目が覚めた。……いや、正確には、目が覚めたというより、意識が帰ってきた。
俺はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井。見慣れた蛍光灯。窓から差し込む午後の日差し。そして、身体の下にある、妙に硬い感触。
そこでようやく思い出す。文芸部室だ。俺はどうやら、本当に寝ていたらしい。
さっきまで「仮眠なんてできるか」と思っていたんだが、人間という生き物は限界まで疲れると、意思とは関係なく電源が落ちるものらしい。貴重な発見だ。ノーベル賞をもらえるほどではないが。
ゆっくりと身体を起こす。
……重い。何だこれは。
俺の身体は、いつの間に誰かと入れ替わったんだ。
体全身に巻かれたテーピングが、俺がさっきまで戦場にいたという事実を、これ以上なく雄弁に物語っている。その隣では、
「……」
谷口が死んでいた。いや、比喩だ。たぶん。
ゴザの上に大の字になり、微動だにしていない。呼吸をしていることだけは確認できたので、とりあえず放置しても問題ないだろう。
しかし、いつまでも死体役をやらせておくわけにもいかない。
「おい、谷口」
「……」
「起きろ」
「……」
反応なし。俺は少し考えてから、谷口の肩を軽く揺すった。
「谷口。お前に会いたいっていう女の子がいるぞ」
「なにぃっ!?」
谷口が跳ね起きた。
「……」
「……」
どうやら有効だったらしい。
「何だよキョン! 人がいい夢を――」
「寝てただけだろ」
「夢の中では甲子園決勝だったんだよ」
「知るか」
谷口は不満そうに頭を掻いたあと、再びその場に倒れ込もうとした。
「じゃあ、もう一回寝る」
「待て」
「何だよ」
「周りを見ろ」
谷口が、ようやく部室の中へ目を向けた。そして、そこで俺たちは同時に黙った。
何だ、これは。部室の中央にある机。その上には、いつの間にかハンディカメラが置かれている。
いや、置かれているというより、設置されている、と言った方が正しい。鶴屋さんが撮影していた試合の映像を、何度も何度も再生しているらしかった。
その周囲を囲むようにして。ハルヒ。国木田。古泉。長門。そして朝比奈さん。全員が、画面を見つめていた。それも妙に真剣な顔で。
いや、朝比奈さんまで真剣な顔をしている時点で、これは相当まずい事態なのかもしれない。
「あら。起きたの」
ハルヒが、ちらりと俺たちを見た。それだけだった。すぐに視線を画面へ戻す。
「……おはよう、くらい言えないのか」
「おはよう」
相変わらず、目は映像から離さない。
「何してんだ、お前ら」
「見れば分かるでしょ」
「分からんから聞いてる」
俺は立ち上がり、まだ完全に言うことを聞かない脚を引きずるようにして机へ近づいた。
画面の中では、俺たちの知らない連中がフットサルをしていた。青いゼッケン。黄色い蛍光色のゼッケン。どちらも、見覚えのある連中だ。
しかし、俺は、その映像を数秒見て。
「……あれ?」
と思った。背の高い連中がいる。速い。これは…。
「バスケ部か?」
「違うよ」
国木田が答えた。俺はそちらを見る。
「じゃあ、どこだ」
国木田は一度、映像を停止した。画面に映っていた一人の男子生徒。見覚えがある。いや、見覚えがありすぎる。
「次の対戦相手だよ」
「だから、どこだよ」
国木田は、俺の顔を見た。
「生徒会」
一秒。二秒。三秒。
俺の頭の中で、その言葉が何度か反響した。生徒会。生徒会?……生徒会。
「は?」
ようやく、それだけ言えた。
「生徒会って、あの生徒会か?」
「たぶん、学校にもう一つ生徒会が存在していなければ」
「会長がいる?」
「いる」
「喜緑さんも?」
「その人はこの試合には出てなかった」
何だ、その最悪の確認作業は。
「……待て待て待て」
俺は両手を上げた。運営側が出場してくるのか?そんなこと認めてもいいのか。
「してきた。そして、バスケ部に勝った」
いや、それは立派な反則というやつじゃないのかね?
