入域衛生巡回機に運ばれて地下区画を出ると、私は湖を見渡せる中央監視台へ連れていかれた。
診断室の上部へ張り出すように作られた広い足場で、保全獣の頭部から背中、湖へ沈んだ身体の半分近くまでを一望できる。先に循環路の作業を終えたディンとセラも、別の通路から戻ってきていた。
ディンは固着した制御輪を動かしたためか両腕を何度か曲げ伸ばししており、セラの外套には、破損した管路へ入り込んでいた蔓を切った際についたらしい細かな傷が増えている。大きな怪我はないようだったが、私は二人へ近づき、念のため状態を確認した。
「腕は痛みますか?」
「多少は。でも動かせます」
「では、あとで薬を塗りましょう。無理をした直後は平気でも、翌朝になって腕が上がらなくなることがありますから」
私が言うと、ディンは少し笑った。
「魔女さんが井戸の梯子を登った時みたいに?」
「薬師です。それから、患者の過去を診察中に持ち出すものではありません」
「昨日まで自分で何度も話していた気がするけどね」
セラの指摘には答えず、彼女の外套へついた傷も確かめた。布が裂けただけで皮膚までは届いていない。二人とも治療を急ぐほどの状態ではなかったため、私は湖へ視線を戻した。
保全獣の身体には、治療前とは明らかな違いが現れていた。
首から胴体へ走る銀色の構造の一部が、黒紫色ではなく淡い青緑色へ光っている。呼吸のたびにその光がゆっくり移動し、湖へ沈んだ四肢の方まで広がっていた。甲羅の上に生えた森でも、俯いていた草木の一部が葉を起こし、乾いて丸まっていた枝が少しずつ形を戻している。
治療薬が効いている。
少なくとも、目で見える範囲ではそう思えた。
『全身治療進行率 二一パーセント』
『異常凝集領域の縮小を確認しています』
『中枢保全個体の呼吸循環率が上昇しました』
施設の表示も回復を示している。保全獣が息を吐くたびに湖面を流れる霧は、最初に見た時より白く薄くなっていた。
ハルトは依然として頭部の近くに立ち、角へ青白い光を宿しながら低い声を響かせている。その音へ応じるように、半ば閉じていた保全獣の琥珀色の目がわずかに動いた。
長い苦痛の中で、治療が始まったことを理解しているのかもしれない。
「このまま待てば、治るのでしょうか」
ディンが全身図を見ながら尋ねた。
「そうであれば助かるのですが、山ほど大きな患者を小瓶の試験結果だけで安心することはできません。薬が届いている場所と、実際に効いている場所が同じとは限りませんから」
施設が示す治療薬濃度は、全身の主要経路で基準値へ達している。しかし、保全獣の背中から左側の胴体にかけては、黒紫色の表示がほとんど薄くなっていなかった。
全身へ薬は流れている。
それでも、一部だけ治療が進んでいない。
「部位ごとの循環液を調べられますか?」
『主要還流経路からの試料採取が可能です』
監視台の壁から四つの小さな採取口が現れ、それぞれへ透明な容器が接続された。保全獣の頭部、右半身、左半身、背部植物群を通って戻ってきた循環液らしい。
見た目はどれも同じ淡い緑色で、環境補助子による解析でも、治療薬の濃度は許容範囲内と表示された。
「問題はないように見えるね」
セラが四つの容器を見比べる。
「数値の上では、ですね」
私は鞄から黒い棒を取り出した。正式名称が携行液相魔力構造比較指示器であることは判明したが、口にするたびに治療が遅れそうなので、今後も棒と呼ぶことにしている。
最初に頭部から戻った液体へ浸すと、先端には穏やかで均一な緑色が広がった。右半身からの液体にも、わずかな黒紫色の斑点が残っているものの、治療前と比べれば大きく減っている。
三つ目の左半身から戻った液体では、緑色の中央へ細い黒紫色の輪が現れた。
そして背部植物群からの液体へ浸した時には、その輪が二重になり、内側へ乳白色の濁りまで浮かんだ。
「同じ薬の量が入っていても、戻ってきた時の状態が違います」
『四試料の治療薬成分濃度は、すべて基準範囲内です』
「成分が残っていることと、薬として同じ働きを保っていることは別ですよ。煮すぎて効かなくなった薬も、材料だけ調べれば同じものが入っています」
『薬効構造の比較解析を実行します』
施設の光が四つの容器を順番に走査した。少しの間を置き、表示内容が更新される。
『左側還流液および背部植物群還流液に、治療成分の構造変性を確認しました』
『異常自己修復構造体による再結合反応を検出』
「つまり、薬は届いていますが、異常構造体へ触れたあとで働きを変えられているのですね」
