異常構造生成核から採取した黒い欠片は、隔離容器の中でも動き続けていた。
固定液と施設の隔離膜によって活動はかなり遅くなっているものの、表面を走る細い光は完全には止まっていない。文字にも術式にも見える光の列が形を変えるたび、欠片の輪郭までわずかに歪み、先ほど採取針によって削られた部分を埋め直そうとしていた。
患者の身体から切り離され、魔力の供給もほとんど受けていない。それでも自分を保ち、自分を書き換え続けている。
単に壊れにくい物質というだけでは説明できなかった。
『異常構造生成核の表層試料を解析しています』
『標準自己修復構造記録との比較を開始します』
施設が空中へ二つの構造図を表示した。一方は、五百年以上前に記録された保全獣の正常な自己修復構造。もう一方は、隔離容器に収めた黒い欠片から読み取られた異常な指示列である。
正常な方は、枝分かれした細い線が規則正しく輪を作り、必要な場所だけへ伸びる形をしていた。それに対して黒い指示列は、同じ構造を真似ながらも、すべての線を自分自身の中心へ引き寄せるように組み替えられている。
傷を見つけて修復するのではない。
身体のあらゆる場所を傷だと判断し、自分と同じ形へ作り変えようとしている。
「この正常構造記録は、いつのものです?」
『最終正常基準更新は、五〇一年九ヶ月前です』
私は表示された正常構造を見上げた。
「つまり、五百年以上前の保全獣を基準にしているのですね」
『肯定します』
「その記録を、そのまま現在の身体へ書き戻しても大丈夫なのでしょうか」
施設はすぐには答えなかった。空中に表示されていた構造図がいくつかに分かれ、保全獣の現在の全身状態と比較されていく。
セラが、私と表示を交互に見た。
「昔は正常だった形なんだから、それへ戻せばいいんじゃないの?」
「五百年あれば、健康な身体も少しずつ変化します。大きさも、体内の植物も、ドームの環境も、当時と完全に同じではないでしょう。昔の服が丈夫だからといって、今の身体へ無理に着せればよいとは限りません」
治療とは、患者を過去の状態へそのまま戻すことではない。
今の患者にとって、何が健康なのかを見極める必要がある。
『中枢保全個体の現行正常組織と、旧標準構造記録の間に一一・三パーセントの構造差を確認しました』
「許容範囲ですか?」
『旧規定上は許容範囲内です』
「旧規定上は、ですね」
施設が危険ではないと判断しても、その基準自体が五百年前のものである。保全獣が長い時間をかけて現在の環境へ適応した結果まで、病気と一緒に消してしまう可能性は否定できなかった。
「現在の健康な組織から、正常な自己修復構造を採取できますか?」
『右背部および頭部循環系に、異常反応のない構造体が存在します』
「そちらを基準にしてください。五百年前の記録は比較用に残し、実際に薬へ書き込むのは、今の患者が使っている健康な形にします」
『旧標準構造ではなく、現行正常構造を治療基準として採用しますか?』
「その方がよいと思います。この子は、五百年前の標本ではなく、今ここで生きている患者ですから」
施設はしばらく沈黙したあと、私の指示を受理した。
遠隔採取設備が起動し、保全獣の右背部から健康な循環液が少量送られてくる。透明な容器の中へ入った液体は穏やかな緑色をしており、黒紫色の筋は見られなかった。
念のため、私は黒い棒を浸した。
先端には淡い緑色が広がり、その内側へ細い銀白色の輪がいくつも現れる。異常核の試料で見た鋭い黒線とは、明らかに異なる反応だった。
続いて施設が、五百年前の正常構造記録を再現した比較用の液体を用意する。そちらへ棒を浸すと、同じ緑色でも、外縁へ白い筋が強く現れた。
「施設の数値だけでなく、この棒でも違いが分かりますね」
「どちらも健康なんですよね?」
セラの問いに、私は二つの容器を並べた。
