魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三十一節 患者の背中へ

 保全獣の背中へ向かう経路は、湖畔から伸びた巨大な前脚の上にあった。

 

 施設が「外部誘導個体用接続路」と呼んでいたものの、人間のために整備された通路ではない。水面から半分ほど持ち上がった前脚の表面へ、銀色の板や太い植物の根が段差のように並び、それらが甲羅の上まで続いている。ハルトのような大型生物であれば難なく歩けるのだろうが、私から見れば、患者の身体へ作られた非常に急な山道だった。

 

 局所投与用の薬は、ディンが背負えるよう施設に固定具を取りつけてもらった。最小量と説明されていたにもかかわらず、容器は大きな水樽ほどもあり、薄い青緑色の液体が内部で揺れている。セラは工具と予備の縄を持ち、私は黒い棒と環境補助子、それから現場で濃度を調整するための小さな薬箱を担当した。

 

 見た目だけなら、私の荷物が一番軽い。

 

 もっとも、治療の成否を判断する道具が入っているので、重要性まで軽いわけではない。そこを説明しなくても、今では二人とも理解していると思いたかった。

 

『管理員へ落下防止具の装着を推奨します』

 

 施設の案内に従うと、壁から伸びた作業腕が私の腰へ帯を巻き、背中側へ細い縄を固定した。縄の反対側はディンの装具へ繋がれている。

 

「私だけですか?」

 

『管理員の歩行安定性、持久力および斜面移動経験を総合して判断しました』

 

「詳しい説明を求めた覚えはありません」

 

 セラにも同じ器具をつけるよう頼もうとしたが、施設は必要性が低いと判断した。ディンについては、むしろ転倒した私を支える側として登録されているらしい。

 

「引っ張られた時には、先に声をかけてくださいね」

 

 ディンが帯の固定を確かめながら言った。

 

「私も、できれば転ぶ前にお知らせしたいと思っています。ただし、転倒というものは本人の予定へ入っていない場合が多いので、確約はできません」

 

「そこは予定に入れなくていいです」

 

 準備を終えると、湖畔に残っていたハルトが私たちの前へ回った。保全獣を鎮める役目を続けていたが、局所治療に必要な経路を案内するため、一時的にこちらへ来てくれたらしい。ハルトが角を前脚へ近づけると、皮膚と金属の間を走る青い線が明るくなり、登るべき場所が階段のように浮かび上がった。

 

 私は最初の段差へ足をかけた。

 

 足元は金属のように硬い部分と、樹皮や皮膚に近い弾力を持つ部分が混ざっている。保全獣が呼吸するたびに前脚全体がわずかに上下し、静止しているはずの道が、ごくゆっくりと動いていた。

 

「患者の身体の上を歩く経験は、これまでありませんね」

 

「普通はないと思います」

 

 ディンが後ろから答えた。

 

「小さな動物を診た時に、身体へ手を置いたことはあります。しかし今回は、手を置く代わりに全員で登っているわけですから、患者との距離感が少し違いすぎます」

 

 斜面が急になるにつれ、私は両手も使って根を掴む必要が出てきた。ハルトとセラは先を進み、ディンは薬の容器を背負っているにもかかわらず、私の速度へ合わせてすぐ後ろを歩いている。

 

 途中で保全獣が深く息を吸うと、足元が大きく持ち上がった。私は根を握ったまま動きを止め、地面が再び下がるのを待った。

 

「今のは休憩ではありませんよ。患者の呼吸に合わせて、安全を確認しているだけです」

 

「誰も休憩だとは言ってません」

 

「後から誤解されないための説明です」

 

 足元の上下が収まってから、私は何事もなかったように登り始めた。ディンが腰の縄を少し短くしたことには気づいたが、必要な処置だと思うことにした。

 

 前脚から甲羅の縁へ移ると、景色が大きく開けた。眼下には巨大な湖と、そこから遠くまで広がる保存区画の森が見える。私たちが入ってきた入口は、対岸の壁へ開いた小さな黒い穴にしか見えず、そこからここまで歩いてきた距離を考えると、自分が一つの建物ではなく一つの世界の中にいることを改めて実感した。

