夜明けの光が木々の間へ差し込む頃になっても、鹿に似た巨大な獣は焚き火跡のそばに残っていた。
昨夜は暗闇の中で輪郭しか分からなかったが、朝の光の下で見ると、その身体が普通の生き物とは大きく異なっていることが改めて分かる。灰褐色の毛並みには細い銀色の筋が混じり、それらは首から胸を覆う黒い構造へ繋がっていた。金属板のように見える部分も、鎧として外から取りつけられたものではない。獣が呼吸するたび、皮膚や筋肉と一緒にわずかに動き、身体の一部として成長していることが見て取れた。
角の先に宿っていた青白い光は、夜より弱くなっている。それでも完全には消えておらず、枝分かれした角の内部を、ごく細い光がゆっくり流れていた。
私が毛布から起き出した時、獣はすでに目を開けていた。敵意は感じられないものの、こちらの動きを静かに観察している。正式に同行を承認したとはいえ、互いに信頼関係が築かれたわけではない。少なくとも私はそう考え、急に近づかないよう距離を保った。
セラは早くから起きていたらしく、少し離れた場所で獣を眺めている。近づきたそうな様子は明らかだったが、昨夜の注意を覚えているのか、手を伸ばすところまではいっていない。
「触っても大丈夫だと思う?」
「私へ聞かれても分かりません。環境補助子は敵対行動なしと判断していますが、それは撫でられることを好むという意味ではありませんよ」
「試さないと分からないよね」
「指を失ってからでは試験方法に問題があったとしか言えませんので、もう少し待ってください」
セラは残念そうにしながらも、その場に留まった。未知の遺物へ勝手に触れないという理由で同行者に選んだのだから、未知の生物についても同じ慎重さを期待したい。
私は環境補助子を取り出し、昨夜登録された情報を改めて確認した。
『東部保全区画 外部誘導個体』
『個体識別子:HRT\-071』
『生体状態:軽度疲労』
『帰還誘導:承認済み』
昨夜は危険区域の情報へ意識を取られ、識別子について詳しく見ていなかった。意味の分からない文字と数字だけでは、会話の中で呼ぶには不便である。
「このまま『外部誘導個体』と呼び続けるわけにもいきませんね」
朝食用のパンを切っていたディンが、表示を横から覗き込んだ。
「識別子は、どう読むんでしょう。エイチ、アール、ティー……」
「旧文明での読み方は分かりません。現在の文字へ無理に合わせるなら、ハルトと読めなくもありませんが」
私が試しに「ハルト」と呼びかけると、獣の長い耳がこちらへ向き、琥珀色の目が私を捉えた。
三人の間に短い沈黙が生まれる。
「反応しましたね」
「決まりでいいんじゃない?」
セラが嬉しそうに言った。
「偶然、声の方を見ただけかもしれません」
念のためもう一度呼ぶと、今度は獣がゆっくり頭を上げた。少なくとも、呼びかけとして認識しているらしい。
「では、ハルトということでよさそうですね。本人が嫌がっていないのであれば」
「本人って呼び方でいいの?」
「動物扱いした方がいいのか、施設の一部として扱うべきなのか分かりませんので、間を取っています」
五百年前の生態系保存施設に由来し、身体へ旧文明の構造を持つ生物である。鹿と呼んでよいのかさえ確信がなかったが、毎回正式名称を口にするよりは、ハルトの方がずっと親しみやすい。
名前を得た当人は、こちらの相談など気にしていない様子で、近くの低木から葉を食べ始めた。環境補助子が示していた通り、食料は自分で確保できるらしい。旅の同行者として、これは大きな長所だった。
私たちは簡単な朝食を済ませ、野営道具を片づけた。昨夜示された高危険区域を避けるため、予定していた最短経路から南へ大きく回り込むことになる。
セラが古地図と環境補助子の表示を見比べながら、おそらく一日程度は余計にかかるだろうと言った。
「一日ですか」
「地形によっては、もう少し増えるかもしれない」
「今のところ一日ということにしておきましょう。悪い可能性まで先に聞くと、歩く前から疲れます」
「聞かなくても距離は変わらないよ」
「気分は変わります」
正しい判断が、常に嬉しい判断であるとは限らない。危険区域を正面から通るつもりはないが、回り道を歓迎するほど歩くことが好きなわけでもなかった。
荷物を背負い終えたところで、私はハルトの背中へ目を向けた。
肩の位置は私の胸より高く、背中も広い。馬より大きく、足取りも安定している。少なくとも見た目だけなら、人一人を運ぶ程度で困るとは思えなかった。
「魔女さん」
セラが、私の顔とハルトの背中を交互に見た。