「どちらも健康な構造です。ただし、こちらは五百年前に健康だった形で、こちらは現在の身体が使っている健康な形です。今回は後者を使います」
正式名称では携行液相魔力構造比較指示器というらしい黒い棒は、物質の名前も、どちらが正しいかも教えてくれない。それでも二つの液体が同じではないことを、施設の細かな数値を読まなくても目に見える形で示してくれる。
便利な道具というより、こちらへ考える材料を渡してくれる道具なのだろう。
私は現在の正常構造を基準として、新しい薬の設計を始めた。
まず、青い葉から抽出した成分で核の外殻を崩す。次に、月白草と同じ保護作用を持つ成分で、周囲の正常な組織を守る。そして赤茎茸に由来する滞留成分へ、現在の健康な自己修復構造を一時的に保持させ、核の内部まで運ぶ。
施設が材料を調合用の小槽へ送り、私の指示に従って一つずつ混ぜていく。
『現行正常構造記録を、滞留成分へ転写します』
薄い青緑色だった薬の中へ、銀白色の細かな光が浮かんだ。それらは液体の流れに沿って動きながらも、互いの間隔を崩さず、健康な自己修復構造と同じ輪を作っている。
見た目だけなら、正常な情報を薬へ乗せることには成功していた。
「これを核の試料へ使ってみましょう」
隔離容器から黒い欠片の一部が試験槽へ移される。核へ直接触れた時と同じ状態を作るため、施設が周囲へ保全獣の循環液と魔力を加えた。
黒い欠片の表面で、自己記述型の光が再び素早く動き始める。
私は新しい薬を一滴だけ加えた。
青緑色の成分が欠片の外殻へ触れ、黒紫色の膜を細かな粒へほどいていく。その間に銀白色の輪が核の表面へ届き、蠢いていた黒い指示列へ重なった。
一瞬だけ、黒い光の動きが止まった。
『異常指示列の一部を、現行正常構造へ置換しました』
セラが小さく息を呑んだ。
「効いた?」
「まだです。最後まで見てください」
私は黒い棒を試験槽へ浸した。
中央にあった鋭い黒線が途中で切れ、その周囲へ正常な銀白色の輪が広がり始めている。
ところが数秒後、切れた黒線の端が動いた。
黒い指示列は薬が運んだ正常構造を読み取り、その輪郭を真似るように自分の形を変えていく。銀白色だった輪の一部が灰色へ濁り、やがて中心から黒紫色へ染まり始めた。
『治療構造の逆利用を確認しました』
『異常指示列が、滞留成分へ自己記述情報を転写しています』
核は、私たちが運んだ正常な形さえも材料として使い、自分を守る新しい構造へ変えていた。
「正しい形を見せれば、それを覚えて治るというほど素直ではないようですね」
「むしろ薬の方が病気にされてる?」
「そういうことです」
薬を核の周囲へ長く留めるために加えた赤茎茸の成分が、逆に異常指示列へ新しい足場を与えている。薬が残り続ける限り、核はそこへ自分の情報を書き込み、治療薬そのものを病気の一部へ変えてしまう。
私は試験を停止させ、異常化した液体を隔離した。
『初回試験結果:置換反応を確認しましたが、異常指示列の再構築を抑制できませんでした』
「方向は間違っていません。運び方に問題があります」
正常な構造を核へ届ける必要はある。
しかし、届けたあとまで運搬用の成分が残ってはいけない。核へ正しい情報を渡した直後、足場そのものが消えれば、異常な指示を書き返す場所も失われるはずだった。
「薬が仕事を終えたあと、自分で分解されるようにできますか?」
『現在の滞留成分は、患者の循環系で分解されるまで平均三十二分を要します』
「長すぎますね。必要なのは数秒です」
何か、薬を安全に分解するものが必要だった。
私はこれまで見てきたものを思い返した。患者の身体へ害を与えず、有機物や不要な構造を細かく分解するもの。
展示室で巨大化茸を食べ、金属板を九十七枚まで集め、その後は薬工房の水を浄化する八百二十四体の基礎となった存在。
