魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

26 / 30
第二十六節 薬を作るための水

 文化・娯楽遺産展示区画の奥にある扉を抜けると、あれほど明るかった室内の雰囲気は急に変わった。

 

 通路の両側には太い透明管が何本も走り、その内部を黒紫色に濁った液体がゆっくりと流れている。天井の照明は半分ほど消え、残った光も一定の間隔で明滅していた。湿った金属と、長く放置された水路に似た匂いが漂っており、先ほどまで剣を抜いたり茸で膠体が膨らんだりしていた場所と、同じ施設内とは思えない。

 

「急に仕事へ戻された感じがしますね」

 

 セラが背後の扉を振り返った。扉が閉じる直前、展示室へ残された選定の剣が、何事もなかったように台座の上で光っているのが見えた。

 

「本来は、最初から患者を治療するために来ています。途中で旧文明の遊びへ巻き込まれただけですよ」

 

「剣を抜いたのは魔女さんですけど」

 

「保守点検です。それから薬師です」

 

 勇者ではないという点も含め、訂正するべきことが多かった。

 

 環境補助子へ経路を表示させると、白い誘導線は通路の先にある大きな扉へ伸びていた。その上には『医薬資源浄化・抽出区画』と表示されている。

 

 大量生産する治療薬には、青い葉脈を持つ植物、月白草と同じ働きをする保護成分、それから薬を異常構造体の周囲へ留める材料が必要になる。植物そのものは培養区画に残されていたが、育成用の水は保全獣の病気によって汚染されていた。

 

 汚れた材料から、患者へ与える薬を作るわけにはいかない。

 

 扉の前へ携行認証子を近づけると、内部から何度か重い音が響いた。左右に開き始めた扉は途中で止まり、人一人が通れる程度の隙間を残して動かなくなる。

 

『開閉駆動部の出力が不足しています』

 

「完全に開かないのですか」

 

『管理員および同行者の通行幅は確保されています』

 

 施設としては、それで十分らしい。

 

 ディンは自分の荷物が扉へ引っかからないよう身体を横へ向け、先に隙間を抜けた。セラも続き、最後に私が通ろうとしたところで、鞄の側面へ固定された隔離容器が扉へ当たった。

 

 少し角度を変えてみたが、今度は反対側の薬草袋が引っかかる。

 

「荷物を一度外しますか?」

 

 向こう側からディンが手を伸ばした。

 

「いいえ。鞄を手放した直後に扉が閉まる可能性もあります」

 

「施設は通行可能だと言っていますよ」

 

「施設は私の鞄の幅まで考えていないようです」

 

 旧文明の基準では、薬師が複数の正体不明な液体と大量の薬草を背負って歩くことを想定していなかったのかもしれない。

 

 最終的には、ディンに隔離容器を持ってもらい、私は鞄を胸の前へ抱えることで隙間を抜けた。鞄を身体の前へ構える姿勢には、あまりよい思い出がない。しかし今回は、迫ってくる膠体も、鞄を食べようとする生き物もいない。

 

 少なくとも、今のところは。

 

 扉の向こうには、巨大な処理施設が広がっていた。

 

 幾つもの円筒形の槽が上下に並び、その間を透明な水路と銀色の足場が繋いでいる。下層には湖のように大きな貯水槽があり、表面を黒紫色の膜が複雑な模様となって覆っていた。

 

 薬工房へ送る水を処理するための場所なのだろう。本来なら澄んだ水が流れていたはずだが、現在の貯水槽は、谷の湿地よりさらに濃く汚染されている。

 

 私は環境補助子を槽へ向けた。

 

『原料用水浄化系 稼働率八パーセント』

 

『第一濾過層 閉塞』

 

『生体分解系 応答なし』

 

『循環水内異常構造片濃度 治療薬生産基準を超過しています』

 

「この水をきれいにしない限り、薬は作れないということですね」

 

『その認識で正確です』

 

「今回は概ねではないのですね」

 

 少し安心した。

 

 私は足場の端まで近づき、長い硝子管を使って貯水槽から液体を採取した。黒い棒を差し込むと、先端へ濃い緑色が浮かび、その上を覆い隠すように黒紫色が広がっていく。

 