『その認識で正確です』
施設から、初めて「概ね」のつかない返答を受け取った。しかし、喜んでいる場合ではない。
黒紫色の異常構造体は、ただ治療薬へ耐えているのではなかった。薬の一部を取り込み、正常な自己修復構造へ似せて組み直している。施設の成分検査では元の材料が残っているため、薬が正常に循環しているように見えていたのだろう。
「棒の方が、施設より先に気づきましたね」
ディンが感心したように言った。
「勝ち負けではありません。施設は量を測り、この棒は状態を比べています。両方使ったから分かったのですよ」
「少し嬉しそうですけど」
「使い道が判明してきた道具へ愛着を持つのは、自然なことです」
私は棒を丁寧に拭い、布へ包み直した。以前は水へ入れるたびに色だけ変わり、何を伝えたいのか分からない道具だった。それが今では、旧文明の巨大な診断設備でも見落とした違いを示している。
道具の方が変わったわけではない。
こちらがようやく、色の意味を読めるようになってきたのだ。
施設が変性反応の発生場所を追跡すると、保全獣の背中へ広がる甲羅の左側に、黒紫色の大きな領域が浮かび上がった。背部植物群の根と、生体循環路が重なる場所である。
『左背部環境循環器官に、高密度異常構造膜を確認しました』
『治療薬の浸透率 一四パーセント』
『全身投与のみでの改善可能性は低いと予測されます』
湖の向こうにある保全獣の背中を見る。
森のように植物が茂る甲羅のうち、右側では青緑色の光が枝や根へ広がり始めている。ところが左側の一角だけは黒く沈み、樹木も枯れたまま動いていない。
薬はそこまで届いている。
しかし、厚い異常構造膜に阻まれ、表面を流れて戻ってきているだけだった。
「局所的に薬を入れる必要がありますね」
『左背部環境循環器官への直接投与を推奨します』
「投与場所は、どこです?」
施設の地図へ、小さな光点が現れた。
場所は保全獣の甲羅の上だった。
湖面から見上げてもかなり高く、背中に生えた森のさらに奥にある。施設の昇降設備を使えるのかと思ったが、そこへ続く経路は赤く表示されていた。
『背部診療昇降塔は構造損傷により利用できません』
『代替経路として、外部誘導個体用接続路を提示します』
表示された白い線は、湖畔から保全獣の前脚へ渡り、甲羅の斜面を通って背中へ続いている。
人間のための道には見えなかった。
「これを登るのですか?」
『管理員による局所投与が必要です』
「入域衛生巡回機は同行できます?」
『外部誘導個体用接続路の傾斜および構造強度は、当機の通行基準を満たしません』
隣にいた巡回機の青い光が、申し訳なさそうでもなく淡々と点滅した。
ここまで私を何度も運んでくれた設備は、肝心な時に同行できないらしい。
「私が行くよ」
セラが地図へ近づいた。
「薬の投与量や、棒の色を見て判断する必要があります。私も行かなければなりません」
「背中まで登れる?」
「その質問には、登ってから答えることにします」
「無理なら途中で戻ってくださいよ」
ディンが真面目な顔で言う。
「そのつもりです。ただし、戻った場合には代わりの方法を考えてください」
「最初から考えておいた方がよくないですか?」
「登る前に失敗した時のことばかり考えると、足がさらに重くなります」
私は局所投与用の薬を用意するよう施設へ指示した。全身投与に使ったものより少しだけ異常構造体への作用を強め、正常な組織を守る成分も増やす。
大量には必要ない。
それでも、普段使う薬瓶よりかなり大きな容器が用意された。
「これを持って登るのですか」
『局所治療に必要な最小量です』
最小という言葉へ、旧文明と私の間には今も大きな認識の差があるらしい。
ディンが容器を持ち上げ、重さを確かめた。
「背負えるように固定します。途中までは私も運びますよ」
「助かります。患者を治療する前に、薬を持った薬師が斜面を転がり落ちる事態は避けたいので」
施設は局所投与の準備を始め、湖畔へ続く扉を開いた。
その向こうでは、治療薬が効き始めた保全獣が、以前より少し深く呼吸している。甲羅の右側では新しい葉が開き、乾いていた白い花の一部も、ゆっくりと顔を上げていた。
治療は確かに進んでいる。
しかし左側の背中だけは、夜の一部を取り残したように黒く沈んでいる。
全身へ薬を流しただけでは、全身を治したことにはならないらしい。
私は黒い棒と局所投与薬を持ち、山と呼んでも差し支えない患者の背中へ登る準備を始めた。