魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第十五節 道のない森

 川を渡って東側の森へ足を踏み入れると、それまで歩いてきた街道が、急に遠い場所のものになったように感じられた。

 

 人が定期的に出入りする森には、明確な道がなくても、人の通った痕跡がどこかに残っている。何度も踏まれて低くなった草や、荷物を避けるうちに折れた枝、薪を集めた跡などが、人間の存在を控えめに主張しているものだ。

 

 しかし、川の東側には、そのどれも見当たらなかった。低い枝と蔓は行く手を塞ぐことを当然だと思っているらしく、足元に広がる草や木の根も、こちらが歩きやすい場所を選んで生えてはくれない。

 

 セラは先頭に立ち、短刀で進路を塞ぐ蔓だけを切りながら進んだ。必要以上に痕跡を残せば、森にいる獣や、同じようにこの場所へ入ってきた人間へ自分たちの行き先を教えることになるという。

 

 彼女の少し後ろでは、環境補助子が東南東へ向かって淡い光を伸ばしていた。ただし、それが示しているのは目的地の方角だけであり、歩きやすい経路まで選んでくれるわけではない。その光に従って真っ直ぐ進もうとすれば、木の幹や茂みへ何度も突っ込むことになりそうだったため、実際の道選びはセラへ任せることにした。

 

「この道具は、方角を教えるだけなのですね。ついでに歩きやすい道も示してくれれば、かなり助かるのですが」

 

 私が張り出した根を跨ぎながら言うと、セラは前方の枝を片手で持ち上げ、私たちが通れる隙間を作った。

 

「五百年前には、この辺りにも道があったのかもしれないよ。案内する側は、誰も手入れしないまま五百年放置されるところまで考えてなかったんじゃない?」

 

「それなら、道が残っていないことへ文句を言うのは少し酷でしょうね。施設を五百年も放置される予定で作る人は、あまりいないでしょうから」

 

 大樹も東部保全区画も、本来であれば誰かが管理を続けるはずだった。それがなぜ途切れ、誰も過去を知らないまま五百年以上が経過したのかを確かめるために、私たちは今、道のない森を進んでいる。

 

 最後尾のディンは周囲を警戒しながら、時折、目立たない高さの枝へ暗い色の紐を結んでいた。帰路を見失わないための印で、遠目には森の色へ紛れるものの、近くで見れば結び目の形から自分たちのものだと分かるらしい。

 

 私は何度か振り返り、その位置を覚えようとした。しかし三本目の木へ印がついた時点で、最初の二本がどれだったのか自信がなくなった。

 

「帰り道については、お二人を全面的に信用することにします」

 

「魔女さんも少しくらい覚えてくださいよ」

 

 ディンはそう言いながらも、私が周囲の木々を真剣に見比べている様子を確認すると、それ以上は求めなかった。特徴のある木を選んでいるつもりなのだろうが、私にはどれも太くて葉の多い木に見える。薬草であれば多少の違いも分かるのだが、樹木全般の顔を覚える能力までは持ち合わせていなかった。

 

 森の奥へ進むにつれ、植物の種類も少しずつ変わっていった。私の家の周囲では見かけない肉厚の葉や、樹皮へ張りつく銀色の苔が増え、日光の届きにくい場所にもかかわらず、淡く発光する小さな花まで生えている。

 

 特に気になったのは、葉脈だけが鮮やかな青色をした背の低い植物だった。葉の表面は暗い緑色だが、中央から枝分かれする筋へ弱い魔力が流れている。

 

 私は無意識に歩調を緩め、しゃがみ込みかけた。前を歩いていたセラは足音の変化だけで気づいたらしく、振り返る前から尋ねてきた。

 

「採りたい?」

 

「まだ何も言っていませんよ」

 

「歩く音が止まったからね」

 

 どうやら旅を始めて半日も経たないうちに、行動の癖をかなり把握されているらしい。

 

「少しだけ調べたいです。私の知る植物ではありませんし、東部保全区画周辺の環境へ適応した種類かもしれません」

 

「一分」

 

「葉と土を傷つけずに採るなら、三分は欲しいところです」

 

「二分」

 

「成立です」

 

