魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第十節 東部保全区画

 第三樹冠管理槽から地上へ戻る頃には、井戸へ降りた時よりも中央広場の甘い香りが濃くなっていた。縄梯子を登り切った私は、まず井戸の縁へ両手をつき、地面がきちんと足の下にあることを確かめた。昨日より荷物は軽く、途中で上から引いてもらう必要もなかったが、それでも腕には十分な疲労が残っている。旧文明があれほど高度な設備を作れたのであれば、管理槽の入口を地上へ設ける程度の配慮もできたのではないかと思う。

 

「魔女さん、大丈夫ですか?」と、先に地上へ出ていたリオが心配そうにこちらを覗き込んだ。

 

 私は肩をゆっくり回し、痛みが翌日まで残りそうだと判断してから頷いた。

 

「大樹より先に私が崩壊するほどではありません。ただし、明日は薬瓶を高い棚から下ろせない可能性があります」

 

「それは大丈夫って言うんですか?」

 

「命に関わらない不便は、だいたい大丈夫の範囲です」

 

 息を整えてから大樹を見上げると、白い花は地下へ入る前よりさらに増えていた。半透明の花弁が青緑色の葉の間を埋め、枝から枝へ鳥たちが飛び移っている。街の中央にもう一つ小さな森が生まれたような華やかさだったが、地下で大樹の残り時間を知った今では、その光景を単純に美しいとは思えなかった。

 

 地上から見える大樹は、昨日までよりも明るく、健康そうでさえある。その内側では自己修復系が壊れ、構造維持率が三十四パーセントまで落ち、暫定的な延命処理によってかろうじて二百日あまりの猶予を得ている。外見というものがどれほど信用できないかを、大樹は街の誰より雄弁に示していた。

 

 それでも広場の日常は、地下で知った事実とは無関係に続いている。露店では商人が値切る客と口論し、荷車は石畳を軋ませながら進み、子供たちは落ちてきた白い花弁を拾い集めていた。少し離れたパン屋からは焼き上がった生地の香りまで漂ってくるが、数か月後には、この風景の大半が失われるかもしれない。

 

 私はその可能性を今すぐ広場の全員へ伝えるべきか考えた。しかし、解決方法も避難計画も定まっていない状態で「大樹が半年ほどで崩壊する」とだけ発表すれば、街に必要以上の混乱を招くだろう。情報は早く渡せばよいわけではなく、受け取った者が次に何をすればよいのかまで示せなければ、ただ恐怖を配っているのと変わらない。

 

「リオ、地下で見た数字については、まだほかの人へ話さないでください」

 

 声を落として伝えると、彼は大樹を見上げたまま、少し不安そうに眉を寄せた。

 

「大樹があと半年くらいしか保たないってことですか?」

 

「そうです。明日にでも、街の代表や衛兵隊長、オルドさんへは説明します。ただし今、広場の真ん中で叫ぶのはやめてください。大勢が荷物をまとめて門へ殺到しても、まだ行き先さえありませんから」

 

 リオは、隠していることにはならないのかと尋ねた。私は一晩だけ話す相手と順番を選ぶのだと説明し、薬も情報も使い方を間違えれば症状を悪化させると付け加えた。彼はしばらく考えたあと、真面目な顔で誰にも言わないと約束した。

 

「信じます。ただし、管理人のお爺さんへ井戸水を飲ませないという仕事は、引き続きお願いします」

 

「そっちの方が難しそうなんですけど」

 

「人類の命運より、目の前の老人一人を止める方が難しいこともあります」

 

 地下へ連れていった判断が正しかったかは今も少し迷っているが、少なくともリオは、深刻な話を面白半分で広めるような子ではない。ひとまず今日の調査は終わったので、できれば森の家へ戻り、温かい茶を飲みながら、放置したままの軟膏を瓶へ詰めたかった。世界の謎は一晩置いても腐らないだろうし、腐るようなら最初から私一人の手に負える問題ではない。

 

 私が鞄の位置を直して歩き出そうとした時、中央広場の東側から「ドームを見ろ!」という大きな声が上がった。人々が一斉に東へ顔を向け、私も街の屋根越しに見える巨大な灰色の半球へ目を移した。

 

 ドームの表面には、昨日とは違う光が浮かんでいた。細い線は弧を描きながら広がり、やがて巨大な円を形作る。街から数日かかるほど離れているにもかかわらず輪郭がはっきり確認できるのだから、その円自体が途方もない大きさなのだろう。

