魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第四章 白い花の街へ


第三十九節 帰還路の先

第三十九節 帰還路の先

 

 東部保全区画を離れる前に、私は治療を終えた保全獣をもう一度診察することにした。

 

 全身治療の進行率は九十六パーセントまで上がり、残された異常構造体も、正常な働きを取り戻した自己修復機能と生体防衛機によって排出され続けている。湖を巡る水は治療前より澄み、人工空を覆っていた灰色の雲も、遠くの山際へわずかに残るだけとなっていた。

 

 保全獣の背中では、黒く枯れていた森が少しずつ色を取り戻している。まだ立ち直れずにいる木々も多いが、その根元には新しい芽が生まれ、半透明の白い花が風の中で揺れていた。

 

 施設の数値だけを見れば、治療は成功している。

 

 それでも私は、湖畔の採取口から最後の循環液を受け取り、黒い棒を浸した。

 

 先端には穏やかな緑色が広がり、その内側を銀白色の輪が規則正しく巡っている。鋭い黒線も、網目状の黒紫色も現れなかった。正式名称を知る前から使ってきたこの道具は、治ったとも安全だとも言ってくれない。ただ、以前とは違うという事実だけを、色によって示している。

 

 その意味を判断するのは、使う人間の仕事だった。

 

「少なくとも、ここから先はこの子自身の身体へ任せてよさそうですね」

 

『中枢保全個体の生命維持状態は安定しています』

 

『定期的な経過観測を推奨します』

 

「遠隔通信が使えるのであれば、状態が悪化した時には知らせてください。できれば、今回のように患者が限界へ近づくより前にお願いします」

 

『警戒通知基準を更新します』

 

「話の早い設備は助かりますね」

 

 施設の返答に満足して黒い棒を布で拭っていると、保全獣が湖の中でゆっくりと頭を動かした。

 

 琥珀色の瞳が、湖畔にいる私たちへ向けられる。初めて見た時には、その目を開けていることさえ苦しそうだったが、今は銀白色の輪が奥で静かに巡り、こちらの姿を確かに捉えていた。

 

 ハルトは保全獣のすぐそばへ立っている。外部誘導個体として一行へ登録され、森の中から私たちをここまで導いてくれたが、帰還処理が完了した今、その役目は再び東部保全区画のものへ戻っていた。

 

「ハルトは、ここへ残るのですね」

 

『外部誘導個体HRT-071は、中枢保全個体および区画内生物群の誘導任務へ復帰します』

 

 予想していた答えだった。

 

 ハルトはもともと、この箱庭に保存された生き物を守り、必要な時には外から帰還させるための存在である。街へ連れ帰っても、鹿と見間違えるには大きすぎ、門を通れるかどうかさえ怪しい。何より、保全獣が完全に回復するまで、そばにいる方がよいだろう。

 

 理屈では十分に納得できる。

 

 それでも、一緒に森を歩いた相手とここで別れることに、少し寂しさを感じている自分がいた。

 

 セラは私より先にハルトへ近づき、初めて会った夜から何度も試みかけていたことを、今度こそ実行しようとしていた。

 

「触ってもいいかな」

 

「本人が嫌がらなければ、私は止めませんよ」

 

「施設には聞かないの?」

 

「何でも施設へ判断してもらうと、私たちまで管理対象になってしまいます。もう十分その傾向がありますので、これ以上は避けたいところです」

 

 セラがゆっくり手を差し出すと、ハルトはその匂いを確かめるように鼻先を近づけた。すぐには触れさせなかったものの、やがて自分からわずかに頭を下げる。

 

 セラの手が灰褐色の額へ触れた。

 

 金属と生物が混ざった見た目に反して、毛並みは普通の獣と同じように柔らかいらしい。セラは思っていた以上に嬉しかったようで、探索者として未知の遺物を発見した時よりも素直な笑顔を見せていた。

 

「魔女さんも」

 

「私は薬師です。それから、見ているだけで構いません」

 

 そう答えた直後、ハルトの方がこちらへ歩いてきた。

 

