局所投与を始めてからしばらくの間、保全獣の背中では目に見える変化が続いた。
投与口から送り込まれた青緑色の薬は、再開した水路を通って周囲の植物群へ広がり、黒く縮れていた葉を一枚ずつ開かせていく。幹へ食い込んでいた紫色の結晶も、表面から細かな粒へ崩れ、甲羅の溝を流れる循環液へ吸い込まれていった。
ただし、植物が元気になったように見えるからといって、すぐに治療が成功したと判断するわけにはいかない。薬によって一時的に活動が強まっているだけなら、効果が切れたあとで再び悪化する可能性もある。
私は水筒を返し、腰を下ろしたまま黒い棒を投与口から戻ってくる液体へ浸した。
先端には穏やかな緑色が広がり、その中に黒紫色の斑点がわずかに残っている。先ほどまで見えていた乳白色の濁りは消え、正常な組織へ過剰な負担がかかっている様子もなかった。
「今のところは順調ですね。ただし、薬が効き始めたからこそ、入れすぎには注意する必要があります」
私がそう言うと、セラは少し意外そうに投与用の容器を見た。
「まだ病気が残っているのに、薬を減らすの?」
「患者の状態が変われば、同じ量でも作用の強さが変わります。弱っていた時には必要だった量が、循環が戻ったあとでは多すぎることもありますよ」
薬は、一度決めた量を最後まで機械的に与え続ければよいものではない。熱が下がり始めた患者へ、最も苦しかった時と同じ強さの薬を使い続ければ、今度は薬の方が身体を傷めることもある。
問題は、施設の治療計画がそこまで柔軟に作られているかどうかだった。
「局所投与量を、現在の八割へ下げてください」
『治療進行率が目標値へ達していません』
「進行率だけではなく、正常組織の活動も見てください。現在の薬量を続ければ、回復した植物群へ過剰な自己修復反応が出る可能性があります」
『標準治療手順では、異常凝集率が一〇パーセント未満となるまで現行量を維持します』
「その標準治療手順は、失われた白環苔を使った薬を前提にしています。今使っているのは、五百年後の植物で作った代替薬です。似た働きはしても、同じ薬ではありません」
施設はしばらく沈黙した。
以前であれば、登録された規定を優先し、そのまま投与を続けていたかもしれない。しかし、母液を作った際の試験結果と、これまでの工程修正はすべて記録されている。
『薬師による投与量補正を受理します』
「ありがとうございます。呼び方も正しくなりましたね」
「そこも確認するんだ」
セラが笑ったが、私は聞こえなかったことにした。
投与量が下がると、甲羅の上を流れていた青緑色の光はわずかに穏やかになった。それでも黒紫色の斑点は消え続け、正常な植物組織の緑色は安定している。
『左背部環境循環器官への治療薬浸透率 九一パーセント』
『全身治療進行率 五七パーセント』
半分を越えた。
治療前には黒い夜のように沈んでいた背中の森にも、少しずつ色が戻り始めている。白い花は一つだけでなく、離れた枝でも蕾を開き、暖かな風へ半透明の花弁を揺らしていた。
その時、足元から低い震動が伝わってきた。
最初は保全獣が呼吸をしただけだと思った。しかし、震動は一度で終わらず、甲羅の奥からゆっくりと持ち上がるような動きへ変わっていく。
「何か起きています」
ディンが薬の容器を支えながら周囲を見回した。
『中枢保全個体の自発運動を確認しました』
『頭部および前肢の活動率が上昇しています』
保全獣が目を覚まそうとしている。
そう理解した直後、甲羅全体が大きく傾いた。
植物の根や金属の段差へ掴まっていたにもかかわらず、私は横へ身体を持っていかれた。腰の縄が張り、ディンが後ろから支えてくれたため転倒は免れたが、足元の森では小動物や鳥が驚いて一斉に動き始めている。
「患者が起きる時には、先に知らせてほしいですね」
「本人も今知ったんじゃないですか?」
ディンの意見はもっともだった。
湖の方角から、これまでで最も深い呼吸音が響いた。
保全獣の巨大な頭部が水面から少し持ち上がり、湖全体へ大きな波が広がっていく。半ば閉じていた二つの琥珀色の目が、今度はゆっくりと完全に開いた。
ドームの入口から街を見ていた二つの光。
遠くから見た時には不気味にしか思えなかったものが、今は長い病から目を覚まそうとする患者の目だと分かる。
ハルトは甲羅の高い場所へ立ち、角を青白く輝かせながら、保全獣へ向かって低い声を響かせた。その声へ応じるように、保全獣の喉から大気を震わせるほど大きな音が返ってくる。
