魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三章 東部保全区画


第二十一節 保存された空

 東部保全区画へ最初の一歩を踏み入れるにあたり、私は六本脚の機械が展開した座席へ乗せられていた。

 

 五百年間、誰一人として内部へ入れなかった旧文明の巨大施設である。そこへ初めて足を踏み入れる人間として、もう少し堂々とした姿を想像していなかったわけではない。少なくとも、自力移動能力が低いと判定され、荷物と一緒に運搬されながら入ることになるとは思っていなかった。

 

「入口へ着きましたし、そろそろ降ろしてもらえませんか?」

 

 私が座席の脇にある機械へ声をかけると、平たい胴体の前部へ青い光が点った。

 

『管理員の疲労値は、推奨歩行基準を上回っています。搬送支援を継続します』

 

「先ほど湿地を渡ったばかりなので、多少疲れているだけです」

 

『比較対象二名と比べ、疲労値が著しく高い状態です』

 

「比較しなくて結構です」

 

 旧文明の設備は、尋ねていない情報まで正確に教えてくれるらしい。便利ではあるが、親切かどうかについては意見が分かれるところだった。

 

 セラは私の横を歩きながら、明らかに笑いをこらえていた。ディンも前を向いてはいるものの、時折こちらの座席へ視線を寄越している。

 

「笑いたければ笑って構いませんよ。私は施設の推奨へ従い、調査に必要な体力を温存しているだけです」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

「顔に出ています」

 

「魔女さんも、最近いろいろ顔に出てますけどね」

 

 ディンに返され、私はこれ以上話を広げないことにした。街へ戻ったら、無表情になる練習を本格的に始めた方がよいかもしれない。

 

 ハルトが巨大な入口へ向かって歩き出すと、機械もその後ろへ続いた。私たちは街の広場よりも広い開口部を通り、東部保全区画の内部へ足を踏み入れる。

 

 入口の先には、ゆるやかに下る黒い通路が伸びていた。外から見えていた暗闇は数十歩ほど進んだところで終わり、壁と天井へ埋め込まれた照明が、私たちの移動に合わせて順番に点灯していく。

 

 天井は非常に高く、大樹の街にある門塔なら、そのまま内部へ建てられそうだった。両側の壁には、人の背丈を遥かに超える扉や、用途の分からない透明な窓が並んでいる。どの設備も巨大で、ここが最初から人間だけのために作られた場所ではないことを示していた。

 

 私たちが入口から十分に離れると、背後で低い作動音が響いた。振り返れば、開いていた巨大な外扉がゆっくりと閉じ始めている。

 

「閉じ込められるようですね」

 

 私が言うと、ディンが槍へ手を添えながら背後を確認した。

 

「戻る方法はあるんでしょうか」

 

「なければ困ります。かなり」

 

 冗談ではなく、切実な問題だった。大樹を修復する方法を見つけたとしても、ここから出られなければ街へ持ち帰ることができない。

 

 携行認証子を確認すると、東部保全区画の内部図らしきものが一瞬だけ表示された。しかし大半は暗く塗り潰され、現在地と入口以外は読み取れない。

 

『入域処理を開始します』

 

 先ほどから私を運んでいる機械が告げた。

 

『外部由来汚染を検査します。対象者は、その場で待機してください』

 

「こちらの機械は、搬送用ではなかったのですか?」

 

『当機は入域衛生巡回機です。搬送支援は付随機能です』

 

「本来の仕事より先に、私を運んでいたのですね」

 

 それほど疲れているように見えたのだろうか。聞けばさらに詳しい説明が返ってきそうだったので、質問はやめておいた。

 

 通路の前方に青白い光の幕が現れた。ハルトが最初にそこへ入ると、角や金属部分を沿うように光が全身を走り、すぐに消える。

 

『外部誘導個体を確認。帰還処理を実行します』

 

 壁の一部が開き、細かな霧がハルトの身体を包んだ。彼は少し耳を動かしただけで、嫌がる様子を見せない。

 

 次にセラとディンが光の幕へ入り、衣服や荷物を含めて全身を調べられた。弓や槍には何度か警告が表示されたものの、暫定管理員の同行者として登録されているためか、取り上げられることはなかった。

 

 最後に、座席へ乗せられたままの私が光の中へ運ばれる。

 

 青い光は頭から足元まで一度通り過ぎたあと、なぜか鞄の周囲だけを何度も往復した。

 

『高濃度の外部植物成分を検出』

 

『複数の未登録薬物を検出』

 

『異常構造片を含む液体試料を検出』

 

『生体洗浄膠体の分離片を検出』

 

 機械の声が項目を読み上げるたび、セラとディンの視線が私の鞄へ集まった。

 

「調査へ必要なものです」

 

 誰にも尋ねられていないうちに説明しておく。

 

『汚染源となる可能性があります。所持品を廃棄処理槽へ移送してください』

 

「お断りします」

 

 私は反射的に鞄を両腕で抱え込んだ。湿地では盾として前へ差し出した鞄を、今度は機械から守るために胸元へ隠すことになった。

 

「この中には薬や研究試料が入っています。捨てられると、私がここへ来た意味のかなりの部分がなくなります」

 