「規約上は問題ないんだ」
国木田は、なぜかすでに調べ終わっていた。
「部活動対抗球技大会だけど、生徒会は特別参加枠として登録されている」
何だよ、その特別参加枠。一体、誰が決めたんだ?教えてくれ、そいつを今からとっちめてやる。
「知らないよ」
俺の視線が、ゆっくりとハルヒへ向かう。ハルヒは、こちらを見なかった。
「……なんでこっち見るのよ」
聞いてもいないのに答えた。怪しい。
だが、今はそんなことを追及している場合じゃない。俺は、もう一度画面を見る。
そこに映っているのは生徒会長。あの、いつも何を考えているのか分からない、妙に冷静な男だ。そして、俺たちが次に戦う相手。
「……」
谷口が、俺の隣で小さく呟いた。
「なあ、キョン」
「何だ」
「俺、もう一回寝てもいいか?」
「寝ろ」
「本当に?」
「現実から逃げるな」
「どっちだよ!」
知らん。だが一つだけ分かる。
俺たちが寝ている間に、状況は勝手に悪化していた。そして、その責任者はたぶん、画面の向こうで平然とボールを足元に収めている、あの生徒会長だ。
……やれやれ。バスケ部より、面倒な相手が出てきた。
「で?」
俺が聞いた。
「お前らは、俺たちが寝ている間、ずっとこれを見てたのか?」
「ずっと、というわけではありません」
古泉が答える。
「ただ、確認するべきことは多いですから」
「例えば?」
「生徒会長のプレーです」
それだけ言って、古泉は画面を見た。俺もつられて、ハンディカメラの小さな液晶画面を見る。
ちょうど、生徒会長がボールを受ける場面だった。何ということのないパスだ。少なくとも、一見したところでは。しかし、
トン。
生徒会長の足元に収まったボールは、まるで最初からそこに置かれていたかのように、ぴたりと止まった。
「……何だ、今の」
思わず声が出た。
「でしょ?」
ハルヒが言った。
「何回見ても変なのよ」
「変って何だ」
「変は変よ」
説明になっていない。だが、俺にも何となく分かる。あれは、単純にボールを止めているわけじゃない。止めた瞬間には、もう次の動きが始まっている。
俺が何か言おうとした、そのときだった。ふと、壁の時計が視界に入った。何気なく針を追う。
午後2時50分。……2時50分?
俺は、もう一度見た。
「……」
そして。
「おい」
誰にともなく言った。
「何です?」
古泉が答える。
「今、何時だ?」
「2時50分ですが」
「……」
俺はまた時計を見た。もう一度見た。針は、当然ながら変わらない。
午後2時50分。次の試合開始は午後3時30分。
「あと40分しかねぇじゃねぇか!!」
俺は叫んでいた。
「だから言ったじゃない」
ハルヒが、あきれたように言う。
「起きたらすぐ映像を見なさいって」
「聞いてねぇよ!」
「起きなかったあんたが悪いんでしょ!」
「寝ろって言ったのはお前らだろうが!」
だが、そんなことを言い合っている場合ではない。俺はパイプ椅子を蹴飛ばしそうになりながら立ち上がった。
右足首が痛んだ。知るか、そんなこと。俺は机へ駆け寄った。
「ちょっと、キョン!」
「うるさい!」
ハンディカメラを掴み、液晶画面を顔の前まで引き寄せる。巻き戻す。再生する。生徒会長。また、生徒会長。
「おい、どこから撮った!?」
「バスケ部戦の途中からだよ」
国木田が答える。
「前半は!?」
「あるよ」
「最初から見せろ!」
俺の声に、部室の空気が少し変わった。さっきまで仮眠明けだった頭の中から、眠気が一瞬で消えていく。
あと四十分。相手は生徒会。しかも、あの生徒会長がいる。だったら、寝ぼけている暇なんてどこにもない。
「……もう一回だ」
俺は、画面を睨んだ。
「最初から全部見る」