「何です?」
「乗れないか考えているでしょう」
「まだ何も言っていませんよ」
「顔に出てる」
最近、私の顔は周囲へ余計な情報を与えすぎている。
「可能性を検討していただけです。私は長距離歩行に向いておらず、ハルトには十分な体格があります。互いの能力を補い合うという意味では、合理的な案でしょう」
「本人の意見は?」
「今から確認します」
私は環境補助子へ、ハルトへの騎乗が可能か尋ねた。内部の光が数回揺れ、すぐに回答が表示される。
『外部誘導個体への騎乗は推奨されません』
『頸背部構造への負荷、および騎乗者の落下危険を確認』
私はしばらく表示を眺めた。
「推奨されないそうです」
「残念でしたね」
ディンが笑いをこらえながら言う。
「可能性を一つ確認しただけです。残念ではありません」
そう答えながら、環境補助子を鞄へ戻した。
少しだけ残念だった。
歩き始めると、ハルトは誰かから指示を受けたわけでもないのに、セラの少し前へ出た。完全に先頭へ立つのではなく、こちらが見失わない程度の距離を保ちながら森の中を進んでいく。
外部誘導個体という名称どおり、生き物を安全な場所へ導くための役割を持っているのだろう。木々が密集したところでは通りやすい隙間を選び、ぬかるみや深い藪がある場所では、こちらを振り返って別の方向へ進んだ。
セラも最初は自分で道を確認していたが、しばらくするとハルトの選択が地形に適していることを認めた。
「私より森に詳しいみたいだね」
「五百年前からこの辺りを歩いているのであれば、経験の差がありますから」
「この子が五百歳とは限らないでしょ」
「子孫である可能性もありますね。ただ、身体の人工構造がどのように受け継がれるのかは分かりません」
生まれた時から金属部分を持つのか、成長の途中で施設から与えられるのか。それとも、私たちが生物だと思っている身体そのものが、旧文明の設備によって作られ続けているのか。
興味深い疑問ではあるが、本人の身体を勝手に調べるわけにもいかない。東部保全区画へ到着すれば、もう少し情報が得られるだろう。
南へ進むにつれ、森の地面は緩やかな上り坂へ変わっていった。ハルトとセラは歩調を変えずに登っていく。大荷物を背負ったディンでさえ、呼吸が少し深くなった程度だった。
私は斜面の途中で一度立ち止まり、振り返ったディンへ手を上げた。
「休憩ですか?」
「景色の確認です」
木々に囲まれているため、景色らしいものはほとんど見えない。
ディンは何も言わず、水筒を差し出してくれた。話の分かる人で助かる。
短い休憩のあと、再び歩き始めた。坂を登り切る頃には日が高くなり、木々の間へ差し込む光も強くなっている。
そこで、先を行くハルトが突然足を止めた。
長い耳を立て、北東の森へ顔を向ける。角の先にある青白い光がわずかに強まり、環境補助子もそれに呼応するように震えた。
『高危険生命反応』
『推奨迂回距離内』
赤い表示が浮かぶとほぼ同時に、遠くから低い音が響いた。
雷ではない。
大きな岩が砕けたような衝撃音で、その直後、地面へ微かな振動が伝わってきた。木々の上を何羽もの鳥が一斉に飛び立ち、北東から南へ逃げていく。
森の向こうで、太い幹が折れる音が続いた。
姿は見えない。しかし、何か巨大なものが移動している。
私たちは誰から言われるまでもなく、音のする方向から距離を取った。ハルトは北東を警戒しながら、私たちをさらに南へ導こうとしている。
「回り道にして正解だったみたいですね」
ディンが槍へ手を添えたまま言った。
「ええ。何がいるのか気にはなりますが、やはり近づかない判断が正しかったようです」
「見に行きたいとは言わないんだ?」
セラが尋ねる。
「私は好奇心を持っているだけで、命まで差し出すつもりはありません」
遠くでもう一度、森を揺らす重い音が響いた。
私は環境補助子の赤い表示を見て、それからハルトが示す南の進路へ目を向けた。
「それに、帰り道でも残っているでしょう。どうしても調べる必要があれば、その時に準備を整えて来ればよいのです」
「帰りにも寄るつもりなの?」
「必要がなければ寄りません」
そこは強調しておいた。
ハルトが再び歩き始める。私たちは音の正体を確認することなく、その後ろへ続いた。
危険を避けたことで目的地までの距離は伸びたが、少なくとも現在のところ、全員の身体と荷物は無事である。旅の成果としては十分に優秀だと思う。
もっとも、前を進むハルトの背中が坂道でもほとんど揺れていないのを見ると、騎乗が推奨されなかったことだけは、もう一度少し残念に思った。