魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三十五節 書き換わり続けるもの

 黒紫色の外殻が剥がれ、その内側に隠れていたものが姿を現しても、足場の周囲に表示された数字は止まってくれなかった。

 

『魔力供給遮断の安全維持可能時間、残り八十六秒です』

 

 施設の音声に促され、私は採取針を握り直した。驚いている場合ではない。核の中心では、文字にも術式にも似た細い光が絶えず並び替わり、書かれた直後から自らを消し、別の形へ組み直している。何か一つの文章を表示しているのではなく、変化し続けること自体がその構造であるように見えた。

 

「これ、文字なの?」

 

 セラも隣から核を覗き込みながら尋ねた。普段なら未知のものを見て目を輝かせる彼女も、今はさすがに足場の縁から距離を取っている。

 

「少なくとも、私が読める文字ではありません。ただし、意味がない模様にも見えませんね」

 

『言語情報との照合に失敗しました』

 

『魔力構造指示列としての規則性を検出しています』

 

 施設の説明を聞いても、分かりやすくなったとは言い難い。言葉ではないものの、何かへ形や動きを命じるための並びらしい。

 

 私は採取針を操作し、核の表面へゆっくり近づけた。先ほどまで外殻を守っていた膜はほとんど消えている。それでも針先が触れる直前になると、黒い光の列が一斉に向きを変え、接触点へ集まり始めた。

 

 針が核へ刺さる。

 

 黒い光が金属の表面へ這い上がり、針そのものへ細かな文字のような筋を書き込み始めた。

 

『採取器具の構造変性を検出しました』

 

「試料を取られる前に、針の方を自分の一部へ変えようとしているのですね」

 

 私は採取を止め、針をすぐに引き戻した。先端はわずかに黒ずみ、本来は滑らかだった表面へ、髪の毛ほど細い溝が何本も生じている。

 

 単に硬い核なのではない。触れたものへ自分の構造を写し、その物質を利用して広がろうとしている。

 

 これでは、普通に削り取っただけでは採取容器まで核の一部に変えられる可能性がある。

 

『残り七十四秒です』

 

「急かされなくても分かっています。考える時間は、数字を読み上げても増えませんよ」

 

『時間経過の通知を継続します』

 

「融通は利きませんね」

 

 私は鞄から黒い棒を取り出し、核の周囲から漏れ出している液体へ触れさせた。先端には、保全獣の涙で見たものと同じ一本の黒線が現れる。

 

 ただし今回は、黒線の表面に非常に細かな刻みが見えた。刻みは核の光が並び替わるたびに形を変え、その直後になって、周囲の液体に浮かぶ異常構造片が動き始めている。

 

 まず指示が変わり、そのあとに物質が従っている。

 

「この核は、異常構造体を作り続けているというより、作り方を周囲へ書き込んでいるのかもしれません」

 

『観測結果と一致します』

 

『異常構造生成核は、自己修復微細構造体の動作指示を継続的に改変しています』

 

 保全獣の身体を守るための微細構造体は、本来なら傷んだ組織を見つけ、必要な形へ修復する。しかし核は、その「必要な形」そのものを書き換え続けている。病気が身体へ広がっているのではなく、身体が何を正常と考えるかを、病気の側が変えていたのである。

 

 だから防衛設備も異常構造を守った。患者の身体自身が、それを正しい形だと教え込まれていたからだ。

 

『残り六十一秒です』

 

 分析だけで時間を使い切るわけにはいかない。少なくとも核の一部を持ち帰らなければ、薬を作ることもできない。

 

「この核が触れた物質を書き換えるのであれば、動けない状態で採取します。採取針を可能な限り冷却してください。それから、針の内部を標本固定液で満たします」

 

『低温化のみでは構造活動を完全に停止できません』

 

「完全に止める必要はありません。容器へ移すまで遅くなれば十分です」

 

 私は薬箱から、小さな生物組織や変質しやすい薬草を保存するための固定液を取り出した。強い酒精と鉱物塩を混ぜたもので、生きた組織へ使えば傷めるが、採取した試料の状態を短時間だけ保つには役立つ。

 

 施設が採取針を冷却し、その内部へ固定液を吸い上げた。銀色だった針の表面へ白い霜が生じる。

 

「今度は、触れたらすぐに吸い上げます。核の中心まで深く刺す必要はありません。表面の一部だけで構いません」

 

『採取工程を再設定しました』

 

 針が再び核へ伸びる。

 

 黒い光の列は先ほどと同じように接触点へ集まったが、冷えた針へ触れた瞬間、その動きが目に見えて遅くなった。光の一部が金属へ筋を刻み始めるより早く、採取口が核の表面を小さく削り、固定液とともに内部へ吸い込んでいく。

 

 透明な小瓶の中へ、爪の先ほどの黒い欠片が落ちた。

 

 欠片の表面では今も細い光が蠢いている。しかし固定液の中では並び替わる速度が遅く、容器の壁へ届く前に施設の隔離膜が展開された。

 

『異常構造生成核の表層試料を確保しました』

 

『隔離状態を維持しています』

 

「これで十分です。供給を戻してください」

 

『安全維持可能時間は、残り四十三秒です。追加採取が可能です』

 

「必要なものは取れました。患者を危険にさらしてまで、二つ目を欲張る必要はありません」

 

 試料が多い方が解析しやすいことは分かっている。しかし、保全獣の正常な組織は今、魔力供給を失い、保護機能を使えない状態にある。余裕として残された時間は、使い切るために与えられたものではない。

 

「ディンさん、供給を戻してください」

 

 通信板の向こうから、すぐに返事があった。

 

『戻します。少し重いので、三秒ほどください』

 

