魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

20 / 30
第二十節 谷の向こうの入口

 高台から見下ろした谷は、遠目には一面の湿地に見えた。

 

 背の低い草と黒っぽい水面が複雑に入り混じり、その間を細い流れが何本も蛇行している。ところどころには石や金属らしき平らなものが一直線に並んでいたが、大半は泥や植物に覆われ、現在も道として使えるかどうかは分からなかった。

 

 谷の向こうにそびえる巨大ドームは、街から眺めていた時とはまるで別の建造物に見えた。灰色の壁は空へ向かって湾曲しながら伸び、上端は雲と重なって見えない。表面には網目のような細い溝が走り、その一部を青白い光がゆっくり移動している。

 

 開かれた入口も、遠くから想像していたより遥かに大きかった。

 

 街の門をいくつ並べても足りないほどの暗い開口部が、ドームの下部へ口を開けている。あの中に見えた二つの黄色い光が本当に目だった場合、その持ち主の大きさについては、やはりあまり考えたくなかった。

 

「まず、谷を下りる道を探そう」

 

 セラは期待と警戒が半分ずつ混ざった顔で斜面を見回していた。ハルトは少し先へ進み、湿地へ下りる細い獣道のような隙間へ身体を向けている。

 

 私は環境補助子を掲げ、谷全体を測定させた。

 

『複数の局地環境異常を検出』

 

『大気状態:許容範囲』

 

『水域内異常構造片濃度:不均一』

 

『低濃度区域を経由した移動を推奨します』

 

 表示とともに、谷の中へ細い誘導線が浮かんだ。道は大きく蛇行し、ところどころで水路を避けながらドームへ向かっている。

 

「最短経路ではありませんね」

 

「安全な方を選んでくれてるんだから、喜びなよ」

 

 セラに言われ、私は表示された曲線を眺めた。

 

「もちろん喜んでいます。ただ、安全な道というものは、どうして大抵遠回りなのでしょう」

 

「危険なものが道を譲ってくれないからじゃないですか」

 

 ディンの説明は簡潔で、反論しづらかった。

 

 斜面を下り始めると、空気の湿り気が急に強くなった。足元の土は柔らかく、深く踏み込めば靴の裏が沈む。ハルトは地面の硬い場所を正確に選んでいるらしく、私たちはその足跡を追うように進んだ。

 

 湿地の端まで来たところで、黒い水が広がっていた。

 

 表面だけを見れば静かで澄んでいる。しかし水の底には紫黒色の膜のようなものが沈み、細い糸となってゆっくり揺れている。私は採取瓶を取り出し、長い硝子管を使って岸から水を汲み上げた。

 

 環境補助子は、『接触非推奨』と表示した。

 

 続いて黒い棒を浸すと、先端へ濃い緑色が広がり、その中を黒紫色の筋が何本も這い始めた。前に調べた川や洗浄膠体より、明らかに異常な色が強い。

 

「ドームへ近づくほど濃くなっていますね」

 

 私はこれまでの記録を取り出し、棒の反応を見比べた。旧環境観測点に溜まっていた液体よりも濃く、井戸水とは比較にならない。

 

「この水が、ドームから流れてきているということですか?」

 

 ディンが谷の奥を見た。

 

「流れの向きから考えると、その可能性はあります。ただし、ドームが異常を作っているのか、外から入った異常をドームが集めているのかは分かりません」

 

「どちらにしても、中へ行けば何か分かりそうだね」

 

 セラの声は、少し嬉しそうだった。

 

「危険な液体が濃くなっていることを喜ぶ場面ではありませんよ」

 

「分かることが増えるのは嬉しいでしょ?」

 

「それは否定しませんが、できれば安全な液体を調べて分かることが増えてほしいです」

 

 私は採取瓶を封じ、ほかの試料から離して鞄へしまった。中身が漏れた場合、鞄がきれいになるだけでは済まない可能性が高い。先ほどの洗浄膠体へ差し出しかけた時以上に、盾として使ってはいけない鞄になっていた。

 

 ハルトが角を湿地へ向けると、青い光が水面の下へ走った。すると泥の中へ沈んでいた平らな板が、一枚ずつ淡く発光し始める。

 

 板は谷を横切るように並び、古い通路を形作っていた。

 

『保全誘導経路を検出』

 

『一部損傷』

 

 環境補助子が表示する。

 

「道が残っていたようですね」

 

「残っているというより、沈んでいますけど」

 

 ディンの言う通り、板の半分ほどは水や泥へ埋まっていた。それでも直接湿地を歩くよりは安全そうだったため、セラが最初に足を乗せて強度を確かめた。

 

 数歩進んでも沈まない。

 

 続いてハルト、私、ディンの順で渡ることにした。

 

 板の上には薄い泥が積もり、非常に滑りやすかった。私は一歩ごとに足元を確かめながら進んだが、途中で板の一枚がわずかに傾き、反射的に両腕を広げた。

 

 後ろにいたディンが、すぐに私の鞄を掴んで支える。

 

