核用の薬が完成すると、胸部診療区画の壁から、人の胴ほどもある透明な容器が運び出されてきた。
内部を満たしているのは、淡い青緑色の液体である。その中には、保全獣の現在の正常構造を写した銀白色の輪が無数に浮かび、互いに一定の間隔を保ちながらゆっくりと巡っていた。見た目だけなら、少し手の込んだ発光薬にも見えるが、実際には患者の身体が忘れかけていた健康な形を、病気の中心へ届けるための薬だった。
『異常構造生成核用・現行正常構造誘導型時限分解治療薬の生産を完了しました』
「名前を読み終える前に、患者の状態が一段階悪くなりそうですね。予定どおり、核用の薬と呼びます」
『略称による治療工程への影響はありません』
「それなら安心しました」
施設に頼み、容器から少量だけを検査用の小皿へ取ってもらう。黒い棒を浸すと、先端には穏やかな緑色と銀白色の輪が現れ、黒紫色の筋は見られなかった。さらに数秒待つと、薬を一か所へ留める成分だけが細かな光へ分かれ、銀白色の輪を残して消えていく。
試験時と同じ反応である。
「分解開始までの時間は?」
『異常指示列との接触後、平均七・二秒です』
「多少の差は出ますか?」
『対象の活動量に応じ、前後一・一秒の変動を予測しています』
七秒ほどで、薬は正常な形を核へ渡し、その直後に自分の足場を失う。異常な指示列が薬を逆に書き換えようとしても、その頃には利用できる運搬成分が残っていないという仕組みだった。
理屈は通っている。
あとは、家ほどもある核の全体へ十分に届くかどうかである。
施設が治療工程を空中へ表示した。まず異常核への魔力供給を遮断し、外殻が剥がれたところで三本の注入針を異なる方向から挿入する。核用の薬を内部へ送り込み、正常構造への置換を確認したのち、九十秒以内に魔力供給を再開する。
前回は試料を採るだけだった。今回は、薬の注入と反応の確認まで同じ時間内に行わなければならない。
「九十秒を過ぎた場合は、どうなります?」
『核周辺の正常組織が保護機能を失い、生体魔力炉からの熱および魔力圧によって損傷します。百二十秒経過時点で、不可逆的障害が発生する可能性は六一パーセントです』
「分かりました。九十秒を過ぎる前に、結果にかかわらず供給を戻します」
『異常核の置換が不十分な場合、再治療が必要です』
「再治療できる状態を残すことの方が重要です。一度で治し切ろうとして患者を壊したら、二度目はありませんから」
施設は短い照合のあと、私の判断を治療工程へ登録した。
セラには、三本の注入針のうち最も核に近い位置へ出る一本を監視してもらうことになった。自動設備が正常に動けば見ているだけで済むが、異常核は接触した器具の構造まで書き換えようとする。針の向きが逸れた場合には、足場の横にある手動操作具で位置を修正する必要があった。
ディンは診療経路の外側に残り、魔力供給を戻す手動弁を担当している。施設による自動復旧も行われるが、異常核が制御信号へ干渉した場合に備えた二重の安全策だった。
『外部担当者との通信を接続しました』
「こちらは準備できています」
通信板から聞こえたディンの声の背後では、また重い金属を動かす音がしていた。
「弁の状態は?」
「前回よりは動きます。ただ、九十秒以内に必ず戻せと言われると、急に重く感じますね」
「実際の重さは変わっていません。気持ちの問題です」
「少しは励ましてくださいよ」
「ディンさんならできます」
「急に雑になりましたね」
本人から求められたので励ましたのだが、何か足りなかったらしい。
セラは注入針の操作具を確認しながら、核の外側を見上げていた。黒紫色の殻は保全獣の魔力を受けるたびに薄く脈打ち、表面では光の列が絶えず書き換わっている。
「薬を入れたら、これが全部なくなるのかな」
「なくすというより、健康な形へ戻すことになります。あれも元は、この子の身体を修復する仕組みの一部だった可能性がありますから」