 長い角が近づいてくると、敵意がないと分かっていても少し身構えてしまう。後ろへ下がろうとした私の目の前で、ハルトは足を止め、鼻先を私の肩へ軽く押し当てた。

 

 予想していなかった重さに身体が傾き、私は反射的にハルトの首へ両手をついた。

 

 灰褐色の毛の下から、穏やかな温かさと、規則正しい脈が伝わってくる。首元へ走る銀色の構造も以前より明るく、その内側を青白い光が静かに流れていた。

 

「これは、触ったことになりますかね」

 

「かなり向こうから触られてるね」

 

 セラが笑っている。

 

 私はハルトの首を一度だけ撫で、それから手を離した。診察でも採取でもない目的で未知の生物へ触れるのは少し落ち着かなかったが、悪い感触ではなかった。

 

「道案内、ありがとうございました。今度は高危険生命反応のない道をお願いしたいところですが、今回も十分助かりました」

 

 ハルトが言葉を理解したかは分からない。ただ、私が離れると、長い角の先をわずかに傾けた。

 

 保全獣が低く鳴く。

 

 ハルトもそれへ応じ、二頭の間を青白い光が流れた。

 

 別れの挨拶を終えたところで、施設が帰還用の搬送設備を湖畔へ呼び出した。

 

 現れたのは、巨大な種子を横へ寝かせたような乗り物だった。丸みを帯びた銀色の外殻には植物の蔓に似た線が走り、側面が開くと、内部へ六人ほど座れそうな空間が現れる。

 

『環境維持網連絡搬送殻です』

 

『中央樹冠施設近郊の地表中継点まで移送します』

 

「街の地下施設まで直接は行けないのですか?」

 

『中継経路の一部が断絶しています。現在利用可能な終着点から中央居住区までは、成人標準歩行で三時間二十七分です』

 

 私は黙って表示を見た。

 

「私の場合は?」

 

『推定五時間四十九分です』

 

「尋ねましたが、正直に答えすぎるところがありますね」

 

 それでも、森を二日近くかけて歩き直すよりは遥かに短い。搬送殻の内部には柔らかな座席まであり、少なくとも湿地や急斜面を越える必要はなさそうだった。

 

 私たちは持ち帰る試料と道具を確認し、乗り込んだ。

 

 東部保全区画からは、保全獣の健康な自己修復構造を記録した小型の保存器と、全身治療薬の処方記録も貸与されている。ただし、同じ薬を大樹へそのまま使うことはできないと、施設から繰り返し注意された。

 

『中央樹冠個体と中枢保全個体は、自己修復基盤を一部共有しています』

 

『ただし、生体構造および現行障害の内容は異なります』

 

『中枢保全個体用治療薬の直接投与は、中央樹冠個体の異常成長を引き起こす可能性があります』

 

「大樹が今より大きくなるのは、街としても避けたいところですね」

 

 現在ですら枝一本で家が潰れる。薬の作用で根や幹が急成長すれば、治療ではなく別の災害になるだろう。

 

「街へ戻ったら、第三管理槽で大樹の現在の状態を改めて解析します。リオの記録と井戸水の変化も確認し、それから大樹に合わせた薬を作り直しましょう」

 

「また小瓶一本からですか?」

 

 ディンに尋ねられ、私は頷いた。

 

「効かない薬を大量に作るよりはよいです。ただし今回は、大量生産設備まで森を歩いて探しに行かずに済むことを願っています」

 

 乗降口が閉じ、搬送殻が動き始めた。

 

 大きな揺れはなく、外殻の内側へ映し出された景色だけが静かに後方へ流れていく。湖の上を白い花弁が舞い、その向こうでは、保全獣とハルトが並んで私たちを見送っていた。

 

 やがて銀色の壁が視界を遮り、搬送殻はドームの地下へ続く連絡路へ入った。

 

 道中、壁面へ外部環境の観測結果が表示された。谷の湿地に蓄積していた異常構造片は、保全獣の治療開始後から緩やかに減少している。森で採取した洗浄膠体も正常な分解活動へ戻り、黒紫色の汚染が新たに広がる兆候は見られなかった。

