結局、私は腰へ補助用の縄を巻き、上から少し引いてもらいながら梯子を登ることになった。
最初は自力で登るつもりだったが、三分の一ほど進んだところで、格好よりも生還を優先する判断へ切り替えた。人間は経験から学ぶ生き物であり、無理な見栄を捨てることも立派な成長だと思う。
地上へ出た頃には、大樹に何が起きたのかより先に、自分の両腕の状態を確認したくなっていた。明日は確実に筋肉痛になるだろう。
「魔女さん、大丈夫でした?」とリオが駆け寄ってくる。私は井戸の縁へ腰を下ろし、肩をゆっくり回しながら答えた。
「明日は腕が上がらないかもしれません」
「そういう意味じゃないです」
「私にとっては重要な問題です」
ひとまず呼吸を整え、それからようやく大樹を見上げた。
疲労感が一瞬だけ遠のいた。
大樹の葉が、色を変えている。枯れているのではなく、これまで濃い緑色だった葉が、根元に近い枝からゆっくりと淡い青緑色へ変化し、その内側へ弱い光を宿していた。
幹にも異変が現れている。樹皮の深い溝に沿って細い青白い線が何本も浮かび、それが地下で見た根と同じように、枝へ向かって少しずつ伸びていた。
巨大な木の内部で、長く止まっていた何かが再び巡り始めている。
広場の人々は、先ほどまでの騒ぎが嘘のように黙って大樹を見上げていた。
この街にとって、大樹は建物や記念碑とは違う。山や川と同じように、生まれた時からそこにあり、誰かが作ったり管理したりするものではないと思われてきた。
その木が今、明らかに自然現象とは思えない反応を見せている。
「下には何があったんだ?」と管理人の老人が近づいてきた。私は採取瓶を鞄へしまいながら、分かっている範囲だけを説明した。
「旧文明の施設らしきものです。入口には『第三樹冠管理槽』と書かれていました。名前からすると大樹を管理する設備だと思いますが、今のところはそこまでしか分かりません」
「中には入ったのか?」
「入りませんでした」
「どうしてだ?」
「怖いからです」
老人が少し黙った。隣でリオも、思っていた答えと違ったらしい顔をしている。
「そこは、装備が足りないから危険だった、とかではないんですか?」
「もちろん、それもあります。装備不足で危険ですし、何があるかも分かりません。そして、それらをまとめると怖いのです」
「正直ですね」
「正直さは長所ですよ」
少なくとも自分ではそう思っている。
私は地下施設から採った液体の瓶を人々へ見せ、井戸を当分使用禁止にするよう改めて伝えた。
「井戸水が甘くなった原因は、この液体が混ざったことにある可能性が高いです。持ち帰って詳しく調べます。それまでは水を使わないでください。それから、誰も勝手に井戸の下へ入れないように」
すると、人垣の中にいた若い探索者が反応した。西の遺跡群で何度か見かけたことのある男で、旧文明という言葉を聞いた時から目の色が少し変わっている。
「旧文明の施設なら、今のうちに調べた方がいいんじゃないか? 中には遺物が残ってるかもしれない」
「少なくとも今日は待ってください」
「でも、ほかの誰かが先に入ったら――」
「五百年近く眠っていた可能性のある施設が、つい先ほど再起動したところですよ。どうしても一番最初に入りたいのであれば止めませんが、何かあっても私は救助に行きません」
「なんでだよ」
「体力がないので」
探索者は何とも言えない顔になった。私が補助用の縄で引き上げられるところを見ていたので、反論しづらかったのかもしれない。
「それに、井戸の途中にある狭い入口です。中で何か起きた時、逃げ道があの梯子しかないというのはかなり危険ですよ。今日は封鎖し、準備をしてから改めて調べます」
今度は真面目な理由も付け加えると、探索者は不満そうながらも引き下がった。
