保全獣の鳴き声が地下区画へ響き渡った直後、壁の中に埋め込まれていた照明が一斉に赤へ変わった。
これまで青緑色に光っていた循環管にも、警告を示す細い赤線が走っている。足元の振動は収まらず、むしろ一定の周期を持って強くなっていた。保全獣の心拍と施設全体の動きが繋がっているのだとすれば、治療薬が流れ込んだことで身体のどこかへ急激な変化が起きているのだろう。
『緊急生体防衛処理を開始します』
『中枢保全個体へ未登録薬物の侵入を確認しました』
『自己修復構造体の保護を優先します』
施設の音声を聞き、私は目の前の循環管を見た。青緑色の治療薬は確かに内部へ流れているが、その先では黒紫色の構造体が寄り集まり、薬を押し戻そうとしている。
「未登録薬物ではありません。先ほど治療用母液として登録したはずです」
『治療用母液の登録を確認しています』
『同時に、中枢保全個体の自己修復構造体へ大規模な損傷を確認しました』
「その自己修復構造体が病気の原因です。損傷しているのではなく、治療薬によって異常な凝集が解かれているのですよ」
『生体防衛規定は、自己修復構造体の保全を最優先します』
「規定の方が病気を正常な状態だと思い込んでいるのですね」
五百年以上ものあいだ、異常構造体は保全獣の体内へ少しずつ広がっていた。施設の診断機能は病気だと認識している一方で、古い防衛設備は現在の状態を基準として記憶し、治療による変化を攻撃と判断しているらしい。
患者の身体を守るための機能が、病気の側を守ろうとしている。
人間の身体でも、似たようなことは起こる。異物を排除するための働きが強くなりすぎ、自分自身を傷つけることがある。ただし今回は、その誤った判断へ巨大な警備機械まで従っている点が、普通の病気より厄介だった。
通信板から、金属が激しくぶつかる音が聞こえた。
『こちらディンです。第一循環路の通路へ、何か出てきました』
環境補助子へ映像を表示させると、ディンの前で大型の機械が起動していた。四本の太い脚で床を踏み、前部には盾のような装甲と、何本もの細い腕がついている。腕の先端からは針や噴霧器が伸び、開通させたばかりの制御弁へ向けられていた。
『循環路への外来物質侵入を確認』
『緊急閉鎖を実行します』
「弁を閉じさせないでください。薬が届かなくなります」
『それは分かりますが、かなり重いです!』
機械はディンを攻撃しようとしているのではなく、制御輪を元の位置へ戻そうとしている。しかし人間がその間に挟まれれば、結果としてどうなるかは変わらない。
続いてセラからも連絡が入った。
『こっちにも二体来たよ。直した管を切り離そうとしてる』
「壊さずに足止めできますか?」
『できる限りは。でも、向こうは私たちを作業の邪魔になる障害物くらいにしか思ってないみたいだね』
「敵として認識されていないのは、よいことなのでしょうか」
『踏み潰される側としては、あまり違いを感じないよ』
もっともだった。
私のいる第三循環路でも、通路の奥から重い足音が近づいていた。現れたのは、培養区画で見た剪定機よりさらに大きく、明らかに頑丈な装甲を持つ機械だった。低い胴体を八本の脚が支え、前部には青白い光を放つ円形の検査器と、太い注入管が備えられている。
環境補助子が、その名称を表示した。
『中枢生体防衛機』
『異常組織の隔離、外来薬物の中和および循環路の閉鎖を担当します』
「本来なら、とても頼もしい設備なのでしょうね」
今は最も止めてほしい相手だった。
防衛機の検査光が私と循環管を照らし、治療薬の流れへ照準を合わせる。
『未登録治療行為の実行者を確認』
『管理員は安全区域へ退避してください』
「その未登録治療行為を行っている管理員本人なのですが」
『管理員の判断能力低下を検出しました』
「何を基準に判断しているのです?」
『中枢保全個体へ損傷を与える行動を継続しています』
「病気を治しているのですよ」
『判断能力低下の継続を確認しました』
話を聞く気がないというより、話を聞いた結果として私の判断力を疑っているらしい。非常に失礼ではあるが、規則に従っているだけの機械と口論しても治療は進まない。
防衛機の注入管から、乳白色の液体が循環路へ噴き出した。
青緑色の治療薬と触れた瞬間、流れが目に見えて弱くなる。薬を分解する中和液らしい。
「止めてください!」
私が前へ出ようとしたところで、入域衛生巡回機が横から割り込み、平たい胴体を盾のようにして私と防衛機の間へ入った。
『管理員への接触危険を検出しました』
『自力退避能力が不足しています。緊急搬送を開始します』
「そこは今、触れなくてよいところです」
抗議する間もなく、巡回機の作業腕が私の腰と鞄を固定し、座席へ引き上げた。次の瞬間には、防衛機の注入管から飛んできた液体が、先ほど私の立っていた床へ降り注ぐ。
床の表面に広がった青緑色の薬の痕跡が、乳白色の液体に触れて消えていった。
結果として、巡回機の判断は正しかった。