液晶画面の中で、生徒会長がボールを受ける。その瞬間、俺の頭の中で、何かがまた動き始めた。
俺は画面を睨んだ。ちょうど生徒会の攻撃が始まったところだった。
「……来ますよ」
古泉が小さく呟いた。
何が来るんだ、と聞くより先に、生徒会の選手がボールを蹴った。
高い。普通のパスじゃない。相手の頭上を越すような、浮いたボールだった。しかも、生徒会長の背後から飛んできている。
「後ろからかよ」
思わず呟いた。あんなボール、普通なら一度振り向いて落下地点を確認する必要がある。少なくとも俺ならそうする。
ところが、生徒会長は振り向かなかった。ただ、走りながら右足を――伸ばした。
次の瞬間。
トン。
「……は?」
俺は画面へ顔を近づけた。浮いたボールが、生徒会長の伸ばした足の甲に吸い込まれるように収まっていた。ボールは勢いを殺され、そのまま足元へ落ちる。
いや、違う。落ちたんじゃない。置いた。そう見えた。しかも、生徒会長の身体はほとんど止まっていない。
走る勢いを保ったまま、後方から飛んできたボールだけを足一本で正確に受け止め、次の一歩へ繋げている。
「……何だ、今の」
俺の口から、間の抜けた声が出た。
「トラップでしょうね」
古泉が平然と言う。
「それは見れば分かる」
俺は画面から目を離せなかった。
「問題は、なんでこんなのが普通にできるのかってことだ」
「普通ではないでしょう」
「だよな……」
もう一度、再生する。同じ場面。後ろから浮いたボール。伸びる右足。
トン。
ぴたり。そして、そのまま前へ。
「……この人」
俺は呟いた。
「ボールを止めてるんじゃない」
古泉がこちらを見る。
「じゃあ、何をしているんです?」
「次に行きたい場所へ、ボールを置いてる」
言ってから、自分でも少し驚いた。ただのトラップじゃない。あの一瞬で、次のプレーまで決めている。
ボールを受ける。止める。次へ出す。その三つの動作を、全部ひとつにしている。
「……厄介だな」
俺は小さく息を吐いた。さっきまでの疲労が、少しだけ遠ざかった気がした。
こいつは、ただ上手いんじゃない。俺たちとは違うやり方で、試合を設計している。
そして、その設計の入口にあるのが――あのトラップだった。
俺はハンディカメラの再生ボタンを押した。
「もう一回」
「またですか?」
「もう一回だ」
画面の中で、生徒会長が再び走り出す。後方から、浮いたボール。伸びる足。そして――
トン。
俺は、その一瞬を食い入るように見つめていた。俺は、もう一度画面を見た。
生徒会長のプレーは、確かに妙だった。いや、妙なんて言葉では足りない。あのトラップだけなら、何度見ても信じられない。……のだが。
「……待て」
俺は映像を止めた。
「何だ?」
谷口が横から覗き込む。
「こいつら……」
画面の中では、生徒会の選手たちがボールを追いかけている。走っている。パスを出している。シュートも打っている。しかし――。
「……そんなに上手くないぞ」
「今さら気づいたの?」
ハルヒが呆れたように言った。
「いや、そういう意味じゃない」
俺は画面を指差した。
「バスケ部と比べてるんじゃない。俺たちと比べてるんだ」
「……」
古泉も画面を見る。
「確かに」
長門も何も言わずに画面を見ている。生徒会長以外の選手たちは、別に特別な選手じゃない。足元もそれほど巧くない。パスも、たまにずれる。動き出しだって、俺たちと大差ない。
少なくとも、野球部の連中やバスケ部のような、身体能力だけでこちらを圧倒するタイプではない。むしろ…。
「……俺たちと同じくらいじゃねぇか」
谷口が言った。
「ほとんど素人みたいなもんだろ」
「そこまで言うと失礼だが……」
否定できない。 俺は腕を組んだ。画面の中で、生徒会長がまたボールを受ける。そして、次の瞬間には簡単に相手をかわしていた。