 これまで見た中でも、保全獣の循環液に次いで濃い反応だった。

 

「異常構造片が、ここで止められずに培養区画まで流れ込んでいるようですね」

 

「濾過層が詰まってるって表示でしたよね。そこを掃除すればいいんですか?」

 

 ディンの問いに応じるように、施設の中央へ立体的な断面図が浮かんだ。

 

 貯水槽から吸い上げられた水は、三つの濾過層を通り、最後に生体分解槽へ送られる仕組みらしい。そのうち最初の濾過層が黒紫色でほとんど埋まり、後ろの設備へ十分な水が届いていない。

 

『第一濾過層内に、異常構造体の大規模凝集を確認しています』

 

『自動清掃機構は機能停止中です』

 

「手動で取り除く必要がありますか?」

 

『直接接触は推奨されません』

 

「その回答は歓迎します」

 

 正体の分からない黒紫色の塊を、手で掻き出す仕事を任されずに済んだ。

 

 施設は代替方法として、生体分解系の再起動を提案した。本来であれば、先ほど展示室で出会ったものと同じ生体洗浄膠体が、濾過層に付着した有機物や異常構造片を分解するらしい。

 

 しかし、分解槽には現在一体も残っていない。

 

「展示室に一体いましたよね」

 

 セラが背後の扉を見た。

 

「先ほど身体を大きくし、金属板を九十七枚ほど集めていた個体ですね」

 

「あれを連れてくれば使えるんじゃない?」

 

「本来の仕事へ戻すという意味では正しいと思います。ただし、一体だけでこの設備全体を掃除できるでしょうか」

 

『基準処理個体数:八百二十四』

 

 三人で貯水槽を見下ろした。

 

 展示室にいた膠体は、元の大きさなら手のひらへ収まる程度である。八百二十四体必要な仕事を一体へ任せれば、保全獣より先に膠体の方が疲労で動かなくなりそうだった。

 

「増やせないのですか?」

 

『生体分解系には、標準個体から作業個体を培養する機能があります』

 

「なら、展示室の一体を元に増やせるのですね」

 

『遺伝・構造情報が正常であれば可能です』

 

 あの個体は巨大化茸を食べ、金属板を大量に取り込んでいた。現在は元へ戻っているものの、本当に正常と呼んでよいかは少し不安がある。

 

 私たちは展示室へ戻り、小さな膠体を探した。

 

 当人は排液槽の縁を掃除し終え、今度は床へ落ちていた茸の粉を追いかけていた。私は先回りして赤い粉を布で拭き取り、代わりに使い終えた包帯を目の前へ差し出した。

 

 膠体はすぐに包帯へ覆いかぶさる。

 

「完全に餌づけされていますね」

 

 ディンが言った。

 

「施設の治療へ協力してもらうための報酬です。本人も嫌がってはいません」

 

「本人の意思、分かるんですか?」

 

「逃げてはいません」

 

 それを同意と呼んでよいかは不明だったが、少なくとも膠体は包帯と一緒に差し出した透明容器へ自分から入った。

 

 環境補助子で調べると、巨大化茸の成分はすでに身体から消え、金属板も残っていない。黒い棒の反応にはごく薄い黒紫色の筋が見られたが、これは森で採取した個体よりずっと弱かった。

 

 浄化区画へ戻り、膠体を培養槽へ移す。

 

『標準個体の構造情報を解析します』

 

『外来拡張成分:検出なし』

 

『収集評価板:検出なし』

 

「金属板まで確認するのですね」

 

『予備個体生成機能との誤接続を防止するため、必要な検査です』

 

 私は少し黙った。

 

「百枚集めた時に本当に増えるのですか?」

 

『登録者の予備個体を生成します』

 

「膠体が集めた場合は?」

 

『膠体の予備個体を生成します』

 

 先ほど展示室で止めておいて正解だった。百枚目まで集めていれば、巨大化した膠体がもう一体現れていた可能性がある。

 

「世界を救う剣より、金属板の方が実用的に危険ですね」

 

「少し見てみたかったけどね」

 

