環境補助子に表示された緊急支援の内容を確認すると、現在地から湖の中央付近へ伸びる白い経路が、空中へ立体的に浮かび上がった。
『中枢保全個体の生命維持状態が低下しています』
『診断設備の再起動、および治療計画の再構築に管理員権限が必要です』
白い線は、湖畔から森を回り込み、途中で水上へ続いている。距離を正確に把握することは難しかったが、歩けばかなりかかりそうだった。
入域衛生巡回機が私の横へ移動し、先ほど収納した座席を再び展開する。
『管理員の長距離移動を支援します』
「まだ降りたばかりなのですが」
『管理員の疲労値は回復基準へ達していません』
「この施設では、私が自分の足で歩く可能性を最初から低く見積もっているようですね」
反論したところで数値を並べられるだけだろう。私は湖までの距離と座席を見比べ、最終的には設備の判断を尊重することにした。
「これは患者へ早く到着するためです。決して歩きたくないからではありません」
「誰に説明してるの?」
セラに尋ねられ、私は座席へ腰を下ろしながら答えた。
「後世の記録へ誤解が残らないようにしています」
「今の会話まで記録されてたら、たぶん逆効果ですよ」
ディンの指摘については、聞かなかったことにした。
巡回機はハルトの後ろへつき、保存区画の森へ入っていった。外から見た時には一続きの緑にしか見えなかったが、内部にはいくつもの異なる環境が作られているらしい。背の高い針葉樹が並ぶ一帯を抜けると、巨大な羊歯に覆われた湿地が現れ、その先には色鮮やかな花が一面へ広がる草原が続いていた。
見覚えのない動物もいる。甲羅の端から羽毛のようなものを生やした小型の生物や、枝に擬態した細長い獣が、私たちを遠巻きに観察していた。五百年以上前の生態系がそのまま残っているのか、保存される間に変化したのかは分からない。
セラは歩きながら何度も周囲へ顔を向け、そのたびに足を止めたい気持ちを抑えているようだった。私は座席へ運ばれながら珍しい植物を目で追っていたので、人のことを言える立場ではない。
「帰りに時間があれば、少しだけ採取してもよいでしょうか」
「患者を診る前から帰りの寄り道を考えてるんだ」
「今は場所を覚えているだけです。採るとはまだ言っていません」
「顔には出てるよ」
森を抜けるにつれ、湖の中央に横たわる黒い影が少しずつ全貌を現していった。
最初は本当に島だと思っていた。
背中にあたる部分は緩やかに盛り上がり、古い岩山のような甲羅で覆われている。その上には大木が育ち、苔や蔓が斜面を覆い、ところどころで白い花まで咲いていた。根は土へ伸びるのではなく、甲羅の隙間から内部へ入り込み、生き物の身体と一つになっているように見える。
水面近くへ沈んだ胴体は、巨大なクジラを思わせる丸みを帯びていた。しかし皮膚は滑らかではなく、古い亀の甲羅や深海魚の鱗にも似た硬い層が重なっている。湖底へついているらしい四肢は太く、亀の脚と鯨の鰭を合わせたような形で、その関節部には銀色の構造物が筋肉や骨と境目なく食い込んでいた。
甲羅の上から伸びる樹木の間にも、金属製の塔や管が見える。それらは保全獣へ後から取りつけられた設備というより、角や骨と同じように身体から育ったものに見えた。
大樹と同じだった。
植物と動物と金属の境界が、最初から存在していない。
保全獣がゆっくり息を吸うたび、島のような背中全体がわずかに持ち上がり、そこに生える森が風を受けたように揺れた。吐き出された息は湖面を渡る霧となり、遠く離れた私たちのところまで湿った温かさを運んでくる。
「施設の中に生き物がいるというより、この生き物の中へ施設が作られているように見えますね」
私が呟くと、環境補助子が反応した。
『中枢保全個体は、東部保全区画の主要環境循環機能を担っています』
『呼吸機能、体温、体液循環および背部植物群を、区画環境制御へ利用しています』
私の感想は、それほど間違っていなかったらしい。
ハルトが湖の縁まで進み、角の光を強めながら低く長い声を上げた。その音は湖面を渡り、保全獣の身体へ届いた。
長い時間を置いて、巨大な頭部がわずかに動いた。
水面の近くにあった琥珀色の目が、ゆっくりと開く。街から巨大ドームの暗闇に見えた、二つの黄色い光。その片方だけでも、私の家より大きいように見えた。
目はまずハルトを捉え、それから小さな私たちへ向けられた。怒りや敵意は感じられない。ただ、目を開け続けることさえ苦しいのか、すぐに瞼が半分ほど下がってしまう。
「街から見えたのは、やはりこの子の目だったのですね」
「この大きさで『この子』と呼べるの?」
セラの疑問はもっともだったが、患者を山や設備と呼ぶよりはよい気がした。
「年齢が分かりませんから。少なくとも、私たちより年上である可能性は高そうです」
『中枢保全個体の稼働期間は、記録上五百七十六年です』
「年上でしたね。かなり」
入域衛生巡回機は湖畔に設けられた黒い建物の前で止まった。建物と呼んでも、壁の一部は保全獣の甲羅へ直接繋がっており、診療所というより巨大な身体へ開けられた点検口に近い。
私は座席から降り、二人とハルトを伴って内部へ入った。
中には透明な管と円筒状の装置が並び、それぞれが保全獣の身体へ続いている。床の下を低い音とともに液体が流れ、壁面には全身の形を示す巨大な図が浮かんでいた。
