魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三十三節 患者の声

 保全獣の頭部診療区画へ向かうため、私たちは治療を終えた左背部から甲羅の縁へ戻った。

 

 登る時には山道にしか見えなかった斜面も、下りであれば多少は楽になると思っていたのだが、患者が呼吸するたび足場そのものが動くという条件は変わらない。上りでは疲労が問題となり、下りでは転落が問題になる。方向が変わっただけで、安全になったわけではなかった。

 

 施設から装着された落下防止具は、そのままにしておくことにした。最初は自分だけ必要と判断されたことへ少し不満があったものの、すでに二度ほど役に立っている。実績を積んだ道具へ意地を張るほど、私は自分の身体能力を信用していなかった。

 

「帰りは少し速いですね」

 

 後ろで縄を管理しているディンが言った。

 

「下り坂では、本人の意思と関係なく速度が上がる場合があります。速く歩けるようになったわけではありませんから、成長として記録しないでください」

 

「転がってはいませんよ」

 

「それはディンさんが縄を持っているからです」

 

 患者の背中から下りる途中で、保全獣が深く息を吐いた。甲羅の森を抜けた温かな風が斜面を吹き下ろし、私の外套と髪をまとめて前方へ押し流す。足元を確かめるために立ち止まると、セラは少し先でこちらを待ちながら、笑いを隠そうともせずに言った。

 

「風を使えば、もっと早く下りられそうだね」

 

「空を飛べる設定は、街の人々が勝手に私へ加えたものです。実際に試す予定はありません」

 

 ハルトは私たちより先に甲羅の縁へ着き、長い角を首元へ続く道へ向けていた。青白い光が患者の身体へ流れ込むと、植物の根と銀色の構造物の間に細い通路が浮かび上がる。外部誘導個体が利用するための接続路らしく、今度は上りではなく、保全獣の首に沿って湖面近くまで緩やかに下っていた。

 

 環境補助子が示す頭部診療区画は、その先にある。

 

 全身治療の進行率は六十三パーセントで、先ほどよりわずかに上昇していた。左背部へ薬が届いたことで、ほかの循環経路にも余裕が生まれたのだろう。保全獣の甲羅へ生えた森では、青緑色の光が少しずつ黒い領域を押し戻し、白い花も離れた場所で次々と開き始めている。

 

 患者は明らかに回復していた。

 

 しかし、治療を終えたと呼べる状態にはまだ遠い。

 

 首元へ近づくと、一歩進むごとに患者の呼吸が強く感じられるようになった。皮膚の下を巨大な流れが通り、そのたび足元へ低い振動が伝わってくる。人間の患者であれば手首へ指を当てて脈を測るところだが、この保全獣の場合、私たち自身が脈の上を歩いているようなものだった。

 

「心拍が、先ほどより安定していますね」

 

『中枢保全個体の循環率は、治療開始前と比較して二七パーセント上昇しています』

 

 環境補助子の返答を聞きながら進むと、やがて頭部の側面へ張り出した黒い足場が見えてきた。保全獣の琥珀色の目と、ほぼ同じ高さに作られている。

 

 足場へ着いた私たちを、巨大な瞳が静かに見つめていた。

 

 近くで見ると、目の中にも植物と金属に似た構造があることが分かる。琥珀色の虹彩には細い銀色の輪が幾重にも走り、その間を淡い光がゆっくりと巡っている。眼球の表面には湖面の景色だけでなく、足場へ立つ私たちの小さな姿まで映っていた。

 

 家よりも大きな目に正面から見られると、自分が診察する側であることを忘れそうになる。

 

「直接接触というのは、どのように行うのです?」

 

 私が尋ねると、足場の中央から細い柱がせり上がった。その先端には、植物の蔓と銀色の線を編み合わせたような器官があり、弱い青緑色の光を放っている。

 

『中枢保全個体の感覚接続器官です』

 

『暫定管理員が接触することで、限定的な感覚および意思情報を共有できます』

 

「言葉で会話するわけではないのですね」

 

『中枢保全個体は、人類音声言語を使用しません』

 

 私は光る器官を眺めた。

 

 触れれば、この巨大な生き物が感じているものの一部を共有できるらしい。何が流れ込んでくるのかは分からず、五百年以上生きた生物の感覚を人間が正常に受け止められる保証もない。