 

 甲羅の上にも、本物の森が育っていた。

 

 幹の太い樹木が保全獣の身体から直接伸び、根は土ではなく甲羅の隙間へ入り込んでいる。葉の間には小さな鳥や虫が見え、足元には苔や茸まで生えていた。健康な右側では植物の葉脈へ青緑色の光が走り、治療薬が届いていることを示している。

 

 しかし左側へ進むほど、景色は急速に暗くなった。

 

 葉は黒く縮れ、樹皮には紫色の結晶が食い込み、地面を覆う苔も灰色へ変わっている。空気には濡れた金属と腐敗した樹液を混ぜたような匂いがあり、環境補助子は絶えず異常構造片への警告を表示していた。

 

「病気が植物にまで広がっているのですね」

 

 私は枯れた低木の根元へ溜まっていた液体を採取し、黒い棒を浸した。先端へ濃い緑色が現れるより先に、黒紫色の網目が全体を覆い、その外側へ乳白色の斑点まで浮かぶ。

 

 監視台で調べた背部還流液と同じ反応だったが、こちらの方がさらに濃い。

 

「この場所では、治療薬が異常構造体へ触れた直後に組み替えられています。全身から流れてきた薬を増やすだけでは、表面で働きを失ってしまうでしょう」

 

『局所投与地点まで、残り百三十二メートルです』

 

 環境補助子が案内を表示した。

 

 私はその数字と、さらに上へ続く黒い斜面を見比べた。

 

「旧文明の百三十二メートルが、現在の百三十二メートルと同じであることを願います」

 

「違っていたら?」

 

 セラに尋ねられ、私は一度だけ深く息を吸った。

 

「着いた時に分かります。それまでは、同じということにしておきましょう」

 

 斜面の途中には、植物の根と金属管が絡み合った狭い場所があった。ハルトは身体を低くして通り抜けたが、薬の容器を背負ったディンには幅が足りない。セラが枯れた蔓だけを切り、私は黒い棒で切断面から流れる液体を一つずつ調べた。

 

 棒が黒紫色を示す蔓は、すでに異常構造膜の一部となっている。反対に、まだ緑色を残している根は、見た目が枯れていても保全獣の循環へ繋がっていた。

 

「こちらは切らないでください。見た目だけでは死んでいるように見えますが、正常な流れが残っています」

 

「この棒がなかったら、全部同じ枯れた根に見えるね」

 

 セラは私が示した根を避け、黒紫色の反応だけを切り離していった。ディンが太い膜を脇へ押さえ、その隙間を薬の容器が通れるよう広げる。

 

 森を抜けると、甲羅の左側へ大きく窪んだ場所が現れた。中央には銀色の環状構造が埋め込まれているが、その大半を黒紫色の膜と植物の根が覆い隠している。

 

『左背部環境循環器官 局所投与口へ到着しました』

 

「入口というより、完全に埋まっていますね」

 

『異常構造膜の除去が必要です』

 

 私は投与口の周囲から少量ずつ液体を採り、黒い棒の色を確かめながら、正常な組織と異常膜の境界へ印をつけていった。外見だけならすべて黒く固まっているが、棒の反応を比べると、深い部分にはまだ細い緑色の流れが残っている。

 

 切ってよい場所を私が示し、セラが刃を入れる。ディンは剥がれた膜を持ち上げ、正常な組織へ重さがかからないよう支えた。

 

 黒紫色の膜は金属のように硬い場所もあれば、濡れた皮のように伸びる場所もある。切断されるたび、内部から重い液体が滲み出し、棒の先端へ濃い紫色の筋を作った。

 

 作業を進めるうちに、銀色の投与口が少しずつ姿を現した。

 

 最後の膜を剥がした瞬間、保全獣の身体が大きく震えた。甲羅の上にある森全体が揺れ、枯れた枝が何本も落ちてくる。私は足元を滑らせたが、腰の縄が張り、後ろのディンに引き止められた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「落下防止具については、非常に正しい判断だったと施設へ伝えておいてください」

 