「病気だけ取り出して捨てるわけじゃないんだね」
「身体と完全に混ざっている以上、無理に切り離せば患者まで傷つけます。今回は、何を作るべきかを思い出させる治療です」
そう説明しながら、私は検査用の還流口へ黒い棒を固定した。治療中、核の周囲を流れた液体が少量ずつここへ戻ってくる。棒へ現れる色を見れば、施設の数値だけでは分かりにくい構造の変化も追えるはずだった。
緑色が消えれば正常組織まで弱っている。
銀白色の輪が現れれば、薬が正常な形を渡せている。
黒い線が残れば、核の異常指示列はまだ動いている。
見るべきものは分かっている。問題は、九十秒の間に変化を正しく読み取れるかどうかだった。
治療の準備が整うと、足場の周囲へ落下防止用の光膜が展開された。さらに施設の作業腕が、私の腰と肩へ安全帯を巻き始める。
「先ほどより固定する場所が増えていませんか?」
『治療中の心拍変動、および中枢保全個体の自発運動を考慮しています』
「私の歩行能力だけが理由ではないのですね」
『管理員の歩行安定性も判断要素に含まれています』
「最後の一文はなくてもよかったと思います」
それでも安全帯を拒む理由はない。患者の心臓に近い足場から落ちれば、治療を続ける以前の問題になる。
核用の薬が三本の注入器へ満たされた。透明な管の中へ銀白色の輪が流れ、それぞれ異なる角度から黒紫色の核を取り囲んでいく。
『全担当地点の準備完了を確認しました』
『中枢保全個体から治療承認信号を受信しています』
遠くから、保全獣の深い鼓動が一度だけ伝わってきた。巨大な身体の中にいるせいか、その音は耳で聞くというより、床と壁を通して全身で感じるものに近い。
私は黒い棒と施設の表示を見比べ、最後に薬の容器へ異常がないことを確認した。
「始めてください」
足場を囲む光が白へ変わり、九十から始まる数字が空中へ表示された。
生体魔力炉から異常核へ伸びていた白い流れが、銀色の遮断輪によって閉じられる。魔力を失った黒紫色の外殻は、前回と同じように表面から崩れ、幾重にも重なっていた膜が乾いた花弁のように剥がれていった。
その内側では、文字に似た黒い光が激しく形を変えている。魔力を断たれたことを認識したのか、周囲へ新しい外殻を作ろうとしていたが、材料となる自己修復構造体が集まってこないため、輪郭を維持できていなかった。
『外殻消失率八一パーセント』
『注入工程を開始します』
三本の針が同時に伸びた。
最初の二本は核の表面へ達し、黒い光に構造を侵されるより早く薬を送り始めた。青緑色の液体が核の内部へ入り込み、銀白色の輪が黒い指示列へ重なっていく。
しかし、セラの前にある三本目だけは、先端が外殻の欠片へ引っかかり、予定した位置より少し上へ逸れていた。
「三番が入っていません」
「見えてる」
セラはすぐに手動操作具を掴み、針の固定具を解除した。黒い外殻の残骸が針へ巻きつこうとするたび、足場の脇から伸びた青白い防衛光がそれを削り取る。それでも自動機構は異常を避けるために針を引き戻そうとしており、セラはその動きに逆らって角度を少しずつ変えなければならなかった。
表示された残り時間は七十一秒まで減っている。
「右へもう少しです。そのまま深く入れず、黒い光の薄いところを狙ってください」
「こっち?」
「あと少し下です。今です」
セラが操作具を押し込むと、三本目の針が核の外層を抜けた。薬が送り込まれ、これまで届いていなかった側にも銀白色の輪が広がっていく。
『三方向からの注入を確認しました』
『現行正常構造への置換を開始しています』
私は還流液へ固定した黒い棒を見た。
中央を貫いていた鋭い黒線が三か所で途切れ、その隙間へ銀白色が入り込んでいる。試験時と同じ変化だったが、核が大きいせいか、黒線の一部はすぐに別の経路を作り、途切れた場所を迂回しようとしていた。
