街を出てからしばらくの間、旅は想像していたよりも平穏だった。
南東へ伸びる街道は交易路の一部として使われているため、少なくとも人が暮らす範囲では定期的に手入れされている。荷馬車がすれ違えるほどの幅があり、雨の溜まりやすい場所には平たい石が敷かれ、道端の草も歩行の邪魔にならない程度に刈られていた。左右には森が広がっているものの、時折、木を伐る斧の音や荷車の軋みが遠くから聞こえてくるため、人の世界を離れたという実感はまだ薄い。
私たちは自然と縦に並んで歩いていた。森や遺跡を歩き慣れたセラが先頭に立ち、その後ろを私が進み、最後尾をディンが守っている。前方の異常を見つける探索者と、背後を警戒できる衛兵の間へ、戦闘にも長距離歩行にも向いていない薬師を挟むという並び方は、安全面から考えてかなり合理的だった。
少なくとも、私はこの順番に何の不満もなかった。
「歩く速さは問題ありませんか?」
背後から声をかけられ、私は歩調を変えないまま振り返った。ディンは食料や野営道具の入った大きな荷物を背負っているが、息一つ乱していない。その姿を見ていると、人間という生き物には個体差がありすぎるのではないかと思う。
「今のところは大丈夫です。ただし、この『今のところ』には、街を出てからまだ一刻も経っていないという条件が含まれています」
「最初から弱気ですね」
「自分の能力を正しく把握しているだけです。旅の初めに大丈夫だと言い切ってしまうと、倒れた時に発言を訂正しなければなりませんから」
言葉に責任を持つためにも、余計な自信は持たない方がよい。
普段の私も、薬草を探すために森を歩くことはある。しかし、その場合は気になる植物を見つけるたびに立ち止まり、しゃがみ込み、葉や根を調べる。疲れた時には、その場で採取記録を書いているふりをしながら休むこともできる。
目的地へ向け、一定の速さで歩き続ける旅とは根本的に違っていた。
「休憩は、どのくらいの間隔で入れる予定です?」
先頭のセラへ尋ねると、彼女は肩越しにこちらを見た。
「普通なら二刻に一回くらいだけど、魔女さんがいるから一刻半かな」
「薬師です。それから、その条件でお願いします」
「訂正する方を先に言うんだね」
「呼び名は放置すると定着しますから。休憩は、必要になった時に申告できます」
セラは笑いながら前を向いた。彼女は初めて向かう巨大ドームへの旅を、警戒しながらも明らかに楽しんでいる。未知の遺跡を前にして喜べるというのは、探索者として必要な資質なのだろう。
私は危険な場所へ行くこと自体を楽しんではいない。ただ、五百年前から閉ざされていた施設の中に何が残っているのかは知りたい。
両者は似ているようで、私の中ではかなり違う。
もっとも、周囲の人間には同じ好奇心に見えるらしい。
鞄の中では、携行認証子と環境補助子が時折微かに震えていた。環境補助子を手に取ると、内部の淡い光が東南東へ細く伸び、東部保全区画からの誘導信号を受信していることを知らせている。表面には数字も浮かんでいたが、どの単位を使っているのかまでは表示されていない。
「街を出た時より、少し減っていますね」
私が数字を確認していると、ディンが横から覗き込んだ。
「距離でしょうか」
「その可能性は高いと思います。ただ、これが一里なのか、一歩なのか、旧文明独自の単位なのかで意味が変わります」
「着けばゼロになるんじゃないですか?」
私は環境補助子からディンへ視線を移した。
「非常に力強い使い方ですね」
「間違っています?」
「いいえ。実用上は、それで十分かもしれません」
現在の人間が旧文明の遺物を使う時は、細かな原理や表示の意味が分からないまま、結果だけを利用することも多い。数字が減っているなら目的地へ近づいており、警告が出ていないなら周辺環境は今のところ安全である。
文明の継承としては多少雑だが、何も分からない黒い棒を水へ浸し、色を見て首を傾げていた昨日までと比べれば、十分な進歩だった。
午前の街道では、何台かの荷馬車とすれ違った。西へ向かう荷には木材や薬草が積まれ、東から来た車には革や乾燥肉が載せられている。私たちの装備を見れば遠出をする一行だと分かるらしく、御者の何人かは不思議そうな視線を向けてきた。
そのうちの一台が私たちの横で速度を緩めた。御者台に座っていた年配の男は、セラの弓とディンの槍を見たあと、私が抱えている環境補助子へ目を留めた。
「この先へ行くのか?」
「東へ向かいます」
セラが答えると、男は露骨に眉を寄せた。
「東って、この先は途中で道がなくなるぞ。まさか、あのでかいドームまで行くんじゃないだろうな」
セラは私を振り返った。どうやら詳しい説明は私に任せるらしい。
「近くまで調査へ行く予定です」