「これで……」
俺は呟いた。
「これで、あのバスケ部に勝ったのか……」
頭の中に、さっきまで見ていたバスケ部の映像が浮かぶ。
走力。体格。スピード。あれだけの連中を相手にして、生徒会は、勝った。
「……どうやって?」
思わず口に出た。
「もちろん、バスケ部にも面子というものがありますからね」
古泉が言った。
「多少なりとは本気だったようです。先制したのもバスケ部でしたから」
おいおい。じゃあ、最初から生徒会が押していたわけじゃないのか。
「ええ」
国木田がトーナメント表の横に置かれたメモを確認する。
「前半はバスケ部が優勢だった。先制点もバスケ部」
そこまで言って、国木田は画面を見る。
「でも、終わってみれば生徒会の逆転勝ちだ」
俺は黙った。周りは、俺たちと大差ない。なのに勝った。しかも、相手はバスケ部。なら――。
俺はもう一度、生徒会長を見る。こいつが何かを変えたんだ。選手そのものじゃない。試合のほうを。
「……なるほど」
古泉が、俺の横顔を見ながら言った。
「何か分かりましたか?」
「まだだ」
俺は画面を睨んだ。
「だから、もっと見る」
あと40分。生徒会長が何をしたのか。それを見つけない限り、俺たちに勝ち目はない。
結局のところ、生徒会長は要注意人物である。それ以外のことは、ほとんど分からなかった。
あのトラップ。あの試合運び。
そして、あれだけの身体能力を持ったバスケ部を相手に、周囲の選手たちが俺たちと大差ないにもかかわらず逆転勝利したこと。
分からない。分からないが、分からないままでも試合開始時刻は近づいてくる。
「よし!」
ハルヒが立ち上がった。
「行くわよ、みんな!」
何をそんなに張り切っているんだ、お前は。
俺たちは文芸部室を出て、大体育館へ向かった。
「やったわね!」
廊下を歩きながら、ハルヒが妙に嬉しそうに言う。
「ようやくメイン会場で試合ができるわ!」
「何がそんなに嬉しいんだ?」
「だって、ここまでずっと小体育館だったじゃない。せっかくの大会なのに、メイン会場を使わないなんてもったいないでしょ!」
なるほど。こいつの場合、会場が大きいことそのものが勝負の価値に直結しているらしい。俺としては、小体育館のほうが百倍ありがたい。
少なくとも、あそこはまだ人間が活動していられる気温だった。
そのときだった。俺は、隣を歩く古泉を見た。さっきから、どうにも引っかかっていることがある。
「……なあ、古泉」
「何でしょう?」
俺は声を落とした。
「お前、何か仕込んだのか?」
「何をです?」
「生徒会だよ」
古泉の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「お前のところ――「機関」とやらは、生徒会長と繋がりがあるんだろ?」
古泉の所属する「機関」と、生徒会長には以前から何らかの接点がある。だったら、こいつが何か裏で手を回していたとしても、俺には不思議ではなかった。
古泉はしばらく黙って歩いていたが、やがていつもの調子で答えた。
「いえ。僕は何もしていませんよ」
「本当か?」
「ええ」
そして、
「誰かが、そう望んだとしか……」
古泉がちらりと前を見る。その視線の先には、当然のように先頭を歩くハルヒがいた。
「……」
俺はハルヒの後頭部を見る。嫌な予感しかしない。
「おい」
「何でしょう」
「今のはどういう意味だ」
「さあ」
古泉は笑っている。
この野郎。絶対に何か知っている。だが、これ以上追及している暇もなかった。
俺たちは渡り廊下へ出た。大体育館へ続く長い通路だ。遠くから、生徒たちの歓声が聞こえてくる。
「それよりも」
古泉が言った。
「難敵は、他にありですよ」
「どういうことだ?」