 私は地面へ膝をついたまま答え、呼吸が落ち着いてから立ち上がった。最初に装着対象が自分だけだったことへの不満は、ひとまず取り下げることにする。

 

 銀色の投与口へ認証子を近づけると、複数の接続具が展開された。ディンが背負ってきた薬の容器を下ろし、太い管を投与口へ固定する。

 

『局所治療薬を接続しました』

 

『初期投与量を指定してください』

 

「全量を一度に入れず、まず十分の一だけお願いします」

 

『推奨投与量を下回ります』

 

「この場所では薬が変性しやすくなっています。身体の反応を確認してから増やします」

 

『薬師による工程修正として記録します』

 

 施設が素直に従い、局所治療薬がゆっくりと流れ始めた。

 

 投与口の周囲へ青緑色の光が広がり、黒紫色の膜が細かく震える。最初の数秒は順調に見えたが、棒を近くの排出液へ浸すと、緑色の中へ乳白色の斑点が急速に増え始めた。

 

「止めてください。正常な植物組織へ負担がかかっています」

 

『局所組織の防御反応を確認しました』

 

「薬が強すぎるというより、この部位では保護成分が先に消費されているのでしょう。全身用と同じ比率では足りません」

 

 私は薬箱を開き、月白草と同じ働きをする保護成分の濃縮液を取り出した。持参した量は多くないが、局所投与薬を調整するには十分である。

 

 治療薬へ少しずつ混ぜ、別の小皿で棒の反応を確かめる。乳白色の斑点が消え、穏やかな緑色へ戻ったところで再び投与を始めた。

 

 今度は、投与口を覆っていた黒紫色の線だけがゆっくり薄くなり、正常な緑色は弱まらなかった。

 

『局所異常凝集率の低下を確認しました』

 

『正常組織の活動率は維持されています』

 

 私は投与量を十分の一から五分の一へ増やし、周囲の複数箇所で棒の反応を確認した。右側では薬が届いているが、左側の根から流れる液体には黒紫色が残っている。

 

「流れが片側へ偏っています。この下に、もう一つ閉じた経路があるはずです」

 

 環境補助子と施設の図を重ねると、黒紫色の膜の下へ小さな手動弁が隠れていることが分かった。ディンが根を持ち上げ、セラが狭い隙間へ手を入れて弁を開く。

 

 低い音とともに、止まっていた流れが再開した。

 

 左側の根へも青緑色の光が走り、棒に残っていた黒紫色の筋が少しずつ細くなっていく。

 

 保全獣が深く息を吐いた。

 

 甲羅の上を暖かな風が流れ、黒く縮れていた植物の葉が一枚ずつ開き始める。紫色の結晶は表面から細かな粒となって崩れ、銀色の水路へ吸い込まれていった。

 

 枯れているように見えた一本の大木にも、根元から青緑色の光が昇る。枝先へ達した時、小さな白い蕾が開き、半透明の花弁が風の中へ姿を現した。

 

『左背部環境循環器官への治療薬浸透率が、七九パーセントへ上昇しました』

 

『全身治療進行率 四八パーセント』

 

 まだ半分にも少し足りない。

 

 それでも、薬が届かなかった場所へ確かに流れ始めている。

 

 私は投与口から戻ってきた循環液へ黒い棒を浸した。先端には淡い緑色が広がり、黒紫色は細い斑点として残るだけになっていた。乳白色の濁りもない。

 

「この場所は、これで全身投与へ合流できます。残りの薬を、施設の指示に合わせてゆっくり流してください」

 

『局所投与工程を継続します』

 

 私が告げると、施設が薬量を一定へ保ち、保全獣の身体へ送り始めた。

 

 ハルトは少し離れた高い場所へ立ち、角を青白く光らせながら、回復し始めた森を見つめていた。自分が案内してきた私たちの仕事が、どの程度理解できているのかは分からない。それでも、こちらへ向けた琥珀色の目は、昨夜より穏やかに見えた。

 

 私はようやくその場へ腰を下ろし、治療の進行を見守ることにした。休憩ではなく、患者の経過観察である。

 

 今回は誰に説明するまでもなく、ディンが水筒を差し出してくれた。

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