怒りや苦痛による咆哮ではない。
長い眠りから覚め、周囲にいるものを確かめようとする声に聞こえた。
保全獣が頭を動かすと、その視線がハルトから甲羅の上にいる私たちへ移った。家より大きな瞳に見つめられるという経験は、これまでの人生になかった。
「こちらを見ていますね」
セラは興奮を隠しきれない様子だったが、さすがに手を振るほどの余裕はないらしい。
「私たちが身体の上にいますからね。患者の立場からすれば、知らない人間が薬を流し込みながら背中へ登っている状態です」
「そう言うと、かなり怪しいね」
「だからこそ、先に説明したかったのですが」
言葉が通じるとは思えなかった。それでも、何も言わないよりはよいだろう。
私は保全獣の目へ向き直り、できるだけ大きな声で呼びかけた。
「身体の中へ流しているものは、あなたを傷つけるためのものではありません。異常な構造を取り除く薬です。少し苦しいかもしれませんが、もうしばらく動かずにいてください」
自分の身体が山ほど大きくなった場合、人間の声がどの程度聞こえるのかは分からない。そもそも言葉を理解している保証もなかった。
しかし、保全獣はしばらく私たちを見つめたあと、ゆっくりと頭部を湖へ戻した。
『中枢保全個体から治療継続意思を受信しました』
「通じたのですか?」
『音声内容の理解は確認できません。管理員の生体反応、外部誘導個体の信号および治療効果を総合し、継続を承認しました』
「言葉ではなく、雰囲気で判断されたようですね」
「魔女さん、怖がってるのも伝わったんじゃない?」
「慎重だったと言ってください」
セラは明らかに楽しんでいる。
保全獣が再び身体を休めると、甲羅の傾きも少しずつ元へ戻った。治療薬の流れは途切れず、黒紫色に染まっていた領域へ青緑色がさらに広がっていく。
ところが、その変化は保全獣の身体だけに留まらなかった。
頭上の人工空へ浮かんでいた灰色の雲が薄くなり、隙間から柔らかな光が差し込んだ。湖の周囲では止まっていた水路へ水が流れ始め、遠くの森からは、ドームへ入って以来ほとんど聞かなかった大量の鳥の声が一斉に響いた。
保全獣の回復が、東部保全区画全体へ伝わっている。
『中枢環境循環率 三八パーセント』
『大気および水域浄化機能の一部復旧を確認しました』
『外縁部への異常構造片排出量が減少しています』
谷や森で見た黒紫色の汚染も、このまま治療が進めば少しずつ減っていくだろう。洗浄膠体や観測設備が処理しきれずにいた異常物質の源が、ようやく弱まり始めている。
私は投与口へ戻る液体を、もう一度採取した。
黒い棒を浸すと、先端には淡い緑色が広がった。黒紫色は、注意して見なければ分からないほどの小さな斑点へ変わっている。
治療前には緑色をほとんど覆い尽くしていたものが、今ではわずかに残るだけになった。
「この部位については、薬を止めてもよさそうです」
『局所異常凝集率 七・八パーセント』
『標準治療終了基準を満たしています』
「今回は施設の基準とも一致しましたね」
局所投与が停止され、容器に残っていた薬は全身循環槽へ戻された。
ディンが空になった容器を背負い直し、セラは切り開いた経路へ異常が戻っていないかを確認する。ハルトも、治療を終えた投与口へ鼻先を近づけ、青緑色の光が安定していることを確かめているようだった。
私たちが甲羅から下りる準備を始めた時、環境補助子へ新しい通知が浮かんだ。
『全身治療進行率 六三パーセント』
『生命維持状態:重度低下から中度低下へ改善しました』
『中枢保全個体が、暫定管理員との直接接触を要求しています』
私は表示と、湖のほとりへ横たわる巨大な頭部を交互に見た。
「直接接触というのは、どの程度直接なのでしょう」
『頭部診療区画へ移動してください』
施設が示した経路は、保全獣の首元から頭部近くへ続いている。
患者は回復し始めた。
治療はまだ終わっていない。
それでも、今度は設備ではなく、患者自身が私を呼んでいるらしい。
「行きますか?」
ディンの問いに、私は黒い棒を布へ包みながら頷いた。
「診察した患者から話があるのであれば、薬師として無視するわけにはいきません」
「話せるんですか?」
「それを今から確かめます」
山ほど大きな患者との意思疎通が、普通の診察と同じように進むとは思えない。
ただし、今日ここまでに経験したことを考えれば、少しくらい普通でないことが増えても、驚く余地はあまり残っていなかった。