診断室の作業台は、私が森の家で使っているものより遥かに広かった。
広いというより、人間が使うことを想定した大きさではない。天板の端から端までは小さな部屋ほどもあり、中央には大鍋どころか浴槽に近い透明な容器が埋め込まれている。保全獣の身体を検査する設備なのだから当然なのかもしれないが、小瓶一本分の薬を作るには、少し規模が大きすぎた。
『小規模治療試験槽を展開しました』
施設の音声とともに、透明な容器の周囲へ銀色の器具が並んだ。
私は試験槽の縁まで歩き、中を覗き込んだ。底へ手を伸ばしても届きそうにない。
「これが小規模なのですか?」
『中枢保全個体の総循環量に対し、〇・〇〇〇二パーセントです』
「割合ではなく、私の身体を基準に考えていただきたいのですが。この中へ落ちた場合、薬を作る前に私が試料になります」
『落下防止障壁を展開しますか?』
「そうではなく、もっと小さな容器をお願いします」
しばらく沈黙があった。旧文明の設備が、こちらの要求を理解できずに考え込んでいるように見える。
やがて壁の一部が開き、人の頭ほどの透明容器が作業台へ運ばれてきた。
『最小規格試験槽を展開しました』
それでも私の使う鍋より大きい。
「旧文明の人々は、少量という言葉をかなり大らかに使っていたのですね」
「魔女さんの家が小さいだけじゃない?」
セラが試験槽を覗きながら言った。
「薬師です。それに、普通の薬を作るのに人が入れる容器は必要ありません」
私は結局、持参した小鍋と硝子皿を作業台へ並べることにした。施設の道具は分析と検査に使い、調合そのものは使い慣れた器具で行った方がよい。大きな設備だからといって、薬草を煮る加減まで私より知っているとは限らない。
診断装置は、保全獣の循環液から異常構造体だけを分離し、複数の小さな透明容器へ移してくれた。森で採取した生体洗浄膠体からも同じ異常物質が抽出され、隣へ並べられている。
形状や濃度には差があるものの、二つは同じ系統のものらしい。
『生体洗浄膠体内の異常構造片は、中枢保全個体由来の排出物と九六・八パーセント一致します』
「やはり、あの透明な生き物はドームから漏れた異常物質を取り込んでいたのですね」
洗浄膠体が偶然森にいたわけではなかった。保全獣の循環系から外へ流れ出した異常構造片を分解しようとして、身体の中へ蓄積していたのだろう。
つまり、森や湿地で見た黒紫色の反応は、保全獣の病気がドームの外まで広がっている証拠でもあった。
私は森で採取した青い葉を標本袋から取り出した。施設の解析によれば、この植物には異常構造体の凝集を抑える成分が含まれている。ただし、葉をそのまま使った場合の効果は弱く、高い濃度では正常な組織まで傷つける可能性があるという。
「薬になる成分はありますが、量を増やせば毒になるということですね」
『その認識で概ね正確です』
「また概ねですか」
薬と毒の境界が量によって変わること自体は珍しくない。問題は、どの濃度なら異常部分だけへ作用し、正常な自己修復構造を残せるかだった。
私は青い葉を細かく刻み、三つの器へ分けた。一つには冷水、もう一つには温めた水、最後の一つにはごく薄い酢を加える。成分によっては、温度や酸性度で溶け出す量が変わるためである。
『非標準的な抽出操作を確認しました』
施設が告げた。
「五百年後の薬草ですから、標準的な操作の記録がないのは当然でしょう。今から標準にしてください」
『操作結果を記録します』
「話の早い設備は助かりますね」
三種類の抽出液を魔力感応粉で調べると、冷水ではほとんど反応がなく、温水では葉脈と同じ青い光が現れた。薄い酢を使ったものはさらに強く反応したが、刺激のある匂いも増している。
まずは温水抽出液を、洗浄膠体から取り出した異常構造片へ一滴加えた。
黒紫色の微粒子が、容器の中でゆっくり動きを止める。互いに絡み合っていた筋が解け、一部は細かな粒へ戻っていった。
「効いていますね」
ディンが透明容器を覗き込んだ。
