魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第十六節 森に残された記録

 木々の間に埋もれていた環境観測点は、近づいてみると柱というより、細長い塔の残骸に近かった。

 

 地上へ露出している部分だけでも私の背丈の二倍ほどあり、その先は折れて斜めに傾いている。黒い表面の大半は苔や蔓に覆われていたが、ところどころに残された銀色の筋だけは、五百年以上の時間など存在しなかったように滑らかな光を保っていた。

 

 ただし、動いている様子はない。第三樹冠管理槽の壁面に見られたような照明もなく、表面へ触れずに観察する限り、巨大な黒い石と大きな違いはなかった。

 

「機能停止と表示されていますが、記録信号は出ているのですよね」

 

 私は環境補助子を観測点へ向けた。半透明の内部へ光が集まり、先ほどと同じ情報が表示される。

 

『旧環境観測点』

 

『主機能停止』

 

『非常記録領域から微弱信号を検出』

 

「壊れたあとも、記録だけは残そうとしているみたいですね」

 

 ディンは観測点の上部を見上げながら言った。折れた部分は木々の枝へ引っかかり、落下せずに辛うじて支えられている。これから中を調べるのであれば、先に頭上の安全を確かめておく必要がありそうだった。

 

 セラは観測点そのものではなく、周囲の地面を調べていた。積もった落ち葉を靴先で避け、古い足跡や罠がないかを確認している。

 

「動物の跡はあるけど、どれも新しくないね。少なくとも、ここ数日は大型の獣が近づいていないと思う」

 

「森へ入ってから、生き物の気配そのものが減っています。大樹の花へ引き寄せられた可能性もありますが、この距離まで影響しているのでしょうか」

 

「分からない。ただ、鳥だけじゃなく獣までいないのは妙だよ」

 

 私たちの足音と、風で葉が擦れる音以外はほとんど聞こえない。先ほどの生体洗浄膠体も生き物ではあるが、鳥や小動物の気配とは違っていた。

 

 私は観測点の根元へ目を向けた。

 

 黒い構造物の下部には、地面へ半分埋まった浅い受け皿のような部分がある。その中へ雨水らしき液体が溜まっていたが、表面には油膜に似た紫黒色の筋が浮かんでいる。

 

 先ほど採取した洗浄膠体の中で見た色とよく似ていた。

 

「少し調べます」

 

 私は環境補助子を液体へ近づけた。

 

『水質:飲用非推奨』

 

『旧環境維持系微粒子を検出』

 

『異常構造片を検出』

 

 予想どおり、洗浄膠体とほぼ同じ表示が出た。私は採取瓶へ少量を取り、続いて例の黒い棒を差し込む。

 

 先端には淡い緑色が現れ、その内側を黒紫色の筋が絡みつくように広がった。先ほどより異常な色が濃い。

 

「また同じ反応ですね」

 

 ディンが覗き込む。

 

「洗浄膠体は、この辺りの液体を取り込んだのかもしれません。あるいは、もともと観測点の清掃や汚染物の回収に使われていた可能性もあります」

 

「危険なの?」

 

 セラに尋ねられ、私は棒を液体から引き抜いた。

 

「危険かどうかは分かりません。ただ、正常な状態ではなさそうです。少なくとも飲まない方がよいでしょう」

 

「飲もうとは思わないよ」

 

「それが普通の反応です。街の人々にも見習っていただきたいですね」

 

 原因の分からない液体を大勢で味見した者たちの顔が、自然と頭へ浮かんだ。

 

 採取瓶を三重に包み、洗浄膠体の試料とは別の場所へ収納する。鞄を盾にしてしまった時には危うく中身ごと差し出すところだったが、現在は研究試料が二種類も入っている。今後はもう少し慎重に扱う必要があるだろう。

 

 携行認証子を観測点へ近づけると、黒い柱の銀色の線が一度だけ弱く明滅した。

 

『暫定管理員を確認』

 

『非常記録領域への接続を試行します』

 

 観測点の内部から、何かが回転するような掠れた音が聞こえた。長く使われていなかった設備が、残された力を集めて動こうとしているらしい。

 

 三人で少し距離を取る。

 

 表面の苔が震え、その下へ細い光が広がった。やがて黒い壁面の一部が半透明になり、いくつもの文字が浮かび上がる。

 

『最終通信:五〇一年九ヶ月前』

 

『緊急遮断状態』

 

『遮断要因:高濃度魔力侵入』

 

『局地生物群避難誘導を実施』

 

『移送先:東部保全区画』

 

 私は日付を確認した。

 

 第三樹冠管理槽が外部通信を失った時期とほとんど同じであり、現在の人々が情報断絶の始まりと考えている年代にも重なっている。

 

「この森の生き物を、ドームへ避難させたということですか?」

 

 ディンの問いに、私は表示を読みながら頷いた。

 

「少なくとも、この記録ではそうなっています。東部保全区画は、生態系を保存するための施設でしたから、周辺の動物を誘導する設備があっても不思議ではありません」

 

