魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三十四節 患者の内側

 保全獣の胸元に開いた診療経路は、湖面から見ると、巨大な甲羅と皮膚の境目へ生じた細い亀裂のようだった。

 

 もちろん、細いというのは保全獣の身体を基準にした場合の話である。完全に開いた入口は街の家一軒がそのまま通れそうな大きさを持ち、内側には銀色の骨組みと、植物の根に似た管が複雑に絡み合っていた。生物の体内へ続いているはずなのに、傷口らしい血や生々しさはない。甲羅の一部が建物の扉へ形を変え、その向こうへ古い施設が続いているように見えた。

 

『胸部中枢診療経路の開放を完了しました』

 

『内部環境への異物混入を防ぐため、進入者を二名に制限します』

 

 施設の案内を聞き、私たちは互いの顔を見た。

 

「魔女さんと、私で行こうか」

 

 最初に申し出たのはセラだった。狭い場所へ入るなら、重い装備を持つディンより自分の方が向いているという判断らしい。

 

「薬師です。ですが、同行についてはお願いします。内部の足場が壊れていた場合、私一人では戻れない可能性がありますので」

 

「そこは随分素直に認めるんだね」

 

「患者の体内へ入ってから意地を張っても、誰も得をしませんよ」

 

 ディンには入口側へ残り、外部から診療経路を監視してもらうことになった。非常時には内部へ繋がる牽引索を動かし、私たちを外へ引き出す役目もある。

 

 施設が用意した安全帯を装着すると、腰だけでなく肩や胸まで銀色の布へ包まれた。背中から伸びた細い索は入口脇の巻き取り装置へ接続され、私がどれほど不本意な方向へ転んでも、患者の奥へ流されていくことはないらしい。

 

「ずいぶん厳重ですね」

 

『管理員の歩行能力および過去の転倒危険を考慮しています』

 

「患者の安全を考慮した結果ということにしてください」

 

『管理員および患者双方の安全を考慮しています』

 

 今回は否定しづらかった。

 

 内部へ入る直前、ハルトが私のそばまで来た。巨大な身体では診療経路へ入れないものの、角の先から伸びた青白い光を入口へ触れさせ、保全獣との接続を維持している。

 

「少しの間、患者をお願いします」

 

 言葉の意味が通じたかは分からない。それでもハルトは低く喉を鳴らし、琥珀色の目を閉じた。

 

 入口の向こうには、二人乗りの小さな搬送台が待っていた。銀色の枠へ透明な覆いをつけた乗り物で、床に敷かれた二本の光の筋に沿って進むらしい。

 

『中枢診療経路内での自力歩行は、患者組織の損傷および進入者の転落を招く可能性があります』

 

「内部では歩かなくてよいのですね」

 

『肯定します』

 

「この施設へ来てから、最も安心できる案内かもしれません」

 

 セラが笑いながら先に乗り込み、私も隣へ座った。安全帯が自動的に固定されると、搬送台はほとんど揺れることなく、保全獣の胸部へ向かって動き始めた。

 

 入口を越えた途端、外の湖や人工空は見えなくなった。

 

 代わりに周囲へ広がったのは、暖かな薄緑色の光だった。

 

 通路の壁は金属だけでできているのではない。銀色の骨組みを、半透明の膜や樹皮のような組織が包み込み、その奥を巨大な流れが脈打っている。一定の間隔で青緑色の光が通路の先から押し寄せ、そのたび壁面へ埋め込まれた植物の繊維が、呼吸するように膨らんだ。

 

 機械室と温室と生物の体内を、無理に一つへ押し込んだような場所だった。

 

「思っていたより、きれいだね」

 

 セラは透明な覆い越しに周囲を眺めている。未知の場所へ入った興奮を隠そうともしていなかったが、勝手に手を伸ばせないよう搬送台の中へ固定されている点は安心できた。

 

「きれいであることと、安全であることは別ですよ。異常構造体も、遠くから見るだけなら光る鉱物のように見えますから」

 

 私がそう言った直後、通路の右側へ黒紫色の塊が現れた。

 

 壁から生えた太い根へ結晶と膜が幾重にも巻きつき、正常な青緑色の光を途中で遮っている。治療薬が届いた部分は表面から崩れ始めていたが、少し奥には硬い筋が残り、再び互いへ繋がろうとしていた。

