高危険生命反応を避けて南へ進路を変えてから、森は少しずつ湿り気を増していった。
足元には柔らかな苔が広がり、木々の根元には細い水の流れがいくつも現れる。周囲の植物も変わり、乾いた高台で見かけた硬い葉に代わって、背の高い羊歯や、透き通った茎を持つ草が目立つようになった。遠くで動いていた何かの音はすでに聞こえなくなっていたものの、ハルトは時折足を止め、北東へ耳を向けている。
私たちは彼の様子を見るたびに歩調を緩めたが、環境補助子へ新しい警告が出ることはなかった。どうやら、あの高危険生命反応は追ってきてはいないらしい。
「避けて正解でしたね」
私がそう言うと、先頭を歩いていたセラが振り返った。
「まだ何がいたのか分かってないけどね」
「分からないまま離れられたのであれば、それも立派な成功です。正体を知るために近づいて、食べられてから『大型肉食生物でした』と判明しても、あまり役には立ちませんから」
「魔女さんなら、食べられる途中でも観察してそうだよね」
「薬師ですし、その状況では観察より脱出を優先します」
「否定するところ、そこなんですね」
私としては当然の返答だった。
未知のものを知りたいという気持ちはあるが、自分が研究資料の一部になるつもりはない。後世の記録へ「森の薬師、好奇心によって大型生物の食事となる」と残されるのも、できれば避けたいところだった。
南へ迂回した分、歩く距離は確実に増えている。午前中はまだ身体も軽かったが、日が高くなるにつれて、背負った鞄が少しずつ重さを増しているように感じられた。もちろん実際に中身が増えているわけではない。ただし、洗浄膠体と観測点の液体を採取した瓶が加わっているので、完全に気のせいとも言い切れなかった。
緩やかな下り坂へ差しかかったところで、私は前を歩くディンへ声をかけた。
「次に休めそうな場所があれば、少し止まりませんか」
「疲れました?」
「水分補給と周辺確認の必要性を感じています」
ディンはしばらく私の歩き方を見たあと、何も指摘せずに頷いた。最近は「景色の確認」や「植物の記録」と言い換えても、休憩したいことをすぐに見抜かれるようになっている。
こちらの意図を察してくれるのは助かるが、自分の工夫が通じなくなっていることには少し寂しさもあった。
やがて木々の隙間から水音が聞こえ始めた。森の中を蛇行する細い流れを想像していたが、実際に現れたのは、対岸が木々に隠れて見えないほど幅のある川だった。
水面は穏やかで、流れもあまり速くない。ところどころに細長い草が生え、その間を半透明の小魚らしき影が泳いでいる。飲み水を補給するには都合がよさそうに見えたが、ハルトは川辺まで近づくと、前脚を止めて水面を見つめたまま動かなくなった。
「飲まないのですね」
私が近づいても、ハルトは水へ口をつけようとしなかった。代わりに鼻先を水面へ寄せ、一度匂いを確かめると、わずかに首を引いた。
動物の反応だけで水質を断定することはできない。しかし、東部保全区画へ生物を導く役割を持つハルトが避けるのであれば、無視すべきではなかった。
私は環境補助子を川へ向けた。
『水質:短期飲用可能』
『微弱な旧環境維持系微粒子を検出』
『簡易浄化を推奨』
「飲めないわけではないようですね」
ディンが水筒を取り出しかけたが、私は手で待つよう示した。
「表示が、昨日までの『飲用可能』から『短期飲用可能』へ変わっています。わざわざ言葉を増やしたということは、何か条件があるのでしょう」
「少し飲むくらいなら大丈夫、という意味では?」
「おそらくは。ただし、何を基準に短期としているのか分かりません。一日かもしれませんし、旧文明の人間にとっての短期が十年という可能性もあります」
「さすがに十年は短期じゃないでしょう」
「五百年使われ続ける大樹を作った人々ですから、時間の感覚が私たちと同じとは限りませんよ」
半分は冗談だったが、残りの半分については本当に分からなかった。
私は鞄から黒い棒を取り出し、先端を川の水へ浸した。最初に淡い緑色が現れ、その内側へ、細い黒紫色の筋がゆっくりと広がっていく。
洗浄膠体や旧環境観測点に溜まっていた液体と、よく似た反応だった。ただし、黒紫色は観測点の液体ほど濃くなく、筋の数も少ない。
「やはり同じものが混じっていますね」
私は棒を水から引き上げ、布で丁寧に拭った。
「環境補助子は急性の危険がないと判断していますが、この棒は、正常な水とは違うことを示しています。飲んだ直後に倒れるようなものではなくても、長く取り続けた場合に何が起きるかは分かりません」
「また何に反応しているか分からない棒が勝ったの?」
セラが環境補助子と黒い棒を見比べる。
「勝ち負けではありません。環境補助子は現在の安全性を判断し、この棒は液体の性質の違いを示しているのでしょう。両方を使えば、少なくとも片方だけより慎重に判断できます」
「じゃあ、この水は使わない?」
「できれば別の水源を探したいです。どうしても見つからなければ、浄化したうえで最低限だけ使いましょう」
川の水を少量採取し、これまでの試料とは別の瓶へ収める。鞄の中には正体不明の液体が次々増えているが、旅先で拾ったものを全部持ち帰る探索者の気持ちが、少しだけ理解できるようになってきた。
理解しただけで、同じことをしているとは認めたくなかった。
