようやく掠れた声を絞り出して答えてやった。
「谷口……。約束、守ったぞ。俺たち、本当に勝っちまったぞ」
俺の言葉を聞いた瞬間、背中の上の谷口の身体が、ビクリと大きく震えた。
「あぁ……。あぁ……。勝ったな、キョン……。俺たち、マジで、あの野球部に勝ったんだな……」
谷口がズビズビと、見苦しいほどに激しく鼻水をすする音が聞こえる。
「まだまだ走ってもらうぞ、谷口……。覚悟しておけ……」
あいつが今、どんなに涙と鼻水でぐしゃぐしゃの、お世辞にも格好良いとは言えない酷いツラをして泣いているのかは、わざわざ振り返らなくたってすぐに分かった。
でも、俺はあえて最後まで、その顔を直接見るのはやめておいてやった。これでも一応、ニ年間同じクラスの悪友に対する、最大級の「武士の情け」ってやつさ。
国木田もまた、俺の肩を何度も何度も壊れそうな勢いで叩きながら、目を涙いっぱいにして笑っていた。
そんな俺たちのドタバタな様子を、少し離れたところから見つめていた古泉が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
床に崩れ落ちたままピクリとも動けない俺の視界の先に、古泉の長い手がすっと伸ばされる。その顔には、気がつけばいつも通りの、あの最高に胡散臭くて、最高に鼻につく100万ドルの微笑みが、何事もなかったかのようにすっかりと戻っていた。
「ようやく終わりましたね。お疲れ様でした」
俺は古泉の差し出してきた手をギロリと睨みつけながら、細い息を吐き出す。
「相変わらず、お前だけは妙に余裕そうだな、おい」
古泉は、俺の恨み言をさらりと受け流すように、肩をすくめていつもの芝居がかったトーンで微笑んでみせた。
「当然ですよ。僕は最初から、あなたが最後の最後に盤面をひっくり返して勝つと、そう信じていましたから」
「やれやれ……。お前のその絶対的な信頼ってやつはな、受けるこっちにとってはただの重荷でしかねぇんだよ、古泉」
俺は文句を言いながらも、古泉の差し出してきた手をしっかりと掴み、限界を迎えた足に力を込めて、ようやく二本の足でフットサルコートの床へと立ち上がったのだった。
赤子のように大声をあげながら号泣するベンチの朝比奈さんの姿を見て、ようやく少しだけ実感が沸いてくる。
「ありがとうございました!!」
試合終了後、俺たちはピッチの中央に整列し、野球部の連中と互いに頭を下げた。
「いやー、負けた負けた!」
「惜しかったなぁ。もう一発入ってりゃ、まだ分かんなかったのに」
「つーか文芸部って、けっこうやるんだな」
「またやろうぜ!」
野球部の連中は、まるで放課後の遊びが終わった後みたいな顔で笑っていた。
俺は、その様子を黙って眺めていた。
……なんなんだ、こいつら。
あれだけ走って。あれだけ蹴って。あれだけ身体をぶつけ合って。
その挙げ句に負けておいて、どうしてそんな顔ができるんだ。
普通、もう少しくらい悔しがるものじゃないのか。いや、待てよ。そこで俺は、妙なことに気がついた。
こいつら――最後まで、ずっと楽しんでやがった。
「……最初から本気で戦術を揃えて来てたら、たぶん勝てなかったでしょうね」
「え?」
隣にいた古泉が、わずかに眉を上げてこちらを見た。俺は野球部の4人へ視線を向けたまま続ける。
「俺たちは、あいつらが次に何をするかを必死になって考えた。身体能力を見て、癖を探して、動きを読んで……」
そして、誘導した。あの『迷宮』を作るために。
「それで、ようやく勝った」
「……」
「でも、あいつらは違う」
俺は小さく息を吐いた。
「たぶん、そこまで考えてすらいなかった」
「え?」
今度は谷口が目を丸くする。
「じゃあ何だよ。俺たち、あいつらが本気じゃなかったのに勝ったってことか?」
「そういうことになる」
「なんだよ、それ……」
谷口は、嬉しいんだか悔しいんだか分からないような、ずいぶん複雑な顔をした。