「生体洗浄膠体が使っていた分解成分を、薬へ加えられますか?」
『生体分解酵素を利用した時限崩壊処理が可能です』
「正常構造を核へ渡したあと、運搬成分だけを分解するよう調整してください。早すぎれば届く前に消え、遅すぎればまた書き換えられます」
『適切な分解開始時間を算出します』
「算出結果は、そのまま信用せずに試験します」
『薬師による確認工程を登録しました』
新しい試薬が用意された。
今度は赤茎茸の滞留成分を少し減らし、その周囲へ洗浄膠体由来の分解酵素を薄い膜として加える。施設が現行正常構造を転写すると、銀白色の輪は先ほどと同じように薬の中へ浮かんだ。
ただし、この薬は長く形を保たない。
核へ触れ、正常な構造を渡し終えた直後に、自分自身を分解するよう作られている。
二度目の試験が始まった。
青緑色の薬が黒い外殻を崩し、銀白色の輪が指示列へ重なる。黒い線が途中で切れ、健康な形へ並び替えられていく。
核は再び薬へ自分の情報を書き込もうとした。
しかし、その直前に滞留成分が細かな光へ分解された。
異常な指示列は足場を失い、途中まで伸ばしていた黒い筋を維持できない。銀白色の構造だけが核の内側へ残り、乱れていた光の列を少しずつ規則正しい輪へ変えていった。
黒い棒の先端に浮かんでいた一本の線が、中央から二つに割れた。
黒紫色は薄くなり、その代わりに淡い緑と銀白色の輪が広がっていく。
一分。
二分。
先ほどのような再構築は起きない。
『異常指示列活動率 九四・一パーセント低下』
『現行正常構造への置換率 八七・六パーセント』
『再異常化反応を検出していません』
私はすぐには成功だと言わず、さらに数分間、棒と施設の表示を見比べた。緑色は安定し、銀白色の輪も崩れない。中央に残った黒紫色は、注意して見なければ分からないほどの斑点へ変わっていた。
「今度は、薬が病気の足場になっていませんね」
「できたの?」
セラの声には期待が混じっていた。
「試料の中では成功です。核の本体は、この欠片より遥かに大きく、こちらの治療へ適応する力も強いでしょう。それでも、効く可能性のある処方はできました」
『異常構造生成核用・現行正常構造誘導型時限分解治療薬として登録します』
私は長い名称を最後まで聞き、少し考えた。
「核用の薬で構いませんね」
『略称として登録しますか?』
「施設内では正式名称を使ってください。私だけ核用の薬と呼びます」
薬の正式名称まで棒と同じ扱いにする必要はない。
施設は試験結果を基に、核本体へ必要な量を算出した。全身治療薬と比べれば遥かに少ないものの、それでも人間が抱えて運ぶには大きな容器が必要になる。
幸い、患者の胸部にある調合設備だけで生産できる量だった。薬工房へ戻る必要はない。
『核治療薬の生産を開始します』
『治療には、異常核への魔力供給を再度遮断し、外殻が消失している間に直接投与する必要があります』
『安全維持可能時間は九十秒です』
今度の遮断は診断のためではない。
九十秒の間に核を露出させ、薬を内部へ送り込み、正常な構造へ書き換えたうえで、患者の魔力を戻さなければならない。
一度目より行うことが多く、失敗した時の影響も大きい。
それでも、何をすればよいかは分かった。
私は隔離容器の中で穏やかな緑色へ変わった試料を見た。五百年前の正常な形ではなく、現在の患者の身体が覚えている健康な形である。
治療とは、病気になる前の過去へ無理に戻すことではない。
今の身体が、本来どのように生きようとしているのかを思い出させることなのかもしれなかった。
「次の九十秒で、核を治します」
私が告げると、施設は治療工程の準備を始めた。
生体魔力炉の白い光が脈打つたび、黒紫色の核は今も新しい外殻を作り続けている。
しかし今度は、その光へ書き戻すための答えが、こちらにも用意されていた。