東門から中央広場までの道は、出発した朝と同じ街の中とは思えないほど白く染まっていた。
大樹から舞い落ちた花弁が屋根や石畳を覆い、行き交う人々の肩や荷車の上にも降り積もっている。風が吹けば白い帯となって地面を流れ、日の沈みかけた空へ巻き上げられた。初めて花が咲いた朝であれば、街の者たちもこの光景を美しいと喜んだだろう。
しかし今、花を拾って遊ぶ子供はいなかった。
中央広場に近づくにつれて人の声は少なくなり、代わりに、大樹の枝が軋む低い音が聞こえてきた。樹冠の東側では青緑色の光がほとんど消え、太い枝の何本かが以前より低い位置まで垂れ下がっている。枯れてはいないものの、巨大な身体から急に力が抜けたような姿だった。
「昨日の夕方までは、こんなに下がっていませんでした」
隣を歩くリオは、大樹を見上げながら唇を強く結んでいた。私たちが帰ってきたことへの安堵はまだ顔に残っているが、それ以上に、自分が留守を任されたあいだに状態を悪化させてしまったのではないかという不安が見える。
「あなたの責任ではありませんよ。記録を見せてください」
私が手を差し出すと、リオは抱えていた板から何枚もの紙を外した。日付と時刻だけでなく、大樹の光り方や井戸の状態、地下から聞こえた音まで、思っていた以上に細かく書かれている。
花の数をすべて数えることはできないため、パン屋の煙突から見える三本の枝を決め、そこに咲いている花と落ちた花弁の量を毎回比べたらしい。幹の発光についても、一定の溝へ印をつけ、何度明滅したかを砂時計で測っている。
「井戸水は飲んでいませんね?」
「飲んでません。決まった量を黒い皿へ入れて、乾いたあとに残る白いものの量を比べました。母さんに同じ大きさの皿を借りて、毎回同じ場所へ置きました」
彼は鞄から、布へ包んだ小瓶を六本取り出した。それぞれの首には紙片が結ばれ、採取した時刻が記されている。
「水も残していたのですか」
「あとで魔女さんが調べるかもしれないと思って。瓶が足りなくなったので、最後の二本は父さんが香辛料を入れていたものですけど、ちゃんと何度も洗いました」
私が頼んだのは朝夕の状態を記録することだけだった。採取方法までは教えていない。それでもリオは自分で比較する対象を決め、味見をせずに変化を確かめ、試料まで残していた。
「よく考えましたね。これだけ揃っていれば、何が起きたかをかなり正確に追えるかもしれません」
そう伝えると、リオの表情が一瞬だけ明るくなった。すぐに大人びた顔へ戻ろうとしたものの、褒められた嬉しさまでは隠しきれていない。
「当たり前です。任された仕事だったので」
「はい。とても助かります」
今度は耳まで少し赤くなった。
私は井戸のそばへ移り、時刻順に並べた試料へ黒い棒を浸していった。出発した日の朝に採られた水では、先端へ大樹の供給液と同じ淡い緑色が現れる。翌朝の試料では緑が濃くなり、その中へ乳白色の細かな斑点が混じっていた。
その日の夕方には、白い斑点が輪のように繋がっている。
そして昨夜の試料では、緑色が急に薄くなり、代わりに不揃いな銀白色の筋が何本も現れた。最も新しい今朝の水へ浸すと、棒は自然の水に近い薄青色を示したものの、中心に弱い緑色が取り残されている。
「甘い物質が、少しずつ減ったのではありませんね。昨夜を境に、供給そのものが急に止まっています」
私が紙へ反応を書き加えると、リオは自分の記録の一行を指した。
「花が散り始めたのも、その頃です。夜の半ばまでは大樹が七回ずつ光っていたのに、急に一回だけ強く光って、それから間隔が長くなりました。地下の音も、そのあと止まりました」
示された時刻を確認し、私は東部保全区画で保全獣の治療を終えた頃と照らし合わせた。
ほぼ同じだった。
保全獣が健康な形を取り戻し、東部保全区画の環境維持機能が復旧した時、地域環境維持網も五百年ぶりに再接続された。その変化を受けて、大樹の側でも何らかの処理が始まったと考えるのが自然である。
「その後、地下へ入ろうとはしませんでしたか?」
念のため尋ねると、リオの視線が少し逸れた。
「……入口までは行きました」
「井戸の?」
「縄梯子にも触りました。でも、勝手に入るなって言われたのを思い出したので、降りてません。呼びかけても返事がなかったから、ガレスさんを呼びました」
好奇心より先に身体が動きかけたものの、最後には約束を守ったらしい。これが完全に落ち着いた大人であれば、最初から井戸へ近づかなかっただろう。しかし、勢いで縄へ手をかけながらも、自分で止まれたことは十分に評価してよい。
「そこで戻ったのは正しい判断です。中で何が起きているか分からない時は、一人で確かめに行ってはいけません」
「魔女さんは、一人で井戸へ降りましたよね」
「私は当時、反省するための実例を作っていたのです」
苦しい説明だったが、リオは少しだけ笑った。張りつめていた顔が緩んだことを確認し、私は携行認証子を井戸へ向けた。
限定代行管理権限を得る前とは違い、今回は地上からでも第三樹冠管理槽へ接続できるはずだった。黒い板の中央に刻まれた白い輪が光り、大樹と東部保全区画を結ぶ図が浮かび上がる。
『中央樹冠個体との接続を確認しました』
『第三樹冠管理槽は、安全隔離状態へ移行しています』
「なぜ隔離したのです?」
『東部保全区画との同期復旧後、中央樹冠個体の現行生体基準を再解析しました』
『独立運転時の暫定栄養供給が、現行組織の許容量を超過しています』
『根圏循環障害を防止するため、供給を緊急停止しました』