 

 やがて円の内側がゆっくりと奥へ沈み始めた。何度も調査隊が送られ、傷一つつけられず、入口らしき場所さえ発見されなかった構造物が、こちらの存在を待っていたかのように開いていく。距離があるため音は届かず、動きは奇妙なほど静かだった。それでも、山の一部が形を変えているような光景は、広場にいる全員から言葉を奪うには十分だった。

 

「入口……ですよね」とリオが呟いた。その声にも、先ほどまでの軽さはない。

 

「おそらくは。ただし、入口が開いたことと、安全に入れることは別です」

 

「でも、これで中へ行けますね」

 

「あなたは物事の明るい面を見つけるのが得意ですね。私は今、向こうから何かが出てこないかを考えていました」

 

 開口部の向こうには、光の届かない暗闇が広がっていた。内部の壁や床はもちろん、どれほど奥行きがあるのかさえ分からない。私は目を細め、何か動くものがないかを確かめようとした。

 

 しばらくすると、その暗闇の中に、互いに近い位置へ並んだ二つの淡い黄色い光が浮かんだ。照明や機械の表示である可能性はある。しかし二つは同じ高さを保ったまま、ゆっくりとこちらへ向きを変えたように見えた。

 

「魔女さん、あれ……目じゃないですよね?」

 

 私は暗闇から視線を外さず、慎重に言葉を選んだ。

 

「私は今、その単語を使わずに済ませようと努力していたところです」

 

 リオが小さく謝ったので、私も同じものを想像したのだと認めた。もし本当に目であるなら、ドームの大きさと距離から考えて、その持ち主は尋常ではない。ただし、見えている情報だけで結論を出すべきではなかった。灯りが二つ並んでいるだけかもしれず、旧文明の設備が人間の感覚に似た配置を持っていても不思議ではない。

 

 二つの光は、遠く離れた街と中央に立つ大樹を観察するようにしばらく静止したあと、ゆっくり横へ移動して開口部の奥へ消えた。入口だけが開いたまま残され、その直後、鞄の中で携行認証子が震えた。

 

 取り出すと、昨日まで何の反応も示さなかった黒い板が微かな熱を持ち、中央の円形部分へ東を示す記号が浮かんでいる。その下には、新しい一文が表示されていた。

 

『東部保全区画 受入準備完了』

 

「やっぱり、向こうは魔女さんが来るのを待っているんじゃないですか?」

 

 表示を覗き込んだリオに、私は歓迎されていると決めるのは早いと答えた。

 

「罠でも、相手を受け入れるための準備はできます」

 

「怖いことを言わないでください」

 

「私も怖いので、分け合っています」

 

 東部保全区画は、五百年前の大規模環境崩壊に備え、生態系を避難・保存するために作られた施設だという。なぜそのような場所が必要だったのか、何を避けるためだったのか、そして内部で何が五百年以上も生き続けているのかは、まだ何一つ分かっていない。

 

 それでも、大樹を修復するための中央管理権限が最後に記録された場所は、あのドームの中だった。現在のところ、街と周辺の環境を救うためには、東へ向かう以外の手段が見つからない。

 

 行きたくないという気持ちは、もちろんあった。しかし同時に、五百年前の人類が何を恐れ、何を守ろうとし、なぜその時代に関する記録だけを失ったのか知りたいとも思っている。井戸の水が甘くなったという小さな依頼は、いつの間にか世界が忘れた五百年へ繋がっていた。

 

「魔女さん、少し楽しそうですね」

 

 リオが私の顔を覗き込んだため、私はようやくドームから視線を外し、できるだけ平静な顔を作った。

 

「気のせいです。今のは危険確認をしていただけですよ」

 

「ずっと見ていましたけど」

 

「念入りな危険確認です」

 

 好奇心というものは、認めたくない時ほど顔へ出るらしい。私は携行認証子を鞄へ戻し、明日やるべきことを頭の中で整理した。街の代表者たちへ大樹の状態を説明し、東部保全区画へ向かう人員を決め、薬や食料、地図、野営道具を用意しなければならない。私の代わりに重い荷物を持てる、体力のある人間を探すことも重要だった。

 

 世界の謎へ近づくにも、まずは求人から始めなければならないらしい。森へ帰るはずだった私の予定は、開いたドームの入口とともに、また少し遠ざかっていた。

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