まあ、俺も似たようなものだった。勝った。確かに勝った。
4対2。数字だけを見れば、俺たちの勝ちだ。誰が見ても、それは覆らない。
だが――。
「……だからこそ、勝てたのかもしれませんね」
古泉が静かに言った。俺はそちらを向く。
「相手が最初から勝つためだけに試合をしていたわけではなかった。だからこそ、あなたには彼らを観察する余裕があった」
「……」
「彼らが本気でこちらを研究し、対策を立てる前に。あなたが先に、試合そのものを自分たちの形にしてしまった」
「ずいぶん簡単に言うな」
「事実でしょう?」
まあな。否定はできない。俺は少し離れた場所へ視線を向けた。
そこではハルヒが、さっきまで敵だった野球部の連中と、もう何事もなかったかのように笑いながら話していた。どうやら、何か次の勝負でも約束しているらしい。
やれやれ。こいつも、最後まで楽しんでやがった一人というわけか。
「それに――」
俺は小さく笑った。
「あいつらがハルヒ4人分だったからこそ、俺にも扱えたんだよ」
「……なるほど」
古泉も笑う。
「では、本当に涼宮さんが4人いたら?」
「そんなもん、俺は絶対に試合したくねぇよ」
「ちょっと!!」
離れた場所から、聞き覚えのありすぎる声が飛んできた。
「聞こえてるわよ、キョン!!」
「……地獄耳め」
「それからね!」
ハルヒは、なぜか胸を張った。
「強い者が勝つんじゃないのよ!」
また何か始まった。
「勝った者が強いの!!」
どうやら名言らしい。雨は、いつの間にか止んでいた。雲の切れ間から差し込んだ光が、湿った体育館の床を照らしている。
「ベッケンバウアーの言葉よ!!」
「はいはい」
俺は、ほんの少しだけ笑った。まあ、何だ。理屈としては、悪くない。
そして今、この瞬間に限って言えば、俺たちは確かに強かったのだろう。
野球部より。少なくとも、スコアボードの上では。
――だからといって、これ以上走る気はない。俺はもう、ひたすら休みたかった。
野球部の連中と別れ、俺たちがピッチの端へと戻り始めた、その時だった。
「お疲れー!」
ギャラリーのどこかから、そんな気の抜けた声が飛んできた。
「次も頑張れよー、文芸部!」
「すげぇ試合だったぞー!」
「感動したよー!」
「長門さん、マジで何者なんだよー!」
最後の一言だけは聞かなかったことにしておく。
パラパラ、と拍手が起こった。それは、プロの試合が終わった後みたいな、割れんばかりのスタンディングオベーションなんかじゃない。
ただの学校行事に、たまたま面白いものを見つけて眺めていた連中が、帰り際に気まぐれで手を叩いている――その程度の、実に高校生らしい拍手だった。
それでも。
「……」
なぜだか、悪い気はしなかった。
結局、俺たちは文芸部室へと収容された。
理由は単純である。このまま体育館に放置しておけば、俺と谷口のどちらかが干からびる可能性があると判断されたからだ。誰が判断したのかは知らんが、おそらく正しい。
部室のドアを閉めるなり、俺たちは申し合わせたわけでもないのに、中央に置かれていたパイプ椅子へ並んで腰を下ろした。
そして、
ゴォォォォォ――。
クーラーの風を全身で受けた。
「……生き返る」
谷口が、地獄の底から帰ってきたような声で言った。
「……ああ」
俺も同意する。
さっきまで俺たちは、湿気と熱気に満ちた小体育館で、人生で何度も経験する必要のない全力疾走を繰り返していたのだ。冷房という人類文明の恩恵が、これほどありがたく思えたことはない。
しばらく、俺と谷口は黙っていた。勝利の余韻に浸っていたわけじゃない。そんなものは汗と一緒に全部流れ出ている。
ただ、動けなかっただけだ。
少し離れたところでは、古泉が太腿や脇腹に湿布を貼っている。あれだけ野球部の連中とぶつかり合っていたんだ。見た目ほど余裕ではなかったらしい。
その一方で国木田は、もう何やらメモ帳に書き込んでいた。お前は少し休め。
今、この部室で最も健康なのは、たぶんあいつだ。
「……」