「異常構造体だけへ効いているとは限りません。そこを確認します」
私は黒い棒を容器へ浸した。
先端には濃い緑色が浮かび、その中にあった黒紫色の筋が、少しずつ薄くなっていく。これまでなら喜ぶところだが、今回は緑色そのものまで弱くなり始めていた。
施設の表示も、ほぼ同じ結果を示す。
『異常凝集率 三一パーセント低下』
『正常修復構造体 活動率一八パーセント低下』
『生体組織への使用は推奨されません』
「悪いものだけではなく、必要なものまで弱らせていますね」
青い葉の成分は異常構造体を見分けているのではなく、自己修復用の微粒子そのものを動けなくしているらしい。凝集を止める効果はあるが、全身へ使えば保全獣の傷が治らなくなる。
「失敗ですか?」
セラが尋ねる。
「一つ分かったので、完全な失敗ではありません。少なくとも、これをそのまま飲ませてはいけないことは分かりました」
「前向きですね」
「失敗するたびに落ち込んでいたら、薬は完成しませんよ」
私は最初の試料へ印をつけ、二つ目の調合へ取りかかった。
青い葉の成分が正常な構造体まで傷つけるなら、健康な組織を守るものを加えればよい。鞄から取り出したのは、普段から打ち身や炎症の薬へ使っている月白草だった。
月白草には、過剰になった魔力の流れを穏やかにし、傷んだ組織を薄い膜のように保護する性質がある。骨折を治すほどの力はないが、その点については以前から十分承知している。
施設へ月白草を差し出すと、すぐに成分解析が始まった。
『未登録植物成分を確認』
『生体膜保護作用を検出』
『異常構造体への直接作用は軽微です』
「これなら、青い葉の強すぎる働きを和らげられるかもしれません」
私は月白草を弱い火で煮出し、青い葉の抽出液へ少しずつ加えた。薬は材料の種類だけでなく、順番でも性質が変わる。最初から一緒に煮れば互いの成分を壊す可能性があるため、別々に抽出してから混ぜることにした。
二つ目の試料へ加えると、黒紫色の筋は最初の時よりゆっくりと薄くなった。棒の緑色は残っている。
『異常凝集率 四二パーセント低下』
『正常修復構造体 活動率九七パーセント維持』
『効果持続時間 不足』
表示を見守っているうちに、一度薄くなった黒紫色の筋が、また少しずつ戻り始めた。
「効いてはいますが、すぐ元へ戻りますね」
「薬が弱いの?」
セラの質問に、私は容器を軽く揺らしながら考えた。
「弱いというより、異常部分へ留まっていないのでしょう。成分が一度触れただけで流れてしまえば、保全獣の巨大な循環系では効果を保てません」
必要なのは、薬を急激に働かせることではなく、異常構造体の周囲へ留め、少しずつ作用させるための材料だった。
私は鞄の中へ手を入れ、乾燥させた赤茎茸の袋を取り出した。
「それ、朝に作っていた軟膏にも使っていませんでしたか?」
ディンはよく覚えていたらしい。
「使っています。薬の成分を一か所へ留め、急に広がりすぎないようにするためです。打ち身用の軟膏では、塗った部分へ薬を残す働きをします」
「山みたいに大きい生き物へ、打ち身の薬を使うんですか?」
「同じ薬を使うわけではありません。薬を留める仕組みを借りるのです。患者が大きくなっても、成分同士の性質まで巨大になるわけではありませんから」
もっとも、保全獣へ必要な量については、考えないようにしているだけだった。
赤茎茸を粉にし、温水へ溶かす。粘りが出る前に濾し、透明に近い部分だけを月白草と青い葉の薬へ加えた。最後に、循環液と性質を合わせるため、ごく少量の塩を落とす。
『投入量を数値で入力してください』
「小匙半分です」
『非標準単位です』
「では、今使った量を小匙半分として登録してください」
『登録しました』
旧文明の測定設備へ、現在の台所道具が新しい単位として記録された。五百年前の技術者が見れば何か言いたいかもしれないが、今ここで薬を作っているのは私である。
三つ目の試料へ、完成した液体を一滴加えた。
しばらくは何も起きなかった。透明な容器の底で、黒紫色の筋が絡まり合ったまま揺れている。
