魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第二十五節 世界を救えなかった剣

 文化・娯楽遺産展示区画へ続く扉が開くと、医薬資源培養区画とはまったく異なる空気が流れ込んできた。

 

 薬草や湿った土の匂いは薄れ、代わりに乾いた布と金属、それからわずかに甘い香料のようなものが感じられる。扉の向こうには人間の体格へ合わせた幅の通路が伸び、壁や天井には青、赤、黄色の線が複雑な模様を描いていた。

 

 これまで見てきた施設は、どこも必要な機能だけを備えた無機質な場所だった。それに比べると、この区画は明らかに色が多い。壁面には勇ましい姿勢で武器を掲げる人物や、空を飛ぶ動物、実際には存在しそうにないほど大きな城の絵まで残されている。

 

『体験型物語文化保存区画へようこそ』

 

 天井から流れた音声にも、ほかの設備よりわずかに明るい調子が加えられていた。機械の声へ愛想というものを感じる日が来るとは思わなかったが、歓迎の直後に重大障害を知らせてきた第三樹冠管理槽よりは、接客の質が高いらしい。

 

「物語を保存するための場所だったのですね」

 

 私は壁へ描かれた人物を見上げた。その人物は、光り輝く剣を手に、雲より大きな怪物と向き合っている。

 

「本当にあった話なのかな」

 

 セラはすでに展示物へ興味を引かれ、通路の先を覗き込んでいた。

 

「娯楽文化と説明されていますので、作り話である可能性が高いでしょう。もっとも、五百年前には森より大きな影が動いていたようですから、どこまでが空想なのかは分かりません」

 

 通路を抜けると、円形の展示室へ出た。中央には石造りに見える台座が置かれ、そこへ一本の長剣が深々と突き立てられている。

 

 剣身は銀色で、鍔には青い石が埋め込まれ、柄からは今も淡い光が立ち上っていた。周囲の壁には、剣を抜こうとしている人々の絵が並び、その上へ大きな文字が浮かんでいる。

 

『救界譚体験展示――選定の剣』

 

『世界を救う資格を持つ者のみ、台座から抜去できます』

 

 セラの目が、先ほどより明らかに輝いた。

 

「触らないでくださいね」

 

「まだ何もしてないよ」

 

「する前に言いました」

 

 面談の際に携行認証子へ触れなかった実績は信用しているが、現在の彼女の顔は、探索者としての好奇心を隠そうともしていなかった。

 

 台座の周囲を調べていたディンが、説明板を読みながら首を傾げた。

 

「世界を救う資格とは、どうやって判断するんでしょう」

 

「腕力ではありませんか?」

 

 セラが剣の柄を眺める。

 

「それでは『世界を救うほど力の強い者』と書くと思います。人格、血筋、魔力、運など、物語では選定条件を曖昧にする方が都合がよいのでしょう」

 

「詳しいですね」

 

「薬を買いに来る子供たちが、待っている間に似たような話をよくします」

 

 私は台座を一周し、側面に小さな文字が刻まれていることに気づいた。大きな勇者向けの説明とは異なり、こちらは作業員へ向けた注意書きらしい。

 

『展示中は安全固定具を解除しないでください』

 

『保守点検時のみ管理権限による抜去が可能です』

 

 私は大きな説明と、小さな注意書きを交互に見た。

 

「選ばれし者しか抜けないのではなく、展示中だから抜けないようですね」

 

「それを先に読むのは反則じゃない?」

 

 セラが残念そうに言った。

 

「現実の問題を解決する時に、物語の雰囲気を守る義務はありませんよ」

 

 彼女はそれでも一度だけ試したいらしく、こちらの許可を待つように剣を見た。展示物を壊さず、強く引かないという条件で認めると、セラは柄を握って身体を後ろへ倒した。

 

 剣は少しも動かなかった。

 

 続いてディンも試したが、結果は同じである。腕力の問題でないことだけは、かなり確実になった。

 

「魔女さんもやってみてよ」

 

「薬師ですし、剣を抜いた経験もありません」

 

「だから選ばれるかもしれない」

 

「選定条件が無作為抽選のようになっていますよ」

 

 断ったものの、携行認証子へ『保守点検対象を確認』という表示が浮かんだ。施設が私を管理員として認識し、展示の固定具を解除できる状態になったらしい。

 

 私は剣を使うつもりはなかったが、展示室の先へ進むために点検が必要な可能性もある。認証子を台座へ近づけると、内部で小さな音がした。

 

『保守点検モードへ移行します』

 

 私は念のため柄を握り、軽く引いた。

 

 剣は何の抵抗もなく抜けた。

 