 

「危険は?」

 

『管理員の感覚処理能力に応じて、情報量を制限します』

 

「私の能力に応じて、という部分が少し不安ですね」

 

『過負荷を検出した場合、接続を自動的に終了します』

 

 完全に安全とは言っていない。しかし、患者自身が要求した接触であり、治療を続けるために必要な情報を持っている可能性もある。

 

 私は手袋を外した。

 

「何かあったら、すぐ引き離してください」

 

 ディンへ頼むと、彼は私の腰へ残っている落下防止具の縄を握り直した。

 

「身体ごとですか?」

 

「できれば腕だけでお願いします。勢いよく後ろへ引かれると、今度は別の患者が増えます」

 

 セラも短杖を持つ私の手元を見ながら、いつでも支えられる位置へ移動した。ハルトは保全獣の目に近い場所で頭を低くし、角の光を感覚接続器官へ重ねている。

 

 私は細い蔓のような器官へ、指先を触れさせた。

 

 冷たい感触を予想していたが、実際には人肌より少し温かかった。

 

 次の瞬間、足場も湖も、目の前にあった巨大な瞳も見えなくなった。

 

 代わりに、広大な水の重さを感じた。

 

 身体の半分を包む湖の冷たさと、背中へ生えた数え切れない植物が受ける光、甲羅の上を歩く小動物の足音、遠くの森を渡る風が、すべて同時に流れ込んでくる。私自身の手足がどこにあるのか分からなくなるほど巨大な感覚が、一つの身体として繋がっていた。

 

 保全獣は、ドームの中で生きているのではない。

 

 ドーム全体を身体の延長として感じている。

 

 水路を流れる水は血液に近く、人工空を巡る風は呼吸の一部であり、背中へ根を張る植物の一つ一つも、自分から切り離された存在ではない。森で鳥が一羽飛び立てば、その羽音が遠い皮膚の上へ触れたように伝わってくる。

 

 その広大な感覚の中へ、黒紫色の痛みが広がっていた。

 

 最初は小さな異物だった。

 

 五百年以上前、空が青紫色に染まり、外部から激しい魔力の流れが押し寄せた時、保全獣は東部保全区画の水と空気を守ろうとして、異常な構造を自らの体内へ取り込んだ。

 

 自己修復構造体は、それを傷として覆った。

 

 本来なら分解し、体外へ排出するはずだった。

 

 しかし、異物は自己修復構造体の形を真似た。

 

 身体を守るためのものと、身体を侵すものの境界が曖昧になり、保全獣は少しずつ、自分自身を病気として記憶するようになった。

 

 黒紫色の膜が増える。

 

 水路が狭くなる。

 

 背中の森が枯れる。

 

 それでも保全獣は、内部へ保存された生き物たちを守るために呼吸を続けた。動きを止め、必要な力をできるだけ使わず、五百年以上もの時間を耐えていた。

 

 映像というより、長い痛みそのものだった。

 

 私は感覚の中で、自分の身体へ送り込まれた青緑色の薬を感じた。黒紫色の構造へ触れるたび苦痛は走るが、その奥では、長く忘れていた正常な流れが少しずつ戻っている。

 

 薬は効いている。

 

 保全獣自身も、それを理解していた。

 

 そして、その感覚のさらに深いところから、一つの場所が示された。

 

 胸部の奥。

 

 生体魔力炉と呼ばれる、巨大な心臓に近い器官。

 

 そこには黒紫色の膜ではなく、硬い核のようなものが残っている。自己修復構造体が何度崩されても、核から新しい異常構造が作り出され、再び全身へ送り出されていた。

 

 現在の治療薬は、広がった病気を確かに減らしている。

 

 しかし核が残れば、いずれ元へ戻る。

 

 保全獣が私へ伝えたかったのは、そのことだった。

 

 同時に、別の感覚が流れ込んできた。

 

 遠く西にある大樹。

 

 弱くなった根の鼓動。

 

 長く途絶えていたはずの二つの施設が、ほんのわずかに繋がった瞬間。

 

 保全獣は、自分だけでなく、大樹も限界へ近づいていることを知った。残された力を使い、第三樹冠管理槽へ信号を送った。

 

