魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第二十四節 止まった薬工房

 完成した治療用母液は、施設が用意した銀色の容器へ収められた。

 

 小瓶の中に入っていた時と見た目は変わらない。薄い青緑色の液体が、容器の内側で静かに揺れているだけである。しかし施設にとっては、失われた治療薬の代わりとなる新しい処方であり、山ほどもある保全獣を救うための基準でもあった。

 

『治療用母液の保全処理を完了しました』

 

『大量生産設備の復旧後、複製工程へ移行します』

 

 容器は壁の中へ収納され、代わりに診断室から生産区画へ続く経路が表示された。白い線は湖の周囲を半周し、その先にある大きな施設群へ伸びている。

 

 私は保全獣の全身図と、赤く表示された閉塞箇所へ目を向けた。

 

「私たちが設備を直している間、この子の状態は保ちますか?」

 

『現在の生命維持状態を、推定二十一時間維持可能です』

 

『外部誘導個体による鎮静支援が確認された場合、推定維持時間は延長されます』

 

 施設の音声が途切れると、ハルトは意味を理解したように湖畔へ向かった。巨大な保全獣の頭部に近い場所で足を止め、角へ青白い光を集めながら、低く長い声を響かせる。

 

 湖の水面に波紋が広がり、半ば閉じられていた保全獣の琥珀色の目が、わずかにハルトの方へ動いた。弱かった呼吸も、ほんの少しだけ穏やかになったように見える。

 

「私たちより先に、自分の仕事を理解していますね」

 

「一緒に来ないんですか?」

 

 ディンが尋ねると、環境補助子に『外部誘導個体は中枢保全個体の鎮静支援を継続します』と表示された。

 

「ここに残るようです。この子を落ち着かせられるのは、今のところハルトだけなのでしょう」

 

 道案内がいなくなるのは少し不安だったが、施設内では環境補助子が経路を示してくれる。患者のそばに残ってもらう方が、全体としては正しい判断だった。

 

 診断室を出ると、入域衛生巡回機が再び私の横へ座席を展開した。

 

「生産区画まで、歩いてどのくらいですか?」

 

『現在の管理員の歩行能力では、推定四十八分です』

 

「一般的な成人なら?」

 

『推定十九分です』

 

「比較は求めていません」

 

 十九分程度であれば自分で歩けるような気もしたが、設備の復旧後には薬の量産と投与作業が待っている。患者の治療を優先するなら、ここで体力を温存するのは合理的だった。

 

「今回は患者のために乗ります」

 

「前回も似たようなことを言っていなかった?」

 

 セラに指摘されたが、私は座席へ腰を下ろし、聞こえなかったことにした。

 

 巡回機は湖畔から伸びる黒い通路へ入り、六本の脚を滑らかに動かしながら進んだ。両側の壁には透明な管が走り、その中を緑色や銀色の液体が流れている。ところどころで照明が消え、管の中身も止まっていたが、施設全体が完全に死んでいるわけではなかった。

 

 壁の向こうには、植物を育てていたらしい巨大な部屋がいくつも並んでいる。透明な窓越しに、枯れた培養棚や、蔓に覆われた水路が見えた。

 

『医薬生産区画へ接近しています』

 

『複数の設備障害、および未登録植物群の異常増殖を確認しています』

 

「薬を作る場所で植物が育つのは、普通ではありませんか?」

 

『登録外の植生は、生産環境汚染として処理されます』

 

「五百年も経てば、植物の方も登録内容から変わると思うのですが」

 

『分類規定は更新されていません』

 

「そこは更新しておいていただきたかったですね」

 

 旧文明の施設は、五百年前の規則を忠実に守り続けている。その正確さは頼もしい一方で、現在の世界へ対応する柔軟さについては、あまり期待できなさそうだった。

 

 やがて通路の先に、巨大な扉が現れた。表面には植物の葉と液体の雫を組み合わせたような印が刻まれ、その下へ『医薬資源培養区画』と表示されている。

 

 携行認証子を近づけると、扉は途中で何度か引っかかりながら左右へ開いた。

 