 想像以上に簡単だったため、勢い余って一歩後ろへ下がり、剣先を慌てて天井へ向ける。セラとディンが驚いた顔でこちらを見たあと、ほぼ同時に笑い始めた。

 

「勇者様」

 

「違います」

 

『管理者による展示物の抜去を確認しました』

 

「施設も違うと言っています」

 

「世界を救う剣を抜いたことには変わらないよ」

 

「保守点検です。勇者の資質ではなく、係員の鍵が必要だっただけでしょう」

 

 私は剣を台座へ戻した。固定具が再び作動し、何事もなかったように光が剣身へ戻っていく。

 

 世界は五百年前にかなり救われていない状態になったらしい。それでも剣は展示用の固定具へ守られたまま、選ばれし者を待ち続けていたことになる。

 

「この剣の選定方法については、見直しが必要だったと思いますね」

 

 展示室の奥へ進むと、次の台座には透明な箱が置かれていた。内部には、人の頭ほどもある茸が一本保存されている。傘は深い赤色で、表面には乳白色の輪がいくつも浮かび、柄は不自然なほど太かった。

 

『一時的身体拡張用培養菌』

 

『摂取者の筋肉、脂肪および一部骨格を急速拡張します』

 

『規定時間経過後、元の体格へ復帰します』

 

 セラが説明を最後まで読み、茸を見つめた。

 

「食べると大きくなるらしいよ」

 

「毒物の説明に見えますが」

 

『適正量を摂取した場合、重篤な副作用の発生率は許容基準内です』

 

 施設が補足した。

 

「許容する側と、食べる側で意見が分かれる表現ですね」

 

「どのくらい大きくなるんでしょう」

 

 ディンが透明箱の側面を確認すると、成人男性が二倍ほどの体格へ変化する図が表示された。

 

「便利そうじゃない?」

 

 セラの言葉に、私はすぐ首を振った。

 

「骨格まで急に拡張するものを便利と呼ばないでください。元へ戻るという説明も、安心材料としては少し足りません」

 

 透明箱の下部には、体験用の小さな培養片を取り出す機構がついていた。しかし五百年以上も使われていなかったためか、外装の一部へ細い亀裂が入り、茸の傘から剥がれた欠片が箱の底へ落ちている。

 

 私が状態を調べようと近づいた時、足元から柔らかなものが擦れる音が聞こえた。

 

 展示台の陰から、小さな透明の膠体が現れたのである。

 

 森で出会った生体洗浄膠体より一回り小さく、内部の粒子も銀色に近い。展示室の清掃を続けている個体なのだろう。膠体は台座の亀裂へ入り込み、落ちていた茸の欠片を包み込んだ。

 

「待ってください。それは食べ物として処理してよいものでは――」

 

 止めるより早く、赤い欠片が透明な身体の中へ消えた。

 

 膠体の動きが止まった。

 

 内部へ赤と白の光が広がり、手のひらほどだった身体がゆっくり膨らみ始める。最初は水袋が満たされる程度だったものが、数秒のうちに樽ほどの大きさへなり、そのまま私たちの背丈を越えた。

 

「茸の効果は、膠体にも出るのですね」

 

 ディンが後ろへ下がりながら言った。

 

「今、感心している場合ではありません」

 

 巨大化した膠体は展示室の床へ広がり、周囲の埃や汚れだけでなく、台座を覆う布や木製の飾りまで取り込み始めた。敵意はないのだろうが、清掃範囲と食欲が体格に合わせて拡大している。

 

 私は反射的に鞄を身体の前へ構えかけ、途中で止めた。昨日の失敗を思い出し、すぐに背中へ回す。

 

「今回は正しい方へ隠しましたね」

 

 ディンが言った。

 

「同じ失敗を二度繰り返さないことを成長と呼びます。感心していただいて構いません」

 

 膠体は私の薬草へ反応したらしく、透明な身体を大きく揺らしながらこちらへ向きを変えた。

 

 私たちは展示室の反対側へ移動する。

 

 その途中、膠体の端が別の展示台へ触れた。台の上には、掌に収まる丸い金属板が何十枚も並べられている。

 

 金属板が一枚、膠体の中へ吸い込まれた。

 

 空中から、澄んだ心地よい音が鳴った。

 

 続けて二枚目、三枚目が取り込まれ、そのたびに同じ音が短く響く。展示台の上へ数字が表示され、取得枚数が増えていった。

 

『収集評価板』

 

『取得時、達成音を再生します』

 

『百枚収集後、登録者の予備個体を一体生成します』

 

 私は説明を読み直した。

 

「命を景品交換のように扱わないでください」

 

「百枚集めたら、この大きいのがもう一体増えるの?」

 