 

 搬送台がそこを通過した時、黒紫色の膜の一部がこちらへ向かって伸びた。

 

 透明な覆いへ触れるより先に、通路の壁から青白い光が放たれ、異常構造を焼くのではなく、細かな粒へほどいていく。保全獣の意思を受けて防衛基準を戻した設備が、今は私たちではなく病気の側を排除しているらしい。

 

『中枢診療経路内の異常構造体を除去しています』

 

「患者の身体を守る設備が、ようやく正しい相手と戦い始めたのですね」

 

「さっきまで私たちを止めてた機械と同じなんだよね」

 

「目的が正しくても、判断基準を間違えると厄介になるという例です。人間にもよくありますが、人間の場合は基準を書き換えるための認証子がないので、さらに時間がかかります」

 

 搬送台は何度か曲がりながら、保全獣の胸部深くへ進んでいった。

 

 内部の温度は少しずつ上がり、足元から伝わる振動も強くなる。青緑色の光が押し寄せる間隔は、保全獣の心拍と一致しているようだった。

 

 やがて通路が開け、巨大な空洞へ出た。

 

 中央には、生体魔力炉と呼ばれる器官が浮かんでいた。

 

 形だけを見れば、巨大な種子に似ている。複数の厚い殻に包まれ、その隙間から植物の根と銀色の管が全身へ伸びている。一度脈打つたびに内部で白い光が生まれ、それが青緑色へ変わりながら無数の経路へ送り出されていた。

 

 保全獣の心臓であり、同時に東部保全区画全体へ魔力を送る炉でもあるのだろう。

 

 そして、その器官の下部に、黒紫色の核が食い込んでいた。

 

 これまで見てきた膜や結晶とは明らかに違う。周囲の異常構造は保全獣の組織を覆うように広がっていたが、核だけは自分自身の輪郭を持ち、硬い棘を魔力炉の奥へ突き刺している。

 

 大きさは私の家ほどもある。

 

 保全獣の身体を基準にすれば、小さな異物なのかもしれない。しかし、人間が薬瓶へ入れて持ち帰れる相手ではなかった。

 

『異常構造生成核へ到達しました』

 

『接触検査設備を展開します』

 

 搬送台が核から少し離れた足場へ接続され、透明な覆いが開いた。ここから先は自分たちで移動する必要があるらしいが、足場には手すりと落下防止用の光の膜が設けられている。

 

 それでも下を覗くと、生体魔力炉の白い光が底の見えない場所まで続いていた。

 

 私は下を見ないようにしながら、核へ近い検査台まで歩いた。セラも隣についてくるが、普段より足取りが慎重である。探索者として高い場所には慣れていても、患者の心臓へ落ちる経験まではないのだろう。

 

 検査台から細い採取針が伸び、核の表面へ触れた。

 

 針が刺さった瞬間、黒紫色の核が大きく脈打ち、その周囲へ同じ色の膜を広げる。保全獣の魔力炉も反応し、白い光が一度だけ弱くなった。

 

『異常構造生成核の試料採取に失敗しました』

 

『対象が自己修復構造体を利用し、侵入箇所を閉鎖しています』

 

「触れられた場所を、患者自身の修復機能で守っているのですね」

 

 私は足場の採取口から、核の周囲を流れる液体を小皿へ取った。黒い棒を浸すと、緑色はほとんど現れず、中央へ鋭い一本の黒線だけが浮かんだ。

 

 保全獣の涙で見たものと同じ反応である。

 

 続いて、小瓶へ残していた治療薬を一滴加えた。

 

 黒線の周囲へ青緑色が広がり、表面の細かな異常構造は崩れた。しかし中心の黒線は少しも揺らがない。むしろ周囲の修復微粒子を引き寄せ、自分を包む新しい膜を作り始めた。

 

『治療薬への耐性反応を確認しました』

 

「薬そのものへ耐えているのではありませんね。薬が触れるたび、患者の身体へ傷つけられたと訴えて、正常な修復機能に守らせているのです」

 

「病気なのに、身体から味方だと思われてるってこと?」

 

 セラの言葉に、私は頷いた。

 

「それどころか、身体を守る仕組みの中心に入り込み、自分を治すべき傷として扱わせています。外から薬を増やすだけでは、周囲の膜を厚くする可能性があります」

 