『未登録物質の保全区画内への持ち込みは認められていません』

 

「暫定管理員権限で、調査用試料として登録できませんか?」

 

 認証子を掲げると、機械はしばらく沈黙した。青い光が鞄と認証子の間を往復し、壁の奥で何かを照会する音が聞こえる。

 

『緊急管理規定を確認しました』

 

『暫定管理員による分析用試料の持ち込みを許可します』

 

 通路の壁から、銀色の小箱がせり出してきた。

 

『ただし、異常構造片を含む試料は隔離容器へ収容してください』

 

「最初からそう言っていただければ、鞄を抱えて抵抗する必要もなかったのですが」

 

「捨てろと言われた瞬間の魔女さん、洗浄膠体が来た時より速かったね」

 

 セラが言った。

 

「薬を守る必要がありましたから」

 

「前は、その薬が入った鞄を盾にしてたけど」

 

「過去の判断をいつまでも持ち出すものではありません」

 

「昨日の話だよ」

 

 似たようなことを、以前リオにも言われた気がする。過去になるまでの時間について、私と周囲の人間では認識が違うらしい。

 

 私は洗浄膠体や湿地の水を入れた瓶を銀色の箱へ収めた。箱は自動的に封をし、私の鞄の側面へ固定される。これなら内部で漏れる危険も低いだろう。

 

 荷物の登録が終わると、天井から細かな霧が降り始めた。ハルトに使われたものと同じ入域処理らしい。

 

 私は袖へ落ちた雫を一滴だけ硝子板へ取り、黒い棒の先端を触れさせた。棒はごく淡い青色へ変化し、これまで異常な水で見られた黒紫色の筋は現れない。

 

『入域用洗浄液は、管理員の生体組織へ有害な影響を与えません』

 

 機械が言った。

 

「先に確認しただけです。旧文明の設備へ『安全です』と言われた時、その安全が五百年前の人間を基準にしている可能性もありますから」

 

『管理員の生体情報を現在値として登録しました』

 

「それなら、今後は少し信用してもよさそうですね」

 

 霧は薬草や清潔な布に近い香りを残し、衣服や髪についた泥を落としていった。続いて横から強い風が吹き出し、濡れた部分を一気に乾かす。

 

 処理が終わった時、ディンの靴は洗浄膠体に舐められた部分も含め、妙に均一な光沢を放っていた。セラの髪は乾燥用の風で大きく広がり、本人が手で押さえている。

 

 私もおそらく似た状態になっているのだろう。二人がこちらを見て少し笑ったため、確認しないことにした。

 

『入域処理を完了しました』

 

 前方の巨大な扉へ、青白い線が走る。

 

 黒い壁が左右へ分かれ、隙間から暖かな風と、植物の濃い香りが流れ込んできた。

 

 その向こうに見えたものを理解するまで、少し時間が必要だった。

 

 空があった。

 

 青く広がる空の中を白い雲がゆっくりと流れ、遠くには緑に覆われた山が連なっている。入口から伸びる通路の先には広大な森が広がり、その間を幾筋もの川が輝きながら流れていた。

 

 鳥の群れが空を横切り、見たことのないほど大きな翼を持つ生き物が、遠い湖の上を旋回している。風には土と水と花の匂いが混ざり、通路へ入ってから感じていた乾いた冷気とはまるで違っていた。

 

 私は空を見上げた。

 

 ここは巨大なドームの内部である。頭上にあるものは、本物の空ではないはずだった。それでも雲は形を変え、光の角度は朝のように柔らかく、どこからか風まで吹いている。

 

「中に、世界が入っているみたいですね」

 

 ディンの言葉に、私はすぐには返事ができなかった。

 

 街から見ていた巨大な半球の中へ、ただ森や動物が保存されているのだと思っていた。しかし実際には、地形も空も気候も含め、一つの環境そのものが閉じ込められている。

 

 箱庭というには、あまりにも大きい。

 

 それでも、この空も川も森も、誰かが失われないように作り、五百年以上守り続けてきたものだった。

 

 ハルトが入口の先へ進み、低く長い声を上げた。

 

 遠くの森から何羽もの鳥が飛び立ち、湖の水面に波が広がる。さらにその向こう、湖の中央に浮かぶ島のような黒い影が、ごくゆっくりと上下した。

 

 風による動きではない。

 

 あまりにも大きく、最初は地形の一部だと思っていたものが、一度だけ深く呼吸したように見えた。

 

 環境補助子が震え、警告とは異なる白い光を放つ。

 

『中枢保全個体の生体反応を確認』

 

『生命維持状態:重度低下』

 

『暫定管理員へ緊急支援を要請します』

 

 私は湖の向こうに横たわる巨大な影を見つめた。

 

 東部保全区画が大樹へ信号を送り、五百年ぶりに入口を開いた理由。

 

 その答えが、目の前にあるらしい。

 

「到着してすぐですが、患者がいるようですね」

 

 私は座席から降りようとして、衛生巡回機に支えられながら地面へ足をつけた。

 

 薬師の仕事へ戻るためにここまで来たはずだったが、どうやらその前に、これまでで最も大きな患者を診なければならないようだった。

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