「ハルトは、安全な水を知っているのでしょうか」
私が環境補助子を通じて問いかけると、表示がしばらく揺れた。言葉による返答はなかったが、ハルトは耳を動かしたあと、川沿いではなく森の南側へ身体を向けた。
「案内してくれるみたいですね」
「最初からハルトへ聞けばよかったのでは?」
ディンの指摘に、私は採取瓶の封を確かめながら答えた。
「自分でも調べたからこそ、ハルトが避けた理由を理解できました。何でも最初から任せていると、同行者ではなく荷物になってしまいます」
「乗ろうとはしていましたけどね」
「移動手段としての協力を検討しただけです」
その件は、もう少し早く忘れてもらいたかった。
ハルトの後を追って森へ戻ると、彼は川から少し離れた斜面を登り始めた。先ほどまでの広い流れとは逆方向であり、水源を探す道として正しいのか不安になったが、環境補助子も特に警告を出していない。
斜面の途中には、表面を銀色の苔に覆われた岩がいくつも並んでいた。ハルトはそのうち一つの前で足を止め、角の先端を岩へ近づける。
青白い光が岩の内側へ伝わった。
小さな作動音が聞こえたかと思うと、苔に覆われていた岩の一部が左右へ割れ、その奥から細い水が流れ出した。透明な水は岩の下にある浅い窪みへ溜まり、やがて小さな泉を作っていく。
「旧文明の給水設備ですか」
私は環境補助子を近づけた。
『保全誘導個体用補給点』
『水質:飲用可能』
『異常構造片:検出なし』
続けて黒い棒を浸すと、先端は薄い青色へ変わり、黒紫色の筋は現れなかった。街を出て最初に渡った川とよく似た反応である。
「こちらなら問題なさそうですね」
私が告げるより早く、ハルトは泉へ口をつけていた。どうやら本人も安全確認が済むまで飲まなかったらしい。
私たちは水筒を満たし、泉のそばで短い休憩を取ることにした。水は冷たく、妙な味もない。普通の水がこれほどありがたく感じられるのは、甘い井戸水や黒紫色の筋を何度も見てきたせいだろう。
私は岩へ残された銀色の線を観察した。
「ハルトは、この森のどこに補給点があるのか知っているのですね」
「五百年前から残ってる設備なら、ほかにもありそうだね」
セラは泉の周辺を調べながら言った。
「東部保全区画へ動物を避難させるための道が、この辺りに作られていたのかもしれません。人間には道が見えなくても、ハルトのような誘導個体には設備の位置が分かるのでしょう」
それなら、森で見つけた観測点や洗浄膠体も、すべて避難経路を維持するための設備だった可能性がある。
現在は森に飲み込まれているものの、五百年前には青い誘導光と観測装置、補給点が連なり、多くの動物を巨大ドームへ導いていたのだろう。
私は川から採取した水と、泉の水を別々の透明板へ垂らし、黒い棒の反応を記録した。異常な水は緑色の中へ黒紫色が混じり、正常な補給水は薄い青色だけを示す。
これまで「何かに反応して色が変わる」としか分からなかった道具が、比較を重ねることで少しずつ意味を持ち始めていた。
「この棒、正式な名前が分かったら呼び方を変えるんですか?」
ディンが尋ねた。
「名前が短ければ考えます」
「長かったら?」
「棒のままです」
旧文明は道具へ長い名称をつける傾向がある。携行型環境補助子でさえ、日常的に呼ぶには少し長い。正式名称が「携行液相魔力構造判定指示子」などであれば、今後も棒で十分だった。
休憩を終え、再び南東へ進む。補給点を離れる前にハルトが角を岩へ近づけると、開いていた部分が閉じ、水の流れも止まった。必要な時だけ作動する仕組みらしい。
森は少しずつ傾斜を増し、やがて木々の間から明るい空が見えるようになった。高台へ近づいているのだろう。
最後の斜面を登り切ったところで、先を歩いていたセラが足を止めた。
私も隣まで進み、木々の向こうに広がる景色を見た。
森が一度途切れ、眼下には広い谷が伸びている。そのさらに向こう側に、東部保全区画の巨大ドームがそびえていた。
街から見た時には、地平線へ沈む灰色の半球にしか見えなかった。しかし今は、森の山並みを押し退けるような大きさで、その表面の細かな線や、開いたままの巨大な入口まで確認できる。
入口の周囲には青白い光が幾重にも走り、昨日御者が見たという光の柱が、音もなく空へ伸びていた。
目的地は、ようやく遠景ではなくなった。
ただし、谷の奥から入口までの間には、黒く変色した森と、光を反射する広い湿地が横たわっている。
環境補助子へ、新しい表示が浮かんだ。
『東部保全区画外縁部へ接近』
『複数の環境異常を検出』
私は目の前の景色と表示を交互に見た。
「近づいたこと自体は、喜んでよいのでしょうね」
「後半は無視するんですか?」
ディンが警告を指した。
「一度に両方を受け止めると疲れますので、まずは到着が近いことを喜びます。環境異常については、そのあと考えましょう」
セラは谷の向こうを見ながら、楽しそうに笑っていた。
ハルトだけは、開いたドームの入口を見つめたまま動かない。その琥珀色の目には、警戒だけではなく、長い旅の終わりを見つけたような静かな光が宿っていた。
私たちは水筒を満たし、目的地を目で確認できる場所まで来た。
それでも、東部保全区画へ入るまでには、まだ一つの谷を越えなければならない。
旅というものは、目的地が見えてからの方が遠く感じる場合もあるらしかった。