 その向こうには、温室のような空間が広がっていた。

 

 天井は遠く、半透明の板を通して柔らかな光が降り注いでいる。床には無数の培養槽と水路が並び、壁際には植物を育てるための棚が何段も積み上げられていた。

 

 ただし、本来の整然とした姿はほとんど残っていない。

 

 蔓は棚から棚へ渡り、樹木のように太くなった茎が水路を押し上げ、色も形も異なる植物が互いの領域へ入り込んでいた。五百年間、誰にも管理されないまま育ち続けた結果、温室全体が一つの密林へ変わっている。

 

 その中には、森で採取した青い葉脈の植物もあった。

 

 一株や二株ではない。培養棚の広い範囲を覆い、青い光の筋を網目のように広げている。

 

「材料の量については、少し安心できそうですね」

 

 私が言うと、施設が植物群を走査した。

 

『代替治療薬の主要成分を含む植物群を確認しました』

 

『試料植物との遺伝的類似率八七・二パーセント』

 

『培養資源として利用可能です』

 

「森に生えていたものは、ここから外へ広がったのでしょうか」

 

『判断に必要な移動記録がありません』

 

 どちらが先かは分からない。しかし、同じ系統の植物がドーム内部にも大量に残っているのであれば、薬を増産するための材料は確保できる。

 

 私は座席から降り、培養棚へ近づこうとした。

 

 その時、温室の奥で重い金属音が響いた。

 

 蔓に覆われていた影が動き、複数の赤い光が点灯する。

 

『未登録植物群の増殖を確認』

 

『自動剪定処理を再開します』

 

「今になってですか?」

 

 植物の間から現れたのは、大型の甲虫を思わせる機械だった。平たい金属製の胴体を六本の脚が支え、その前部からは、鋏や鉤、噴霧器のついた作業腕が何本も伸びている。

 

 後方の装置から青白い光が放たれ、温室全体を走査した。

 

『登録外植生を剪定対象へ指定』

 

『作業経路上の障害物を確認』

 

 光はセラとディンを順番に通り、最後に私の全身を照らした。外套、薬草袋、木製の杖、鞄の中の材料へ反応するように何度も往復する。

 

『未登録植物繊維を検出』

 

『剪定対象を追加します』

 

「衣服まで植物として扱わないでください」

 

 私の抗議は無視された。

 

 作業機の鋏が開閉し、近くにあった腕ほど太い蔓を一度で切断した。切れ味を確認するには十分すぎる光景だった。

 

 セラが弓へ手を伸ばしたが、私はすぐに止めた。

 

「攻撃すれば、剪定対象から脅威へ分類が変わるかもしれません。できれば壊さず止めましょう」

 

「どうやって?」

 

「今考えています」

 

 剪定機は植物だけでなく、私の薬草袋へ真っ直ぐ向きを変えた。袋の中には月白草や赤茎茸、各種の乾燥薬草が詰まっている。温室のどの植物よりも、濃い植物成分を発しているのだろう。

 

 私は反射的に鞄を背中側へ回した。

 

 洗浄膠体へ鞄を盾として差し出した時の失敗を、今回は繰り返さなかった。人間は経験から学ぶ生き物である。

 

「今度は隠しましたね」

 

 ディンの言葉へ、私は剪定機から目を離さずに答えた。

 

「昨日より成長しています。褒めていただいて構いませんよ」

 

 しかし、鞄を隠しただけで剪定機が諦めるはずもない。赤い光は私の周囲を追い続け、鋏を備えた腕が少しずつ近づいてくる。

 

 観察すると、機械は人間の動きよりも、植物成分の濃い方向へ優先的に反応している。私は鞄の中から、獣除けに使う臭いの強い乾燥薬草と樹脂を取り出した。

 

「それを投げるの?」

 

 セラが尋ねる。

 

「この機械にとっては、私たちより立派な未登録植物に見えるはずです」

 

 薬草と樹脂を布で包み、近くにあった折れた枝へ結びつける。魔力で少しだけ温めると、鼻へ刺さる強い香りが一気に広がった。

 

 剪定機の赤い光が、私から即席の囮へ移る。

 