「……」
沈黙。
「……なあ、キョン」
「なんだ」
「俺たち、さっき勝ったよな」
「ああ」
「野球部に」
「ああ」
「じゃあ、もう帰っていいんじゃねぇのか?」
「俺もそう思う」
全会一致だ。だが、残念ながら俺たち二人に決定権はなかった。
「二人とも、まだ試合まで時間があるんだから、少しでも体力を回復させてくれ」
国木田が、腕を組んで言った。
「まず補食。その後、可能な限り仮眠。試合前にもう一度身体を起こす」
「……お前、いつからそんな本格的になったんだ」
「さっきから」
何だ、その即席トレーナーは。国木田の中では、どうやら俺たちは単なる同級生ではなくなっているらしい。何かの実験動物か、あるいは一回使ったら交換の利かない兵器扱いである。
そのとき、部室のドアがノックされた。
「どうぞ……」
俺が返事をすると、女子陣が入ってきた。
「キョンくん、谷口くん、大丈夫ですかぁ?」
朝比奈さんが心配そうに聞く。俺と谷口は、ほとんど同時に答えた。
「大丈夫じゃありません」
「そ、そうですよねぇ……」
なぜか朝比奈さんまで落ち込んだ。その後、俺たちは依然としてパイプ椅子に座ったまま、女子陣に囲まれることになった。
「動かないで」
長門が俺の右足を押さえた。
「……何をする気だ」
「固定」
「どこを」
「右足首」
聞いた俺が悪かった。長門はそれだけ言うと、テーピングを巻き始めた。
「お前、いつからトレーナーになったんだ」
「今」
即席トレーナーが二人目に増えた。隣を見ると、谷口は朝比奈さんにふくらはぎを恐る恐る触られていた。
「こ、ここ、痛いですか?」
「……はい」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、朝比奈さんが謝ることじゃ――痛っ!」
「すみませぇん!」
なぜか谷口のところだけ、治療している側まで被害を受けている。一方、俺の足元ではハルヒがテーピングを引っ張っていた。
「ほら! これで次も走れるわね!」
「その理屈なら、全身をテープで巻けばマラソン選手になれるな」
「うるさい!」
ビリッ。
「痛っ!」
お前、絶対わざとだろ。
「はいはい、次は補給だよっ!」
部室の外から、やたら元気な声が聞こえた。鶴屋さんである。
「みくる特製弁当だよっ!」
朝比奈さん本人よりも得意そうに、鶴屋さんが弁当を掲げた。
デジコン研戦の後にもいただいた朝比奈さん特製弁当の第二弾らしい。しかも前回とは中身が違っている。……妙なところで芸が細かい。
「おお……」
隣で谷口が、急に目を開いた。
「食い物……」
「そこまでかよ」
「キョン。人間はな、限界まで疲れると哲学とか友情とかどうでもよくなるんだよ」
「お前の人生論を聞く余裕はねぇ」
だが、俺も腹は減っていた。減っている、という表現では少し足りないかもしれない。俺の胃袋が、そろそろ何かを投入しろと非常ベルを鳴らしている。
「それから」
国木田が指を一本立てた。
「食べ終わったら、全員仮眠」
「は?」
谷口がサンドイッチを持ったまま固まった。
「仮眠?」
「そう」
「ここで?」
「ここで」
国木田は当然のように言った。
「次の試合まで二時間半しかない。移動する時間もないし、横になれるなら横になった方がいい」
「……」
谷口が俺を見る。
「なあ、キョン」
「なんだ」
「俺たち、いつから全国大会に出てた?」
「俺にも分からん」
これは高校の学校行事だったはずだ。いつの間に、試合後の補食、テーピング、仮眠、戦術分析まで必要な大会になったんだ。
誰のせいかは考えるまでもない。
「いいわね!」
ハルヒが勢いよく立ち上がった。
「補食して、寝て、次の試合! 完璧じゃない!」
「何がだ」
「万全の状態を作るのよ! せっかくここまで来たんだから、次も勝つに決まってるじゃない!」
こいつは一度も疲れという概念を学習したことがないのか。
「……次って、どことやるんだよ」