 セラが数字を見た。膠体はすでに台座の半分を覆い、金属板を次々と取り込んでいる。

 

 取得枚数は八十二。

 

 八十六。

 

 九十一。

 

「最後まで集めさせない方がよさそうですね」

 

「本当に増えるか、少し見たくない?」

 

「私は見たくありません。現在の一体だけでも展示室がかなり狭くなっています」

 

 取得枚数が九十七へ達したところで、残る三枚が透明箱の中へ隔離されていることに気づいた。膠体は箱へ身体を伸ばしているものの、すぐには届かない。

 

 ひとまず百枚になる危険は避けられそうだった。

 

 問題は、巨大化した状態で展示室の清掃を続けていることである。

 

 私は硝子棒で膠体の端をわずかに採取し、黒い棒を触れさせた。先端へ赤色と乳白色の輪が浮かび、その外側を正常な洗浄膠体の淡い緑が囲んでいる。

 

 施設へ対処方法を尋ねると、意外なほど簡潔な答えが返ってきた。

 

『身体拡張効果の推定残存時間:二百十二秒』

 

「時間が経てば戻るようです」

 

「それまで逃げればいい?」

 

「薬草袋と展示物が残っていれば、ですが」

 

 膠体の進路を変えるため、私は使い終えた包帯と乾燥薬草を少量取り出した。昨日と同じように囮として使えるはずである。

 

 ただし展示室の床へ無造作に置けば、そのままこちらへ戻ってくる。周囲を見回すと、壁際に清掃用の大きな排液槽があり、その内部には濃い塩分を含む洗浄液が残されていた。

 

 少量を別の皿へ取り、膠体の試料へ加えてみる。

 

 黒い棒の赤白の輪が弱まり、試料は塩分を避けるように容器の反対側へ縮んだ。

 

「この液体を嫌うようですね。進んでほしくない場所へ撒けば、囲いとして使えます」

 

 ディンが重い洗浄液の容器を持ち上げ、セラが排液槽までの経路以外へ細い線を引いた。私は囮の包帯を槽の手前へ置き、薬草の匂いが広がるよう弱い魔力で温める。

 

 巨大な膠体はすぐに反応した。

 

 塩分の線を避けながら囮へ向かい、そのまま排液槽の前へ身体を集めていく。完全に槽へ入れる必要はない。展示物と私たちから引き離し、効果が切れるまで留められれば十分だった。

 

 残り時間が減るにつれ、膠体の身体は少しずつ縮み始めた。樽ほどの大きさになり、人の腰ほどになり、最後には元の手のひら程度へ戻る。

 

 体内へ取り込んでいた金属板は、小さくなった身体へ収まりきらなくなったらしい。一枚ずつ外へ押し出され、そのたびに澄んだ音が鳴った。

 

 九十七枚分の音を聞き終える頃には、誰も最初ほど心地よいとは思っていなかった。

 

 小さく戻った膠体は、何事もなかったように排液槽の縁を掃除し始めた。

 

「反省はしていないようですね」

 

「茸を食べただけだからね」

 

 セラは膠体へ近づきすぎない位置から眺めている。

 

「だからといって、もう一度食べさせないでくださいよ」

 

「しないって」

 

 私は散らばった金属板を施設の回収機構へ戻した。取得数は零へ戻り、予備個体の生成も解除されたらしい。

 

 最後の一枚を台座へ置くと、また澄んだ音が鳴った。

 

「便利な機能が一つもありませんね」

 

『達成感の提供を目的としています』

 

「それだけのために音を鳴らしていたのですか」

 

『肯定します』

 

 旧文明の人々は、世界の環境を維持する大樹を作り、巨大なドームへ生態系を保存する一方で、金属板を集めるたびに気持ちのよい音を鳴らしていたらしい。

 

 高度な文明を築いても、遊びへ費やす情熱までは失わなかったのだろう。

 

 少しだけ親しみを覚える。

 

 もっとも、百枚集めた人間を一人増やす仕組みについては、最後まで親しみを覚えられそうになかった。

 

 展示室の奥にある扉へ認証子を近づけると、浄化・抽出設備へ続く経路が開いた。扉の向こうには透明な水路と、黒紫色に濁った大きな処理槽が見えている。

 

 先ほどまでの明るい展示室とは異なり、その先には保全獣の病気によって汚染された設備が待っていた。

 

 私たちは世界を救えなかった剣と、身体を大きくする茸と、百枚集めると自分が増える金属板を後ろへ残し、再び患者を治療するための仕事へ戻ることにした。

 

 旧文明にも娯楽は必要だったのだろう。

 

 ただし、薬工房へ向かうための最短経路に展示室を置いた設計者については、もう少し真面目に導線を考えてほしかった。

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