「連続で流すのを止めてください。三秒だけ待ってから、短く二回に分けて注入します」
『継続注入が標準工程です』
「核が薬の流れへ沿って、別の指示経路を作っています。同じ場所から入れ続ければ、そちらへ逃げる道を与えるだけです」
施設が還流液の変化を解析し、私の観察と一致したと判断した。注入が一度止まり、運搬成分が予定どおり七秒前後で分解される。
異常核は、消えた薬の足場を利用できず、作りかけていた黒い経路を維持できなかった。
「今です。最初の半量を二秒、止めて四秒、そのあと残りを三秒でお願いします」
『注入間隔を変更します』
一度目の短い薬が核の内側へ走り、黒い指示列を途切れさせる。足場が消えるのを待って二度目を送り込むと、銀白色の輪は、先ほど黒線が逃げようとした場所へ先回りするように広がった。
棒の中央から、黒い線がさらに細くなる。
『異常指示列活動率五八パーセント低下』
『正常構造置換率四六パーセント』
残り時間は四十八秒だった。
置換は進んでいるが、まだ半分にも届いていない。核の外側では黒紫色の殻が再び作られ始め、注入針のうち一本へ細い膜が巻きついていた。
施設が追加の薬を用意しようとしたが、私は棒の色を見て止めた。銀白色の輪の一部へ薄い灰色が混じり、正常構造として書き込まれた情報が不安定になっている。
「薬を増やす前に、正常構造の基準をもう一度更新してください。治療が進んだことで、周囲の健康な組織の状態も変わっています」
『治療開始時の現行正常構造との差は〇・八パーセントです』
「小さな差ですが、核はその差を使っています。今の身体から取り直してください」
施設は右背部の健康な循環液を再解析し、新しい構造を三本の注入器へ転写した。ほんのわずかな補正でしかない。それでも次の薬が入ると、灰色へ濁っていた輪が再び銀白色へ戻った。
「患者の身体を毎回見直す必要があるのですね」
セラは針へ絡んだ膜を手動操作具で振りほどきながら言った。
「この核は、こちらの治療へ合わせて変わっています。ならば、こちらも患者の今の状態へ合わせて変えなければなりません。同じ処方を信じて繰り返すだけでは追いつけませんよ」
残り三十二秒。
異常指示列の活動率は二一パーセントまで下がり、正常構造への置換率は七八パーセントへ達している。しかし核の最深部には、まだ一本だけ黒い線が残っていた。
棒に現れた線は細い。
それでも、保全獣の涙へ同じ一本が残っていたことを思い出す。ここで見逃せば、その線を基に病気が再び全身へ広がる可能性がある。
『魔力供給再開推奨時刻まで二十五秒です』
施設は安全を優先し、治療終了の準備へ入り始めた。
「あと一度だけ、中央へ薬を送ります」
『追加投与を実施した場合、供給再開準備時間が最低十二秒必要です』
「十分です。注入後、結果を待たずに再接続へ移ってください」
「効いたか確かめなくていいの?」
セラの問いに、私は黒い棒から目を離さずに答えた。
「効いたかどうかは、魔力を戻したあとに確認します。今ここで結果を待つために患者を危険へ晒す方が問題です」
施設が中央の注入針だけを、黒い線の残る場所へ向け直した。外殻を貫くのではなく、先ほど正常構造へ置換された領域の隙間を通し、核の中心へ薬を送り込む。
「ディンさん、薬が入ったらすぐに弁を戻してください。施設の合図を待たなくても構いません」
「分かりました。こちらはいつでも動かせます」
残り十九秒。
中央の針から、最後の薬が注入された。青緑色の流れと銀白色の輪が、黒い一本線を包み込む。
線は抵抗するように形を変えたが、周囲には利用できる異常構造がもうほとんど残っていない。正常な輪へ自分を書き移そうとした直後、薬の運搬成分が時限分解を始め、足場そのものが細かな光へ崩れていった。
「戻してください」