俺が何気なく聞くと、国木田はトーナメント表へ視線を落とした。
「順当にいけば――」
その言い方を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「次はバスケ部のはずだ」
時間が止まった。
「……」
「……」
俺と谷口は、ゆっくり顔を見合わせた。そして、ほぼ同時にパイプ椅子の背もたれへ身体を預けた。
「終わった……」
「俺たちの人生、短かったな……」
「まだ死んでない」
国木田が訂正した。だが、それは慰めになっていない。
「いいじゃない!」
ハルヒだけが、なぜかさらに目を輝かせている。
「背の高い相手なら、倒しがいがあるわ!」
「お前は何と戦ってるんだ」
古泉はいつものように、まるで面白い舞台の幕が上がるのを待っている観客みたいな顔で微笑んでいた。
「さて」
お前まで楽しむな。
俺は天井を見上げた。野球部に勝った。確かに勝った。なのに、なぜ次の敵がすでに決まっているんだ。しかも、よりによってバスケ部。
俺はさっきまで、今日という一日はそろそろ終わりに向かっているものだと思っていた。
どうやら甘かったらしい。……やれやれ。
谷口は、ゆっくりと天井を見上げた。
「もう駄目だ」
「早い」
「いや、だってよぉ……」
せっかく戻りかけていた谷口の生気が、見る見るうちにどこかへ消えていく。
「野球部より、絶対フットサル向きじゃねぇか……」
それについては、俺も異論がない。野球部の連中は、もちろん強かった。だが、少なくとも俺たちには付け入る隙があった。
癖を読む。動きを予測する。こちらが仕掛けて、相手を誘導する。
そうやって、何とか試合を俺たちの形に持っていくことができた。
しかし、次がバスケ部となると話は別だ。
走れる。速い。やたら跳ぶ。おまけに、あの長い手足である。……まあ、手についてはフットサルでは使えないから、この際どうでもいい。
問題は脚だ。何なんだ、あいつらの脚は。人間の標準規格を勝手に変更したんじゃないかと思うほど長い。こっちが一歩動く間に、向こうは二歩くらい届きそうな気がする。
「……俺たち、さっき命懸けで勝ったんだよな?」
「そうだな」
「なんで次の相手が、さらに強そうなんだよ」
「トーナメントだからじゃねぇか」
「そんな冷静に言うなよ」
俺だって、別に冷静なわけじゃない。冷静なふりをしているだけだ。その横で、
「最高じゃない!」
ハルヒが、やたらと元気な声を上げた。
「野球部の次がバスケ部なんて! 燃えるわね!」
燃えているのはお前だけだ。こっちは、さっきまで完全燃焼していたんだぞ。
「バスケ部なら、動きも速いはずよ! だったら、今まで以上に面白い試合になるじゃない!」
「……俺は面白くない」
「同感だ」
俺と谷口の意見が、珍しく完全に一致した。
「何よ、情けないわね!」
「お前は疲れてねぇから、そんなことが言えるんだよ」
「私は全然平気よ!」
知ってる。だから怖いんだ。すると、
「それでは、一度確認してみましょうか」
やたらと爽やかな声がした。古泉だ。こいつはいつも通りだった。つまり、何を考えているのかよく分からない笑顔を顔面に貼り付けている。
「バスケ部が本当に次の相手なのか。そして、もしそうなら、どのような選手が出場する予定なのか」
「偵察するの?」
ハルヒが、すぐさま反応した。
「ええ。情報は多いに越したことはありませんから」
古泉はそう言ってから、わざとらしく辺りを見回した。
「もっとも、僕が行くより適任者がいるようですが」
視線の先には、
「よーしっ!」
鶴屋さんが片手を上げていた。
「偵察部隊、出動するにょろー!」
相変わらず、その語尾がどこから発生しているのかは謎だ。そして、その隣では。
「……」
長門が立ち上がった。試合直後だというのに、である。汗を拭くでもない。肩で息をするでもない。 そもそも疲れているという概念が、あいつの辞書には存在しないらしい。
お前、さっきまで普通に試合に出ていたよな?
