魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第三十八節 託された箱庭

 搬送台が保全獣の胸部を抜けて外へ向かう間、通路の景色は来た時とは明らかに変わっていた。

 

 銀色の骨組みを覆う半透明の膜には、規則正しい青緑色の光が流れている。壁や管へ張りついていた黒紫色の構造体は、生体防衛機の照射を受けて細かな粒へほどかれ、脇に設けられた排出路へ吸い込まれていた。すべてが消えたわけではないものの、少なくとも新しい膜が広がる様子はない。

 

 健康な形へ戻った中枢自己修復補助核が、患者の身体へ正しい指示を送り始めたのだろう。

 

『全身治療進行率、九二パーセントです』

 

『異常構造体の新規生成は停止しています』

 

『残存異常構造体の排出完了まで、推定十三時間です』

 

「十三時間待たなければ、治療成功とは言えませんか?」

 

『現時点で再発危険は基準値を下回っています。残存物の排出は、中枢保全個体の自己修復機能および生体防衛系によって継続可能です』

 

「つまり、あとは患者自身の身体が治してくれるのですね」

 

『その認識で正確です』

 

 患者の身体が本来の働きを取り戻し、自分の力で回復できる段階へ入ったのであれば、薬師がいつまでも手を出し続ける必要はない。治療とは、薬を与え続けることではなく、薬がなくても身体が働けるところまで戻すことだと私は思っている。

 

 搬送台が頭部診療区画へ戻ると、入口側で待っていたディンが駆け寄ってきた。セラと私が無事であることを確認したあと、彼は胸部から響く力強い鼓動へ耳を澄ませるように天井を見上げた。

 

「成功したんですか?」

 

「病気の中心は正常な働きへ戻りました。全身に残ったものはまだ排出中ですが、施設によれば再発の危険はかなり低いそうです」

 

「施設によれば、という言い方なんですね」

 

「自分の目でも確かめるまでは、念のためです」

 

 搬送台を降りようとしたところで、脚へ思ったほど力が入らなかった。私は何事もなかったように座り直したが、施設は見逃してくれなかった。

 

『薬師に著しい疲労を確認しました』

 

『急な起立を避け、十分な水分を摂取してください』

 

「患者の治療が終わった途端、診断する相手を私へ変えないでください」

 

『薬師は現在、区画内で最も治療を必要とする人類個体です』

 

 ディンが水筒を差し出し、セラは遠慮なく笑っている。私は反論を試みるよりも水を飲む方が有益だと判断し、座席へ腰を下ろしたまま水筒を受け取った。

 

「この程度は疲労であって、病気ではありませんよ」

 

『活動能力の低下を確認しています』

 

「そこは到着した時から変わっていない気がします」

 

『到着時より、さらに二三パーセント低下しています』

 

「比較結果を詳しく報告しなくて結構です」

 

 旧文明の設備は、患者を治療する能力だけでなく、人の気にしていることを正確な数字で示す能力にも優れているらしい。

 

 やがて頭部診療区画の外壁が開き、湖から吹く温かな風が入り込んできた。外へ出ると、空を覆っていた灰色の雲はほとんど消え、人工の青空が湖の端まで広がっている。遠くの森からは鳥や獣の声が重なって聞こえ、水路には澄んだ水が勢いよく流れ始めていた。

 

 そして湖の中央では、保全獣がゆっくりと頭を持ち上げていた。

 

 最初に見た時は、呼吸をするだけでも背中の森が苦しげに揺れていた。今は巨大な首を動かすたび、身体を走る銀色の構造へ穏やかな青緑色の光が巡り、甲羅の上に生えた樹木も風を受けて大きく葉を広げている。

 

 水面から持ち上がった頭部は、近くで見るほど途方もなく大きかった。琥珀色の両目が完全に開き、湖畔へ立つハルトと、その後ろにいる私たちを静かに見つめている。

 

 ハルトが角を光らせ、低く長い声を上げた。

 

 保全獣も喉の奥で応じる。

 

 その音はドーム全体を震わせたが、治療中に聞いた苦痛の声とは違っていた。何百年ぶりかに深く息を吸い、そこに自分が生きていることを周囲へ伝えるような、穏やかで力強い声だった。