 

 私は搬送経路の途中に設けられた採取口から外部水を少量受け取り、黒い棒を浸した。

 

 緑色の中に黒紫色の筋は残っているものの、往路で調べた時より細くなっている。

 

「治療したのは一頭ですが、その身体が支えていたものは一頭分ではなかったのですね」

 

 保全獣の呼吸はドームの空気を巡らせ、体液は水路へ繋がり、背中の植物群は一つの森を養っていた。その病気が外の谷や森まで汚していたように、回復もまた、周囲へゆっくりと広がっている。

 

 それは大樹も同じなのだろう。

 

 街の中央に立つ一つの巨大な樹を治すことは、その下で暮らす人々だけでなく、私の森や周辺の水、土、魔力環境まで守ることに繋がっている。

 

 その重さを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 

 次に目を開けた時、搬送殻はすでに地上へ出ていた。窓のように映る外殻の向こうには、見覚えのある森と、夕暮れに染まり始めた空が広がっている。

 

『中央樹冠施設近郊の地表中継点へ到着しました』

 

 座席から立とうとすると、思ったよりよく眠っていた身体が少しふらついた。

 

『薬師に軽度の平衡低下を確認しました』

 

「起きた直後なので、一般的な反応です」

 

『歩行支援を推奨します』

 

「到着するたびに運ばれるのは、今後の評判へ影響しますので遠慮します」

 

 私はディンの手を借りながら搬送殻を降りた。自力で降りたという事実について、どこまでを自力と数えるかは議論の余地があるが、少なくとも座席ごと運び出されることは避けられた。

 

 地表中継点は、街から東へ数時間ほどの森の中に隠されていた。普段使われる街道にも近く、日が完全に落ちる前には外壁まで辿り着けそうだった。

 

 森を抜けたところで、私は遠くに見える大樹へ目を向けた。

 

 出発した朝には、青緑色の樹冠を覆うように白い花が咲いていた。

 

 今も白いものは見える。

 

 しかし花は枝へ留まっているのではなく、風に流され、街の上空を埋めるように舞っていた。

 

 樹冠の一部では青緑色の光が弱まり、ところどころが夜よりも暗い影となって沈んでいる。あれほど大樹へ集まっていた鳥の群れも見当たらなかった。

 

「状態が変わっていますね」

 

 私たちは自然と歩みを速めた。

 

 街の東門へ近づくと、内側から一人の少年が飛び出してきた。肩には大きな記録鞄を掛け、片手には何枚もの紙を挟んだ板を抱えている。

 

「魔女さん!」

 

 リオは私たちの姿を見た途端に走り出した。途中で足を止めるべきか迷ったらしく一度だけ速度を落としたものの、結局そのままこちらまで駆けてくる。

 

「帰ってきた……本当に帰ってきた」

 

 安心した顔を見せたのは一瞬だけだった。すぐに自分が任された役割を思い出したらしく、リオは抱えていた記録板を両手で持ち直す。

 

「毎朝と夕方、全部書きました。花の数も、井戸の水も、幹の光る間隔もです。それで、昨日の夜から急に変わって……」

 

 彼は大樹を振り返った。

 

 十五歳の少年らしい不安が顔へ浮かんでいたが、声だけは大人の側へ立とうとするように保たれている。

 

「花が一斉に散り始めました。井戸の甘さも消えて、地下から聞こえていた音まで止まったんです」

 

 私はリオから記録板を受け取り、最も新しい頁へ目を落とした。

 

 最後の行だけ、ほかより筆圧が強い。

 

昨夜、大樹の光が東側から順に消え始めた。第三管理槽、呼びかけに応答せず。

 

 東部保全区画の患者は救うことができた。

 

 しかし、街に残してきた患者の容体は、私たちが考えていたより早く変わっていたらしい。

 

「記録してくれて助かりました。まず井戸へ行きましょう」

 

 そう告げると、リオは不安を押し込めるように強く頷いた。

 

 白い花が舞う街の向こうで、大樹の巨大な枝が、夕暮れの中へ音もなく沈んでいた。

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