「もうすぐ分かります」
またそれか。俺は古泉を睨んだ。こいつは本当に、人を苛立たせる才能だけは超一流だ。そして、俺たちは大体育館の入口へ辿り着いた。
ハルヒを先頭に俺たちは開きっぱなしになっている扉をくぐって行く。
その瞬間だった。
――むわっ。
「…………」
熱気が正面から俺たちへ襲いかかってきた。それをまともにくらい、唖然とする。
「な……」
思わず足が止まった。暑い。いや、熱い。さっきまでいた小体育館とは比較にならない。
湿った空気が肌にまとわりつき、呼吸をするだけで肺の中まで蒸されているような感覚がある。
「うわぁ……」
朝比奈さんまでもが小さな声を漏らした。
俺の額から、汗が一筋流れ落ちた。……一筋どころではない。次から次へと出てくる。
「ちょっと!」
ハルヒが叫んだ。
「何よ、この暑さ!」
知らん。俺が聞きたい。大体育館の中は、まるで巨大なサウナだった。天井が高い。広い。観客も多い。そのせいなのか、熱気がどこにも逃げずにこもっている。
「昼まですごい雨でしたからね」
古泉が、まるで天気予報の解説でもするように言った。
「それが午後になって、これだけ日差しが出た。湿度もかなり高いでしょう」
「お前、よくそんな冷静でいられるな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
俺は体操着の襟元をつまんで扇いだ。しかし、意味がない。熱風が入ってくるだけだ。
そのとき、体育館の奥を見た古泉が、ふと目を細めた。
「おや」
「何だよ」
「湯気のようなものまで……」
「は?」
俺もそちらを見る。確かに、コートの向こう側が白く霞んでいるように見える。
「……」
「……」
「すみません」
古泉が微笑んだ。
「湯気はさすがに気のせいでしょうね」
「当たり前だ!」
湯気が出る体育館でフットサルをやってたまるか。しかし、俺は周囲を見渡した。汗だくの生徒たち。団扇を扇ぐ観客。床に残った雨の湿り気。そして、この異常な熱気。
「……」
嫌な予感がする。
「古泉」
「はい」
「お前が言ってた『難敵』って……」
古泉は、いつもの笑顔を浮かべたまま答えた。
「ええ」
そして、大体育館の天井を見上げる。
「どうやら、手強そうですね」
「……」
俺は額の汗を拭った。生徒会長。そして、この体育館。
どうやら俺たちの準々決勝は、思っていた以上に過酷なものになりそうだった。――というか。
こんなところで本気で走ったら、俺たち本当に死ぬぞ。
暑い。いや、もう「暑い」という言葉では、この体育館の現状を正確に表現できていない。
熱い。空気そのものが熱を持っている。
俺たちが入口で立ち尽くしている間にも、額から汗が流れ落ちていく。試合開始前だというのに、俺はすでに一試合分くらい消耗した気分だった。
すると、体育館の四隅から、
ゴォォォォォ――――ッ。
と、けたたましい轟音が響いた。
「何だ?」
見ると、いつの間に設置されたのか、巨大な送風機が四台、こちらへ向けて猛烈な勢いで風を送り始めている。
髪が揺れる。シャツが膨らむ。汗が一瞬だけ乾く。
「おお!」
谷口が歓声を上げた。
「涼しい!」
「……そうか?」
俺には熱風が吹きつけてきているようにしか感じられない。
「いや、まあ……」
谷口が少し考える。
「ほんのちょっとだけマシだな」
「だろ?」
それだけだった。
人類の科学技術を結集した巨大送風機4台を投入して得られた成果が、「ほんのちょっとだけマシ」である。
大体育館、恐るべし。
しかも、それだけではなかった。ふと正面を見ると、体育館のステージ上に、妙な一角が出来上がっている。
机。マイク。何本ものコード。そして、その前に座っている見覚えのない生徒二人。