「長門っちも行く?」
「問題ない」
長門は、いつもの調子で答えた。問題しかない。お前だけ、どうしてゲーム開始直後の状態なんだ。
「じゃ、行ってくるねっ!」
「……」
鶴屋さんと長門が部室を出ていく。俺は、その背中を見送りながら考えた。
偵察担当が二人。朝比奈さんは補給担当。国木田は戦術と体調管理。古泉は……まあ、何を担当しているのかは知らんが、少なくとも笑顔担当ではあるらしい。ハルヒは元気担当。そして、俺と谷口は。
「……なあ」
「なんだ」
「俺たち、何担当なんだ?」
「さあな」
谷口は少し考えてから言った。
「負傷兵?」
「それは担当じゃねぇ」
俺たちは揃ってため息を吐いた。すると、朝比奈さんが心配そうな顔で近づいてきた。
「あの……キョンくん、谷口くん。もう少し食べますか?」
谷口が、ゆっくりと顔を上げる。
その表情には、先ほどまで消え失せていた生気がほんの少しだけ戻っていた。
「……唐揚げ、もう一個いいですか」
「はい!」
よし。少なくとも、次の地獄へ向かう前に、唐揚げくらいは食っておくとしよう。どうせ地獄へ行くなら、空腹よりは満腹のほうがいい。
俺と谷口は、再び絶望の底へと突き落とされていた。
「なあ、キョン」
「なんだ」
「バスケ部にも、あれやるのか?」
「あれ?」
「ほら。トライアングル……ええっと、何だっけ?」
「『三連環(トライアングル・チェイン)』だ」
俺が答えるより早く、
「それと!」
ハルヒが勢いよく割り込んできた。
「『三位一体の鳥籠・迷宮(トリニティ・ケージ・ラビリンス)』ね!」
よく覚えてやがるな。しかも、どうしてお前がそんなに誇らしそうなんだ。
「そう、それだよ」
谷口は、自分の両脚に巻かれたテーピングへ視線を落とした。
「また使うのか?」
そして、しばらく考えるような間を置いてから、
「……俺、今度こそ脚が本当に駄目になるぞ」
「いや」
俺は言った。
「使わない」
「え?」
谷口が顔を上げた。
「えっ?」
ハルヒも同じような声を出した。
「……ほう」
古泉だけが、なぜか感心したような声を漏らした。何だ、その反応は。
ハルヒは、明らかに納得していない顔で俺を見ている。古泉はいつもの笑顔のままだったが、目だけが少し面白そうに細くなっていた。
「なぜです?」
古泉が聞いた。俺はすぐには答えなかった。窓の外から、体育館の歓声が聞こえる。
次の試合だ。俺たちとは何の関係もない連中が、今ごろボールを追いかけているんだろう。
……いや。
ついさっきまでなら、間違いなくそう思っていた。
「野球部と、次の相手は違う」
俺は言った。
「あいつらに通用したからって、次も通用するとは限らない」
「でも、あれで勝ったじゃない!」
ハルヒが即座に反論した。
「勝った」
それは間違いない。
「だから、あれは野球部に勝つための答えだったんだ」
部室が、少しだけ静かになった。
野球部は強かった。だが、あいつらにはあいつらの動き方があった。ボールに食いつく。走る。追う。だからこそ、こちらが誘導できた。
「『三連環』も『迷宮』も、野球部がああいう相手だったから成立した」
俺は谷口を見る。
「次がバスケ部なら、同じようにはいかない」
「……」
「相手が違うなら、勝ち方も変える」
ハルヒが腕を組んだ。
「じゃあ、どうするのよ?」
どうする。さあな。俺が聞きたい。
ついさっきまで、俺は次の試合なんぞ絶対に御免だと思っていた。
脚は痛い。身体は重い。できることなら、このままパイプ椅子と融合して、誰にも見つからないまま今日という一日を終えたかった。