私が告げるのと、ディンが弁を動かし始めるのはほぼ同時だった。
生体魔力炉から白い光が押し寄せる。
銀色の遮断輪が開き、保全獣の魔力が核へ再び流れ込んだ。足場全体へ大きな震動が走り、私は安全帯に支えられながら手すりを掴んだ。
『魔力供給を再開しました』
『遮断時間、八十三秒』
『正常組織の保護機能が復帰しています』
九十秒には間に合った。
しかし、治療が成功したかどうかはまだ分からない。
魔力を受けた核は、深く脈打った。黒紫色の殻が再び作られるのではないかと身構えたが、表面へ現れたのは、これまでとは違う淡い緑色の光だった。
その上を、銀白色の輪が規則正しく広がっていく。
文字のように絶えず形を変えていた黒い指示列は見当たらない。代わりに、現在の健康な自己修復構造と同じ輪が、一度の心拍ごとに核の中心から全身へ送り出されている。
『異常指示列活動を検出できません』
『現行正常構造への置換率九九・二パーセント』
『再異常化反応――検出なし』
私は還流液へ固定していた黒い棒を持ち上げた。
先端には穏やかな緑色が広がり、その中心を銀白色の輪がゆっくりと巡っている。保全獣の涙にも、核の試料にも残っていた鋭い黒線は、どこにも見えなかった。
施設の数値だけではない。
自分の目でも、変化を確認できる。
「核は正常な形へ戻っています」
そう口にした瞬間、緊張によって気づかないふりをしていた疲労が、一度に全身へ戻ってきた。膝が少し揺れたため、私は何事もなかったように手すりへ体重を預けた。
セラは核と私を見比べ、にやりと笑った。
「今、倒れかけた?」
「患者の経過を近くで観察するため、姿勢を低くしようとしただけです」
「立ったまま?」
「方法について検討している途中でした」
これ以上追及される前に、施設の表示が更新された。
『異常構造生成核の正常化を確認しました』
『分類を中枢自己修復補助核へ復帰します』
どうやら、病気として現れた核は、本来から異物だったわけではないらしい。保全獣の自己修復を支える器官が、五百年前に取り込んだ異常情報によって、自分自身と患者の身体を書き違えていただけだった。
完全に取り除かず、健康な働きへ戻すという判断は正しかったようである。
生体魔力炉がもう一度、強く脈打った。
今度の震動は苦痛によるものではなかった。白い光が緑と銀へ変わりながら無数の管へ流れ、保全獣の全身へ広がっていく。施設の遠く離れた場所でも、停止していた設備が次々と動き出す音が聞こえた。
『全身治療進行率八九パーセント』
『異常構造体の新規生成は停止しました』
『残存異常構造体は、治療薬および生体防衛系により排出可能です』
病気の中心は治った。
あとは全身へ残された黒紫色の構造を、時間をかけて取り除けばよい。少なくとも、こちらが減らす以上の速さで新しく作られることはない。
胸部診療区画を包んでいた薄緑色の光が、一段明るくなった。保全獣の鼓動は以前より力強く、間隔も安定している。
私は黒い棒を布で拭い、慎重に鞄へ戻した。
「これで、患者の中を歩いて診察する仕事は終わりでしょうか」
『管理員および同行者を頭部診療区画へ搬送します』
「歩かなくてよいのですね」
『肯定します』
「最後まで信頼できる案内です」
搬送台が足場へ接続されると、私は今度こそ言い訳をせずに座席へ腰を下ろした。九十秒の治療が終わった直後くらいは、施設の評価どおり体力を温存しても許されるだろう。
透明な覆いが閉じ、搬送台が保全獣の胸部から外へ向かって動き始める。
背後では、健康な形を取り戻した補助核が、銀白色の輪を全身へ送り続けていた。五百年以上にわたって自分を病気だと教え込まれていた巨大な身体が、ようやく本来の形を思い出し始めている。
その鼓動はもう、施設の作動音には聞こえなかった。
一頭の生き物が、生きようとして鳴らしている音だった。