第一節 森に住む薬師
森の朝は嫌いではない。窓の外では、夜露を載せた葉が朝の光を細かく反射し、枝から枝へ飛び移る小鳥たちが、誰に頼まれたわけでもないのに忙しそうに鳴いている。暖炉には昨夜の熾火がわずかに残り、家の中には乾燥させた薬草と茸、それから少し焦げた薪の匂いが静かに混ざっていた。
こうして温かい茶でも飲みながら外を眺めている間だけなら、自分がずいぶん穏やかで丁寧な暮らしを送っているような気にさえなれる。しかし、その印象は仕事を始めるまでのものであり、作業台の上では今も、見た目だけなら沼の底から汲んできたような色の薬が煮えていた。
私は小鍋の中身を木べらでゆっくりとかき混ぜ、粘り気と香りを確かめた。月白草の葉と乾燥させた赤茎茸に、塩と少量の酢を加えて煮詰めたもので、このまま冷ませば打ち身や軽い捻挫に効く軟膏になる。特別珍しい薬ではないのだが、街の人々はなぜかこれを「魔女の骨直し薬」と呼んでいた。
名前に反して、折れた骨までは直らない。以前、本当に骨折した腕へこの薬だけを塗り、三日ほど治るのを待っていた男がいたため、私は薬瓶の注意書きを以前より大きくした。もっとも、もともと「打ち身・捻挫用」と書いてあったので、最終的には文字を読まなかった本人に問題があるという結論へ落ち着いている。
薬で治せるものには限界があり、人間の思い込みはその範囲からかなり遠いところにあるらしい。
煮詰めた薬を火から下ろし、代わりに昨日から天井近くへ吊るしていた薬草の束を手に取った。葉先を指で軽く揉むと、ぱり、と乾いた感触が返ってくる。保存するにはちょうどよい頃合いだったので、私は茎を短く揃え、種類ごとに紐で束ね直していった。
家の中には、乾燥葉や樹皮、茸、鉱物粉、虫の殻、動物の骨粉などを詰めた瓶が所狭しと並んでいる。天井からはいくつもの植物が逆さに吊られ、作業台の隅には小型の蒸留器や、用途の違う乳鉢が積み上げられていた。初めて入った人間が見れば、なるほど魔女の住処だと思うのかもしれない。
私としては、ごく普通の薬師の仕事場である。ただし、街の人々によれば、ごく普通の薬師は街から半刻ほど離れた森の中に一人で住み、時々、緑色や紫色をした液体を鍋いっぱいに煮たりはしないそうだ。
森に住んでいることも、薬を作ることも、それぞれ単独なら問題はなかったらしい。その二つに「見たことのない材料を煮ている」という条件が加わった結果、私はいつの間にか「森の魔女」あるいは単に「魔女さん」と呼ばれるようになった。
最初の頃は、会う人ごとに自分は薬師だと訂正していた。十回ほど繰り返したところで、呼び名を治すために費やす労力を薬作りへ回した方が有益だと気づき、今では好きなように呼ばせている。
人類は五百年前に大規模な情報断絶を経験したとされているが、人から人へ情報が正確に伝わらないという問題については、それより遥かに昔から存在していたのではないかと思う。
そんなことを考えながら薬草を棚へ収めていると、家の外で枝を踏み折る音がした。私は作業の手を止め、扉の方へ顔を向けたまま耳を澄ませた。
鹿であれば、あれほど無遠慮な音は立てない。熊ならもう少し重い足音がするし、そもそも来てほしくない。そして、この家を目指して森の小道を歩いてくる人間の場合、たいてい何かしらの面倒事を持っている。
できれば鹿であってほしかった。相談の内容によっては、熊でも人間より対応が簡単かもしれない。
しかし、その控えめな期待は間もなく裏切られた。
「魔女さーん!」という若い声が扉の向こうから響き、続けて強く戸が叩かれた。聞き覚えのある声だったので、私はすぐには立ち上がらず、作業台から少し大きめの声で返事をした。
「いませーん」
扉の向こうが一瞬だけ静かになった。どうやら少しくらいは悩んでくれたらしい。
「……声、してますけど!」と相手はすぐに反論した。予想より早く矛盾へ気づかれてしまったので、私は薬草の束を持ったまま次の説明を考えた。
「留守番です。旧文明なら、家主がいなくても返事をする装置くらいはあったかもしれません」
「それなら魔女さん本人はどこにいるんですか?」
「それを留守番に聞いてはいけません」
「開けてくださいよ!」