 施設による分析が進み、核と生体魔力炉の間にある複数の接続が表示された。

 

 核は異常構造体を作るために、保全獣の魔力を直接利用していた。心拍のたびに生体魔力炉から力を受け取り、その一部を黒紫色の微細構造へ変え、全身へ送り出している。

 

 私は黒い棒を試料へ浸したまま、保全獣の心拍に合わせて色がどう変わるかを観察した。

 

 白い光が魔力炉から送り出される直前、棒の中央にある黒線が濃くなる。

 

 心拍が過ぎると少し薄くなり、次の拍動で再び濃くなる。

 

「この核は、自分で力を作っているわけではありません。患者の魔力を使っています」

 

『異常構造生成核の活動量は、生体魔力炉出力と連動しています』

 

「一時的に魔力の供給を止めれば、核を守る膜も作れなくなるのでは?」

 

『生体魔力炉の完全停止は、中枢保全個体および区画環境へ致命的な影響を与えます』

 

「完全に止めるつもりはありません。核へ流れている経路だけを、短時間切り離せないかと聞いています」

 

 施設はしばらく返答しなかった。

 

 空中へ表示された経路図が何度も組み変わり、危険を示す赤い線が増えていく。

 

『異常核への魔力供給のみを遮断する場合、周辺の正常組織も一時的に保護機能を失います』

 

『安全維持可能時間は、推定九十秒です』

 

 九十秒。

 

 その間に核を露出させ、薬を直接作用させ、正常な組織を傷つける前に供給を戻さなければならない。

 

「随分短いですね」

 

「でも、何もできないよりはいいんじゃない?」

 

 セラは核を見つめていた。恐れていないわけではないのだろうが、解決への道が見えたことで、表情には探索者らしい集中が戻っている。

 

「問題は、今の薬が核そのものへ効くかどうかです。周囲の膜を崩せても、中心の黒線は変わりませんでした」

 

『異常構造生成核の外殻を除去した状態であれば、追加解析が可能です』

 

「つまり、九十秒の間に試料を採り、核へ効く処方を考えろということですか?」

 

『処方設計者による判断を要請します』

 

「薬師です」

 

『薬師による判断を要請します』

 

 訂正はすぐに反映されたが、要求の難しさは変わらなかった。

 

 九十秒で薬を完成させることはできない。しかし、外殻がなくなった核の試料を採り、その性質を調べることなら可能かもしれない。

 

 まずは一度、魔力の供給を遮断し、核の本体を露出させる。

 

 そのうえで試料を取り、供給を戻す。

 

 治療は次の遮断までに考えればよい。

 

「最初から除去しようとせず、今回は診断だけにします。九十秒のうち、六十秒で試料を取り、残り三十秒は再接続のために残してください」

 

『工程を登録しました』

 

 私はセラへ採取装置の補助を頼み、外で待つディンにも通信を繋いだ。彼には入口側の緊急牽引装置と、魔力供給を戻す手動弁を担当してもらう。

 

『また重い弁ですか』

 

「今回は九十秒以内に戻す必要があります」

 

『急に責任が重くなりましたね』

 

「弁自体も重いと思いますので、よろしくお願いします」

 

 ディンのため息が通信板から聞こえた。

 

 施設は魔力炉から異常核へ伸びる経路へ、遮断用の銀色の輪を展開した。生体組織と金属が複雑に絡み合い、巨大な血管のような管を取り囲んでいく。

 

 私は採取針と黒い棒を手元へ揃えた。

 

 核を治す薬は、まだない。

 

 それでも、ようやく病気の中心へ直接触れられるところまで来た。

 

「準備はできています」

 

 私が告げると、足場の周囲に九十から始まる数字が表示された。

 

 保全獣の心拍が一度、深く響く。

 

 次の拍動が来る直前、施設が核への魔力供給を遮断した。

 

 白い光が途切れ、黒紫色の核を包んでいた膜が、一斉に剥がれ始めた。

 

 その内側から姿を現したものを見て、私は採取針を持ったまま動きを止めかけた。

 

 核の中心にあったのは、鉱物でも肉でもなかった。

 

 黒い殻の中で、細い文字のような光が無数に蠢き、自分自身を書き換え続けていた。

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