出発の朝、私は普段よりかなり早い時間に森の家を出た。
空はようやく白み始めたところで、木々の間には夜の冷気がまだ残っている。鳥たちは相変わらず街の方角へ集まっていたが、数日前のような騒がしさはなく、枝の上で東の空が明るくなるのを待っているように見えた。
家を離れる前に、私は戸締まりを三度確認した。薬草を干している部屋の窓も閉め、暖炉の火が消えていることも確かめ、作業台の上には埃除けの布を掛けてある。朝に作りかけたまま事件へ巻き込まれた軟膏も、昨夜ようやく瓶へ詰めることができた。
納品は帰ってからになる。
数日遅れることについては、街を救うための調査へ行くのだから許されるだろうと思う。しかし、依頼人が必ず同じ考えを持ってくれるとは限らないので、帰還後の値引きも少し覚悟しておいた方がよさそうだった。
背負った鞄の中には、薬品や試薬、携行認証子、大樹から貸与された環境補助子が収められている。普段から使っている黒い金属棒も、割れないよう布へ包んで側面へ固定した。何に反応して色が変わるのかは、今も完全には分かっていない。
それでも、井戸水と地下施設の液体が同じ系統の物質を含んでいると気づけたのは、あの棒のおかげだった。説明不足ではあるものの、役に立つ時には役に立つので、置いていく理由はない。
もっとも、道具へ愛着を持つには、もう少し分かりやすい説明をしてほしいところだった。
街の南東門へ着くと、日の出前にもかかわらず、すでに何人かが集まっていた。
ディンは衛兵用の厚手の外套を着て、槍と短剣を身につけている。背中には食料と野営道具を詰めた大きな荷物があり、私の鞄と比べると二倍以上の大きさに見えた。
セラは弓の弦を確かめながら、腰へ複数の小袋と工具を下げていた。彼女の荷物も決して軽そうではないが、本人は特に気にしている様子がなく、これから近所の森へ散歩にでも行くような顔をしている。
私は二人の荷物を見たあと、自分の背中へ意識を向けた。
「役割分担というものは、とてもよい仕組みですね」
私が言うと、ディンは荷紐を締め直しながら苦笑した。
「まだ何も言ってませんよ」
「言われる前に、こちらの荷物が軽い理由を説明しておこうと思いまして」
「薬品は魔女さんが持つことになってますから、問題ありません」
「薬師です」
「出発前からそこを訂正するんですね」
「旅の間に忘れられると困りますから」
世界を救うための旅へ出る薬師という表現も、かなり妙ではある。しかし、魔女だから巨大ドームへ向かうのだと思われるよりは、薬師として必要とされたと考える方が私にとっては重要だった。
門の脇にはオルドとガレスも来ていた。オルドは旅立ちの場に似合わないほど分厚い帳面を抱え、昨夜まで調べていた古地図の写しを私へ渡した。
「役に立つかは分からん。川と森の位置も、現在とは違っているかもしれない」
「五百年前の地図としては、十分役に立つ可能性があります」
「ずいぶん控えめな評価だね」
「期待を上げすぎると、地図に裏切られた時に悲しくなりますから」
とはいえ、何もないよりはずっとよい。私は地図を折らないよう筒へ収め、鞄の外側へ固定した。
ガレスはディンへ護衛中の判断を任せると伝え、危険だと思った場合には主人公の意見にかかわらず引き返せと念を押した。
「私の意見にかかわらず、ですか」
「好奇心に負けて奥へ行きたがる可能性があると聞いた」
「誰からです?」
「リオとセラ」
私は少し離れたところにいる二人へ目を向けた。セラは悪びれもせず肩をすくめ、リオは見つかったことに気づいて視線を逸らした。
信用されているのか、監視されているのか、少し判断が難しい。
「私は危険なことが好きなわけではありません。分からないことを調べたいだけです」
「それを好奇心と言うんだよ」
セラが笑った。
「知っています。だから困っているのです」
そこへ、パン屋の女主人が大きな布袋を抱えて現れた。
「持っていきな。朝焼いたばかりだよ」
袋の中には丸パンが詰められており、布越しにも温かさが伝わってくる。
「ずいぶん多いですね」
「三日分あるよ」
「目的地までは、片道でも三日ほどかかる予定なのですが」
「だったら三日で帰ってくればいいだろ」
実に簡潔な旅程だった。
「できる限り努力します」
「無理して三日で戻ろうとしなくていいですからね」
女主人の横にいたリオが、すぐに口を挟んだ。母親の言葉を本気にされては困ると思ったらしい。
彼は昨日までより大きな肩掛け鞄を持っており、中には大樹と井戸の様子を記録するための紙や筆記具が入っている。自分も旅へ行くと言い張っていた時ほど不満そうではないが、完全に納得したわけでもなさそうだった。