『診断系を再起動します』
携行認証子を中央の窪みへ近づけると、部屋全体へ淡い光が走った。湖の周囲や保全獣の背中に見えていた金属塔が順番に点灯し、無数の細い光線が巨大な身体を走査し始める。
表示される情報は、私一人では読み切れないほど多かった。
呼吸循環率の低下、体温調整系の不均衡、背部植物群の枯死拡大、複数の体内経路の閉塞。さらに、身体の各所へ黒紫色に表示された異常領域が広がっている。
『自己修復微細構造体の異常凝集を確認』
『正常組織を損傷領域として誤認しています』
『過剰修復により、循環経路および主要生体器官が閉塞しています』
私は表示と、湖に横たわる保全獣を交互に見た。
「身体を治すためのものが、健康な部分まで壊れたと判断して覆っているのですね」
『概ね正しい認識です』
「概ね、という部分が少し気になりますが、今は置いておきます」
壁の一部が開き、中から密閉された透明容器がせり出した。内部には、保全獣から採取されたらしい淡い緑色の液体が入っている。
『中枢保全個体の循環液試料です』
『管理員による外部分析を許可します』
「私が調べることまで予定されているのですか?」
『現行診断系のみでは、代替治療計画を算出できません』
機械に任せれば何でも分かると思っていたが、そう簡単ではないらしい。
私は手袋をつけ、容器からごく少量の液体を透明板へ移した。匂いは大樹の供給液に似ているものの、金属と湿った土を混ぜたような重さがある。
環境補助子を近づけると、これまでで最も強い警告が表示された。
『高濃度の異常構造片を検出』
続いて黒い棒を液体へ浸す。
先端はまず濃い緑色へ変わり、その直後、内部から黒紫色の筋が網目のように広がった。洗浄膠体、観測点の水、谷の湿地で見たものと同じ色である。しかし濃さは比較にならず、緑の光がほとんど見えなくなるほど黒紫色に覆われていた。
「この子の体内にあったものが、循環設備を通って谷や森へ漏れ出していたのでしょうね」
私はこれまで採取した試料を取り出し、棒の反応記録と照らし合わせた。ドームへ近づくほど黒紫色が濃くなった理由も説明できる。
洗浄膠体は、汚染された水や泥から異常構造片を回収していた。
私たちが別々の異変だと思っていたものは、すべてこの巨大な患者の病気へ繋がっていたのだ。
「治療方法は記録されていないのですか?」
ディンが診断装置へ尋ねた。
『標準治療手順を照会します』
『異常構造体の不活性化、および体外排出を実施します』
『必要治療薬の主要原料を確認できません』
表示へ、植物らしき図と名称が浮かんだ。
『白環苔』
『東部保全区画内個体群:絶滅』
『外部採取記録:五〇一年九ヶ月前に停止』
「治し方は分かっているのに、薬の材料がないということですか」
『その認識で正確です』
旧文明の設備は、記録された処方を再現することはできる。しかし、その処方に必要な植物が五百年以上前に失われ、代わりとなる素材も登録されていない。
高度な診断装置は、病気の場所も原因も示している。それでも、存在しない薬草を生み出すことまではできなかった。
私は鞄の中へ目を向けた。
森で採取した青い葉。
洗浄膠体。
複数の水と循環液。
現在の世界で育った薬草と、五百年前の設備が持つ解析能力。
セラも同じものを思い出したらしく、私の鞄を見た。
「途中で採っていた植物、使えないかな」
「まだ何の薬効があるかも分かっていません」
「だから解析するんでしょ?」
私は返事をせず、診断設備へ標本袋を差し出した。
「この植物を調べられますか?」
『未登録植物を確認』
『成分解析を開始します』
銀色の受け皿が開き、青い葉が内部へ運ばれていく。数秒後、壁一面へ複雑な構造図が浮かび、その一部が保全獣の異常構造体と重なるように表示された。
『異常凝集を抑制する可能性のある成分を検出しました』
『単独使用時の有効性は不足しています』
「可能性はあるのですね」
『代替処方の設計には、複数成分の調整が必要です』
『管理員による処方提示を要請します』
私は表示を見上げた。
「管理員ではありますが、巨大な生体設備の治療薬を作った経験はありませんよ」
『登録職能情報を照会します』
『薬剤調合技能を確認しました』
「そこだけは正確ですね」
設備は分析できる。
保全獣の身体へ薬を送り込むこともできる。
しかし、五百年後の植物を組み合わせ、失われた薬の代わりを考えることはできない。
それは、現在を生きている薬師の仕事らしい。
私は湖の向こうへ横たわる、あまりにも巨大な患者を見た。必要な薬の量を考えると、手作業だけで治療できるとは到底思えない。
ただ、まず作るべきものは大量の薬ではない。
効く薬を一つ作らなければ、量について悩む意味もない。
「分かりました。最初に、小瓶一本分を作ります」
私は鞄から調合道具を取り出し、診断室の作業台へ並べた。
「足りるんですか?」
ディンが保全獣の巨大な身体を見ながら尋ねる。
「まったく足りません。ただし、効かない薬を大量に作るよりはよいでしょう」
旧文明の設備が保全獣の全身を解析し、私は現在の薬草から代わりとなる処方を考える。
患者の大きさは山ほどあったが、薬を作る手順そのものは、森の家で行っている仕事と変わらない。
少なくとも、私はそう思うことにした。