「大丈夫ですか?」

 

「鞄ではなく、できれば私を支えてください」

 

「一緒に動くので、結果は同じです」

 

「試料の入った鞄だけが助かり、私が湿地へ落ちる結果も考えられます」

 

 もっとも、薬と試料だけでも街へ戻れば、誰かが調査を続けられるかもしれない。そう考えると、優先順位として完全に間違っているとも言えず、少し複雑だった。

 

 どうにか通路の半分ほどまで進んだところで、前方の板が大きく途切れていた。黒い水路が横切り、向こう側まで三歩以上の距離がある。

 

 ハルトは助走も取らず、軽々と水路を飛び越えた。セラも荷物を締め直して跳び、ディンは槍を先に渡してから続いた。

 

 私は水路の手前へ残された。

 

 三人が向こう岸からこちらを見ている。

 

「飛べますか?」

 

 ディンの質問に、私は水路と距離を慎重に確認した。

 

「可能か不可能かで言えば、飛ぶ動作そのものはできます。ただし、着地まで成功するかは別の問題です」

 

 水は浅そうに見えたが、先ほどの検査では触れること自体が推奨されていない。助走をつけるだけの距離もなく、濡れた板の上で跳ぶのは、かなり勇気の必要な行為だった。

 

 セラが縄を取り出し、こちらへ片端を投げる。

 

「腰へ結んで。落ちても引っ張れるから」

 

「落ちる前提の安全策ですね」

 

「落ちない前提より安心でしょ?」

 

 その通りだった。

 

 私は縄を腰へ結び、二人が持っていることを確認してから水路を飛び越えた。跳躍そのものは成功したが、着地した足が泥で滑り、最終的にはディンに両腕を掴まれて引き上げられる形になった。

 

 湿地へ落ちなかったので、結果としては成功である。

 

「今のは飛べたことになりますか?」

 

「半分くらいは」

 

 セラの評価は厳しかった。

 

 湿地を抜ける頃には、ドームの壁が視界の大半を占めるほど近くなっていた。巨大すぎるため距離感が狂い、歩いても歩いても近づいていないように感じられたが、壁の表面に刻まれた溝が建物ほどの幅を持つことが分かるにつれ、少しずつ入口へ近づいていることを実感できた。

 

 やがて、ハルトが足を止めた。

 

 目の前には、湿地から続く古い通路と、ドーム入口の間を塞ぐように、低い金属製の機械が伏せていた。

 

 大型の甲虫に似た平たい胴体から六本の脚が伸び、前方には細い作業腕と、円形の光を放つ部分がついている。長く停止していたように見えたが、私たちが近づくと、胴体の奥から低い起動音が響いた。

 

 青白い光が一行を順番に照らす。

 

『外部誘導個体の帰還を確認』

 

『暫定管理員を確認』

 

『同行生命体三名を検出』

 

 光はセラとディンを通り、最後に私の全身をゆっくり走査した。

 

『管理員の著しい疲労を検出』

 

『自力移動能力:低』

 

『搬送支援を推奨します』

 

 機械の背面から、平らな板と簡素な座席のようなものが展開された。

 

 セラが横で顔を逸らした。

 

 笑いをこらえているらしい。

 

「旧文明の設備は、ずいぶん正確ですね」

 

 ディンも口元を緩めている。

 

「湿地を渡った直後なので、誰でも多少は疲れます」

 

『管理員のみ疲労値が基準を大幅に超過しています』

 

「説明を追加しなくて結構です」

 

 機械は気遣う様子もなく、座席をこちらへ向けたまま待機している。

 

 私はドームの入口までの距離を見た。まだかなりある。さらに、機械の座席を見る。

 

「これは施設の指示へ従うだけです」

 

「乗るんですか?」

 

「推奨されていますので」

 

 私はできるだけ堂々と座席へ腰を下ろした。

 

 機械は私の荷物を固定すると、ハルトの横へ並ぶように滑らかに歩き始めた。揺れも少なく、泥へ沈むこともない。

 

 思っていたより快適だった。

 

「歩くより速いですね」

 

「楽しそうだね、管理員さん」

 

 セラの言葉に、私は前を向いたまま答えた。

 

「これは体力温存のための合理的な判断です。決して楽をしているわけではありません」

 

 ドームの入口が、いよいよ目の前へ迫る。

 

 暗い開口部の両側では、青白い光が私たちを迎えるように点灯し、その奥から冷たく乾いた空気が流れ出していた。

 

 ハルトは入口を前に立ち止まり、低く長い声を発した。

 

 呼びかけへ応じるように、ドームの遥か奥から、地鳴りにも似た音が返ってくる。

 

 それは機械の作動音ではなかった。

 

 非常に大きな生き物が、深い場所で一度だけ息をしたような音だった。

 

 私たちは谷を越え、ついに東部保全区画の入口へ辿り着いた。

 

 そして、その内部では何かが、私たちの到着をすでに知っているらしかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。