 セラが言った。

 

「その好奇心は、できればこの施設へ置いて帰ってください」

 

 培養設備が起動すると、透明槽の中へ淡い緑色の液体が満たされた。小さな膠体は一度身体を広げ、液体の中へ溶けるように形を崩す。

 

 数分後、槽の底に二つの小さな膠体が現れた。

 

 それが四つになり、八つになり、分裂のたびに数を増やしていく。増殖速度は非常に速いが、施設が一体ごとの構造を確認しながら作業個体として登録しているため、茸を食べた時のような無秩序さはなかった。

 

 八百二十四体が揃うと、培養槽の底が開き、膠体の群れが透明な水路を通って第一濾過層へ送り込まれた。

 

 黒紫色に染まった濾過槽の中へ、淡い緑の粒が広がっていく。

 

 最初はほとんど変化がなかった。やがて膠体が凝集物の表面へ取りつき、少しずつ黒紫色の塊を削り始める。濾過層を塞いでいた膜に細い亀裂が入り、その隙間から水が流れ始めた。

 

 施設全体へ低い作動音が広がる。

 

『第一濾過層の流量が回復しています』

 

『生体分解系 正常稼働へ移行』

 

 私は処理後の水が流れる管から試料を取り、黒い棒を浸した。

 

 緑色の中に残る黒紫色の筋は、処理前より大幅に薄くなっている。しかし、完全には消えていない。

 

「まだ薬を作るには足りませんね」

 

『第二濾過層および魔力分離槽の再起動が必要です』

 

 施設の表示に、新たな手動操作箇所が二つ示された。一つは上層の足場にある閉鎖弁。もう一つは貯水槽の反対側に設置された、大型の魔力分離装置だった。

 

「ディンさんは閉鎖弁をお願いします。かなり重そうです」

 

「分かりました」

 

「セラさんは上の足場から、停止している水路の状態を確認してください。私は処理水の変化を見ます」

 

「魔女さんは動かないんだ?」

 

「薬の材料になる水ですから、継続して調べる人が必要です。それに、足場を上り下りする役は適性のある方へお願いするべきでしょう」

 

 分業である。

 

 決して階段を見上げた時点で疲れたわけではない。

 

 ディンが大きな弁へ身体を預け、セラが細い足場を上っていく。私は処理水を次々と小皿へ取り、環境補助子の数値と黒い棒の色を比較した。

 

 弁が開き、第二濾過層へ水が通る。

 

 黒紫色の筋がさらに細くなる。

 

 魔力分離装置が再起動すると、処理水の中から異常構造片だけが淡い紫色の光となって引き抜かれ、隔離槽へ集められていく。

 

 最後に採取した水へ棒を浸すと、先端には穏やかな薄青色だけが広がった。

 

 黒紫色の筋は現れない。

 

『原料用水が治療薬生産基準へ到達しました』

 

 施設の声と同時に、止まっていた複数の水路へ透明な水が流れ始めた。培養区画、抽出設備、調合槽へ向かう管が順番に光を取り戻していく。

 

 私は薄青色を示した黒い棒を布で拭い、鞄へ戻した。

 

「薬を作るための水は、これで整いましたね」

 

 培養槽の中では、仕事を終えた膠体たちがゆっくりと形を揺らしている。最初に展示室から連れてきた一体がどれなのかは、すでに見分けがつかなかった。

 

 ただし、施設はすべての作業個体を同じ構造情報から作ったと説明している。

 

 つまり、あの小さな膠体は、展示室の茸を勝手に食べ、金属板を九十七枚集めたあと、最終的には保全獣の治療を支える八百二十四体の基礎になったことになる。

 

「何が役に立つか、分からないものですね」

 

「茸を食べたことも?」

 

 セラが足場から下りながら尋ねた。

 

「そこは必要ありませんでした」

 

 処理済みの水が、薬工房へ向かって流れていく。

 

 次に必要なのは、母液の処方を大量生産設備へ正確に再現させることだった。

 

 水は整った。

 

 材料もある。

 

 残る問題は、五百年前の機械が、現在の薬師の作り方を素直に理解してくれるかどうかである。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。