「今回は助かりました。ただし、運ぶ前の説明をもう少し早くお願いします」
『緊急時は説明より安全確保を優先します』
「その規則は正しいと思います」
私は座席へ固定されたまま、床に残った中和液を採取した。巡回機が防衛機から距離を取り続けているため、硝子管を伸ばす姿勢としてはかなり不安定だったが、何とか小皿へ数滴移す。
黒い棒の先端を触れさせる。
最初に乳白色の光が浮かび、その内側へ細い黒紫色の筋が現れた。
私は棒を光へかざし、もう一度確認した。
「この中和液にも、異常構造片が含まれています」
『中枢生体防衛液は、自己修復構造体を安定化させるために使用されます』
「安定化ではありません。異常な構造を固め直しています。防衛設備が病気を治しているのではなく、病気を補強しているのですよ」
防衛機は治療薬を毒と判断し、黒紫色の異常構造体を正常な自己修復機能として保護している。そのために使われている中和液自体が、異常構造片を含んでいた。
患者を守るはずの薬が、病気へ栄養を与えているような状態である。
「施設へ照会します。健康な自己修復構造体の基準試料は残っていますか?」
『標準構造記録は存在します』
「現在の防衛設備は、その記録ではなく、保全獣の今の状態を基準にしているのですね?」
『長期通信断絶後、生体防衛系は直近の安定状態を暫定正常値として登録しました』
直近の安定状態。
五百年かけて進行した病気が、ゆっくりだったために正常として覚えられてしまった。
「標準構造記録へ基準を戻してください」
『生体防衛基準の更新には、中枢保全個体の承認が必要です』
「患者本人の承認ですか」
『肯定します』
私は環境補助子を使い、湖畔に残っているハルトへ通信を繋いだ。言葉が通じるわけではないが、彼は保全獣を鎮静させ、施設との間で何らかの信号をやり取りできる。
「ハルト。こちらの声が分かるかは知りませんが、あの子へ伝えてください。今流している薬は、身体を傷つけるものではありません。治療を続けるには、防衛設備へ止まってもらう必要があります」
ハルトの姿が小さな映像として浮かんだ。彼は保全獣の頭部近くへ立ち、私の声へ反応するように角を持ち上げる。
青白い光が角から湖面へ流れた。
保全獣の琥珀色の目が、ゆっくりと開く。
巨大な視線がハルトから遠く離れた施設の方へ向けられ、ドーム全体へ低い振動が広がった。一度の心拍に似た波が、水路と金属管を通って地下まで届く。
『中枢保全個体から意思信号を受信しました』
『現行生体防衛基準の解除を承認』
『標準自己修復構造記録を復元します』
防衛機の青白い光が、一瞬だけ消えた。
すぐに再点灯した検査光は、今度は循環管の黒紫色の塊へ向けられる。
『異常自己修復構造体を確認』
『生体防衛対象を再設定します』
目の前の防衛機は、治療薬を中和しようとしていた注入管を止めた。代わりに内部へ残っていた乳白色の液体を排出し、黒紫色の凝集部分へ新しい青い光を照射する。
通信板から、ディンの声が聞こえた。
『機械が制御輪から離れました。今度は管の黒い部分を取り除いています』
セラのいる第二循環路でも、警備機が修復した管を切断するのをやめ、周囲へ付着していた異常構造体を回収し始めたらしい。
私はようやく息を吐いた。
「敵ではなかったのですね」
『中枢生体防衛機は、中枢保全個体を保護するための設備です』
「守る対象を間違えていただけです。人間にも時々ありますね」
正しい目的を持っていても、間違ったものを正常だと思い込めば、努力するほど状況を悪化させることがある。
巡回機へ降ろしてもらい、私は中和液が混ざった循環路の状態を調べた。黒い棒にはまだ乳白色の斑点が残っているものの、治療薬の緑色は完全には消えていない。
「薬を少し追加すれば、元の濃度へ戻せます」
『追加治療薬を循環路へ供給します』
調合槽から新しい薬が送られ、薄くなっていた青緑色が再び管を満たしていく。防衛機も、今度は薬の流れを妨げず、異常構造体の排出を補助している。
棒の先端から乳白色の斑点が消え、緑の中に残っていた黒紫色の筋も少しずつ薄くなった。
『全身治療薬濃度が基準値へ復帰しました』
『異常凝集率の低下を確認しています』
保全獣の全身図では、黒紫色に覆われていた領域の端から、ゆっくりと青緑色が広がり始めている。
治療は、再び進み始めた。
ただし、全身へ薬が届いたからといって、病気がすぐに消えるわけではない。山ほど大きな患者の身体には、黒紫色の異常構造体が五百年分も蓄積している。
環境補助子へ表示された治療進行率は、まだ一二パーセントだった。
「先は長そうですね」
私が呟くと、巡回機が隣で座席を展開した。
『管理員の疲労値が上昇しています。治療監視地点まで搬送します』
「今度は患者の経過を早く確認するために乗ります」
誰も近くにいなかったが、一応説明してから腰を下ろした。
通信板の向こうで、セラが笑う声が聞こえた。
離れた場所でも、余計な部分だけはよく伝わる設備らしかった。