 

 湖面へ大きな波が広がり、岸まで届いた水が足場の下へ打ち寄せる。保全獣にとっては軽く頭を動かしただけなのだろうが、人間の側からすれば小さな洪水に近い。

 

「元気になったのは喜ばしいのですが、もう少しゆっくり動いてもらえると助かりますね」

 

 手すりを掴みながら言うと、環境補助子へ新しい表示が現れた。

 

『中枢保全個体から謝意信号を受信しました』

 

「今の波が感謝ですか?」

 

『頭部運動に伴う水位変動です。謝意信号とは別です』

 

「それなら安心しました。感謝のたびに濡れるのは少し困りますから」

 

 保全獣は再び頭を低くし、巨大な目を診療区画の足場へ近づけた。瞳だけでも家より大きく、その奥を銀白色の輪がゆっくり巡っている。

 

 私は採取瓶を用意し、目の端から排液溝へ流れてきた透明な液体を少量受け取った。感情による涙なのか、単なる目の保護液なのかは分からない。それでも、治療前と同じ場所から得た試料なら、状態を比較するには都合がよい。

 

 黒い棒を浸すと、先端へ淡い緑色が広がった。

 

 その内側には、現在の健康な自己修復構造を示す銀白色の輪が、崩れることなく浮かんでいる。治療前に中央を貫いていた鋭い黒線も、網目状の黒紫色も見当たらなかった。

 

 施設の数値ではなく、これまで何度も液体の違いを示してきた棒も、病気の中心が消えたことを伝えている。

 

「大丈夫そうですね」

 

 私が告げると、保全獣の瞳の中で銀白色の輪が一度だけ強く光った。

 

『全身治療進行率、九五パーセントです』

 

『生命維持状態を安定へ更新します』

 

『中枢保全個体の治療を成功と判定しました』

 

 その言葉が施設全体へ流れた直後、湖の周囲に立つ塔から白い光が空へ伸びた。人工空の色が少し明るくなり、背中の森では、治療の終わりを知らせるように無数の白い花が一斉に開いていく。

 

 花弁は保全獣の呼吸が起こす風へ乗り、湖の上を雪のように舞った。

 

 セラは空を仰ぎながら、珍しく何も言わずにその光景を眺めている。ディンも槍を足元へ置き、ようやく緊張を解いたようだった。

 

 私は白い花を見上げながら、できれば座って眺めたいと思った。ちょうど入域衛生巡回機が後ろへ座席を展開したので、今回は何の説明もせずに腰を下ろす。

 

「もう言い訳しないんだね」

 

「患者の治療を終えた薬師には、休む権利があります」

 

「最初から休む権利はあったと思うけど」

 

「使う時期を選んでいたのです」

 

 施設から、別の通知音が流れた。

 

『中枢保全個体から、暫定管理員への権限委任要求を受信しました』

 

 私は空から視線を戻した。

 

「治療費の代わりでしょうか」

 

『治療貢献に対する承認、および中央樹冠個体の修復を目的とした権限委任です』

 

 空中へ、東部保全区画と街の大樹を結ぶ立体図が表示された。二つの施設の間には細い線が伸びているものの、途中の多くが途切れている。

 

『旧中央管理権限は、五〇一年九ヶ月前に消失しました』

 

『中枢保全個体は、東部保全区画および中央樹冠個体を含む地域環境維持網に対し、限定代行権限を付与できます』

 

「世界中の施設を動かせるような権限ではないのですね」

 

『権限範囲は、当該地域環境維持網に限定されます』

 

「それなら少し安心しました」

 

 世界中の旧文明施設から管理員として呼び出されるようになれば、森で薬を作る時間が完全になくなってしまう。この地域だけでも十分に広いが、大樹を治療するためには必要な権限だった。

 

『限定代行権限を受領しますか?』

 

 私は携行認証子を見た。

 

 最初は記録庫の箱へ保管されていた、用途不明の黒い板だった。それを持った結果、私は大樹の地下で暫定管理員にされ、巨大ドームへ呼ばれ、山ほど大きな患者の身体の中で薬を作ることになった。