「三秒でお願いします。四秒になっても責めませんが、できれば三秒で」

 

『余計に緊張しますね』

 

 外部の手動弁が動き、生体魔力炉から白い光が再び流れ始めた。核の周囲へ正常な自己修復構造が集まり、露出していた黒い中心を覆っていく。

 

『核周辺への魔力供給を再開しました』

 

『遮断時間、五十二秒』

 

『中枢保全個体の生命維持状態に重大な変化はありません』

 

 私はようやく肩の力を抜いた。

 

 魔力を得た核は、すぐに新しい黒紫色の外殻を作り始めた。私たちが削った表面も覆われ、数秒後には最初とほとんど同じ姿へ戻ってしまう。

 

 治療そのものは、まだ一歩も進んでいない。

 

 それでも、核の本体へ直接触れ、その構造を持ち帰ることには成功した。

 

 搬送台の側面から、隔離された試料を解析するための小さな装置が展開された。黒い欠片へ何本もの細い光が当たり、表面で動き続ける指示列を読み取っていく。

 

『表層試料の解析を開始します』

 

『一般的な生体組織、鉱物構造および既知の術式群との一致を確認できません』

 

『自己記述型魔力構造として暫定分類します』

 

「自分の形を、自分で書き続ける構造ということですか?」

 

『概ね正確です』

 

「また概ねへ戻りましたね」

 

 ただ、今度の意味は理解できた。

 

 この核は、生き物のように増殖しているわけでも、単純な魔法として同じ動作を繰り返しているわけでもない。自分の状態を読み、自分を保つための指示を書き換え、周囲の構造までその指示へ従わせている。

 

 変化へ対応する病気だった。

 

 こちらが薬で外殻を崩せば、その結果を取り込み、次には崩されにくい形へ書き換える。治療薬が効かないのではなく、効いたことを学び、次の自分へ反映しているのである。

 

「同じ薬を繰り返しても、いずれ効かなくなりますね」

 

『現行治療薬に対する適応速度は上昇しています』

 

『全身投与のみを継続した場合、推定六時間以内に有効性が許容値を下回ります』

 

 治療薬で全身の異常構造を減らしても、核が残っていれば新しいものが作られる。しかも、今使っている薬へ適応した異常構造が広がれば、今度は同じ処方が通用しなくなる。

 

 時間は、私たちの側だけにあるわけではなかった。

 

「核へ直接作用する薬を作るには、どうすればよいです?」

 

『自己記述指示列の活動を停止させる必要があります』

 

「それができる薬がないから聞いているのですが」

 

『標準自己修復構造記録を利用し、異常指示列の参照基準を上書きする方法を提案します』

 

 空中へ、正常な自己修復構造体と、核の指示列を比較する図が浮かんだ。

 

 核は保全獣の修復機能を完全に無視しているわけではない。正常な構造を読み、それに似せることで患者の身体から受け入れられている。ならば、核が参照する「正常」の情報そのものを、施設が持つ五百年前の記録へ戻せばよい。

 

「施設に残っている正常な構造の記録を、薬へ持たせるのですか?」

 

『記録情報のみでは、生体内で安定して維持できません』

 

「つまり、核まで運ぶ入れ物が必要なのですね」

 

 私は先ほど作った薬の材料を思い返した。

 

 青い葉は、異常な凝集を崩す。

 

 月白草に似た成分は、正常な組織を守る。

 

 赤茎茸の成分は、薬を一か所へ留め、作用を長く保つ。

 

 その最後の働きは、液体の中へ成分を留めるだけではなく、施設が記録した魔力構造を核へ運ぶためにも使えるかもしれない。

 

「赤茎茸の滞留成分へ、正常な自己修復構造の記録を保持させられますか?」

 

『理論上は可能です』

 

『ただし、現在の抽出濃度では指示列の維持時間が不足します』

 

「濃度を上げれば、正常組織を塞ぐ危険がありますね」

 

『肯定します』

 

 濃くすれば運べるが、薬そのものが新しい閉塞を作る。薄くすれば安全だが、核へ届く前に記録が消える。

 

 私は隔離瓶の中で、ゆっくりと文字を並び替え続ける黒い欠片を見た。

 

 必要なのは、核の外殻を崩し、正常な情報を短時間だけ内部へ届け、そのあいだに黒い指示列を書き換える薬である。しかも、正常な組織へ触れた時には、速やかに分解されなければならない。

 

「施設は、薬へ正常な構造の記録を書き込んでください。私は、それを核まで届かせる処方を考えます」

 

『薬師による新規処方設計を支援します』

 

 言葉どおりであれば、今度は設備が薬へ「正しい形」を書き込み、私がその情報を患者の胸の奥まで運ぶことになる。

 

「薬へ文字を書いて、病気の文字を直すようなものですね」

 

『言語文字ではありませんが、比喩としては概ね正確です』

 

「今日だけで何度『概ね』と言われたか、帰ったら数えてみたいですね」

 

 セラは黒い試料と表示を見比べながら、少し困ったように笑った。

 

「薬師って、文字まで治す仕事だった?」

 

「私も今、初めて知りました」

 

 普通の薬師は、おそらく薬へ旧文明の構造記録を書き込んだり、患者の心臓の中で病気の指示を書き換えたりはしない。

 

 ただし、目の前にいる患者は普通の生き物ではなく、病気の方も普通ではない。こちらだけが普段どおりの方法へこだわっても、治療は進まないだろう。

 

 私は新しい調合用の容器を取り出し、施設が表示した正常構造記録へ目を向けた。

 

 次に作る薬は、異常なものを壊すだけでは足りない。

 

 患者の身体へ、何が正常だったのかを思い出させる必要があった。

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