 私は手袋をつけ、株そのものを傷めないよう葉を二枚だけ切り取り、根元の土も少量採取した。折った葉からは青臭さに混じって、ほんの少し甘い匂いがする。弱い魔力を当てても急激な反応はなく、少なくとも触れただけで皮膚を焼いたり、胞子を撒き散らしたりする種類ではなさそうだった。

 

 詳しい性質は帰宅後に調べるつもりだが、東部保全区画へ持っていけば、施設の解析機能を借りられる可能性もある。私は標本袋へ採取した場所と時刻を書き込み、鞄の内側へ丁寧に収めた。

 

「楽しそうですね」

 

 待っていたディンが、少し笑いながら言った。

 

「仕事です」

 

「川を渡る前までは、あれだけ帰りたそうだったのに」

 

「道のない森を歩くことと、未知の薬草を見つけることは別の出来事ですよ。前者はできれば避けたいですが、後者には価値があります」

 

「都合がよくありませんか?」

 

「安全に楽しめる部分だけを楽しむのは、長生きするための知恵です」

 

 そう答えて立ち上がった直後、セラが片手を上げ、私たちをその場へ止めた。

 

 彼女が見ていたのは、二本の木の根が交差してできた浅い窪みだった。そこには透明な水溜まりのようなものがあり、木漏れ日を受けた表面が、ごくゆっくりと揺れている。

 

 ただし、周囲の地面は乾いていた。斜面の上側にある窪みへ、その場所だけ水が溜まっているのも不自然である。

 

 私は環境補助子を取り出し、透明な塊へ向けた。内部の光が数回瞬き、表面へ文字が現れる。

 

『小型生命反応を検出』

 

『生体洗浄膠体』

 

『管理系統との接続なし』

 

「水ではなく、生き物のようです」

 

「これがですか?」

 

 ディンが槍の先を近づけようとしたため、私は手で制した。

 

「まずは触らないでください。今日の私たちはまだ、未知のものへ不用意に触れていないという立派な実績があります」

 

「午前中だけの実績ですよね」

 

「短くても実績は実績です。昨日までの私たちより進歩しています」

 

 透明な塊は、こちらの会話へ反応している様子もなく、その場でゆっくりと形を変えていた。よく見ると、内部には緑色と銀色の細かな粒子が漂っている。

 

 しばらくすると、水面のようだった表面が盛り上がり、塊全体が地面を滑るように動き始めた。

 

 私たちは揃って一歩下がった。

 

 透明な生き物は、三人の中央まで来ると、迷うことなくディンの足元へ向かった。彼の靴には、先ほど川辺でついた泥がまだ残っている。

 

 膠体は靴先を柔らかく包み込み、付着していた泥だけを驚くほどきれいに取り込んでいった。

 

「掃除をしてくれているようですね」

 

 セラは面白そうに眺めている。

 

「名前どおりなら、それが本来の仕事なのでしょう。ただし、汚れがなくなったところで止まってくれる保証はありません」

 

 私が言い終えるより早く、透明な身体は革の表面へさらに密着した。靴先の色が少しずつ薄くなり、表面が妙に滑らかになっていく。

 

「革まで分解していますね」

 

「それは先に言ってください!」

 

 ディンが慌てて足を引いた。膠体は細長く引き伸ばされながら靴へついてきたが、やがて離れ、地面の上で再び丸い形へ戻った。

 

 短い時間しか触れていなかったにもかかわらず、ディンの靴は新品のようにきれいになっている。同時に、先端部分の革が目に見えて薄くなっていた。

 

「もう少しで足まで洗浄されるところでした」

 

「生体洗浄と有機物分解の区別が、現在の生活用品とは合っていないのでしょう。五百年前の施設では、革靴を履いた人間が歩くことを想定していなかったのかもしれません」

 

「それでも、足は想定していてほしいですね」

 

 ディンが靴の状態を確かめている間に、膠体は身体を一度大きく震わせた。内部に漂う緑色の粒子が、今度はこちら側へ集まる。

 

 嫌な予感がした時には、すでに遅かった。

 

 透明な塊は向きを変え、先ほどより少し速い動きで、真っ直ぐ私の方へ滑ってきた。

 

「えっ」

 

 考えるより先に身体が動いた。

 

 私は肩から鞄を外し、両手で掴んで身体の前へ構えた。危険なものと自分の間に何かを置くという意味では、反射的な行動として間違ってはいない。

 