 

 ここで受け取れば、街へ戻ったあとも、旧文明の設備から仕事を任される可能性が高い。

 

 受け取らなければ、大樹を修復できない。

 

「選択肢があるように見えて、実際には一つしかありませんね」

 

「断るの?」

 

 セラが驚いたように尋ねた。

 

「受け取ります。ただし、私は今後も薬師です」

 

『登録職能は薬師として維持されます』

 

「そこが守られるなら構いません」

 

 私は携行認証子の中央へ触れた。

 

 保全獣の角や骨に似た銀色の構造から光が伸び、湖を渡って黒い板へ集まる。認証子の表面には、これまで存在しなかった白い輪が浮かび、その中央へ大樹と巨大ドームを結ぶ小さな図が刻まれた。

 

『地域環境維持網・限定代行管理権限を登録しました』

 

『中央樹冠個体の修復操作が可能です』

 

『東部保全区画との遠隔通信を許可します』

 

 権限を得たからといって、私の身体へ特別な力が湧いてくるわけではなかった。体力も増えていないし、魔法が急に強くなった様子もない。

 

 それでも、数百日後に崩壊すると告げられた大樹を救うための扉は、ようやく開かれた。

 

「これで街へ帰れますね」

 

『帰還前に、限定代行権限で閲覧可能となった緊急記録が一件あります』

 

「今ですか?」

 

 施設は返事の代わりに、半透明の記録を表示した。

 

 大半は壊れており、読める文字はわずかしかない。

 

『第七環境崩壊波の到達を確認』

 

『自己記述型汚染が生体維持網および広域記録網へ侵入』

 

『記録汚染の拡大を防ぐため、全域情報接続を緊急遮断――』

 

 そこで文章は途切れ、残りは黒い雑音へ変わっていた。

 

 私は何度か読み直した。

 

 保全獣を病気にしていた、自分自身を書き換え続ける黒い構造。それと同じものが、五百年前には生き物の身体だけでなく、記録を保存する仕組みにまで入り込んだ可能性がある。

 

 人類の情報が失われたのは、文明が崩壊した結果ではないのかもしれない。

 

 何かが記録そのものを汚染し、それを広げないために、当時の人々が自分たちで情報網を切り離した。

 

「この続きは残っていますか?」

 

『該当記録領域は破損しています』

 

「ほかの施設には?」

 

『照会可能な施設との通信は確立されていません』

 

 答えは得られなかった。

 

 その代わり、これまで一つだった謎が、さらに大きな形へ広がった。

 

 第七波とは何だったのか。何が自分自身を書き換え、生物や記録へ入り込んだのか。情報を遮断したあと、人々はどうなったのか。

 

 知りたいことは増えたが、今追うべきものではない。

 

 街には、もう一人の患者が残っている。

 

「記録を認証子へ保存してください。ただし、調査は大樹を治してからにします」

 

『記録断片を保存しました』

 

 私は更新された認証子と黒い棒を鞄へ戻した。

 

 保全獣の琥珀色の目が、湖畔にいる私たちを静かに見守っている。ハルトはその足元へ立ち、帰還した場所で本来の役目へ戻ったようだった。

 

 私たちは大樹を救う方法を求めて東部保全区画へ来た。

 

 そこで見つけたのは、権限や設備だけではなく、五百年間ひとりで箱庭を守りながら病に耐えていた、あまりにも大きな患者だった。

 

 一頭を治したからといって、仕事が終わったわけではない。

 

 次は街へ戻り、目覚めた大樹を治さなければならない。

 

 幸い施設は、帰還用の搬送経路を再起動できると表示していた。所要時間は、徒歩で来た時の半分以下らしい。

 

「帰りは歩かなくてもよいのですか?」

 

『搬送設備を利用できます』

 

「限定代行管理権限というものを、初めて心からありがたいと思いました」

 

 セラとディンが笑っていたが、私は気にしなかった。

 

 世界の謎を一つ持ち帰ることになったとしても、帰り道くらいは楽であってよいはずだった。

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