管理人と衛兵へ井戸の見張りを頼み、私は再び大樹を見上げた。青白い光は依然として枝へ向かって広がっている。
その時、東へ伸びた一本の太い枝の先へ、光が集まり始めた。
葉と樹皮の間を流れていた淡い輝きが、ゆっくりと一点へ収束していく。やがて、それは一本の細い光となって枝の先から空へ伸びた。
広場にいた人々が、一斉にその行方を目で追う。
光は街の屋根を越え、外壁を越え、遥か東の森へ向かって真っ直ぐに伸びていった。
その先に何があるのかは、考えるまでもなかった。
遠い森の向こうには、山のように巨大な灰色の半球がある。街から数日かかる距離にありながら、あまりにも大きいため、晴れた日には上部だけが地平線の近くへ見えていた。
東の巨大ドーム。
誰が作ったのか、何のために作ったのか、いつからそこにあるのか、何一つ分かっていない。何度も調査隊が派遣されたが、表面へ傷をつけることさえできず、入口らしきものも見つけられなかった。
鳥はその上空を避け、夜になると表面へ謎の光が走ることがある。長い間、それはただそこに存在するだけの巨大な謎だった。
大樹から伸びた光が、そのドームへ届いた。
しばらくは何も起こらなかった。
広場の人々は言葉もなく、光の先を見つめ続けている。私も大樹の枝と遠い半球を交互に眺めながら、地下で聞いた「管理対象」という言葉の意味を考えていた。
やがて、灰色のドーム表面へ一点の光が現れた。
それはゆっくりと線になり、半球の表面を這うように広がっていく。距離があるため細かな形までは分からないが、あちら側の何かが、大樹からの呼びかけへ確かに応答していた。
井戸の地下施設、大樹、東の巨大ドーム。昨日まで関係があるなど誰も考えていなかった三つのものが、一つの出来事をきっかけとして同時に動き始めている。
これを偶然として片づけるのは、さすがに無理があった。
「魔女さん」
リオの声に振り返ると、彼だけではなく周囲にいる人々まで、いつの間にか私を見ていることに気づいた。
知っている視線だった。
何かが起きた。
何だか分からない。
それなら魔女さんに聞けばいい。
そういう期待が、言葉にしなくても顔へはっきり表れている。
「これ、どうしたらいいんです?」と、誰かが代表するように尋ねた。
私は大樹を見上げた。
遠くのドームを眺めた。
封鎖された井戸へ視線を落とし、それから自分の腹具合について少し考えた。
「とりあえず、お昼にしましょう」
予想通り、広場が静かになった。
「今ですか?」とリオが尋ねる。彼の声には、本当に今なのかと確認したい気持ちがかなり含まれていた。
「今です。私は朝から森を歩き、井戸の縄梯子を往復し、正体不明の地下施設を起動させました。この状態で世界の謎について考えても、急に頭が良くなったりはしません」
「でも、大樹とかドームとか……」
「どちらも今すぐ爆発するようには見えません。分からないものを前にして慌てて触るより、一度食事をして情報を整理する方が安全でしょう」
群衆の中から、「食べている途中で爆発したらどうする」という不安そうな声が聞こえた。
「その時は、昼食を優先した判断について反省します」
「遅くないですか?」
「人生には、結果が出てからでなければ反省できないこともあります」
リオがとうとう笑った。緊張していた周囲の人々からも、少しだけ笑い声が上がる。
私は鞄を持ち直し、もう一度東の巨大ドームへ目を向けた。
今朝、私が気にしていたのは軟膏の煮詰め具合だった。それが数時間後には、街の地下で旧文明の施設を発見し、大樹を目覚めさせ、五百年以上ほとんど反応を見せなかった巨大構造物まで動かしている。
街の人々は、何かあるたびに「魔女さんなら何とかしてくれる」と言う。
私としては、一度くらい魔女さん以外の誰かが何とかしてくれてもいいと思っていた。