 問題は、その鞄の中へ薬草や軟膏、食料、それに先ほど採取した植物まで入っていることだった。

 

 膠体は急に動きを速め、明らかに鞄へ向かってくる。

 

「魔女さん、それを前に出すのは逆じゃないですか?」

 

 ディンの指摘を受け、私は腕の中の鞄と、こちらへ迫る透明な生き物を見比べた。革の外装だけでも十分な餌になりそうだが、中身まで考えれば、私は最も食べられたくないものを自分から差し出している。

 

「……確かに、これは盾ではなく献立ですね」

 

 私は何事もなかったように鞄を背中へ回した。セラが片手で口元を覆い、笑いをこらえていることには気づかないふりをする。

 

 驚いた人間が常に最善の行動を取れるのであれば、世の中の事故はもう少し少なかったはずである。

 

 それでも膠体はこちらへ進み続けたため、私は鞄の脇から使い終えた古い包帯を取り出した。乾いた薬草の成分と、落としきれなかった軟膏が染みついている。

 

 少し離れた地面へ包帯を投げると、透明な生き物はすぐに進路を変え、そちらへ覆いかぶさった。

 

「餌づけですか?」

 

 セラがようやく笑いを収めながら尋ねる。

 

「治療への協力費です。まだ何も治療してもらってはいませんが、私の鞄を守った対価ということにしておきます」

 

 膠体が包帯を取り込んでいる間に、私は小さな採取瓶を用意した。全部を捕まえるつもりはない。身体の端をごく少量だけ硝子棒で掬い、瓶の底へ移す。

 

 透明な膠体は特に抵抗せず、容器の中で柔らかく広がった。私は蓋を閉める前に、例の黒い棒を慎重に差し込んだ。

 

 半透明の先端へ、まず淡い緑色が浮かぶ。

 

 井戸水や大樹の供給液に近い反応だった。

 

 しかし、緑色の中には、これまで見たことのない黒紫色の細い筋が何本も走っている。筋は棒の表面でゆっくり形を変え、まるで緑色の光を内側から汚しているように見えた。

 

「妙ですね」

 

 環境補助子にも試料を近づけると、『旧環境維持系微粒子を検出』という表示の下へ、新しい警告が現れた。

 

『異常構造片を微量検出』

 

「危険なのですか?」

 

 ディンは靴を庇いながら、少し距離を取っている。

 

「現時点では分かりません。ただ、井戸水や地下施設の液体と同じ系統の物質を含んでいる一方で、そこにはなかった何かが混じっています」

 

「持っていくの?」

 

 セラの問いに、私は採取瓶の蓋を固く閉じた。

 

「東部保全区画の設備であれば、詳しく解析できるかもしれません。この森で何が起きているのかを知る手がかりになる可能性があります」

 

「鞄へ入れて大丈夫?」

 

 私は手元の瓶と、先ほど危うく盾にしかけた鞄を見比べた。

 

「布と革袋で三重に包みます。それでも漏れた場合、私の薬袋が非常に清潔になるでしょうね」

 

「中身ごとなくなると思うよ」

 

「その可能性については、今は考えないことにします」

 

 残った膠体は古い包帯をほとんど分解し終えると、満足したのか木の根元へ戻っていった。人間を積極的に襲う生物ではなさそうだが、革製品と薬草を持ち歩く旅人にとっては、十分に厄介な存在である。

 

 私たちは服や荷物へ透明な欠片が付着していないことを慎重に確かめ、それから再び森の奥へ進んだ。

 

 さらに一刻ほど歩いた頃、環境補助子が短く震えた。東部保全区画を示していた光がわずかに逸れ、進行方向の左手を指している。

 

 木々の隙間へ目を凝らすと、苔と蔓に覆われた黒い柱のようなものが見えた。上半分は折れ、地面へ斜めに沈んでいるが、表面には大樹の根や第三樹冠管理槽で見たものと同じ銀色の線が残っている。

 

 私は携行認証子を取り出した。

 

 中央へ浮かんだ表示は、その構造物の名前を簡潔に示していた。

 

『旧環境観測点』

 

 五百年以上前、この森で何かを観測し続けていた設備らしい。

 

 そして環境補助子は、機能を停止しているはずの黒い柱の奥から、今も微弱な記録信号が発せられていることを知らせていた。

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