どうやら、多少の理屈では諦めてくれないらしい。私は仕方なく椅子から立ち上がったが、その時点ですでに、この日の仕事が予定通りに終わらないことをほぼ確信していた。
扉を開けると、街のパン屋の息子であるリオが立っていた。十五か十六くらいだったと思うが、会うたびに少しずつ背が伸びているため、最近は正確な年齢を覚える努力をしていない。彼はここまで森を走ってきたらしく、額に汗を浮かべ、肩を上下させながら息を整えていた。
「魔女さん、大変です!」とリオは開口一番に言った。私は彼の様子を上から下まで確認し、怪我をしているわけではなさそうだと判断してから答えた。
「見れば分かりますよ。大変でない人は、朝からそんな勢いで森を走って薬師の家まで来ません」
「まだ何があったか説明してませんけど……」
リオは一度納得しかけたような顔をしたものの、すぐに首を振った。こういうところを見ると素直なのか頑固なのか判断に迷うが、今のところは両方なのだと思うことにしている。
「中央広場の井戸がおかしいんです。今朝、母さんがパンに使う水を汲んだら、味が変だって言い出して。それで近くにいた人たちも確かめたら、水が甘くなってたんですよ」
私は木べらを持ったまま、少しだけ彼の顔を見つめた。冗談を言っているようには見えない。
「誰かが砂糖でも落としたのではありませんか?」
「井戸いっぱい甘くなるほどの砂糖を持ってる人なんて、街にはいませんよ」
「交易商のハル爺なら持っているかもしれませんね」
「あの人が砂糖を井戸に捨てると思います?」
「思いません。一粒落としても、地面から拾って売り直しそうです」
ハル爺の商売に対する熱意を考えれば、その可能性の方が高かった。となると、井戸水が甘くなった原因は別にある。
「それで、その水は誰か飲んだのですか?」
私が尋ねると、リオの視線が少しだけ横へ逸れた。
「母さんが最初に飲んで、それから周りの人も味を確かめるために……」
「原因の分からない水を、何人も飲んだのですね?」
念のため確認すると、リオは小さく頷いた。私は扉の枠へ片手をつき、しばらく目を閉じた。
五百年前、人類は一度大きく文明を失った。原因については戦争、疫病、魔法災害、天変地異など、学者たちが様々な説を唱えている。
私は時々、そこへ「正体の分からないものを、とりあえず口に入れてみる習性」という新説を追加したくなる。
「体調を崩した人はいますか。吐いたり、急に眠り込んだり、言動がおかしくなったりした人は?」
「今のところは、みんな大丈夫です」
「普段から多少言動のおかしい人については数えなくて構いません」
「誰のことです?」
「具体的な名前を挙げると、今後の仕事に差し障ります」
少なくとも、すぐに人を倒すほど強い毒ではなさそうだった。しかし水は毎日の生活に欠かせず、中央広場の井戸となれば利用する人間も多い。放置してよい問題ではない。
私は壁に掛けてあった外套を取り、棚から調査に使いそうな道具を選んで鞄へ詰めた。乾燥試験紙、銀片、小さな採取瓶、数種類の試薬、それから細いガラス管を布で包む。最後に、棚の奥へ寝かせてあった黒い金属製の棒を一本取り出した。
それは西の古代遺跡群から掘り出された旧文明の遺物で、液体へ浸すと条件に応じて先端の色が変化する。ただし、何を測定しているのかは分かっていない。
言葉だけを聞けば便利そうな道具だが、何に反応しているのか分からないという一点によって、その便利さのかなりの部分が失われている。それでも、自然の水と旧文明の施設に残された水で違う反応を示したことがあるため、まったく役に立たないわけではなかった。
「準備できました。では行きましょう」
「ありがとうございます。急ぎましょう!」とリオは元気よく答え、そのまま森の小道へ駆け出そうとした。私は玄関の鍵を確かめながら、彼の背中へ声をかけた。
「歩きますよ。私が走ると、街へ着く前に別の患者が一人増えます」
リオは足を止め、何を言われたのか分からないという顔で振り返った。
「患者って、誰です?」
「私です。井戸の異常を調べに行く途中で薬師が倒れた場合、誰がその薬師を治すのかという新しい問題まで発生します」
「街にも薬師はいますよ」
「では安心して倒れられますね」
「走らなくていいです」
理解の早い子で助かった。