「僕も、途中までなら一緒に行けたと思うんですけど」
「途中まで来ると、そのまま最後までついてきたくなるでしょう」
「それは……そうですけど」
否定しようとしたものの、正直に認めた。こういうところは年相応であり、少し安心する。
「街に残る仕事も重要ですよ。大樹の状態が変わった時、私たちはすぐに確認できません。あなたの記録が、帰ってから必要になる可能性はかなり高いです」
「毎朝と夕方に記録します。井戸の水も見ますけど、飲みません」
「管理人のお爺さんにも飲ませないでください」
「そっちの方は、できる限り頑張ります」
「『絶対』ではないのですか?」
「お爺さんが相手なので」
難易度を理解しているらしい。
リオは少し迷ったあと、小さな包みを私へ差し出した。開いてみると、砂糖を少し多めに使った菓子パンが二つ入っている。
「これは?」
「魔女さん用です。途中で疲れた時に食べてください」
「お気遣いはありがたいのですが、私だけですか?」
「ディンさんとセラさんは、魔女さんより体力がありそうなので」
非常に正確な判断だった。
「大切に食べます」
「帰る前に食べてくださいよ」
「記念品として保存するつもりはありません」
私が包みを鞄へ入れると、リオは少しだけ満足そうな顔をした。褒められるのを待っていることが分かりやすかったので、街に残る役目を任せられるのは彼くらいだと改めて伝える。
今度は隠しきれず、はっきり嬉しそうに笑った。
やはり、完全に大人びているわけではない。その方がよいと思う。
出発の準備が整った頃、東の空から朝日が昇り始めた。
振り返れば、街の中央に立つ大樹の上部が、屋根の向こうへ大きく広がっている。白い花と青緑色の葉は朝日に照らされ、地下で余命を告げられたものとは思えないほど美しく輝いていた。
しかし、見た目が健康そうだからといって、内部まで無事とは限らない。薬師の仕事をしていれば、人間について何度も見てきたことである。
今度は大樹そのものが患者だった。
そして、その治療法を探すために、私たちは五百年間閉ざされていた巨大ドームへ向かう。
鞄の中で携行認証子が微かに震えた。取り出すと、表面に東を指す記号が浮かび、その下へ簡潔な表示が現れている。
『東部保全区画 誘導信号受信』
環境補助子も同じ方向へ淡い光を向けていた。目的地へ辿り着くまでの経路が安全かどうかは別として、少なくとも方角だけは迷わずに済みそうである。
「便利ですね」
私が表示を眺めていると、リオがすぐにこちらの顔を覗き込んだ。
「やっぱり楽しそうです」
「便利な道具へ感心しているだけですよ」
「ドームに行くのも、少しは楽しみなんでしょう?」
「危険な場所へ行くこと自体は楽しみではありません。ただ、中に何があるのか知りたい気持ちはあります」
「それ、楽しみって言うんじゃないですか?」
私は少し考えた。
「非常に認めたくない形ではありますが、そうかもしれませんね」
リオは得意そうに笑った。
好奇心を否定し続けても、周囲にはすでに知られているらしい。ならばせめて、好奇心より慎重さが先に働くよう努力するしかない。
門番が南東門を開いた。
重い扉の向こうには、朝露に濡れた街道と、その先へ続く森が見える。遠くの地平線には、東部保全区画と思われる巨大ドームの上部が、朝靄の中へ薄く浮かんでいた。
街から眺めている時には、世界の端に置かれた景色の一部のようだった場所が、今日からは目的地になる。
「では、行きましょう」
私が門の外へ一歩踏み出すと、ディンとセラも続いた。数歩進んだところで、背後からリオの声が飛んでくる。
「魔女さん!」
振り返ると、彼は門の内側から身を乗り出し、心配を隠しきれない顔でこちらを見ていた。
「ちゃんと帰ってきてくださいね!」
大丈夫だと答えることは簡単だった。しかし、目的地には五百年間閉ざされた施設があり、その内部には、街からでも見えるほど巨大な目らしきものが存在している。
根拠のない約束をするのは好きではない。
「努力します」
「そこは絶対って言ってくださいよ!」
「では、かなり努力します」
「変わってません!」
見送りに来ていた人々から笑い声が上がった。
私は片手を軽く振り、再び東へ向き直った。
数日前まで、私は森の家で打ち身用の軟膏を煮ていた。その仕事へ戻るためには、地域全体を維持する巨大な大樹を修復し、五百年前の生態系保存施設から中央管理権限を持ち帰らなければならないらしい。
薬師の仕事へ戻るまでの道のりとしては、少し遠回りが過ぎる。
それでも歩き始めた以上、まずは森の向こう側まで行くしかない。
甘い井戸水から始まった事件は、こうして私を、世界が五百年前に忘れた場所へ連れ出した。