「……おい」
俺はステージを指差した。
「なんだよ、あれ?」
隣の古泉を見る。
「実況席でしょうね」
「実況席?」
「ええ」
「学校行事だぞ」
「そうですね」
「フットサルの試合だぞ」
「そうですね」
「何で実況席があるんだ?」
「僕に聞かれても困ります」
もっともな話だった。
そして、俺がさらに周囲を見回してみると、いつの間にか観客席が生徒で埋まり始めていた。
午前中とは明らかに違う。火を見るより明らかだ。何なんだ、この人数は。
しかも、観客席だけでは足りなくなったらしい。上のギャラリーまで開放され、そこにも生徒が続々と集まっている。
「ちょっと!」
ハルヒが目を輝かせた。
「すごいじゃない!」
「何がだ」
「観客よ!」
「見れば分かる」
「こんな大勢の前で試合ができるなんて最高じゃない!」
お前は本当にこういうのが好きだな。この烏合の衆どもはそんなに俺たちの試合が気になるのか。
そのときだった。テージ上のマイクから、突然、大音量の声が響いた。
『さぁ――――っ! 部活動対抗球技大会、初日もいよいよこれが最終試合だぁ――――っ!!』
体育館中に声が反響する。俺は思わず肩をすくめた。
『生徒会対文芸部! まさに今大会最大のダークホース対決だぁ――――っ!!』
ワッ、と観客席が沸いた。
「……」
俺は呆然とした。
何だ、これ。午前中まで、俺たちはただの学校行事に参加していたはずだ。なのに今はどうだ。巨大送風機。実況席。解放されたギャラリー。
そして、この異常な数の観客。
「おい、古泉」
「はい?」
「俺たち、何の大会に出てるんだ?」
「僕にも分かりません。けれども、盛り上がることは間違い無いでしょうね」
古泉は笑っている。その笑顔が、いつも以上に腹立たしい。
やがて実況の声が再び響いた。
『さて! ここで皆さんに重要なお知らせです!』
会場が静かになる。
『この凄まじい暑さと熱気を考慮し、生徒会側から特別ルールの追加が提案されました!』
「特別ルールだと?」
俺が呟く。
『それは――!』
一拍。
『前後半の中盤に設けられる、ハイドレーションブレイク! すなわち給水タイムです!!』
観客席から拍手が起こった。谷口が俺を見て言う。
「……ハイドレーション?」
「給水タイムだろ」
「何でわざわざ英語にした?」
「さあな」
『この特別ルールが、果たして両チームの戦局にどのような影響を及ぼすのか! 非常に楽しみなところです!』
いや。俺としては戦局以前に、選手の生命維持に影響を及ぼすと思うんだが。
『さあ――! 準々決勝最終試合、まもなくキックオフです!!』
観客席から大きな歓声が上がる。
『実況を務めさせていただくのは、この私! 放送部2年――』
実況の自己紹介が続いている。もう一人は解説担当だろうか。
だが、俺はもう聞いていなかった。俺は、改めて観客席を見渡した。
人、人、人。午前中とは比較にならない。学校中の生徒がここに集まっているような気さえした。まるで別の大会だ。
さっきまで俺たちは、野球部相手に死ぬほど走っていた。そして、たった今、ようやく分かった。
この大会は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本番だったらしい。
「……おいおい」
俺は額の汗を拭った。
「なんだよ、この盛り上がり方……」
隣を見る。ハルヒは嬉しそうに笑っている。古泉はいつものニヤケ面。谷口は既に死にそうな顔。長門は無表情。朝比奈さんは給水用のドリンクを確認している。国木田は何かを書いている。鶴屋さんは真っ先にベンチに走って行ってる。
いつものメンバーだ。なのに、周囲だけが異常だった。
「午前中と全然違うじゃねぇかよ……」