「何から逃がしたんだろうね」

 

 セラが呟いた。

 

 答えを求めるように認証子へ触れると、表示が何度か乱れた。記録の多くは失われているらしく、文字が途中で消えたり、読めない記号へ変わったりする。

 

 その中で、最後に一つだけ新しい項目が現れた。

 

『保存記録断片を検出』

 

「映像かもしれません」

 

「再生できる?」

 

「試してみます。ただし、何かが突然飛び出す可能性も考えて離れていてください」

 

「映像から何か出てくるんですか?」

 

「旧文明なので、出てこないとは言い切れません」

 

 私は認証子の中央へ触れた。

 

 観測点の表面から淡い光が放たれ、私たちの前へ半透明の景色が広がった。

 

 そこに映っていたのは、今とよく似た森だった。

 

 ただし、木々の高さや種類は少し違う。現在は大木が密集している場所にも細い樹木が多く、観測点自体も折れておらず、地面から真っ直ぐ空へ伸びていた。

 

 映像は激しく乱れていたものの、森の中を大量の動物が走っていることは分かった。

 

 鹿に似た獣、狼のような四足動物、小型の生き物、空を覆うほどの鳥。それらは互いに争うこともなく、同じ方向へ向かっている。

 

 東部保全区画の方角だった。

 

 先導するように地面へ青い光の筋が現れ、動物たちはそれに沿って移動している。ただの群れではない。何かから逃げるため、施設によって誘導されていた。

 

 やがて映像の視点が空へ向いた。

 

 空は厚い黒雲に覆われ、その中を青紫色の光が何度も走っている。それは通常の雷とは逆に、地上から空へ向かって伸び、雲の奥へ吸い込まれていた。

 

 映像が大きく揺れる。

 

 森の向こう側に、巨大な影が現れた。

 

 木々よりも遥かに高く、輪郭は黒い雲と混ざり合っている。頭や手足があるのかさえ分からなかったが、それが静止した山ではなく、移動している何かであることだけは、周囲の木々との位置関係から判断できた。

 

 ディンが息を呑む音が聞こえた。

 

「生き物でしょうか」

 

「この映像だけでは判断できません。巨大な機械や、魔力現象の一部である可能性もあります」

 

 自分自身へ言い聞かせるように答えた。見たものへすぐ名前をつければ安心できるが、それで正しいとは限らない。

 

 映像には雑音が混じり始めた。

 

 どこか遠くで、切迫した声が聞こえる。

 

『局地生物群、移送率八十二パーセント――』

 

『第七波到達予測まで――』

 

 そこで声は途切れた。

 

 画面全体が青紫色の光へ覆われ、次の瞬間、映像は完全に消えた。

 

 現在の森が戻ってくる。

 

 私たちはしばらく誰も話さなかった。

 

 もともと静かな森だったが、記録を見たあとでは、その静けさが別の意味を持っているように感じられた。五百年前、ここには多くの動物が暮らし、それらの一部は東部保全区画へ避難した。

 

 移送率は八十二パーセント。

 

 残りの生き物がどうなったのかは、記録に残されていない。

 

「第七波とは何でしょう」

 

 ディンが最初に口を開いた。

 

「分かりません。ただ、『第七』と呼ばれている以上、それ以前にも同じような何かが六回あった可能性はあります」

 

「何度も来ていたの?」

 

 セラの問いに、私は曖昧に首を振った。

 

「波という言葉が何を指しているかも分かりません。魔力の増大かもしれませんし、災害、攻撃、あるいは旧文明特有の別の現象かもしれません」

 

 現時点で断定できるのは、高濃度の魔力が侵入し、動物たちが避難させられたことだけだった。

 

 認証子へ保存を命じると、映像の断片が転送された。街へ戻ったあと、オルドにも見せられるだろう。

 

 しかし、その前に東部保全区画へ辿り着かなければならない。

 

 空を見ると、日はすでに大きく傾いていた。森の中では日没が早く、明るいうちに野営場所を決める必要がある。

 

「今日はこの近くで休もう」

 

 セラは観測点から少し離れた開けた場所を見回した。

 

「ここなら周囲を確認しやすいし、環境補助子も危険反応を出していない。これ以上進むと、暗くなるまでに場所を選べなくなるよ」

 

「賛成です」

 

 私はほとんど考えずに答えた。

 

「休む話だけは判断が早いですね」

 

 ディンに言われたが、否定する理由はなかった。

 

「適切な提案を速やかに受け入れるのは、優れた判断力の証拠ですよ」

 

 観測点へ最後に視線を向けると、役目を終えた銀色の線が再び暗くなり、黒い柱は森の一部へ戻っていた。

 

 五百年前、この場所で何が起きたのかはまだ分からない。

 

 ただ、その出来事から逃れるために作られた施設へ、私たちは確実に近づいている。

 

 それが安心できる情報なのかどうかについては、もう少し考えないことにした。

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