私は昨日までの試料を見た。
甘い井戸水は、大樹へ送られていた高濃度の供給液が漏れたものだった。その量は日ごとに増え、棒へ現れた乳白色の輪も濃くなっている。
五百年以上、十分な管理を受けられず、わずかな力で生き延びていた大樹へ、再起動した第三管理槽が急に大量の栄養と魔力を送り込んだ。最初は葉を光らせ、花を咲かせるほどの変化を見せたものの、その内側では、衰弱した根が供給を処理できずにいたらしい。
そして東部保全区画が復旧したことで、施設はようやく現在の大樹を正しく解析し、危険な供給を止めた。
しかし、長く不足していたものを急に与えたあとで、今度は完全に断ってしまった。その結果、大樹は再び力を失い、枝と花を維持できなくなっている。
「食べさせすぎたあとで、急に何も与えなくなったのですね」
『比喩としては概ね正確です』
「患者への対応として、かなり極端ではありませんか?」
『現行処方に、安全な移行手順が登録されていません』
第三管理槽は、五百年前の大樹に合わせた通常の管理方法と、設備の大半を失ったあとの最低限の延命しか知らない。五百年間かけて衰弱しながら、それでも現在の環境へ適応してきた大樹を、どう正常な循環へ戻すかという処方が存在しないのだろう。
保全獣の時と同じだった。
設備は身体を解析できる。大量の薬や供給液を作り、巨大な患者へ届けることもできる。しかし、五百年後の患者へ何を与えるべきかまでは、自分で考えられない。
「現在の根から、循環液を採取できますか?」
『地表採取口を開放します』
井戸の石壁から低い音が響き、縁の内側へ小さな銀色の管が現れた。その先から、粘り気のある淡い琥珀色の液体が数滴落ちる。
私は硝子皿へ受け、最初に環境補助子で調べた。
『中央樹冠個体・根圏循環液』
『高濃度栄養供給後の循環不全を確認』
『組織内魔力圧:低下継続』
続いて黒い棒を浸す。
先端へ弱い緑色が広がり、その中を乳白色の輪がいくつも横切った。黒紫色の筋はない。保全獣を苦しめていた自己記述型の異常とは別の状態である。
ただし緑色は不均一で、光る場所とほとんど色を失った場所が、途切れながら並んでいた。
「流れが弱っているだけではありません。根の場所によって、受け取った栄養の量に差が出ています。たくさん届いた場所は処理しきれず、届かなかった場所は今も不足したままなのでしょう」
リオの記録へ目を戻す。大樹の東側では、西側より先に花が増え、その後も先に光を失っている。井戸に近い枝は長く光り、離れた枝では早く花が散った。
文字と数字だけではなく、少年が描いた枝の図が、供給の偏りを目に見える形で残していた。
「この記録がなければ、大樹全体が同じように弱っていると思っていたかもしれません。実際には、場所ごとに状態が違います」
「役に立ったんですか?」
リオは期待を隠しきれずに尋ねた。
「かなり。これを基に、どの根へどれだけの量を送るか決められます」
今度こそ、彼は素直に笑った。しかし大樹の枝が再び低く軋むと、すぐに表情を引き締め、次に何をすればよいのかと尋ねてきた。
背伸びではあっても、任された役割を最後まで果たそうとしている。
「まず、大樹が処理できる濃さまで供給液を薄め、根の循環を落ち着かせる薬を作ります。そのうえで、リオの記録に合わせ、弱っている場所から少しずつ再開します」
「すぐ作れますか?」
「小瓶一本分なら。ただし、大樹全体へ必要な量は小瓶では済みません」
東部保全区画で保全獣を治療した時と同じように、最初に私が処方を作り、旧文明の設備へ大量に増やしてもらう必要がある。
ただし今回は、使える設備が安全隔離状態にある。再起動させる前に、現在の大樹へ合わせた移行用の処方を登録しなければならない。
携行認証子へ、第三管理槽から新しい警告が表示された。
『中央樹冠個体の主要枝構造保持率が低下しています』
『現行状態での安定維持可能時間:十七時間』
明日の昼までもたない可能性がある。
東部保全区画では、山ほど大きな患者を前にしても、薬を考えるための設備と材料が揃っていた。今回は、自分の森の家と、街の地下に眠る不完全な管理槽で治療しなければならない。
私は根圏循環液の皿と、リオが残した六本の試料をまとめて鞄へ入れた。
「森の家へ戻って薬を作ります。リオは記録を持って一緒に来てください。途中で分からないところを聞きます」
「僕も手伝えるんですか?」
「もう十分手伝っていますよ。今度は、その続きをお願いします」
リオは一度大きく頷き、慌てて記録板を抱え直した。走り出そうとして数歩進んだところで、私がまだその場にいることへ気づき、振り返る。
「急いでください、魔女さん!」
「急いでいますよ。私の速度で」
「十七時間しかないんですよ!」
「私が今から走ると、使える時間と薬師が同時に減ります。ディンさん、申し訳ありませんが、また移動支援をお願いできますか?」
ディンは状況を理解していたらしく、すでに荷物を下ろしていた。
「背負う方と、抱える方のどちらがいいです?」
「人間を荷物として扱う前提で選択肢を出さないでください」
東部保全区画の搬送機を懐かしく思う日が、これほど早く来るとは予想していなかった。
頭上では、白い花弁が途切れることなく舞い続けている。その一枚一枚が、大樹に残された時間のように街へ降り積もっていた。
保全獣の身体には、健康な形を思い出させる薬が必要だった。
今度の患者に必要なのは、急いで元へ戻すことではない。
五百年かけて変わった身体へ、もう一度、無理なく食べる方法を教える薬だった。