ところが、次の相手がバスケ部だと聞いた瞬間から、頭のどこかが勝手に動き始めている。
野球部とは違う。
だったら、野球部に勝つために作ったものを、わざわざ次の相手に押しつける必要はない。そんなものは。
「上書きすればいい」
「……え?」
谷口が聞き返した。俺は、自分の脚に巻かれた肌色のテーピングを見下ろした。
「三連環も」
一度、息を吐く。
「迷宮も」
ここまで言ってから、俺は思った。何だか、ずいぶん偉そうなことを言っているな。だが、まあいい。どうせもう次の試合をやる羽目になったんだ。
だったら、使えるものは使わせてもらう。
「全部だ」
古泉の笑みが、ほんの少し深くなった。
「また、生み出せばいい」
一瞬、静かになった。ハルヒが俺を見ている。
そして、その顔に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「……そうこなくっちゃ!」
お前は本当に分かりやすいな。
俺は今、ちょっと格好いいことを言ったつもりだったんだが、ハルヒが真っ先に喜ぶと、どうにも素直に喜べない。
だが。悪くない気分だった。次の相手は、野球部じゃない。だったら。次は、別のやり方で勝つだけだ。
昼下がりの校舎は、ついさっきまで雨が降っていたとは思えないほど明るかった。
窓から差し込む日差しが廊下を照らし、濡れた校庭が妙に眩しく見える。
文化部棟、文芸部室。俺たちは現在、勝利の余韻に浸っている――と言いたいところだが、実際にはそんな優雅なものではない。
部屋の隅に敷かれたゴザの上で、俺たちはそれぞれ適当な格好で横になっていた。
古泉は目を閉じている。国木田も寝ているらしい。そして俺と谷口に至っては、寝ているというより、生命活動を一時的に停止していると言ったほうが正しいかもしれない。
さっきまで野球部とフットサルをしていたのだから仕方がない。むしろ、よくここまで生きて帰ってきたものだ。
「キョンくん、お水です」
「……どうも」
朝比奈さんがスポーツドリンクを手渡してくれる。俺は半分死んだような手つきでそれを受け取った。
「ゆっくり飲んでくださいね」
「はい……」
隣では谷口が微動だにしない。大丈夫なのか、こいつ。まあ、俺も人のことを心配できる状態じゃないが。
ハルヒはというと、そんな俺たちの様子などお構いなしに、何やら次の試合について考えているらしい。
「次も勝つわよ!」
寝転がったまま宣言されても、いまひとつ迫力がない。
俺としては、次の試合より先に、立ち上がれるようになることのほうが重要なのだ。
ところが。大会というものは、こちらの都合など考えてはくれない。
俺たちがこうして死んだ魚のような目で休息を取っている、その頃。
部活動対抗球技大会のメイン会場である大体育館では、一つの試合が終わろうとしていた。
試合終了の笛。
観客席から、先ほどの小体育館とは比べものにならないほどのどよめきが巻き起こる。何人もの生徒が、一斉にスコアボードを見上げた。
そして、その中には思わず目を疑っている者もいた。表示された数字は、何度見直しても変わらない。
――生徒会 2-1 バスケ部。
生徒会、ベスト8進出。
しかし、その結果を俺たちが知るのは、もう少し後のことになる。
今の俺たちはまだ知らない。自分たちが次に戦う相手が、誰なのかを。
ただ一つ確かなのは。俺たちに与えられた休息時間が、もうあまり残されていないということだけだった。