 自分が助けを求めたのか、大樹を助けようとしたのか、その感覚を明確に分けることはできなかった。

 

 おそらく保全獣にとっては、どちらも同じだったのだろう。大樹もドームも、この地域の環境も、一つの循環の中にある。

 

 そこで接続が途切れた。

 

 私は足場へ戻り、大きく息を吸った。

 

 膝から力が抜けかけ、ディンに肩を支えられる。自分の身体が急に小さく、軽く、そして狭くなったように感じられた。つい先ほどまで森と湖と空を同時に感じていたのに、今は両手と両足の範囲しか分からない。

 

「大丈夫ですか?」

 

「自分の身体が小さすぎて、少し落ち着きません」

 

「元から同じ大きさですよ」

 

「分かっています。感覚の問題です」

 

 施設が私の状態を調べ、感覚接続による一時的な平衡障害だと表示した。

 

『管理員の感覚処理能力低下を確認しました』

 

「接続前より能力が下がったような言い方をしないでください」

 

『接続前の基準値へ、二分以内に復帰すると予測されます』

 

「それなら先に、正常な反応だと言っていただきたいですね」

 

 私はその場へ座り込みたくなったが、患者の目がまだこちらを見ている。少なくとも伝えられたことへ返事をするまでは、立っていることにした。

 

「あなたの中に残っている核のことは分かりました。今の薬だけでは、広がった部分を減らしても、また元へ戻ってしまうのですね」

 

 琥珀色の目の中へ、淡い青緑色の光が一度だけ走った。

 

 環境補助子も、私が受け取った情報を解析し、新しい異常部位を全身図へ表示する。

 

『胸部生体魔力炉周辺に、異常構造生成核を確認しました』

 

『現行治療計画のみでは、完全寛解へ到達しません』

 

 全身治療の進行率が六十七パーセントへ上がっている一方で、胸部の一点だけは濃い黒紫色のまま残っていた。

 

「核まで薬を届ける方法は?」

 

『中枢生体魔力炉への接続には、保全個体本人による診療経路の開放が必要です』

 

 保全獣の目がゆっくりと閉じ、再び開いた。

 

『診療経路の開放承認を受信しました』

 

 湖の底から低い作動音が響いた。保全獣の胸元にある銀色の構造へ青白い線が走り、巨大な身体の側面で、これまで閉ざされていた診療路が少しずつ開いていく。

 

 私は患者の目へ向かって、正直に伝えることにした。

 

「完全に治せるとは、まだ約束できません。ただ、薬は効いています。核まで届く方法を調べて、できる限り取り除きます」

 

 保全獣は長い時間、私を見つめていた。

 

 やがて琥珀色の目の端から、透明な液体が一滴だけ溢れた。一滴といっても、私たちにとっては小さな水溜まりほどの量があり、足場の脇へ設けられた排液溝へゆっくり流れ込んでいく。

 

 私は採取瓶を取り出し、その液体を少量だけ受けた。

 

「泣かせたの?」

 

 セラが尋ねる。

 

「目を開けた刺激によるものかもしれません。何でも感情へ結びつけるのは早いですよ」

 

 そう答えながら、黒い棒を透明な液体へ浸した。

 

 先端には穏やかな緑色が広がった。全身にあった黒紫色はかなり薄くなっている。

 

 しかし、その中央には一本だけ、針のように細く鋭い黒い線が残っていた。

 

 ほかの試料で見た網目や斑点とは違う。周囲の色が変わっても、線だけは形を崩さず、棒の中心を貫くように浮かんでいる。

 

『異常構造生成核に由来する反応を確認しました』

 

 施設の解析が、私たちの次の目的を確定させた。

 

 保全獣の身体へ広がった病気は、治療薬によって減り始めている。それでも、胸の奥へ残る核をどうにかしなければ、治療を終えることはできない。

 

 私は黒い線が浮かんだ棒を見つめたあと、湖の底へ開き始めた診療経路へ目を向けた。

 

 患者の背中へ登った次は、患者の身体の中へ入らなければならないらしい。

 

 薬師という仕事について、私はこれまで何度も範囲が広すぎると感じてきた。

 

 さすがに患者の内部まで歩いて診察することになるとは、想像していなかった。

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