私は焦らず待った。
薬がゆっくり働くよう調整したのだから、すぐに結果が出ないのは当然である。
やがて、一本の黒紫色の筋が途中から切れた。続いて隣の筋も細かな粒へ分かれ、互いに絡み合う力を失っていく。
私は棒を差し込んだ。
先端へ濃い緑色が広がる。
黒紫色はまだ残っているが、時間とともに薄くなり、最後には細い斑点がわずかに浮かぶだけになった。緑色そのものは消えず、穏やかで均一な光を保っている。
施設が解析結果を表示するまでの時間が、ひどく長く感じられた。
『異常凝集率 九三・四パーセント低下』
『正常修復構造体 活動率九九・一パーセント維持』
『生体組織毒性 許容範囲内』
『効果持続時間 基準値を満たしています』
セラが私の肩を軽く叩いた。
「できたんじゃない?」
「試料の中では成功です。まだ保全獣の身体へ使えるかを確かめていません」
嬉しくないわけではない。しかし、小さな容器の中と、山ほどある身体の中では条件が違う。早い段階で成功だと思い込むことは避けたかった。
施設は私の慎重さを待つことなく、次の試験へ移行した。保全獣の正常な組織を模した薄い膜と、異常構造体を含む循環液が小さな槽へ用意される。
私は同じ配合で、今度は小瓶一本分の薬を作った。
青い葉を抽出し、月白草の煎液を加え、赤茎茸の成分で反応速度を整える。火加減や投入順を変えず、一つずつ施設へ記録させた。
完成した薬は、薄い青緑色をしていた。
甘い匂いの奥に、月白草の柔らかな香りと、茸特有の土臭さが残っている。美味しそうには見えないが、薬は味を競うものではない。
試験槽へ薬が流される。
棒の先端にあった黒紫色の筋は、今度も時間をかけて消えていった。正常な緑色は残り、模擬組織にも損傷は見られない。
『代替治療用母液として登録可能です』
『処方設計者を暫定管理員として記録します』
「処方設計者という呼び方は、少し薬師らしくてよいですね」
「管理員より気に入ったんですか?」
ディンに尋ねられ、私は小瓶を持ち上げた。
「少なくとも、実際にした仕事と一致しています」
施設の中央へ銀色の受け皿が現れた。小瓶を置くと、青い光が液体を何度も走査し、材料の組成、抽出温度、投入順、魔力濃度が次々と記録されていく。
『治療用母液の解析を完了しました』
『東部保全区画内の現存資源による複製生産が可能です』
そこまでは、望んでいた答えだった。
続いて表示された必要量を見て、私はしばらく黙った。
数字だけでは大きさを理解できないと判断したのか、施設は必要な薬量を立体的な容器として示した。目の前へ浮かび上がった透明な槽は、私の森の家がそのまま中へ入りそうなほど大きい。
私は手元の小瓶と、空中に示された巨大な槽を見比べた。
「小瓶一本では足りないことだけは、非常によく分かりました」
『初回治療に必要な母液換算量は、現在の試作量の三万八千四百倍です』
セラが巨大な表示を見上げる。
「手作業で作ったら、どのくらいかかるの?」
「私が生きているうちに終わるかどうか、というところでしょうね」
『大量生産設備による複製を推奨します』
「最初から、そのために解析したのですよね?」
『肯定します』
施設の奥で、今まで消えていた照明が一つずつ点き始めた。壁へ新たな経路が表示され、薬草の培養区画、成分抽出設備、調合槽を結ぶ線が浮かび上がる。
ただし、その途中で赤い警告が現れた。
『治療薬生産区画 長期停止中』
『複数の設備障害を検出しています』
『量産開始には、生産区画の再起動が必要です』
私は小瓶を手にしたまま、開かれた通路を見た。
効く薬はできた。
しかし、患者は大きすぎる。
森の家であれば、同じ薬をもう一本作ればよい。今回は、家より大きな調合槽を動かし、ドーム全体の設備を使わなければならなかった。
「次は薬作りではなく、工場の修理ですか」
『生産設備の復旧支援を要請します』
「私は薬師なのですが」
施設は、その点について何の配慮も示さなかった。