『高濃度未登録植物成分を検出』

 

『優先剪定対象へ指定』

 

「素直で助かりますね」

 

 私は囮を温室の奥にある小さな作業室へ投げ込んだ。剪定機は六本の脚を忙しく動かし、私たちの横を通り過ぎて囮を追う。

 

 作業室へ入るなり、複数の鋏が一斉に動き、枝と薬草の包みを細かな破片へ変えていった。

 

『優先剪定を実行中』

 

「今です」

 

 私は施設へ停止方法を照会した。

 

『局所停止には、隔離扉の閉鎖および手動安全弁の作動が必要です』

 

 作業室の横に、重い金属製のレバーと、小さな操作盤が現れる。

 

 ディンが安全弁へ向かい、両手でレバーを引いた。長く使われていなかったためか、最初はほとんど動かなかったが、身体全体の力をかけると、低い音を立てながら少しずつ下がっていく。

 

 同時にセラが操作盤まで走り、表示された停止箇所へ認証子を押し当てた。

 

 隔離扉が閉じ始める。

 

 剪定機は囮を完全に切り刻んだところで、ようやく自分が囲われていることへ気づいた。作業腕が扉へ向かったものの、その直前に安全弁が最下部まで下がった。

 

『局所作業機の強制停止を確認』

 

 赤い光が消え、開いていた鋏も途中で動きを止める。

 

 温室に静けさが戻った。

 

 私は閉じた扉越しに停止した機械を眺めた。

 

「仕事熱心なのは結構ですが、対象を選ぶ能力は必要ですね」

 

「薬草袋まで剪定されなくてよかったですね」

 

 ディンが息を整えながら言った。

 

「鞄の中には治療薬の材料だけでなく、異常液体の試料まで入っています。切られていたら、この温室へ新しい汚染を追加するところでした」

 

「それより先に、魔女さんの外套がなくなってたと思うよ」

 

 セラの指摘については、考えないことにした。

 

 剪定機を止めたあと、私は培養槽へ流れ込んでいる水を調べた。環境補助子は『異常構造片を検出』と表示し、黒い棒も濃い緑の中へ黒紫色の筋を浮かべる。

 

 患者の体内から漏れた異常物質が、薬草を育てる循環水へも入り込んでいる。青い葉脈の植物が大量に増えたのは、その環境へ適応した結果なのかもしれない。

 

「このままの水で薬草を増やせば、治療薬に異常構造片まで混ざりますね」

 

『治療薬生産には、原料培養水の浄化が必要です』

 

『浄化・抽出設備への接続経路を検索します』

 

 温室の壁へ、複数の通路が表示された。

 

 最短経路は赤く塗り潰されている。

 

『主経路は構造損傷により通行不能です』

 

『代替経路を提示します』

 

 白い誘導線は温室の側面にある別の扉へ伸びていた。その上には、薬の生産区画とは少し雰囲気の違う装飾的な文字と、複数の絵が表示されている。

 

『文化・娯楽遺産展示区画』

 

 案内図には、台座へ立てられた剣、斑点のある茸、それから丸い金属板のようなものが描かれていた。

 

「薬を作る設備へ行くために、娯楽施設を通るのですか?」

 

『現在利用可能な最短経路です』

 

 セラは案内図を見た瞬間、先ほどまで剪定機を警戒していたことを忘れたように目を輝かせた。

 

「旧文明の娯楽展示だって。行ってみようよ」

 

「ほかに道がないので行きますが、展示物へ勝手に触らないでくださいね」

 

「分かってるって」

 

 彼女が以前の面談で同じ約束を守ったことは覚えている。それでも、案内図を見つめる顔には、未知の遺跡へ入る探索者らしい好奇心が分かりやすく浮かんでいた。

 

 私は扉の上に描かれた、台座へ刺さった剣と、赤白に塗り分けられた茸らしき絵を眺めた。

 

 旧文明の人々が何を娯楽としていたのかは分からない。

 

 ただし、薬を大量生産する前に、別の意味で厄介なものを見つけることになりそうな気がしていた。

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