誰に聞くでもなく呟く。
「一体、どうなってやがんだ……」
キックオフ15分前。
場内アナウンスが入り、ようやく試合前の練習が始まった。とはいえ、俺たちにそんな体力が残っているわけがない。
古泉は脇腹と太腿に貼っていた湿布を剥がし、俺と谷口は身体中に巻かれていたテーピングを一枚ずつ引っぺがしていく。
「……痛ぇ」
「我慢しろ」
「お前はいいよな、キョン。なんか慣れてきてるだろ」
「何にだよ」
「この地獄に」
「慣れたくねぇよ」
まともに練習なんぞしたら、それだけで試合前に倒れる。だから、やることは極めて単純だった。
適当にパスを回す。国木田がゴール前に立つ。俺たちが軽くシュートを打つ。以上。
練習と呼ぶにはあまりにもお粗末だが、今の俺たちにはこれが精一杯である。
ふと、相手側へ目をやった。生徒会も同じだった。数人でボールを回している。ただし、こちらよりさらに短い。一周。二周。
それだけで切り上げ、ベンチへ戻っていく。
「……賢いな」
思わず呟いた。この暑さだ。試合前に体力を消耗する意味なんてない。
ところが、そのときだった。
「……」
古泉が突然、足元のボールを止めた。
「どうしたんだ?」
返事がない。古泉は、こちらではなく、体育館の隅を見ていた。
巨大な送風機。四隅に設置された、いかにも体育館の熱気を少しでも何とかしようとした誰かの善意の産物である。
「古泉?」
ようやく古泉が口を開いた。
「少し、確認してみましょうか」
そう言うと、古泉はボールを拾い上げた。そして、ぽん、と軽く蹴り上げる。
「おいおい」
ボールは高く舞い上がった。俺たちは、何となくその軌道を目で追った。
普通なら、放物線を描いて落ちてくるはずだった。
ところがボールは空中で、わずかに横へ流れた。
「……ん?」
さらに流れ、コートに落ちる。まるで見えない何かに押されたように。
「何よ、今の?」
ハルヒが間の抜けた声を出した。古泉は、そのまま送風機を見つめている。
「風ですよ」
「風?」
「ええ」
古泉は穏やかな笑顔を浮かべた。
「どうやら、あの送風機の影響が想像以上に強いようです」
俺も送風機を見る。巨大な羽根が、ゴウン、ゴウンと回っている。さっきまでありがたいと思っていた風が、急に別のものに見えてきた。
「良かれと思って設置されたものが、まさか試合にまで影響するとは思いませんでしたね」
「……」
「これが敵になるのか、味方になるのか」
古泉が、少しだけ楽しそうに言った。
「それは、まだ分かりませんが…」
誰も答えなかった。体育館の中を、巨大な送風機の音だけが唸るように響いている。俺もボールを軽く蹴り上げる。そして、もう一度、風に煽られるボールを見た。
たった今まで、俺たちはこの暑さをどう乗り切るかしか考えていなかった。だがひょっとすると、この体育館そのものが試合の一部なのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
そして、沈黙を破ったのは国木田だった。
「引き上げよう」
「え?」
谷口が振り返る。
「練習は終わりだ」
国木田はボールを拾いながら、淡々と言った。
「これ以上やる必要はない。試合中に確認すればいい」
なるほど。こいつの判断は早い。
俺たちは誰からともなくボールを片付け始めた。コートの向こうでは、生徒会もすでにベンチへ戻っている。
その中で、会長だけがこちらを見ていた。眼鏡を外した顔。何を考えているのか、さっぱり分からない。
ただ、俺はなぜかあの男も同じことを考えているような気がした。
この体育館で、何が起きるのか。そして、それをどう利用するのか。
――試合開始まで、あと10分。
俺たちは、いよいよ本日最後の試合へ向けて、コートを後にした。