「やめといた方がいいぞ。昨夜、あっちの空が何度も青く光ってた。雷じゃないし、音もなかった。森の獣も落ち着かなくて、馬が道へ出たがらなかったくらいだ」
私は環境補助子を見た。今のところ警告は出ていないが、測定できる範囲にも限界があるだろう。
「光は、空から落ちるようなものでしたか?」
「逆だ。地面から空へ伸びてた。何本も、同じ辺りからな」
東部保全区画の内部で、新たな設備が起動したのかもしれない。入口が開いたことは街からも確認できたが、五百年以上停止していた施設が再び動き始めたのであれば、外から見えないところでも相当な変化が起きているはずである。
「教えていただき、ありがとうございます。日が暮れる前には野営場所を決めるつもりです」
「それがいい。森へ入ったら、暗くなってから動くなよ」
男は忠告を残し、荷馬車を西へ進めていった。遠ざかっていく車輪の音を聞きながら、セラが私の顔を覗き込む。
「今の話を聞いて、少し帰りたくなった?」
「少しは」
「少しなんだ」
「残りの部分では、何が光っていたのか気になっています」
「それを好奇心って言うんだよ」
「知っています。だから扱いに困っているのです」
好奇心そのものを失えれば、安全に暮らせるのかもしれない。しかし、それでは薬草の性質も病気の原因も分からないままである。大切なのは興味を持たないことではなく、興味を持ったまま不用意に触ったり飲んだりしないことだろう。
少なくとも、私はそう考えている。
正午が近づく頃、街道は一本の川へ突き当たり、そこから北へ大きく曲がっていた。交易路を進むのであれば、そのまま川沿いに歩けばいい。しかし東部保全区画からの誘導信号は、道のない対岸を示している。
川の向こうには、深い森が広がっていた。
私が暮らす森と同じように木々が生えているはずなのに、受ける印象はまるで違う。人が定期的に通る場所ではないため、枝や蔓は好き勝手に伸び、わずか数十歩先でさえ、濃い緑と木陰の向こうへ隠れている。
ここまでは、人が作った道を歩いてきた。
ここから先は、森そのものの中へ入らなければならない。
「今なら、まだ街道を戻れますね」
私が対岸を眺めながら言うと、セラが笑った。
「帰るの?」
「安全な方向を確認しただけです。選択肢を知っていることと、それを選ぶことは別ですよ」
川は腰ほどの深さに見え、流れもそれほど速くない。ただし薬品や食料を持ったまま入るには不安がある。私は環境補助子を水面へ近づけた。
『水質:飲用可能』
『微弱魔力反応:許容範囲』
表示を確認したあと、念のため鞄から例の黒い棒を取り出した。水へ先端を浸すと、半透明部分は薄い青色へ変わった。街の井戸や地下施設の液体で見た緑色とは明らかに違う。
「新しい道具があるのに、そっちも使うんですか?」
ディンに尋ねられ、私は棒の色を見ながら頷いた。
「環境補助子は安全だと教えてくれますが、この棒は水の性質がほかと違うことを目で比較できます。何を示しているのか分からなくても、記録を重ねれば役に立つかもしれません」
「何を示しているか分からないことは、変わっていないんですね」
「道具にも成長の余地は必要です」
問題は道具ではなく、使う側の理解だという気もしたが、今は考えないことにした。
少し上流を探すと、両岸へ渡されたように一本の大きな倒木が横たわっていた。セラは迷うことなくその上へ乗り、軽い足取りで向こう岸まで歩いていく。続いたディンも、背中の大荷物を気にした様子はない。
私は倒木の手前で立ち止まり、川と木の幅を見比べた。
「下流に浅い場所はありませんか?」
向こう岸から、セラが答える。
「一刻くらい探せばあるかもしれないよ」
一刻余計に歩くことと、十数歩だけ川へ落ちないよう進むこと。安全と体力が、きれいに別々の方向を指している。
私は倒木の上へ慎重に片足を置いた。
「世の中は、もう少し分かりやすい選択肢を用意してくれてもよいと思うのですが」
ディンが向こう岸から手を差し出した。
「必要なら掴まってください」
街の人々はもう見ていない。ここで見栄を張って川へ落ちれば、濡れた薬品を乾かす仕事が増えるだけである。
「では、遠慮なくお願いします」
彼の手を借り、一歩ずつ倒木を進む。
中央付近で木がわずかに揺れた時には立ち止まったが、最終的には何も失わず対岸へ辿り着くことができた。
「第一関門は無事に突破しましたね」
私が地面へ降りながら言うと、セラは目の前に広がる森を指した。
「今のは入口にも入ってないよ」
「では、入口へ着くための関門です」
自分の中で評価を少し修正しておいた。
川を背にして、私たちは道のない森へ向き直った。環境補助子が示す光は、木々の奥へ真っ直ぐ伸びている。
街道は、ここで終わりだった。
そして世界の地図から抜け落ちた場所は、ここから始まっているらしかった。